4.温もりに憧れる闇の森の魔女
その日の晩も、オリバー・セルフリッジはアンナ・アンリに手を出さなかった。もっとも、彼が彼女を意識しているのは間違いなかったが。アンナが恐怖に苛まれる事もなかったので、二人は別々のベッドで眠った。その日は一人で寝た所為で、昨晩とは違って彼女の身体は冷えた。温もりを欲した彼女は、彼のベッドに行こうかと少し悩んだが、結局はやめた。
その頃になると、アンナは彼が見返りなど求めていない事を察していた。しかし、それでも納得はいかない。そんな考えがなくても、感情は違う。欲情すれば抑えきれなくなるのが男だと、彼女は分かっていたのだ。
“疲れ、かな?”
朝起きて、朝食を食べている最中に彼女はそう思った。昨日も彼は、自分を背負ってかなりの距離を歩いた。それで疲労が激しく、そんな気が起きなかったのだろう。
「今日は闇の森にまで行こうと思います。かなりの距離を歩くので、覚悟しておいてください」
朝食を食べ終えると、彼はそう言った。そして、初日に使った運搬用のあの袋を用意した。アンナは黙ってそれを見つめる。使って欲しくはなかったのだ。
「昨日は油断してて、失敗しちゃいましたから、今日は準備を怠るのは止めようと思いまして」
その視線に気が付いて、セルフリッジはそう言った。
「はい」と、アンナは曖昧に頷く。確かに準備はしておいた方がいい。それからお弁当を用意すると、二人は出かけた。宿の娘がニヤニヤと笑いながら、それを見送る。彼女が何を思っているのか、アンナにはなんとなく分かった。
“悪いけど、本当に何にもないのよ”
と、それで心の中でそう返す。
森に向かうまでに人混みのある場所を通ったが、アンナはもうそれほどの恐怖を感じなかった。魔力がまた回復し、強力になっていたが、そればかりが原因ではないだろう。もっとも、セルフリッジから離れればどうなるかは分からなかったが。
アンナの足は快調だった。セルフリッジのマッサージと魔術のお蔭か、昨日の疲れは取れていたしそれなりに丈夫さを取り戻してもいた。それで歩くペースも速くなり、午前の終わり頃までには、闇の森の入り口に辿り着いていた。
ここで昼食にしよう、とセルフリッジが言うので、二人はそこでお弁当を食べた。森から闇はなくなっていたが、それでも闇の森の内部で食事するのは気が引けたのだろう。
食事を終えると、二人は森の奥へと進んだ。一見すると、かつて闇の森であったと分からないほどだったが、それでも詳しく調査をするとその残滓はあった。
セルフリッジはルーペを取り出すと、それで森の土を観察した。自分の魔力を放ってみる。すると、闇を創り出す性質を持った何かが中に混ざっている様子が確認できた。魔力に反応して闇が起き、その闇が更に近くで発生した闇と結合するのが見えたのだ。ただし、それは瞬く間に消えたが。どうやら、長時間はその存在を維持できないらしい。
「なるほど。ここの森を、立ち入り禁止にしたのは、あるいは正解だったかもしれませんね」
そう彼が言うと、アンナは「どうしてですか?」と、そう尋ねた。
「害があるかどうかまでは分かりませんが、この森には普通じゃない何かがあります。見てください」
そう言うと、彼は彼女の見ている前で、もう一度先ほどと同じ事をやってみせた。
「恐らくは、闇を生み出す何らかの“もの”がこの森には含まれてあります。特別な闇のようですが。色々な場所から土などを採取しておきましょうか。きっと、中央の科学者達は喜びます。チニック君とか… あ、チニック君というのは、僕の知り合いの科学技術者なのですがね。魔術の研究に勤しんでいます。いつかは会う事になると思いますが」
それを聞くと、彼女は黙った。彼女はその闇の正体をある程度は知っていたからだ。その闇は“異界”。“異界”そのもの。魔力によって、光を奪う異界を創り出すのが、闇の森に含まれてある“もの”の効果。その正体は、超微細に刻まれた呪文の集積だ。もっとも、アンナという核を失った今は、ほとんど安全なはずだが。
アンナが何も言わないでいると、セルフリッジはまた魔力を注ぎ、その現象を再び観察した。
「ほぅ……。どうやら、より大きな闇ほど他の闇を吸収する力が強くなるようだ。これは正のフィードバックかな?」
それからそう呟いた。
「正のフィードバック?」
と、それを聞いて彼女は疑問の声を上げた。彼の観察は正鵠を射ている。この“闇”は、大きくなればなるほど、他の闇を吸収する力が強くなり、巨大に成長するのだ。しかし“正のフィードバック”の意味は、彼女には分からなかった。
「正のフィードバックというのは、出力が入力に影響を与える際に、更にそれを強める性質をいいます。
例えば、都市。人口が多い事は、人を集める力になります。ところが、そうして人を集めると更に人を集める力が増し、それを繰り返す事で都市が形成される。もちろん、増える限界はあるのですがね。これは、自然界などの様々な場面で観られまして、システムを分析する際には重要な観点になります。
因みに、人間社会の権力にもこの“正のフィードバック”が存在します。権力を握ると、その権力を利用して更に自分達が有利になるようにルールを設定するでしょう? すると、ますます権力が一部に集中をし、支配者、或いは支配層が誕生し、独裁政治や専制政治になってしまう。もちろん、大体の場合は、国民の生活は苦しくなります」
それを聞いて、アンナはなるほどと思う。そういう現象がある事は、以前から知っていたが、そのような概念までは彼女の時代の人間達は創り出せていなかったのだ。セルフリッジは更に続けた。
「これとは別にもう一つ、“負のフィードバック”という概念も存在します。これは、出力が入力に影響を与える際に、バランスを取るように働く性質をいいます。
例えば、人体の体温。体温が上がり過ぎれば身体は体温を下げ、下がり過ぎれば上げるように働くでしょう? これも、重要な概念の一つです」
その彼の説明には、本当に彼女は感心した。「なるほど。面白いです。何かに利用できそうな考えですね」と、だからそう応えた。
「はい。その通りです。だから、こういった概念を人間社会のシステムに取り入れて、積極的に活かしていこう、という発想もあるのです。ただ、それほど上手くは行っていませんが……」
セルフリッジは彼女のその言葉にそう返した。少しだけ元気がないように見える。
「どうしたんですか?」
それに敏感に反応し、アンナはそう尋ねた。
「いえ、何でもありません。ちょっと考え事をしてしまって」
と、彼はそう答える。考え事……。心配事じゃないのか?と、彼女はそう思ったが、口には出さなかった。そして、少しでも彼の役に立ちたいという思いも、形は曖昧だったが、そこには生まれていた。だが、それには彼女は気が付かなかった。今でも彼女は彼の心をいずれは壊さなくてはならないと考えていたからだ。もちろん、そこに気持ちはほとんど伴っていなかったが。
それから調査を続ける。森の中の案内は、アンナが行い、それにセルフリッジはとても感謝した。アンナはそれを喜んでいた。
様々な場所で、土やら水やら木片やらといったものを採取し、虫なども捕り終えると、セルフリッジは調査を終えた。取り敢えず今日は、だが。
帰り道。案の定、アンナの足は痛み始めた。そろそろ歩けなくなるのは目に見えている。だが、その日は、アンナは先手を打った。
「少し用を足しに行ってきます」と、そう言うと、物陰で自分の足を、魔術によって治療したのだ。もし、セルフリッジに魔法を使っているところを見られたら、自分が闇の森の魔女である事がばれると恐怖し、今までは使って来なかったのだが、そこに至って決心をしたのだった。
“彼を利用する為には、これ以上、負担をかけてはいない”
と思っていたのだが、それは言い訳に過ぎず、
“彼を疲れさせてはいけない”
という気持ちこそが主因だった。それは、夜に影響を与える。もっとも、彼女はそれを明確には意識していなかったが。
「さぁ、行きましょうか」
そう言って彼女は彼の元に戻った。戻ってきたアンナの様子が、いつもとは少し違っている事にそこでセルフリッジは気が付く。どことなく緊張しているような。もっとも、それは不安を喚起するような類のものではないとも感じていた。そして、それから元気に歩く彼女を見て、彼は安心をする。“今日は足は大丈夫みたいですね”と、そしてそう思った。
“さっき、いなくなった時に、何かやったのかな?”
アンナはそんな彼の少し不思議そうに見つめる視線を意識しながら、“大丈夫。魔法を使った事はばれてない”と、そう自分を安心させるように心の中で呟いた。足が平気だから、少し変に思われているかもしれないけど。そしてその日は、彼に背負われる事なく、彼女は宿まで歩ききったのだった。
夜中。夕食を取り終えると、二人は寝に就いた。昨晩と同じ様に、別々のベッドに入る。そして灯りを消して少しばかり経った後の事だ。セルフリッジが、ゆっくりと起き上がる気配をアンナは感じた。アンナはそれに緊張する。今日は、自分を背負って歩いていないから、充分に体力があるはず。そう思う。そしてそれから、セルフリッジはアンナの予感通りに、ベッドで眠る彼女の横に立ったのだった。彼はその手を、ちょうどアンナの腰辺りに置いた。まだ、撫でるような触り方ではない。が、その行為の先にあるのが何なのかは明らかだった。
“いよいよ……”
アンナはそう思うと身を固くする。だが、そこまでだった。アンナの反応に気が付いたかどうかは分からなかったが、彼はそこで急に手を引くと、自分の顔を平手で叩き、そのまま自分のベッドに戻ってしまったのだ。アンナは、“何なの、いったい…”と、そう思う。もちろん、彼が何とか自制したのだとは分かっていたのだが。
その後、彼女はベッドの中で考えた。不機嫌になりながら……。
“身体を奪いに来ない。なら、わたしが魔女とばれた時に身体を餌にして口封じする事もできない。早い内に心を壊してやろう。いや、操るのが面倒だから殺してしまっても良い。行方不明扱いにでもすれば楽に……”
そして、そんな事を考えながら眠りに就いた。拗ねていたのである。
朝。光に包まれて目を覚ます。まだ、アンナは不機嫌なままだった。しばらくはベッドの中で背を向けて、セルフリッジの姿を見ようともしない。だが、いつまでもそのままでいる訳にもいかない。このまま顔を合わせれば、恐らく彼は自分が不機嫌な理由が分からず、不思議がるだろうとアンナは思う。戸惑うかもしれない。そう想像しても彼女の不機嫌は治らなかったが、彼の姿を見る為にようやく身体の方向を変えた。ところが、そこで彼女は驚く。
“いない!”
そう。そこにセルフリッジの姿はなかったのだ。ベッドはもぬけの殻だった。アンナはその事実に動揺する。“どうして?”その理由を何とか見つけ出そうと、頭を回転させる。
“もしかしたら、わたしが不機嫌になっていたから、愛想を尽かして何処かに行ってしまったのかも……”
だが、そんなはずはなかった。彼がアンナが不機嫌だと知っているはずもないし、それくらいの事で彼がアンナを見捨てるはずもなかったから。それから彼女はこう考える。
“まさか、昨日わたしが平気で歩いているのを見て、もう助けなくても大丈夫だと判断したのかも……”
彼は見返りを求めていない。ならば、その可能性は充分にあるようにアンナには思えた。いつ自分の元から去ってもおかしくはない。
“そんな……”
彼女は思う。不安が加速する。
“そんな、急に……”
だが、その時に部屋のドアが開いた。そして、プレートに朝食を乗せて入って来るセルフリッジの姿が現れる。彼女はその姿を見て、心の底から安心した。
“なんだ、朝食を取りに行っていただけだったんだ……”
「ん? どうしたのですか?」
セルフリッジは、自分を見つめるアンナの視線に気が付いてそう尋ねた。
「いえ、なんでも……」
誤魔化すようにアンナはそう答える。それから、「じゃ、朝食を食べましょうか」と、彼が言うので、その言葉に従って彼女はベッドから出て机に座った。朝食は昨日と同じメニューにゆで卵が追加されていた。アンナの体力が順調に回復しているからかもしれない。朝食を食べながら、アンナは思う。
“考えてみれば、彼はわたしと一緒に中央へ行くと言っていたはずだ。なのに、少し彼の姿が見えなかったくらいで、あんなに動揺して…… 馬鹿か、わたしは?”
黙々と食べながら、アンナはセルフリッジを見つめてみる。彼はそのアンナの視線に不思議そうな表情を見せた。
“別に、まだ心を壊す必要はないか。まだ、色々と利用してやればいい。その中央とやらに行って、今のこの社会の状況を知ってからでも遅くはない……”
そんな彼の様子を見ながら、彼女はそう思った。そこで気が付く。
“そういえば、この人は、いつまでわたしと一緒にいてくれるつもりなのだろう?”
いてくれる。と、自然に彼女はそう思っていた。だが、それには気付かない。そして、不安を覚える。中央に着くまでは一緒なのだとして、その後は?
「あの…」
そこで彼女は口を開いた。
「なんですか?」とセルフリッジ。相変わらずに優しそうな顔をしている。勇気を出してアンナはこう続けた。
「その… セルフリッジさんは、いつまでわたしと一緒にいるのでしょう?」
それに彼は少しだけ不思議そうな顔をすると、こう言った。
「取り敢えず、中央に行くまでは一緒にいるはずです。その後は分かりませんね。特殊科学技術局の判断によります」
「つまり、そこまでは一緒だと?」
「はい。ただ、いつ中央に行くのかは決まってないんです。調査の期間は未定ですので、頃合いを見て出発します。と言っても、実はお金がそんなになくてですね、お金が足りなくなれば、自ずから早く出なければならなくなるのですが」
その時、セルフリッジはアンナのその質問の意図を勘違いして受け取っていた。彼はアンナが自分を嫌っている訳ではないが、居心地が悪いのでそろそろ離れたがっているのでは、と思っていたのだ。アンナの様子は少しおかしかったし、昨日からわずかに緊張しているようにも思えたからだ。
「お金……」
そう聞いて、アンナは呟く。そして、自分が買ってもらった服や日用品を思い出した。ここの宿代だってかかっているはずだ。それで、金が足りなくなったのは、自分の所為なのではないかと彼女はそう考えた。
“なんとか、した方がいい…… 借りは返さないと”
その後で彼女はそう思う。しかし彼と一緒にいられる期間をできるだけ長くする為に、そう思っているのだという自覚はなかった。もちろん、責任を感じているのも本当だったのだけど。
その日の闇の森への調査で、アンナはセルフリッジを闇の森の近くのある場所へと案内した。そこは、闇の森のゾーンから外れてはいたが、木々が繁茂しており、なおかつ通常のルートからは死角に入る位置にある為に、闇の森ができてから、人が踏み込んだ事は一度もない場所だった。
「おお……」
その場所に入るなり、セルフリッジはそう感嘆の声を上げた。
「これは、素晴らしい」
そこにはキノコが大量に生えていたのだ。しかも、その多くが珍しく貴重なものだった。
「魔力を吸って成長する珍種です。薬の原料として貴重なものですね。わたしの時代では、高価なものでした。今の時代ではどうか知りませんが、もしかしたら、お金になるかと思いまして」
驚いている彼に向けて、アンナはそう説明した。彼の反応に満足をしたようで、嬉しそうにしている。
「局の所有範囲からは微妙に外れていますから、これは僕らの自由になります。ありがたい。このキノコは今の時代でも貴重ですよ。充分なお金になります。これで、調査期間を延ばす事ができそうです。
アンナさん。ありがとうございます」
そう彼から感謝の言葉を言われると、アンナは照れるように笑った。
「これは、何かお礼をしなければなりませんね」
と、その後でそう彼は続ける。
「いえ、お礼なんて……。むしろ、わたしの方がお世話になりっぱなしですし」
それに彼女はそう返した。仄かに、何かを期待しながら。
――が、
その日の晩。
彼女は一人部屋で、一人ベッドの上に座っていたのだった。セルフリッジは隣の部屋にいて、何かの書類を作成している。彼も一人部屋だ。
“なんで?”
つまり、彼からの“お礼”とは、部屋を分ける事だったのだ。なんでも、夜遅くまで作業をする予定なので、同じ部屋だと彼女に迷惑をかけるからだとか。その言葉を、彼女はそのままは信じなかった。もっと他に理由があるはずだと判断していた。例えば、彼が本当は自分を煩わしく思っているだとか。
アンナはベッドの上で、膝を抱えて座っていた。布団はかかっていたが寒さは強く感じた。二人部屋よりも随分と冷える気がする。それは或いは、肉体的なものではなく、心理的なものだったのかもしれない。
“見捨てられる……”
その暗い部屋の中で、彼女はそんな不安を感じていた。
“また、見捨てられる……。
わたしが魔女だから。わたしが、闇の森の魔女だから。人を、何人も殺した闇の森の魔女だから”
そう思った後で、自分の手を見てみる。罪など犯しそうにもないそのか弱そうな手を。本当は罪にまみれたその手を。
『安心をし、人間は人を殺して生き続けるものだから。誰でも、ね』
――婆様。
それは、アンナの魔法の師であるログナの言葉だった。
“誰でも”
アンナはそう思う。
“あの人もですか? 婆様”
その後で、そう心の中で呟いてから、顔を膝に埋めた。
“わたしが見捨てられるのは、わたしが魔女だからじゃないのかもしれない。わたしが、わたしだからなのかもしれない。わたしは、人から疎まれるんだ。直ぐに。いつも。どんな時でも”
それから顔を上げる。壁に目を向ける。その先にはセルフリッジがいるはずだった。
“だからわたしは、魔女に相応しく。それでわたしは、魔女になるしかなく。こうして、暗く、冷たい場所に今もいる”
そして、結果として、
――人をたくさん殺した。
“だからわたしには、彼と一緒にいる資格がないのかもしれない……”
アンナ・アンリが初めて人を殺した時、彼女は吐いた。その日食べたものを全て。結局、その日は、何も食べる事ができなかった。
「気が弱いね、お前は」
と、その様子を見てログナは言った。まぁ、いい、じきに慣れる、とも。
アンナが殺したのは男で、その男はログナの元から魔法の秘密を盗み出そうとした盗人だった。アンナはログナの命令で、逃走中のその男を呪い殺したのだ。心臓を握り潰してやった。
その男は、道に迷った振りをしてログナのいる森を訪れ、助けを乞い彼女の家に泊まるとそれから盗みをはたらいたのだ。ただし、初めから警戒していたログナは、アンナに彼を監視するように命じ、男が魔法の秘密を盗んだのを確かめると、予めかけておいた呪いをアンナに発動させ、彼を呪い殺した。
「分かっていたのなら、盗まれる前に追い出せば良かったのではないですか?」
そうアンナはログナに訊いた。何も殺す必要はない、とそう思っていたのだ。すると、彼女はこう答えた。
「お前の良い練習台になるではないか。それに、魔女の魔法の秘密を盗むのなら、初めから死を覚悟しなければならない。当然の報いを受けただけだ」
しかし、アンナには分かっていた。そんなものは、ログナが勝手に決めた彼女のルールに過ぎないと。もっとも、そのルールが魔女が生き抜く為には、必要なものであるのも自覚していたが。――それにね。そして、その時、その後で彼女は続けた。酷く恨めしそうな顔をしながら、“それに”と。
「安心をし、人間は人を殺して生き続けるものだから。誰でも、ね。
外の連中を見てみろ、自分達が富を独占すれば、他の人間が死ぬと分かっていながら平気で富を独占しているじゃないか。官僚共。支配階級の人間。間接的になるとその自覚が失われるから、分かっていないだけだ」
それから、ログナはその彼女の言葉を受けてもまだ苦しそうにしているアンナを見ると、こう続けた。
「罪など、感じる方が馬鹿げている。そんなものはない」
そのログナの言葉は、アンナの胸には沁みなかった。だがその言葉もまた、彼女が決めたルールと同じ様に、魔女として生き続けるのには必要なものだと分かっていた。そしてそれから、森の魔女、ログナの手先となり、アンナは何人もの命を奪っていったのだ。その過程で、彼女の心は麻痺していった。ログナから与えられた任務をこなす為に、彼女は初めて男に抱かれたが、別に何も感じなかった。そんなものに対する価値観など、心が麻痺した彼女からは既に失われていたのだ。ただ、“使える道具”の一つだと思っただけだ。身体を餌に男を利用してやろう……
“あの人だって、わたしを抱きたいはずだ。それなのに……”
アンナが我に返ったのは、隣の部屋からセルフリッジ以外の声が聞こえてきた時だった。膝から顔を上げる。
“女の声?”
それは彼女には女の声に思えた。彼女はそれでこう邪推する。彼が自分をこの部屋に追い出したのは、他の女と会う為ではないか。それで彼女はベッドから出ると、壁に寄って耳を澄ませた。よく聞くとそれは聞き覚えのある声だった。どうやらこの宿の娘の声のようだ。アンナは魔法を使って、壁を透視する。すると、夜食を持った宿の娘と、机に座っているセルフリッジの姿が目に入った。頼りないランプの灯りが部屋を照らしている。宿の娘は言う。
「あの娘と喧嘩でもしたんですか?」
それにセルフリッジは目を丸くして、こう答えた。
「いえ、喧嘩なんてしてないですよ? どうして、そう思うんです?」
「だって、急に部屋を分けたいなんて言うものですから。誰だって、そう思うじゃありませんか」
それを聞くと、彼は困ったように笑った。
「いえいえ、ただ単に、僕の仕事が夜遅くまであるから悪いと思って、部屋を分けただけですよ。彼女のお蔭で、お金も増えましたから、そのお礼にと思って。彼女には、よく眠ってもらいたいですし」
その言葉に、宿の娘はやや大げさな感じでこう返した。
「随分と可哀想な事をするんですね」
それにセルフリッジは不思議そうな顔を見せる。
「どうして、です?」
「だって、そんなの、あの娘は全く気にしないに決まっているじゃないですか。それより、あなたと一緒にいたいと思っていますよ。あなたに喜んでもらおうとお金を稼いでそれじゃ、ちょっと酷です」
セルフリッジはその彼女の言葉に首を傾げる。
「ははは、そんな訳はないでしょう」
その彼の返しに、宿の娘は驚く。
「それ、本気で言ってます?」
彼が無言のままでいると、「はぁ」と軽くため息を漏らして、宿の娘はこう続けた。
「あの娘、セルフリッジさんを見つめる時、目がハートになってましたよ。もし、尻尾があったなら振っています。
なんだかな。わたし、あの娘の事を、少し羨ましく思っていたんですよ。だけど、これで一気に同情に変りました」
そして、そう言い終えると、やや怒った感じでそのまま部屋を出て行ってしまった。セルフリッジはしばらく、宿の娘が去った後を見つめていたが、それから無言のまま机に目を向けると書類作成の続きを始めた。
その光景を見終えたアンナは、小さく「ばか…」と呟いた。もしかしたら、本当にセルフリッジは自分の為に部屋を分けたのかもしれない、とそう思う。その後も、アンナはセルフリッジの姿を見続ける。冷たい空気の中で。彼のその背中を。ランプの頼りなくも温かい光に包まれた部屋。彼女はその光景に見惚れていた。その部屋の雰囲気は、まるでセルフリッジそのもののように彼女には感じられたのだ。彼女が本当はずっと憧れていて、それでも絶対に手に入れられなかった世界。
手を伸ばして、彼に触れたいとアンナはそう思った。だけど、思いとどまって、心の中で伸ばしかけたその手を引く。
“もしも、わたしが闇の森の魔女だと知られたら、あの人のあの優しい顔は、どう変わってしまうのだろう?”
それから、悲しく彼を見つめた。目に涙が浮かぶ。
“あの優しい顔が、恐怖で引きつる。そんなもの見るくらいなら、いっその事、今ここで、心を壊してしまえば……”
そして精神を集中しようとする。彼女が魔法を使うのには、呪文は必要ない。しかし、どうしても精神が集中できない。
“でも、もしも心を壊してしまったのなら、あの優しい顔は偽物になる。わたしを気遣うあの言葉も、行動も全部……”
それから目を伏せるとこう思った。
“なら、せめて今だけでも。今だけでもわたしの自由にしてしまえば……”
――こんな、暗くて冷たい場所にわたしを一人にしないで。
それから、アンナは精神を集中した。彼の心を操り、少しの間だけ、自分の自由にする為に。
「きゃっ」
だがその時だった。アンナが精神を集中して魔法を使おうとすると、突然に衝撃が彼女を襲ったのだ。短い悲鳴。手足に異物感が。それから、手足が縛られている事に彼女は気付いた。
――なんだ、これは?
バランスを崩して、彼女は倒れ込んでしまう。悲鳴もその物音も、セルフリッジの耳にまで届いているはずだった。彼が隣の部屋から出て、この部屋に入って来る気配がする。それに彼女は慌てた。警戒をするように、彼にこう言う。
「駄目です、安全を確かめてから入って来てください! 何者かがわたしに魔法をかけてきました。敵です!」
だが、その声を聞いてもセルフリッジは止まらなかった。そして、彼女の部屋のドアを開け、姿を見せるなりこう言った。
「――罠が、発動してしまいましたか」