3.依存する闇の森の魔女と科学のこと
何かが動く気配に気が付き、アンナ・アンリが目を覚ますと、横にはオリバー・セルフリッジの半身を起こした姿があった。彼はアンナが目覚めた事に気が付くと、「起こしてしまいましたか」と、笑いながらそう言った。
「これから朝食を取ってきますから、あなたはまだ寝ていて良いですよ。と言っても、直ぐに帰ってくると思いますが」
それからそう告げると、セルフリッジはベッドから出て部屋着のまま外へ出て行ってしまった。しばらくすると、彼はその言葉通りに朝食を持って戻ってくる。朝食は、パンとミルクとオレンジだった。
それから彼が机の上にそれを置くのを見ると、アンナはベッドの中から出る。朝の空気はひんやりと冷たかった。食事を取り始める。パンは程よく焼かれていて、ミルクは温められてあった。パンを食べミルクを飲むと、朝の空気で急速に冷やされた身体が、再び温まるのをアンナは感じた。アンナがオレンジを食べようとしたところで、セルフリッジが話しかけてきた。
「食べ終えたら、まず、髪を切りましょうか。今日は街であなたの服とか日用品を買いたいのですが、その髪のまま出歩くのは恥ずかしいでしょう。それと、これは僕の都合ですが、市役所に寄って手続きが必要でしてね」
その言葉にアンナは黙ったまま頷く。それを見ると、セルフリッジはにっこりと笑った。アンナはその笑顔に少しだけ赤くなった。
朝食を食べ終えると、二人は部屋を移動した。宿の裏方の部屋だ。
「ここなら、多少汚しても問題がないんですよ」
と、いつの間にか現れた宿の娘が言う。そこは殺風景な部屋で、椅子が一脚だけ置かれてあった。恐らくは使われていない部屋なのだろう。「座ってください。髪を切りますんで」と宿の娘が言うので、腰を下ろすと、宿の娘はポケットから鋏を取り出して構えた。それに、アンナは慌てる。
「ちょっと待ってください。セルフリッジさんが切ってくれるのじゃないのですか?」
気付くと思わずそう言っていた。セルフリッジは、彼女の後ろに控えている。それを聞くと彼は困ったような笑顔を浮かべて「僕じゃ下手ですから」と、そう言う。宿の娘は不思議そうな顔になり、「無難な髪形に仕上げるので、心配しないでください。これでも近所の子供達の散髪をしたりしてますし」と、そう言った。
もちろん、アンナは髪形などは心配していなかった。鋏… 刃物を持った相手に背を向けている、その状況に不安を感じているのだ。少し悩むと、彼女はこう応える。
「いえ、大丈夫です。問題ありません」
それからこう思う。馬鹿かわたしは?こんな宿の娘相手に恐怖するなんて。昨晩から何か変だ。あの男に対しての反応も。まるで、身体だけじゃなく、心まで小娘に戻ってしまったみたい。
それから宿の娘は鋏でアンナの髪を切り始めた。鋏。刃物。冷たいその感触に微かな恐怖を感じた彼女は固くなった。緊張している。後ろにセルフリッジがいる事を、無意識のうちに確かめてしまう。その様子を見て、宿の娘は敏感に察したようだった。この娘は怖がっていると。そして、セルフリッジに頼ろうとしていると。
ふーん
と、宿の娘はそう思う。
簡単なボブカットに仕上がると、「はい。終わりですよ」と、髪の毛を叩き落としながら宿の娘は言った。アンナの緊張はそれで解けて、ふぅと息を吹き出す。「ありがとうございます」と、セルフリッジがお礼を言った。それから、二人が部屋を出ようとするところで、宿の娘は彼に向けてこう話しかけた。
「随分と懐かれていますね。色男さん」
セルフリッジはその言葉の意味が分からず、不思議そうな表情を見せた。
その後で、アンナとセルフリッジは街へと出かけた。もちろん、アンナの服や日用品を買う為だ。人混み。大勢の人間が行き来する市場に入ると、アンナは緊張をした。人間が怖い。“大丈夫。わたしが闇の森の魔女である事が分かるはずがない”と、自分に言い聞かせる。道行く人々の無表情な顔、時に笑っている人や怒っている人もいたが、その全てがアンナには悪意を持った存在に思えた。彼女の魔力は、完全とは言えなくてもそれなりに回復していた。もう襲われても、簡単に相手を退けられるはずだ。だが、それでも彼女の不安は消えはしなかった。それは彼女に刻印された心の奥底から発生する不安だったのだ。
そのうちに、セルフリッジがアンナの手を握った。
「はぐれると厄介ですから」
と、彼は言ったが、実を言うのならアンナの不安そうな表情を見て堪らなくなったのがその理由だった。安心させてやりたかった。
「はい」
とだけアンナは応えると、そのセルフリッジの手を強く握り返した。怖い。人間が。魔女と知られたら、どんな酷い目に遭うか。セルフリッジの手だけが救いに思えた。
それから市場の店で二人は買い物をした。服は散策に適している旅用のものを上下二着ほど買い、日用品も揃える。アンナが緊張している事もあって手早く済ませた。後の予定は、市役所に寄るだけだった。
市役所で、アンナは待合室で一人、待たされた。ただし、人のいないその場所ではそれほど彼女は緊張をしなかった。やがてしばらくが経って出てきたセルフリッジに向けて、彼女は何をしていたのかと尋ねた。
「あの闇の森近辺への立ち入りを禁じる処置の依頼をしていたのですよ。これで許可なく、あの土地には入れません」
それを聞くと、彼女は不思議そうな顔になる。
「あの土地を解放する為に、あなたはここへやって来たのではないのですか?」
その質問に、セルフリッジは困った顔を浮かべた。
「いえ、それが、多少、複雑な事情がありましてね。実は、あの闇の森近辺は、今は僕の所属する“特殊科学技術局”の所有物になっているのですよ」
アンナはその返答を聞いても、まだ不思議そうな顔のままだった。それで彼は、続けて説明した。
「法律で決められているんです。失われた魔術…… “ロスト”と認定された物の所有権は、その解放や回収を行った機関のものとなる。それには闇の森のような忌地も含まれてあります。それで、僕の手によって解放されたあの土地の所有権は、今は特殊科学技術局のものなんですね。僕は、そこに所属していますから。
これは管理の難しさや危険性を建前にして成立した法律なんですが、本当を言えば、ただの略奪行為の為の法律です。富の搾取だ。実はそれが、僕の所属している特殊科学技術局の別側面、もう一つの役割でもあるのです。前にも少し説明しましたが、富を吸収しての“権力の集中化”。それに利用されているのですね」
そう語り終えると、彼の表情は苦悩で歪んだものとなった。いつも柔らかな顔をしている彼だからこそ、それはより深刻にアンナには映る。
「あの……」
だが、不安になってそう話しかけようとすると、一瞬でその彼の顔は笑顔になった。
「すいません。少し暗くなっちゃいました。因みにこの手続きで、闇の森が安全な場所になった事や、アンナさんが救い出された事は中央政府に伝わっているはずです。もう少しあの闇の森を調査してからになりますが、数日経ったら中央に向けて出発しなくてはなりません。よく覚えておいてください」
そして、そう誤魔化すように彼は語った。しかし、アンナはそれを受けて、セルフリッジが自分の所属している組織を信用している訳ではないのだと悟った。ならば自分も気を付けた方が良さそうだ、とそれからそう思う。よく覚えておきます。
それから市役所を出ると、セルフリッジはアンナにこう尋ねた。
「さて。思いの外、早く用事が済んでしまいました。もっとかかるかと思ったのですが。時間があるので、僕は少しだけ闇の森の様子を見てこようと思います。アンナさんはどうしますか? 宿でゆっくりと休んでいてもらっても構いませんが」
それにアンナはほぼ反射的にこう答えていた。
「一緒に行きます。行かせてください」
言い終わってから、何故自分はこんなにも必死になっているのだろう?と彼女は自分自身に問いかけた。人間に恐怖している自分が、唯一頼りになる彼と離れるのに不安を感じているのは自覚していたのだが。
その彼女の即答を受けると、セルフリッジはゆっくりと笑ってこう言った。
「では、宿に一度戻って、着替えましょうか。この、今日買ったばかりの服に。ご飯も食べないといけませんし」
それに彼女は「はい」とそう応えた。
闇の森の様子を見る、と言っても実際に森に行くまでの時間はない。昼はもう過ぎているし、アンナを連れた足では、宿に帰るのがまた夜遅くになってしまう。だからセルフリッジは、遠くから闇の森を観察するのと、その周辺の土地の調査だけにとどめておく事にした。
実は遠くから闇の森を観察するのに適した場所の目星もつけてあったのだ。
闇の森の周辺の土地には、平野が広がっていた。元は森だったのだが、戦争と闇の森を焼き払おうと試みる人間達の所為で、平野になってしまったのだ。もっとも、所々に木々は残っていたが。そんな場所をセルフリッジとアンナは歩いていた。アンナの足は貧弱なままだから、その歩みは遅い。しかし、一晩休んだのと、サイズの合った靴を履いているお蔭で昨日よりは随分と速くなっていた。距離も歩ける。
やがて、セルフリッジは目的の場所を見つけた。小高い丘が、目の前に現れたのだ。彼はその丘に登って、闇の森の様子を観察するつもりでいた。
「あそこに登りますよ」
彼が丘を指差しながらそう言うと、アンナの表情が少しひきつる。実は少しずつ歩くのが辛くなっていたのだ。だが、それを彼には言い出せない。迷惑をかけるのが嫌だった。見捨てられるかもしれない恐怖の為だ。まだ、この男と離れる訳にいかない。力がもう少し回復するまでは。そう思っている。
しかし、実際に登ってみると、セルフリッジはアンナが登るペースに合わせたし、できる限り彼女を助けもしたので、それほど辛くはなかった。やがて頂上に着く。そこは寛ぐのに十分なスペースがあった。水筒で水を飲み少し落ち着くと、セルフリッジはリュックの中から奇妙な道具を取り出した。長い筒のようなもの。アンナはその道具をなんだろう?と不思議に思った。彼はそれに目を当てて、闇の森の方に向ける。それから、彼女の視線に気が付くとこう言った。
「ああ、これは望遠鏡という道具です。中にレンズと呼ばれるガラスが入っていまして、それで光を屈折させて遠くの景色などを拡大して観る事ができるのです。科学技術の成果の一つですね」
「はぁ……」と、それを聞くとアンナはそう言った。そして、「科学ですか」と、そう付け加える。
「アンナさんも見てみますか?」
その後で、セルフリッジはその望遠鏡をアンナに渡した。アンナはそれで景色を覗く。確かに景色が拡大して見れた。まるで近くにあるように感じる。見終わると、「どうでしたか?」とセルフリッジは彼女に尋ねた。彼女はそれに少し言い難そうにしながら、こう答えた。
「確かに近くに観えましたけど、でも、こういった道具は、数は少なかったですがわたしの時代からありましたよ? 魔術とも、職人の秘術とも言われていましたが。その科学とやらの成果ではないのじゃないかと」
それを聞くと、セルフリッジはゆっくりと頷いた。
「そうですね。技術面を観れば、かなり昔から存在していたようです。ただ、原理は明かされていなかったでしょう?」
「はぁ」
だからこそ、魔術とも職人の秘術とも言われていたのだ。アンナがそう答えると、彼は語り始めた。
「実はその点が、科学と魔術や単なる技術とを区別する上で重要なのです。原理や構造が公開されているか否か。魔術や技術では秘密にされるものが、科学では公開されているのですね。公開され、認められる事で初めて価値が出るからですが。そしてだからこそ、科学は発展し活用された。知識を共用できれば、社会全体のプラスになるのは簡単に分かるでしょう。刺激し合い、影響し合って様々な分野が成長できる。
しかし、魔術は基本的な部分以外は秘密にされました。魔術書で学べるのは、極一部のみだけだったはずです」
アンナは過去を思い出すと、「そうですね。確かにその通りです」と、それを認めた。
「自分達専用にすれば、有利性が保てるから狭い範囲を観れば、それは適切な戦略だったのですが、社会全体を観ればマイナスです。因みに、そのようにして秘密にされていたからこそ、封印された魔術は“ロスト”となり、僕らが復活させなくてはならなくなったのですが。
もっとも、これは科学の一側面に過ぎません。科学とは、何かを理論化する上での思考方法や知識の獲得方法、更に科学を受容する支援をも含めた社会の構造、それらを総括して捉えるべきものです。魔力とは何かが、未だに解き明かされていない事もあって、魔力を用いているものを魔術と呼び、それ以外の力によるものを科学と呼ぶような人もいますが、これは本質を捉えていません」
そこまでを言って、セルフリッジはニッコリと笑う。その時アンナは、“随分と嬉しそうに話すな”、と何故かそんな関係のない事を思っていた。
「思想的な側面を語ると一口に科学と言っても、帰納主義から始まって、確証主義、論理実証主義、反証主義、道具主義と色々ある訳ですが、僕はその中でも特に帰納主義、確証主義、反証主義に注目をしています」
そう彼が語ったところで、アンナは口を挟んだ。
「あ、帰納主義、というのは聞いた事があります。確か、調査や実験などを行って情報を集め、そこから理論を導こうというものですよね? 自然哲学とか言われていた分野で主張されていたような気がします」
セルフリッジはそのアンナの言葉に嬉しそうにした。
「そうです。その通りです。自然哲学は、自然科学の原型ですね。もっとも、昔の帰納主義は仮説の設定に対して非常に厳しくて、先入観を持っての情報収集を否定したのですが。ただ、ガリレオの実験などの例のように、初めから仮説を立てた上での実験も当時から存在しています。因みに、帰納主義から確証主義というものが派生しました。これは情報を集めるのには限界がある為に、仮説を容認するしかないのではないか、という結論に至って誕生したものです。完全な情報など有り得ないし、全ての情報を収集する事も不可能ですからね」
アンナはセルフリッジの話もそれなりに面白いと感じてはいたが、それよりも彼が嬉しそうに話している事に惹かれていた。何だか彼女まで嬉しくなってきてしまったのだ。それで、
「なるほど。では、反証主義とは、どんなものなんですか?」
と、ついそう質問をしてしまった。彼が喜ぶと思ったのだ。セルフリッジは直ぐに語り始めた。
「反証主義とは、反証可能性を持つ理論を科学と呼ぼう、というものです。反証ができる。つまり、間違っている事が証明できる構造になっていなければ、それが本当に正しいかを確かめる事はできないでしょう? もちろん間違いを指摘されても頑なに自説を曲げないような態度を執るものもアウトです。反証が不可能だと、結果的に誤りかどうか不明のまま、それは生き残り続けてしまう。科学とは、“より正しいだろう理論”が生き残るシステムを持つ世界だとも言えますが、反証が不可能だと、その生き残りのロジックが通用しなくなってしまうのですね。だから反証可能性が重要。もっとも、完全に正しい基準という訳でもないのですが。因みにこの点も、魔術や技術とは異なります」
「どういう事ですか?」
「魔術や技術では、正しいかどうかよりも、役に立つかどうかで生き残りが決定されるでしょう? 正しいと証明できなくても、役に立てば生き残ってしまう。だからこそ、時にその背後にある理論が不明だったり間違っていたりしたままでも、経験的に効果があると確かめれた技術が、活用されていたりもするのですが。
もっとも、厳密に言えば、この境界線は曖昧で、科学でも理論的仕組みが不明なまま扱われるものもたくさんあります」
そこまでをセルフリッジが語ると、アンナは「なんとなくですが、科学というものが何なのか分かって来た気がします」とそう言った。それを聞くと、セルフリッジは嬉しそうにしつつ彼女にこう訊く。
「それは良かった。アンナさんは、飲み込みが早いですね。知識もある。本をたくさん読んでいたのですか?」
「はい、読んでいました。本は好きです」と、アンナは答える。それに彼はこう返した。
「では、今度、本屋さんに行きましょうか。今の時代の本屋に行ったら、色々な分野があって、アンナさんは驚くかもしれません」
そしてそう言ったところで、何かに気が付いたのかこう加えた。
「そうだ。その点も、科学を考える上では重要なのでした。
科学が成立した背景には、学問の専門分化という側面もあるのです。その昔は、学問といえば境界線なく同じで、文学作品から自然まで、学者は広い範囲を学んでいたのですが、それがある時から、特定の専門分野に特化するようになっていったのです。
典型例は数学かもしれません。数学はアンナさんのいた時代から存在していたと思いますが、今は理系文系という分け方をされていて、理系に属します。理系は自然科学の属する分野ですがね。そして、文系では専門的には学ばれていません」
それにアンナは変な顔をする。
「数学が、ですか? 確かに自然哲学で用いられていますが、数学自体は抽象概念で、自然ではないじゃないですか。むしろ、哲学的な側面が強いですよ?」
「それだけ、数学は自然科学の分野で実用性が高かったんですよ。そして、各学問が専門性に特化したお蔭で、それぞれの分野が急速に発展しました。ただ、学問と学問の間に溝を作る事にもなったのですが。各学問が効率良く連携できるようになるのが良いというのは、言うまでもありません。改善すべき点です」
「なるほど。でも、だとすると各分野を全て知るなど至難の業ですね」
「その通りです。今はだから、全体を把握している人間などいない、というのが実情なんです」
そこまでを語ると、セルフリッジは「あ、忘れていました」と、そう言って望遠鏡を覗きこんだ。
「すいません。調査を忘れていました。早く済まさないと、また日が暮れてしまう」
それからそう続ける。アンナはそんな彼の事を黙って見つめた。面白い人だな、とそう思いながら。
しばらくして、セルフリッジは調査を済ませると、帰り支度を始めた。アンナはそれで自分の足を気にする。それなりに休めたから、大丈夫なはずだ、とそう思う。それから丘は問題なく下る事ができた。セルフリッジが彼女を充分に気にかけていたからだ。しかし、やはり彼女の足は随分と疲れていた。怪我はしていなかったが、痛み始めている。リハビリにしては、この道行きはきつ過ぎたのだ。丘を降りてからしばらく進むと、セルフリッジは、彼女の歩みが遅くなっている事に気が付いた。
「少し休みますか?」
と、それでそう言う。アンナは「すいません」と謝りながら、それに頷いた。
「謝る事はありませんよ。僕の方こそ、無理をさせ過ぎたかもしれません」
それに彼はそう返す。そしてそのアンナの反応で、彼女が自分に気を遣っている事を彼は敏感に感じ取った。
これはいけないな、と少し思う。
「歩けそうですか?」
その後でそう尋ねた。できるだけ、深刻そうに見えないように軽い感じで。アンナはその言葉に即反応する。
「はい。大丈夫です」
その反応に、わずかにセルフリッジは顔を歪めた。どうにも、彼女は緊張をしているような気がする。
“街で人混みの中であれだけ緊張し、僕の前でも緊張している。これじゃ、身がもたない”
それからそう思った。
「では、進みましょうか」
しかし、次に彼はそう言った。「はい」と応え、アンナは立ち上がる。その後で、彼は少し速足で歩き始めた。アンナに気を遣った速度ではない。
え?
と、その速度にアンナは不安になる。もしかしたら、怒らせてしまっただろうか? だが、彼女にはその原因が思い当たらない。
「あの……」
そう彼に話しかけようとして止める。怒っているか?なんて尋ねられない。やがて、徐々にアンナとセルフリッジの距離は拡がり始めた。アンナは速く歩こうとする。だが、既に思うように足は動かなくなっていた。距離が拡がる。アンナは不安になる。そして、
「あの、待ってください」
遂に不安に耐え切れず、彼女はそう言った。
「足が痛いんです。速く歩けなくて」
そう続けると、セルフリッジの歩みが止まった。ゆっくりと振り返る。怒っていたら、どうしよう?と彼女は心配しながらそれを見つめた。だがしかし、彼の表情は穏やかなものだった。それから、彼はゆっくりと近づいて来るとこう言う。
「足を見せてください」
アンナはその言葉に大人しく従った。足を観ると、彼はこう続けた。
「うん。どこも怪我はしていませんね。靴擦れもないようだ。ただ、やっぱり疲れているようですね」
それから彼女の足を、優しくマッサージする。「ん」と彼女は声を漏らした。心地良かったのだ。どうやら、ただのマッサージではなく、何かしらの魔術を施しているようだ。
「僕も多少なら魔術を使えましてね。“ロスト”を回収するのに必要なので。それに、医療魔術は、旅に必須なので心得ています。昨日は、ちょっと、魔力が尽きかけていたので、できませんでしたが」
彼は彼女の考えを察してか、そう説明した。それからこう続ける。
「アンナさん。何か辛い事や苦しい事があったら、遠慮なく言ってください。言ってもらえないと分からない事もたくさんあります」
その言葉にアンナは驚く。そして驚いたまま、セルフリッジを見つめた。その瞳に対して、彼はこう言う。
「あなたに無理をして欲しくないんです」
そう言われて、アンナは黙ったままゆっくりと頷いた。
“この人、本当にお人好しなんだ”と、それから彼女はそう思う。恐らく、少し怒っていたのは、自分が無理をしていたからだ、と何となく彼女はそう思ったのだ。
「さて。では、行きましょうか。背中に乗ってください。ここからは、僕があなたを背負っていきますから」
セルフリッジはそう言うと、しゃがみ込んで背を向けた。アンナはその行動に慌てた。
「いえ、でも、昨日も背負ってもらったのに……」
そしてそう言う。セルフリッジは笑った。
「なら、僕がそれなりに体力があるのを知っているでしょう? それに、無理をしないと約束したばかりじゃないですか」
そう言われると、アンナは渋々ながら彼の背に乗った。リュックは背負うのとは逆向きに、腹に抱えるようにしてかけている。
「あの……、重くないですか?」
歩き始めて少し経つと、彼女は彼にそう尋ねた。
「大丈夫ですよ。アンナさんは軽いですから。むしろ役得です」
“役得”。それが何を意味するのかは彼女にも簡単に分かった。服越しとはいえ、身体が密着している。少し赤くなった。
昨日とは違い運搬用の袋がない所為で、よりセルフリッジの体温をアンナは感じていた。目の前には、彼の無防備な後頭部がある。この光景は、昨日も見た。昨日は魔力がほとんどなかったから、魔法で彼の心を壊す事などできなかったが、今なら… そして、そう思う。
“わたしが闇の森の魔女だと知られない為には、この男の心を壊さなくてはいけない。チャンスだ。この馬鹿なお人好しを…… どうせ、わたしが闇の森の魔女だと知ったら、この男の優しさもなくなる”
ところが、そう思ったところで、不意に彼が話しかけてきたのだ。
「痛くはないですか?」
それにアンナはビクッと震えた。
「平気です」と、そう即答した。それに彼は「良かった」とそう返す。彼女はそれでこう思った。
“本当にお人好し……”
そして、続けてこう思う。
“今はまだ早いか。この男の心を壊してしまうのは。もっと、この世界の事を知った後でなければ。それに、もし心を壊してしまったら操り続けなくてはならない。その魔力も今はまだ惜しい”
いつの間にか、自分の中から彼を殺すという選択肢が消えている事には、彼女は気が付かなかった。