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2.怯える闇の森の魔女

 闇の森の魔女、アンナ・アンリが目覚めた時、既にそこは宿の中だった。玄関口で、オリバー・セルフリッジは彼女をゆっくりと降ろそうとしている最中で、彼は彼女が起きた事に気が付くと「おや、起こしてしまいましたか」とそう申し訳なさそうに言った。いずれは起こさなくてはいけないだろう事を分かっていてもそう思ってしまう。彼はそういったタイプの人間なのだ。

 目覚めたばかりで頭が上手く働かず、アンナが状況を把握できずにいると、そこに足音が近づいて来た。

 「おや、どうしたんですか?その娘。まさか、さらってきたとか?」

 それはどうやらその宿の娘のようだった。それを聞くと、セルフリッジは困ったように笑いながら、「違いますよ。そう思われないかと、少し心配ではありましたが。この娘は、森の遭難者です」と答える。

 「救助して来たんです。相当弱っていますし、疲れてもいるので、お風呂に入れてあげてください。それと、できれば部屋着も欲しいのですが。食事はその後ですね」

 セルフリッジの言葉を聞くと、宿の娘は目を丸くした。

 「森の遭難者って、まさかあの闇の森ですか? よく生き残っていましたね」

 彼はそれに「ええ、とても運が良かったんです」と、そう応える。「本当に」

 記憶の混乱が治まり、その二人の会話から今がどんな状況なのかを把握すると、アンナは少しだけ困惑した。疲れていると言うのなら、自分をここまで背負って来たセルフリッジの方がよほど疲れいるだろうと思ったからだ。彼から先に休めば良いのに。自分は今まで寝ていたから平気だ。そう言おうと思ったが、袋から這い出た自分に彼が手を差し出し、「立てますか?」とそう心配そうに言うのを聞くと、何も返せなくなった。平気だけど……。

 外を見るとすっかりと暗くなっている。それでアンナは既に夕刻を過ぎているのだと知った。冬が近づいている所為もあって、夜になるとかなり冷え込む。既に宿の廊下には冷気が漂っていた。

 セルフリッジは、それから彼女を浴場まで案内した。宿の娘も一緒に来ている。彼はアンナに向かって、「身体は大丈夫ですか? もし辛いようなら、彼女に一緒に入ってもらって見てもらえば…」とそう言う。アンナはそれを聞くと慌てた。

 「いえ、大丈夫です。一人で入れます。もう、だいぶ回復しました」

 誰かと一緒に風呂に入る事が、彼女には不安で堪らなかったのだ。無防備な姿をさらしてしまう。風呂に入ると、そこには大きな鏡があった。その鏡で、彼女は自分の身体を観てみる。この時代の美の感覚がどうなっているのかは分からなかったが、少なくとも彼女の感覚からしてみれば、それは充分に美しい女の身体に思えた。恐らくは、セルフリッジの目から見ても美しく見えるだろう。

 “無償で、ここまで親切にするはずがない”

 アンナはそう思っていた。彼は、何か見返りを期待しているはずだ。そしてアンナが彼に提供できるのは、今はこの身体くらいしかない。彼もそれを分かっているはずだ。……ならば、当然、そうなるのだろう。

 “綺麗にしておかなくちゃ……”

 そう思ってアンナは念入りに身体を洗った。既にわずかばかり緊張している。もっともその過程で、やはり自分が相当に疲労している事を自覚してしまったのだが。一時の眠りでは、回復すると言っても限界があるし、人の背で運ばれているのでは、やはり身体は充分には休まらない。

 風呂から上がると、脱衣場には既に服が用意されてあった。締めつける感じがしない楽そうな部屋着だ。白いふんわりとしたワンピース。サイズも問題なかった。嬉しい。服を嬉しく思うなど、闇の森に囚われる前から彼女はほとんど経験した事がない。アンナは不思議な心持ちになった。

 着替え終わって外に出ると、先ほどの宿の娘が彼女を見つけて、部屋へと案内してくれた。予想通り、セルフリッジと同じ部屋らしかった。多少、汚れてはいたが、何の変哲もない普通の部屋だ。別に彼に抱かれる事に問題はない。彼女は自らの身体に対しての価値観など持ち合わせてはいなかったから。しかし、思った以上に彼女の疲労は激しかった。今晩求められるのは、流石にきついかもしれない。その部屋にベッドは二台あった。

 「彼、突然に二人部屋にしてくれと頼むから、何かと思っていたのですが、あなたを森で見つけたのですね。

 ふふ、ごゆっくり」

 宿の娘は去り際に、そんな事を言った。“森で見つけた…”。それを聞いて、少しだけアンナは違和感を覚える。二つあるベッドのうちの一つに腰を下ろした。確かに、自分は自ら命を絶つ前に、彼らしき青年と会話をした。しかしその時は、まだ彼は自分の姿を知らなかったはずだ。いや、そもそも彼は闇の森の魔女と相対しているつもりだったはず。しかし今彼は、自分を闇の森の魔女とは思っていないだろう。そうじゃなければ、警戒心なく、これだけ親身に世話をするはずがない。一体、これはどういう事なのだろう?

 そんな事を思っていると、部屋のドアが開いた。セルフリッジが入って来たのだ。

 「やぁ、凄い。すっかり綺麗になって」

 入ってくるなりセルフリッジはそう言った。見ると、彼も部屋着に着替えている。どうやら風呂にも入ったようだ。そして、手にはお粥を乗せたお盆を持っていた。二人分用意されている。

 「消化の良いものを、と思ってお粥にしてもらいました。さ、食べましょう」

 お粥は適度に濃い味で、疲れた身体には美味しく感じた。部屋の中は、徐々に冷えが厳しくなってきていて、お粥のその熱も嬉しい。一緒に出されたミルクには、甘い味付けがされてあって、思わず彼女はほとんど一気に飲み干してしまった。考えてみれば、彼女が普通に食事するのは、森に囚われて以来なのだ。セルフリッジの言葉を信じるのなら、百年ぶりという事になる。美味しく感じないはずがない。

 「良かった。食欲はあるようですね」

 アンナが食べ終えるのを見守っていたセルフリッジは、彼女の満足そうな様子にそう言った。アンナは思わず、頬を赤くする。何故だか恥ずかしかったのだ。

 「その……、百年ぶりのちゃんとした食事なものですから、美味しくて」

 「はい。無理もありません」

 その彼女の言葉を聞くと、彼は優しそうな微笑みを浮かべてそう言った。それから食器を片すと、「今日は早く寝ましょう。明日も色々とやる事があるのです」と続け、「髪も、ちゃんと整えてもらわなくてはなりませんしね」とそう結んだ。彼女の乱暴に切られた髪を見つめながら。その視線に、アンナは少しドキリとした。彼に髪を撫でらているのを想像してしまう。

 それからアンナがベッドに入ると、セルフリッジは部屋の灯りを消した。部屋が暗くなる。何も見えなくなると、急にアンナは不安になった。どうやら彼に“その気”はなかったようで別のベッドに入った。アンナは安心しつつも、少しだけ複雑な気持ちになる。

 “きっと、疲れているからだろう。わたしもそうだけど、彼自身も。なにしろ、わたしを背負ってかなりの距離を歩いたんだ”

 そう思ってから、少しの間の後でこう続ける。

 “いずれにしろ、力を取り戻すまでは彼を利用し続け、わたしが充分に回復したら、その時は殺すか心を壊す。もしわたしが闇の森の魔女だと知られるとしたら、彼が原因となるはずだ。手は打っておかなければいけない”

 それからアンナは目を瞑った。随分と疲れているから直ぐに寝に落ちるかとも思ったのだが、そこで違和感を覚える。何も見えない闇。彼女が百年あまり閉じ込められていた闇の森では、例え闇であったとしても知覚が働いていた。闇の森の闇を通して、彼女は情報を得られていたのだ。しかし、この部屋の闇からは何も感じられない。その差に、彼女は恐怖を覚え始めたのだ。

 そしてその恐怖は、彼女の人々に対する辛い記憶を呼び起こした。彼女は思い出す。過去、自分が人間達から何をされてきたのかを。更にそこから連想した。もしも、自分が闇の森の魔女であることを知られたら、ここの街の人間達は自分に何をするのだろうか?

 この宿の外には、人間達がいる。しかも、たくさん。

 ギュッとアンナは布団を握りしめた。早く眠らなければ。起きていると、どんどんと悪い想像が膨らんでしまう。しばらくが経つと、彼女に眠気がやって来る。しかし、それでも一度根付いた恐怖は消えなかった。そしてその恐怖は、そのまま悪夢へと続いていってしまった。


 助けて!

 と、アンナ・アンリは叫んだ。

 口々に人々が言っている。赤紫の空の下、果てしない地平。黒いシルエットになった人々は、狂気的な興奮の中、まるで機械のように彼女の事を追っていた。

 あれは、森の魔女だ。悪い悪い闇の森の魔女だ。殺してしまえ。早くに殺さなければ、こちらが全員、殺されるぞ。あいつが森にいた頃は、何百人と殺されたんだ。

 違う。

 と、それにアンナは返す。わたしは別に殺したくなんかなかった。そっちが勝手にやって来て、勝手に死んでいったんだ。

 そのうちに、弓矢が放たれた。地面に突き刺さる。それを見て、彼女は反論するのをやめて逃げ出す。何を言っても無駄だ、殺されてしまう。言葉は通じない。そうだ。いつもいつでもそうなんだ。

 人間は。人間は。

 人間達は。

 愚かで残忍で自己中心的で傲慢で醜く短慮で浅はかで…。

 逃げるアンナの肩に矢の一本が刺さった。激痛が走る。そのショックで歩みを止めると、今度は太ももに矢が刺さった。

 ギャアー!

 激痛に耐えかねて、アンナは悲鳴を上げる。早く逃げないと。涙目になる。這うように逃げようとして気が付いた。自分の手足が、いつの間にか縮んでいる事に。自分の身体全体を見てみると、アンナはすっかり子供に戻っていた。

 また、若返った?

 それで彼女は混乱した。闇の森の効果で、更に自分が若返ったのでは、と考える。

 婆様。何をやったの?

 そう思った瞬間、混乱したアンナの視界が変わる。それまでの赤紫色の空と地平の風景が消え、深い森の奥に。そこをアンナは逃げていた。そして、それでそうだと思い出す。あの時も、こんな風に逃げていたんだ。わたしは、村の人達に追われていて……。

 ……婆様が。あの時。

 子供の頃から、わたしは。虐げられた記憶を彼女は思い出す。苛められないように必死に魔法を覚え、生き残ろうとした記憶。温かったのは、人さらいのおじさんだけ。殴られ責められ利用され。

 助けて。

 ……わたしは。


 「大丈夫ですか?」


 そこでアンナの目が覚めた。

 見ると目の前には、セルフリッジの心配そうな顔があった。手にランプを持っている。その光が、暗い部屋を仄かに照らしていた。まだ夜だ。

 「すいません。酷くうなされていたものですから」

 それから彼はそう言った。アンナの頭はぼんやりとしていて、それになかなか応えられなかった。やがて全て夢だったと悟ると、ようやくこう口を開く。

 「いえ、平気です。ありがとうございます」

 アンナがそう応えても、セルフリッジの表情は心配そうなままだった。それから彼はこう言う。

 「酷く汗をかいていますよ。こんなに寒いのに」

 そして、布を彼女に差し出した。彼女はその布で身体を拭く。確かに、彼女の身体は汗で濡れていた。そう意識すると、彼女は自分が凍えているのを自覚する。そして、小さな子供の頃に、いつもこんな感じで震えていた事を思い出す。それからセルフリッジは、彼女の肩に触れるとこう言った。

 「とても身体が冷えています。多分、汗をかいた所為でしょう。ただでさえ身体が弱っているのに、これでは病気になってしまいます。体力も回復しません」

 それから少しの間の後で、彼はこう続ける。

 「どうか僕のベッドで、一緒に寝てください。あなたを少しでも温めたいのです。誓って変な真似はしません。僕もヘトヘトに疲れているので、そんな元気はありません」

 そのセルフリッジの訴えに対し、アンナはほぼ反射的に頷いていた。温まりたかった。少しでも。

 それから彼女は、その言葉通り、セルフリッジのベッドの中へと入った。確かに一人で寝るよりは随分と温かい。ベッドの中で距離を取っていても彼の温もりは確実に彼女に伝わって来た。しかしそれでも闇は無言の闇のまま。彼女に安心を与えはしない。人間達に対する恐怖は、彼女の脳裏にこびりついたまま離れなかった。彼女は自らの身体を抱え込むと、小さく丸くなるようにして固くなった。

 “もしも、わたしが闇の森の魔女だと知られたら……”

 その様子を、セルフリッジは悲しそうに見つめる。そして言った。

 「どうか、怖がらないでください。何があっても、僕があなたを護りますから」

 普段のアンナなら、そんな言葉を素直に受け入れたりはしなかったかもしれない。しかしその時は、少しでも頼れる存在に縋りたいという思いが強かった所為か、その彼の言葉を疑わなかった。心細い。この人は、本当にわたしを心配してくれている。そして事実、セルフリッジは心から彼女を心配していた。彼は思う。……この人は、今までに、きっとよほど酷い目に遭ったのだろう。

 「はい」

 そう言うと、アンナは彼の身体に身を寄せた。彼の体温をより強く感じる。そしてそれで自分が温められるのを認めた。

 安心する……。

 温められて、彼女はそう思った。いつ以来だろう? こんな風に、誰かに身体を温めてもらうのは。

 いつの間にか、アンナは眠っていた。幼い子供の頃を思い出しながら。


 アンナ・アンリの一番古い記憶は、とても薄く黒い服を着て、街中を裸足で歩いているというものだった。冬。何もない。捨て子だったのか、親が死んだのか、とにかく、アンナは独りきりで街を歩いていた。もしかしたら親は、戦争で殺されたのかもしれない。

 寒さに震えていた彼女を救ったのは(少なくとも彼女はそれを救いだと思っていた)、人さらいだった。戦乱の世で、誰にも孤児を引き取るような余裕はない。自分達が生き続けるだけで精いっぱいだったのだ。その人さらいは彼女を大きな袋の中に入れると、そのまま自分達の住み処にまで連れて行った。

 その袋の中は温かった。幼いアンナの身体は小さかったから、それほど窮屈にも感じなかった。不思議と、彼女はその時、その人さらいを警戒しなかったのだ。それまでもさんざん酷い目に遭い、人を警戒する習慣は身に付いていたにも拘らず。

 もしかしたら、人さらいは何かしらの魔法を彼女に使っていたのかもしれない。それで彼女から警戒心を奪っていた。さらい易いようにする為に。充分に考えられる話ではあったが確証はない。今となっては、確かめようもない事だ。どうであるにせよ、アンナはそれを切っ掛けにその人さらいに依存した。

 人さらいの住み処には、他にも仲間の人間やさらわれてきた子供達がいた。どうやらその人さらいは、グループで組織だった活動をしていたようなのだ。それぞれに役割があり、アンナが懐いた人さらいは、魔法の能力を持ち、それで皆の治療を行っていた。

 住み処に連れ去れて直ぐに、アンナは風邪を引き、高熱を出した。もちろんその治療をしたのは、アンナが懐いた人さらいである。彼は商品である子供達の病気を治す役割も担っていたのだ。彼女は彼の本名を知らず、ただ“おじさん”とだけ呼んだ。

 おじさんの使う魔法を見よう見真似で覚えて、アンナが魔法を使ったのは、彼女の病気が治って直ぐの事だった。早くから、彼女はその驚くべき才能を発揮していたのだ。そしてその事により、彼女の処遇は変わった。魔法が使えるとなれば商品価値は上がる。魔法をもっと教え、医療需要のある村にでも売れば相当に高い値がつく。直ぐに売ってしまうのはもったいない。そう、人さらいのグループから思われたのだ。ただし、彼女はそれを知らなかったのだが。

 彼女はおじさんから魔法を教わりながら、他の子の治療を行った。治療をすると、彼女は子供達から感謝をされよく懐かれた。彼女も子供達に愛情を感じた。だが、しばらくするとその子供達は、売られていってしまう。初めの頃は、その別れを彼女は悲しんでいたがやがては慣れていった。そしてその過程で彼女は仄かな不安を抱いた。自分も同じようにいつかは売られれるのかもしれないと考えたのだ。彼女はその不安を“魔法を使える自分は他の子とは違う”と、思い込むことでなんとか拭っていた。おじさんと別れる事はない、いつまでも一緒だと。もっとも、それは単なる願望だったのだが。

 ある程度まで、魔法による医療能力を伸ばすと、アンナはある村に売られる事になった。彼女はその時、人さらいのおじさんに「別れたくない売らないで欲しい」と懇願したが、その願いは聞き入れられなかった。彼女は無情にもその村に売られてしまったのだ。おじさんは、別れの日に姿を見せなかった。おじさんが、アンナに対して愛情を感じていたかどうかは最後まで分からなかった。

 アンナが売られたその村には特異な事情があった。その村は、魔法使いに対する偏見がとても強かったのだ。恐怖の対象であり、同時に蔑視の対象でもあった。しかし、それでも医療技術は欲しい。だからこそ、比較的安全だと思える子供の魔法使いをその村は買ったのだ。アンナはその村の共有物となり、魔法により治療を行う日々を過ごすようになった。

 村人達から、彼女は感謝される事もあったが、それでも蔑まれていた。同世代の子供達からは苛められたし、魔法使い嫌いの大人達からは、暴力を振るわれたり罵られて傷つけられたりもした。もちろん何度も泣いた。幼い彼女は、自分の立場を敏感に感じ取ると、魔法の技術を伸ばそうと努力をした。自分の存在価値が魔法にある事を分かっていたのだ。もっと色々と村人を助けられるようになれば、自分は苛められないはずだ。そう彼女は考えていた。それはある程度はその通りだった。魔法の技術が上がると彼女に対して羨望の眼差しを向ける者も現れたし、畏怖の対象にもなっていった。が、同時にそれは彼女への反発をも強めてしまったのだった。もっとも、それはある程度は彼女にも分かっていたのだが。それでもそれ以外の手段を彼女は知らなかったのだ。

 人々の反発は、彼女が医療以外の魔法も身に付けると加速度的に強くなっていった。密かに魔法書を外から手に入れると、彼女は少しずつそこに書かている内容を身に付けていったのだ。調理や暖房の為に火は貴重だったから、火を発生させる魔法を身に付け、洗濯物を乾かしたり風車を回す為に風の魔法も手に入れ、農業の為に水の魔法も使えるようにした。驚くべき魔法の才能と言えるかもしれない。それが問題だったのは、それらのいずれもが、戦闘にも応用が可能だった点だ。彼女を危険視した一部の村人達は、ある日、彼女を殺す事に決めたのだった。医療が欲しいのなら、また子供の魔法使いを買えば良い。こいつはもう用済みだ。そう思われたのだ。

 それは、或いは罪悪感の裏返しだったのかもしれない。一部の村人達は、虐待に対するアンナからの報復を恐れていたのだ。

 夜遅くに、彼女は起こされた。気付くと窓の外から自分を呼ぶ声がする。「アンナ、早く逃げな」。その声は、アンナが起きるのを確認するとそう訴えた。それは、アンナにいつも親切にしてくれていた近所に住む人の好いおばさんだった。

 「連中が、あんたを殺そうとここへ向かっている。早くしないと、あんたは殺されちまうよ」

 その言葉に彼女は驚愕した。今日の昼間、水を畑に通して、彼女は村人達から深く感謝されたばかりだったからだ。少しずつ、自分への蔑視は解消されているものと、彼女は信じて疑っていなかった。声は続ける。

 「この村を離れれば、魔法使いを温かく受け入れてくれる場所もたくさんある。そこまで逃げて、仕合せに暮らすんだ。大丈夫、あんたは良い子だから、きっと上手くやれるはずだよ」

 その言葉を受けても、彼女はまだその現実を上手く受け入れられなかった。そんなはずはない、と思いたい……。だが、そう悩んで躊躇していると、そのおばさんの口調は突然に激しくなった。

 「早く! 手遅れになるよ!」

 そう急き立てられて、アンナは分厚い上着を身にまとい、簡単な身支度を整えると直ぐに家を出た。「ここで、お別れだ」と、彼女が出てくるとおばさんは言ったが、彼女にはその気はなかった。取り敢えず今は逃げて、誤解だと分かったら戻ってくればいい。そう思っていたのである。だが、戸惑いながら夜道を進んでいく最中で、その考えが甘いものである事を彼女は知った。

 ある程度進んで振り返った時、いくつもの松明の灯りが自分の家を取り囲んでいるのが見え、その光で黒く浮かび上がるシルエットになった人々が、皆、それぞれ武器を手にしているのが分かったからだ。

 信じられなかった。

 彼女はその光景に涙を流す。

 嘘だ、と何度か心の中で連呼した。あなた達の為に、あんなに努力したのに、どうして、なんでそのわたしを殺そうとするんだ?

 しばらく放心していると、「家の中にいないぞ! 逃げたんだ!」という声が響いた。

 ヒィ

 彼女はその声に小さく悲鳴を上げると、殺される、と呟いて森を目指した。森の中ならば木々に紛れて逃げ切れるのではないか、と考えたからだ。

 「絶対に逃がすな! 逃がせば必ず、この村に災いが及ぶぞ!」

 そう、村人の誰かが叫んだのが聞こえてきた。アンナは走る。しかし、その頃の彼女は大きくなってきているとは言ってもまだ子供だった。そんなに速くは走れない。直ぐに追いつかれてしまう。

 やがて、「こっちだ! 足跡があったぞ! あそこにいる!」という声が響く。足音が直ぐ近くにまで迫って来た。暗い闇夜の森に、凶悪な足音が木魂する。そこで空気を切る何かの音が聞こえた。弓矢。闇の中の彼女に向けて凶暴なそれが放たれたのだ。

 幼いアンナは近くに降り注ぐ矢に凍りついた。木々に当たってお蔭で、辛うじて彼女には命中しなかったが、それは間違いなく彼女を殺そうとして放たれたものだった。深い恐怖と悲しみで彼女は泣いた。

 どうして? どうして?

 お願いだから、殺さないで。何でもするから……。

 しかし、弓による攻撃になったお蔭で、彼女を追う足は遅くなった。自分達自身の矢に当たる事を恐れて、深くは踏み込んで来ない。それで彼女は森の奥にまで進む事ができた。とは言っても、弓矢が定期的に彼女の周りに降り注いでいたのだが。

 そして。

 そのうちに彼女の肩に矢の一本が刺さってしまった。それで体制を崩すと、今度は太ももに矢が命中する。

 「ギャアァァァ!」

 彼女は堪らずに絶叫した。森の中に響くその絶叫は、当然、彼女を追っていた者達にも聞かれる。

 「こっちだ! 矢が当たったぞ!」

 闇の中から、そんな声が聞こえた。それは歓喜の声のように思えた。どうして、人を殺そうとするのにそんな感情が生まれるのか、アンナには分からなかった。痛みに嗚咽を漏らしながら涙を流し、その残忍な人の感性の醜さに震えていた。怖い。人が。

 足音が近づいて来るのが分かった。

 殺される……

 激痛で、もう一歩も彼女は動けなかった。何とか木の影に身を隠そうとしたが、恐らくは無駄に終わるだろう。だが、足音がいよいよ彼女の直ぐ傍で聞こえる段になって異変が起きたのだった。

 濃い霧が、生温かい風と共に突然に吹き込み、辺りを取り囲む。それで、視界はほぼ塞がれて月すら見えない。森の中は、濃い霧に包まれてしまった。アンナを殺そうとしていた者達も当然、視界を失った。松明の灯りも霧の水分にやられて弱くなっている。

 何が起こったの?

 戸惑うアンナの耳にこんな声が聞こえてきた。

 『私の領域で、好きに暴れようなんざ、いい度胸してるじゃないか。村人ども!』

 その声に、追手達はざわついた。そして、こんな声が上がる。

 「やばい! 森の魔女だ!」

 その声に応えるように、また声が響いた。

 『殺されたくなかったら、さっさと帰りな!』

 続いて、「駄目だ、逃げろ!」と声がする。その後で、追手達の足音が霧の中に一斉に響き、遠ざかっていくのが分かった。もう森の中に追手達の気配はない。アンナも逃げたかったが、足の怪我とそれに伴うあまりの激痛の所為で、身動きする事すらもできなかった。そして、そこに誰かの気配が。

 静かな足音。

 聞いた事があった。村の近くの森の中に、近頃、邪悪な魔女が住み着いたと。人々を捕え魔法の薬の材料にしてしまう、とも噂されていた。

 「子供か」

 近くまで来ると、その誰かはそう呟いた。それからこう言う。

 「ほぅ、魔力がある。魔法も、使えるのか? ちょうど助手が欲しかったところだ。一緒に来い」

 言い終えると、その魔女は手をかざし、アンナに刺さっていた弓矢を朽ちさせると、瞬く間に傷を癒してしまった。とてつもなく強力な魔法使いである事は、アンナにも直ぐに分かった。

 ――それが、森の魔女、ログナとアンナの初めての出会いだった。彼女はアンナの師で、アンナは婆様と彼女を呼んだ。そして、彼女は闇の森の魔術システムを創り出した張本人でもあった。アンナは彼女の下で、魔女となっていったのだ。

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