9.落ち込む闇の森の魔女
特殊科学技術局人事部部長、セルビア・クリムソン。彼女は、人事部部長だけあって人を評価する能力に秀でていた。そして、彼女の人物評価の方法にはある特徴があった。もちろん能力にも着目するのだが、それだけでなく、その人物の行動原理をまずは考えるのだ。
人間にはそれぞれ行動原理がある。この行動原理が目的に沿っていなければ、どれだけ能力があろうとも活かせはしない。いくら頭が良くても、勝つ気のない人間はゲームに強くなりはしないのだという。
趣味の時間の為に行動する者、できるだけ楽をする為に行動する者、強迫観念的に行動する者。世間にも、そして組織内にもさまざまな行動原理を持った人間がいる。この行動原理を把握すると、格段にその人間を理解し利用し易くなる。セルビアは、経験上、それを学習していた。
例えば、グロニア局長の行動原理を、彼女はこう分析していた。
彼は典型的な権力志向型人間。男性ホルモンの一つにテストステロンと呼ばれるものがあるが、これは社会的地位が高くなると分泌をされる。恐らく、グロリアはこのテストステロンを欲している。テストステロン・ジャンキーだ。彼はだから、地位向上の為にあらゆる手段を用いる。組織という環境内では、優秀な人間だ。頭も良い。だが、その価値観でしか物事を観ない、という弱点もある。権力志向以外の人間を理解できない。
だから彼と組む時は、その彼の権力志向を利用して行動するのだ。そうすると、上手い具合に事は運ぶ。もっとも、権力以外の価値観を持ち出すと、理解が得られず、途端に上手くいかなくなるのだが。
――だから、セルフリッジとは相性が悪い。
彼女はそう判断していた。
オリバー・セルフリッジの行動原理を、セルビアは未だに掴めずにいたが、それでも権力志向とはかけ離れたところに彼のそれがあるのは確実だった。あの中年男に、彼が理解できるはずもない。そして、理解できないものは拒絶される傾向にある。
もちろん、だから彼女は闇の森の魔女、アンナ・アンリの行動原理も突き止めるつもりでいた。本当に、オリバー・セルフリッジに尽くす事がその目的なのか、どうなのか。
……さて。
セルビア・クリムソンは、闇の魔女、アンナ・アンリに手紙を届ける事に成功していた。蟻を用いて、彼女に届けたのだ。彼女には虫を使役する能力がある。その手紙には、“オリバー・セルフリッジについての情報が知りたくば、喫茶店ネイルに来られたし”と、書いた。仮に、アンナの行動原理が、グロニア局長が判断したように、セルフリッジに尽くす事にあるのならば、この内容を無視できるはずがない。もしも、この手紙を無視したなら、それは彼女にとって、セルフリッジがその程度の存在、ということになる。
約束の時間に待ち合わせの喫茶店に行くと、驚いた事にアンナ・アンリは既に来ていた。席に座っているのが確認できる。待ち切れなかった、と言うよりはより有利な場所を選択するのが目的だったのかもしれない。適度に他の席からは離れているが、視野は広い。状況の確認が容易な場所に座っていた。
“なるほど。用心深く、頭も良い”
そう思いながら、セルビアは彼女がいる席に向かった。
「どうも。早いわね。お待たせしてしまったみたいで。私が、人事部部長のセルビア・クリムソン。所属は違うけど、階級はオリバー・セルフリッジより私の方が上よ」
そう言いながら、彼女の向かいの席に腰を下ろす。それに、彼女は薄らと笑いながら、こう返した。
「どうも。悪いけど、ここであなたと会う事は、セルフリッジさんに伝えさせてもらいました。管理されているわたしの立場では、黙っている事は難しいですし、何より、彼に隠し事はしたくないですから」
“ふん”と、セルビアはそれを聞くとそう思う。“取り敢えずは、彼に忠実な行動を執っているわね”。アンナが、この事をセルフリッジに伝えるかどうか、それも彼女はアンナの行動原理の判断材料にするつもりで、手紙を届けたのだ。
「さて。あなたの目的は何ですか? 何もなしで、わたしにセルフリッジさんの事を教えるはずはないですよね?」
ゆっくりと落ち着いた様子で、アンナはそうセルビアに質問してきた。余裕のありそうな感じ。だが、演技かもしれない。セルビアはそれには答えず、煙草を取り出すと、火を点けようとした。しかし、マッチを擦って点火させるとフと火が消える。見ると、目の前でアンナが何かをつまむような動作をしていた。彼女が火を消したのだろう。ニッコリと笑いながら彼女は言った。
「煙草はご遠慮願います」
それを聞くと、セルビアはこう返す。
「ここ、禁煙席じゃないわよ?」
「禁煙席? すいません。何しろ、百年前の人間なので、今の社会の事情に疎くて。とにかく、煙草は止めてください」
「どうして?」と、質問しながらセルビアは考える。煙草は呪術や魔術の道具にもなる。恐らく、それを彼女は警戒しているのだろうと。しかし、アンナはこう返すのだった。
「だって、臭いがついたら、セルフリッジさんが嫌がるかもしれないじゃないですか」
それを聞き、何処まで本気なのだろう?と、そう思いながらセルビアはこう言った。
「彼はそんな事くらいで、怒るような性格じゃないでしょう?」
「ええ。でも、わたしが嫌なんです」
“ふーん。何だかな。演技だとすれば、わざとらし過ぎるけど”と、アンナの反応をそう分析しながら、セルビアは言う。
「彼との生活はどう? 彼、感知能力があるし、性格も優しいから、良いでしょう? 夜の生活とか」
それを聞くと、アンナはセルビアを睨みつけた。セルビアはそれに思わず笑ってしまう。
「そんなに怖い顔をしないで。彼とそういう経験はないわよ。単なる憶測。いや、想像かな。
ところで、さっきの話だけどね。私はあなたに興味があるのよ。人事部部長として。それと、あなたが彼の情報を知る事で、どう考えてどう行動するのかも。それが、あなたに彼の情報を提供する理由」
アンナはそれを聞くと、こう言う。
「嘘の情報を流して、わたしを騙そうと思っても無駄ですよ?」
「そんな気はないわよ」
答えながら、“確かに、セルフリッジの話になると、何だか様子がおかしくなるわね、この子”と、セルビアは思う。
「まず、あなたの事が知りたいわ。彼の報告書に書いてあったけど、“闇の森”に囚われ続けていただけで、殺人の意思はなかったって本当?」
アンナは冷徹な表情を見せると、それにこう答えた。
「本当です。もっとも、だからと言って、わたしは完全な被害者でもありませんが。百年前は、色々な理由でたくさんの人を殺しました。騙し合いに、殺し合い… 今だって、その必要さえあれば、“誰か”に絶対に解けない呪いをかける事だってできます」
“なるほどね。これは、半分は私を脅す意味を込めて言っているのかしら?”とセルビアは考える。アンナの視線に彼女は少しだけ怯えた。その後で次の質問をする。
「“闇の森”に、彼が入って来て、その彼を救うためにあなたが自らの命を断った、というのも本当?」
「よくは覚えていませんが、それも恐らくは本当です。彼が、セルフリッジさんが、わたしを救おうとしくれたのを覚えています。そんな人は、百年間一人もいなかった…」
そう答えながら、アンナは頬を赤く染めた。セルビアはそれを見て思う。
“なるほど。可愛い顔して喜ぶわ。これなら、あのグロニア局長でも、この子の発言を信じるかもね”
その後で、こう語る。
「で、彼の為に行動する事を誓ったの? 彼を守ろうと。でも、彼はあなたに守られるまでもなく、自力で生きていけるかもよ?
オリバー・セルフリッジ。彼は、あなたが思っているよりも優秀で、そして強かよ。優しいだけの男じゃないわ……」
それからセルビアは、アンナにセルフリッジの事を話した。調査能力、分析能力に優れ、それを活かして仕事をして来た点。必ず身の安全を確保した上で、行動に出る点。決して、目立とうとしない点。そしてその最終的な目的が何なのかは不明な点。
「あなたは、彼が自身の危険を省みずに、“闇の森”に入ったと思っているかもしれないけど、恐らく違うわ。彼は充分に下調べをして準備をし、安全である確信を得てから、森に足を踏み入れたはず。例えば、あの森の魔物は、魔力が少なく敵意がない者には、あまり反応をしない、だとかね。更に言うなら、魔物除けの呪術も施していたはず。きっと、あなたが死ななくても彼は無事に帰っていたわ。
……ただし、それでも彼が“闇の森”に入ったのは、彼の今までの行動パターンからすれば、変なのだけど」
「どういう事ですか?」
「彼は今まで、韜晦してきた。自分の有能さを隠して来たの。なら、“闇の森”を何とかしようとも考えないはず。もし、あなたに敵意がない事を偶然、知ったのだとしても、本部にそれを報告した上で、その力を頼って解決するでしょうね…… その方が安全だし、実際に彼はこれまではそんな行動を執って来た。何故、今回はそれをしなかったのか?」
セルビアは彼の裏の目的を、アンナに考えさせる為にそう語ったのだ。彼の善意を彼女に疑わせようと。ところがそれを聞くと、セルビアの予想とは違い、アンナの表情は嬉しそうなものへと変わっていったのだった。自然に微笑んでいる。セルビアは思う。
“……なに? このいい笑顔”
それからアンナはこう言った。
「もし、本部の人間がやって来て、“闇の森”を解放していたら、わたしはどうなっていましたかね?」
そう訊かれて、セルビアはこう答えた。
「そりゃ… “闇の森の魔女”だもの。物理的にも魔術的にも何重にも拘束されて、調べられる……」
そこまでを語って、彼女は気付く。もしかして、この魔女は、セルフリッジがそれを防ぐ為に一人で行動したと思っているの? 微塵も、あの男を疑うことをせずに。
「ちょっと待って。あなた、彼の行動の目的が何なのか気にならないの? もしかしたら、彼はあなたを利用する為に、あなたを助けたのかもしれないのよ?」
しかしそれを聞いても、アンナは少しも揺れなかった。
「それが、どうかしましたか?
わたしは、セルフリッジさんになら、いくらだって協力しますよ。むしろ、利用してもらいたいくらい。
それに利用するにしても、あの馬鹿みたいに優しい人が、わたしを不幸にする行動を選択するとはとても思えません」
“馬鹿みたいに優しい… そこは確かに正しいけど……”
と、それを受けてセルビアは思う。
“だけど、この女、あの男に対しては、思考停止していないか?”
そこに至ってセルビアは、アンナに対する違和感を明確に意識した。普段は、油断できない古の魔女、しかし、セルフリッジが絡むと途端に、ただの無垢な少女のようになってしまう。そして、彼女は急速に頭を回転させる。もう少し、この女のこの性質を確かめてみたい。
“仕掛けてみるか”
「あの男が、あなたを助ける為に行動したのだとするのなら、もしかしたら、あなたは彼の邪魔になっているのかもね」
少し間を置くと、セルビアはそう言ってみた。すると、予想通り、その言葉にアンナは如実に反応を示した。表情を歪めて、こう訊いて来る。
「何の話ですか?」
「言ったでしょう? 彼は、今まで何とか目立たずに済まそうと仕事をして来た。ところが、あなたを助けた事で、どうしても目立ってしまう」
確かに、セルフリッジの言動からも、そんな気配は感じられた。アンナはそれに納得をしてしまう。
「実はね。彼に、今度、出世の話が持ち上がっているのよ。私は人事部部長だから、知っているのだけど。で、あなたという部下を得た彼は、単独で危険かつ重要な任務をさせられる事になっている。当然、隠密行動なんて執れない。彼の目的は、達成できなくなるでしょうね。つまり、あなたの存在は彼にとって邪魔になるのよ」
それを聞くと、アンナは目を剥いてこう言った。
「そんな話、セルフリッジさんは少しも言っていませんでした!」
アンナの反応にセルビアはにやりと笑う。
「そう? でも、あの馬鹿みたいに優しいセルフリッジが、そんな事をあなたに言うと思う?
もし彼が、あなたに懐かれ過ぎて困っているとしても、それを態度に表すことすらしないでしょうよ」
そのセルビアの言葉に、アンナは愕然となった。
「……わたしが、セルフリッジさんの邪魔になっている?」
アンナの反応が面白いように自分の予想通りになったので、セルビアは思わず心の中で笑った。
“確かに、その可能性があるのは事実だけど、ここまでショックを受けるとはね。それ以外の可能性も充分に考えられるのに。
それにしても、言葉で簡単に誘導できたわね。演技にも思えないし”
「まぁ、これを彼に尋ねても、彼は正直に話しはしないでしょうね。もっとも、今後の彼の行動でこれが真実かどうかは分かるけど」
どうやら、闇の森の魔女、アンナ・アンリが、セルフリッジの為に行動しているというのは事実らしい。そうセルビアは結論付けた。ならば、グロニア局長の、セルフリッジに権限を与え危険な任務に就かせる策は充分に効果を発揮するはずだ。今回の、この“誘導”で、それはより顕著になるだろう。
「私からは以上よ。何もなければ、これで終わりにしましょう」
そう言うと、セルビアは席を立つ。アンナもそれに続いたが、ショックで様子がおかしくなっているのは明らかだった。完全に落ち込んでいる。
“もう少し、遊んでみるか…”
街中をフラフラと進むアンナを見つめると、セルビアはそう思った。彼女の悪い癖が出始めていたのだ。
先にも述べた通り、彼女は人間の行動原理を掴む事を重要視する。では、その彼女自身の行動原理は何かというと、まず第一に“金”がある。だがしかし、それだけではない。それと同じくらいに“享楽主義”の一面も窺えるのだ。面白い事はやってみたくなる。
“確か、情報屋ベルゼブブの処に、ロストの連中から、闇の森の魔女に対する調査依頼が来ていたわよね…… けしかけてみるか”
ロスト達と繋がりのある情報屋ベルゼブブ。その正体はセルビア・クリムソン、彼女だった。実は彼女は裏では情報屋ベルゼブブとなり、情報を流す事で、都合良く人間を操作していたのだ(因みに、“ベルゼブブ”と名付けたのは、単に蝿を使うからだ)。行動原理や、その目的さえ分かれば、ある情報を手に入れた時、その人間がどんな行動を執るのかは容易に予想できる。だから、その人間の執るだろう行動が、自分にとって都合の良いものだったなら、彼女はその人間にその情報を提供するのだ。もちろん、情報料を受け取れる事もその目的の一つだったが。
彼女は蝿を数匹、招きよせると、メッセージを込めてそれを放った。これで彼らの元に“闇の森の魔女”がショックで精神的に弱っている事が伝わるはずだ。因みに、彼女が蝿も操れる事は、公には伏せられている。
“後は、連中に少しばかり、自由な時間をプレゼントしてやれば良いだけ…… さて、どうなるかな?”
それから彼女は、人事部の管理課に連絡を取って、適当な理由をつけ、アンナを狙うロスト達全員の管理を一時的に緩くした。恐らく、全員でかからなければ、闇の森の魔女の相手にはならないだろうから。セルビアの予想通りなら、彼らはアンナを襲う計画を実行するはずだった。