11.セルフリッジとベヒモス対策
アンナがセピア達を全滅させてから数日後。オリバー・セルフリッジは出世をし、特別に権限を与えられ、“特別ロスト対策長”という訳の分からない肩書になった。“長”と言っても、もちろん部下はアンナ・アンリただ一人だ。
それから、危険な魔獣を狩る任務や、禁じられた地の解放など、数多くの任務をアンナの助けを借りて彼はこなしていき、一躍、注目を集めた。そしてその行動によって、彼は自分の目的に向かって着々と進んでもいた。水面下で進めていた彼の計画が、ようやく芽を出そうとしていたのだ。
セルフリッジという男。
彼は、ある地方の裕福な家庭の末っ子として生まれ育った。他の兄弟とは歳の離れていた彼は、家では孤独な少年だった。彼が主に遊んでいたのは、使用人の子共や、他の貧乏な家庭の子供達。ただし、彼らは裕福なセルフリッジに対し、一歩引いた態度を執っていた。
それで、彼の心にはある種の拭い去れない孤立感と劣等感が棲み着く事になる。その彼の友に対する憧憬と、自分が裕福な立場である事への罪悪感は、彼の性格に複雑な影響を与えた。そしてある年の冬、その地方に疫病が流行する。彼の家庭は優遇され、一人の死者も出さなかったが、彼の友人達は半数ほどがその病にかかり、そして命を落とした者も中にはいた。
彼はその時から、友人達と会話をしていない。完全に避けられるようになったのだ。そして彼は、自分の境遇を呪った。地元の他の人間達を救おうとしなかった、自分の家を恥ずかしく思った。そして、こう考えるようになっていったのだ。
“権力。富。なぜ、人間にはこんなにも差が生まれてしまうのだろう?”
権力は、この人間社会を苦しめているように彼には思えた。本当に孤独になった彼は、それから様々な勉強に打ち込むようになる。知識を得るのは楽しかった。本の世界。小説などもたくさん読んだ。そして、ある時にこんな記述を見つけたのだ。権力の集中は、正のフィードバックで説明できる。権力を握った者は、自分達に有利なルールを敷く。それで、更に権力が強くなると、また更に有利なルールが敷ける。その繰り返しで、権力は一部に集中をしてしまう。
彼はそれを知るとこう思った。
なら、それを防ぐ仕組みは作れないだろうか? そうすれば、権力は一部には集中しなくなる。
ただの理想としての平等論では、それが実現できないのは明らかだった。そんな国はたくさんあったが、直ぐに酷く不平等な社会へと堕していってしまった。権力の集中を防ぐ為の仕組みがなかったからだ。そして彼はあるシステムを思い付いたのだった…
――そうか、これなら!
……その時、珍しく闇の森の魔女、アンナ・アンリは、セルフリッジに対して怒っていた。場所は彼らの自宅。セルフリッジはそれに困った笑顔を見せる。
「アンナさん。話を聞いてください」
アンナはこう返す。
「嫌です! セルフリッジさん、嘘ばっかりじゃないですか! 危険な任務を任せられたら断るって言ってたのに!」
これまで、アンナはほぼ何でもセルフリッジの言葉には従ってきた。ここまで反抗したのは、初めての事である。
「ベヒモス対策何て、いくら何でも危険過ぎます! 問題外です!」
そう。彼は今、ベヒモス対策を命じられていたのだ。グロニア局長は、セルフリッジに対して嫌がらせのように、危険な任務を与え続けていたが、彼がアンナの助けを借りて、それらを悉く達成してしまうので、遂には毎年死傷者を出す、最も危険とされるベヒモス対策を彼に命じたのだった。
ベヒモス。それは、百年前の戦争のさ中に産み出されたこの大陸最大の怪物。異界そのものでもあり、何者をも寄せ付けない。毒気と呪いにまみれている。ベヒモスが存在する辺り一帯は、立ち入り禁止にされ、その実態を把握している者すら一人もいない。
毎年、このベヒモス対策チームが編成されるが、結局、何をも得られず、死傷者だけを多数出し、ベヒモスがいる地に張られた対魔法障壁を厚くするだけで、その任務が終わってしまう。ただし、ベヒモス対策の予算だけはかなりつくので、官僚達の良い金の元になっているのだが。それが、今年はセルフリッジ一人に任されたのだった。もちろん、任務を与えられる可能性のあった人間はセルフリッジに感謝した。これで、自分は助かったと。
「あれが、どれだけ危険なものか、セルフリッジさんは知らないから、平気で引き受けられるんです!
セルフリッジさんが、ベヒモス対策を辞退すると言うまで、わたしは口をききません!」
相変わらずにアンナは怒っていた。セルフリッジは、そんな彼女に困っていたが、やがて思い付くとこう言う。
「なら、仕方ありません。僕一人で、あの怪物を調べ始めますか……」
そして、ベヒモスに関する資料を開けようとする。その行動にアンナは慌てた。
「ちょっ……、駄目です! ベヒモスの資料を見るなんて! 姿を思い浮かべるだけで呪われてしまうのに!」
しかし、セルフリッジは資料を開けてしまう。それだけでも、呪いが発生するはずだった。が、そこで彼は白い紙を取り出した。途端に、その白い紙は黒く塗り潰される。
アンナは彼を救おうと近寄っていたが、それで動きを止める。白い紙が呪いを吸収したのを理解したからだ。少しだけ、驚いた顔をしている彼女に向け、彼はこう言った。
「実は、前に一度、ベヒモスを調べて酷い目に遭ってましてね。一応、これくらいの対策方法は知っているのです」
にっこりと笑う。
「その経験もあって、僕はベヒモス対策を引き受けたのですよ。アンナさんさえいれば、勝算があるかもしれないから」
それを聞くと、アンナは不思議そうな顔を見せた。
「あの… いくら、わたしでも、ベヒモスをどうこうなんてできませんよ? 魔力の規模が違い過ぎますから…」
「そうですね。アンナさんだけでは、不可能でしょう。ですが、現代には進化した“科学”というものがあってですね。その手を借りれば可能だと、少なくとも僕はそう考えているのですよ」
「科学… ですか?」
アンナの不思議そうな顔に、セルフリッジは「はい」と、そう答えた。
特殊科学技術局…… の、科学研究所。
アンナとセルフリッジはその場を歩いていた。レンガ造りで、一見は科学とは無縁そう思えるが、所々に普通ではあまり見ない器具が設置されている。
吹抜けで、地下になっている場所へ階段が設置されてある。大きな木の机が置かれ、その片隅では白衣を着た男が、何かの書き物に取り組んでいた。研究所のこの一室は、ほとんど彼一人の為にあてがわれている。二人は階段を下り、その白衣の男に向かって進んだ。白衣の男の前にまで来ると、セルフリッジはこう話しかける。
「やぁ、チニック君。精が出ますね」
それを聞くと、チニックはビクッと反応をする。そして振り返ると、やや大袈裟に、驚いた顔でこう言う。
「やや、これは、ボクの恩人の、セルフリッジの旦那じゃないか。一体、今日は、どうしたんだい?」
その反応に、セルフリッジは「はは」と少し困った声を上げながらこう返す。
「一応、訪ねる事は手紙で伝えたはずなのですが、届きませんでしたか?」
「何? それは失礼。そういえば、確かに受け取っていた気がするよ。どこだっけ? どこだっけ?」
アンナが机の上を見ると、そこにはセルフリッジからの手紙が投げられたような状態で放っておかれてあった。しかも、何かのメモ代わりにされているようだ。
「いえ、チニック君。良いですよ。用件は口頭で伝えますから。お時間は大丈夫ですか?」
「うん。今は、時間がない。と言いたいところだが、恩人である旦那からの頼みじゃ断れないな。なんだい?」
そう訊かれると、セルフリッジはこう答えた。
「実は超大容量魔力保存装置を貸していただきたいのです。それと、遠隔操作型魔術人形も」
それを聞くと、チニックは驚いた顔をする。
「あれらを貸す? だって、あれを貸すには部長クラスの権限が必要だよ…」
と、そう言ってから彼は気付く。
「おー、おー、そういえばそうか。旦那はなんかえらくなっちゃったのだったな…」
それを受けるとセルフリッジは笑った。そして、「ええ、こういうメリットがなければ、出世なんかしませんでしたが」と返した。チニックは「旦那らしいね」と、少し嬉しそうにそう言う。
“なんだか仲が良いな、この二人……”
と、アンナはそれを見て思う。
「ところで、何を研究していたのですか?」
それからセルフリッジがそう尋ねると、チニックは「旦那が採取して来てくれた、“闇の森”の研究だよ」と、そう言った。
「凄いね。このシステムは… 正のフィードバックで異世界を絶妙にコントロールし、その中の魔物達を魔術がより進化する為の“生き残り”のロジックに放り込む… 遺伝的アルゴリズムの活用」
それから、彼はアンナを見るとこう言った。
「是非とも、その子も研究したいところだが… ま、やめておこう。ボクはシャイだからな! 女の子の研究は無理だ」
彼は頬を赤らめる。その後で、再びセルフリッジを見ると言った。
「悪いものが“生き残る”システムでは、悪いものが成長する。これ、まるで、この人間社会のようじゃないか。ねぇ、旦那、そう思うだろう? もっとも、闇の森の魔物達に善悪の概念なんてないだろうが」
それを聞いて、セルフリッジは少しだけ頬を引きつらせた。チニックは、実は唯一、彼の行動の目的に気付いているかもしれない人間なのだ。そのヒントになるものを、たくさん彼はチニックから譲ってもらっている。
「もしも、不正をやった方が有利になるような社会システムだったら、不正をやる人間が生き残って権力を得る。正のフィードバックで、その人間に権力が集中すれば、あっという間に不幸な社会の出来上がり… 悪徳政治家、悪徳官僚が幅を効かせるって訳だ。
怖い話だね。ま、ボクは興味がないが。ただ、少なくともそういったものに対抗しようとする人間は好きだし、応援もするよ」
それを聞くと、セルフリッジは小さな声で「ありがとうございます」と、お礼を言った。それからチニックは笑顔を浮かべると、「ん」と言って席を立つ。そして戸棚から、鍵を取り出すと、それをクルクルと指で回しながら歩き始めた。それに、セルフリッジとアンナの二人は付いて行く。
「そういえば、旦那は今、ベヒモス対策の任務に就いているのだったか… まさか、今日、ここでそれをやる気かい?」
「いえ、アンナさんにあれを見せた上で、準備をしてやります。だから、もう一度、ここを訪ねますよ」
「ま、そうだろうね。そうかそうか…」
そのまま三人は、倉庫まで向かった。チニックがそれを開けると、中には戸棚があり、そこに丸いボールが置いてあった。セルフリッジはそのボールを持つと、アンナにそれを手渡した。
「アンナさん。感知してみてください。それが、どんな物か分かりますか?」
そう言われて、アンナはそのボールを感知し始める。そして、「え」と小さく呟いた。
「これ、凄く広い…」そして、その後でそう言う。セルフリッジはこう返した。
「はい。それは、物凄く膨大な魔力の保持が可能な代物です。街を一つか二つ、楽に破壊できるくらいの魔力を、そこに保持できる。
どうです、アンナさん。現代の魔術、いえ、科学も捨てたものではないでしょう?」
アンナはそれに大きく頷いた。
「はい。感心しました」
それを聞くと、セルフリッジはアンナにこう尋ねた。
「アンナさんは、相手の魔力を吸収して利用する事ができますね。それは、あのベヒモスでも同じでしょう?」
「はい。できると思います」
「では、その魔力を利用して、あのベヒモスをどこか異世界に送ってやる事もできるはずですよね。例え、倒せなくても。しかし、アンナさんにはそれはできない。何故なら、ベヒモスの魔力があまりに膨大で、アンナさんの許容量を遥かに超えるからです」
「はい。その通りです」
「では、これを利用すれば、その不足分の許容量をカバーできるとは思いませんか?」
それを聞くと、アンナは目を輝かせた。
「なるほど! 確かにその通りかもしれません! わたしが、あそこに瞬間移動して、それで魔力を吸収して異世界へベヒモスを送る魔法を使えば……」
ところが、そう喜ぶアンナに向けてセルフリッジはやや不機嫌な目を向けたのだった。そして、「アンナさん……」と、そう口を開く。
「はい?」と、アンナは不思議そうに返す。それからセルフリッジはこう続けた。
「違います。僕があなたを、そんな危険な目に遭わせる選択をするはずがないでしょう? 例え、そう思ったとしても、危険だから嫌だと拒否してください!」
アンナはセルフリッジのその言葉に、驚いた表情を見せた。が、そのタイミングで、チニックが二人に声をかける。
「おーい、旦那。乳繰り合ってないで、こちに来てくれよ」
「なんですか、それは…」と、言いながらチニックの方にセルフリッジ達は移動する。チニックの処に行くと、そこには奇妙な人形が壁に繋がれていた。
「これが、“遠隔操作型魔術人形”。略して遠魔人形だよ。これを、そこのお嬢ちゃんに操ってもらうつもりなのだろう?旦那は」
「その通りです」
その二人のやり取りを聞くと、アンナは不思議そうな顔を見せた。
「この魔術人形に意識を飛ばしてください。誰かを感知する時の感じで」
そうセルフリッジが言うので、彼女はそれを試してみた。そして、驚く。まるで自分の身体のように人形が操作できたのだ。
「その人形を通して、魔術を使う事も可能だよ。しかも、かなーり離れていても。ここからベヒモスのいる場所までだって、充分な適応範囲だ」
それからチニックがそう言った。そこまで聞けば、アンナにもセルフリッジの計画が理解できた。つまり、この人形をベヒモスの処まで飛ばして、遠隔操作でベヒモスの魔力を用いて魔法を使い、ベヒモスを異世界に送ってしまおうという事だろう。
「今日はこれを借りて家に戻ります。しばらく練習してもらって、実行可能そうだったら、実施しましょう」
セルフリッジは、アンナが納得しただろう様子を受けるとそう言った。アンナは「分かりました」と、それに頷く。
家に帰ると、アンナは早速、その日から練習をし始めた。魔術人形は思ったよりも簡単に操作が可能で、慣れてくると、彼女は試しにその魔術人形をベヒモスのいる地域にまで魔法で送ってみた。ベヒモスが、これにどんな反応をするのか、確かめてみたかったのだ。ところが、そこで思いも寄らぬ反応が。ベヒモスからの強い誘惑を感じたのだ。しかし、しばらくして彼女はそうではない事に気付く。ベヒモスは何もしていない。彼女が一方的にベヒモスに惹かれていたのだ。怖くなった彼女は、直ぐに人形を戻って来させた。
その原因には、心当たりがあった。ベヒモスは、闇の森と同じ原理で生成されている。“異世界”だ。そしてその異世界には、正のフィードバックにより一部に集中する性質がある。それで自分は、ベヒモスに惹かれてしまったのかもしれない。それから彼女は、彼女の師のログナを思い出した。ログナは、ベヒモスの開発メンバーの一人なのだ。
“婆様… どうしよう?”
そして、そう彼女が恐怖している時に、セルフリッジが話しかけた。
「アンナさん。調子はどうですか?」
そう訊かれて、アンナは怖いから止めたいと言いかけた。ベヒモスには近づきたくない。普段の彼なら、敏感にアンナの異変に気付いていたかもしれない。しかし、その時は珍しく彼はそれに気付かなかった。彼の意識は、別の事に占領されていたのだ。
「実は……、このベヒモス対策を行うに際して、アンナさんにもう一つお願いがあるのです。もしも、これが成功したなら、僕の目的は達成できるかもしれない……」
そして、そんな風に真剣な顔で頼んでくるセルフリッジの言葉を拒否する事は、闇の森の魔女、アンナ・アンリにはできなかったのだった。