10.激怒した闇の森の魔女
「今がチャンスだ。時間がないぞ」
と、そう言ったのは魔法騎士のシー・ゼットだった。彼は情報屋ベルゼブブからの情報を受け取っていたのだ。闇の森の魔女が、精神的なショックを受けて街中をゆっくりと歩いている。仕掛けるのなら、今がチャンスだと。
「なんか、都合良すぎない?」と、そこで疑わしそうに言ったのは、緊縛魔法の使い手、キャサリン・レッドだった。
「なんで、このタイミングで、ワタシ達全員がフリーになるのよ?」
シーはそれにこう返す。
「気持ちは分かるが、今は時間がない。集中してくれ。闇の森の魔女を捕まえるのは、お前の魔法が一番適しているからな」
「ま、やるけどさ」
渋々ながら、キャサリンはそう返す。今、彼ら二人は街中にいた。遠方からは、呪いを得意とする、イー・ゴリアンが彼らを補佐している。魔法により動かずして街を探索して、闇の森の魔女を見つけ出し、その場所を彼らに伝える為だ。既に彼らは闇の森の魔女を捉えていた。因みに、怪力の二ー・ウロンと、千人殺しの、セピア・ローニーは今回は役に立たないと判断されて、他で待機している。
闇の森の魔女は、確かにベルゼブブからの情報通りに落ち込んでいるように見えた。人々が往来する街路を、フラフラと進んでいる。明らかに様子がおかしい。それを確認すると、シーが言う。
「準備は良いか、お前ら?」
「オッケー」とキャサリンが答え、「いつもでいいヨ」とイーが言う。それから、シーは3、2、1とカウントダウンすると、そのタイミングで走り出した。高速で、しかもほぼ音を発てずに走っている。もちろん、闇の森の魔女、アンナ・アンリに向かって。そこで、イーが魔法を使った。それで、街路を歩いている人間達の意識が、一瞬だけ閉ざされる。次にキャサリンが緊縛魔法を使った。アンナの身体の周りに煙のような何かが現れたかと思うと、それは直ぐに縄に変わって彼女を縛った。これで、アンナは身動きが取れないはずだ。そのアンナを、彼女に向かって走って来たシーが捕えると、そのまま抱きかかえて、路地裏へと消えてしまった。
人々の意識が元に戻る頃には、闇の森の魔女の姿は、街路から消えていた。
「大成功!」
と、気を良くしたキャサリンが浮かれた声を上げながら、地下室の扉を開けた。中にはセピアが待機していた。
「何の問題もなく捕まえられたわよ、セピア。あなたの言う、恐ろしい“闇の森の魔女様”とやらを」
それから彼女は嫌味たっぷりに、セピアに向けてそう言った。それに、セピアは目を丸くする。後ろには、大きな袋を抱えたウロンの姿があった。彼は今回、単なる荷物持ちとして参加している。続いて、シーとイーが入って来る。全員が地下室に入り終えると、ウロンはその袋を乱暴に床に降ろした。
「二ー・ウロン。その袋には、女性が入っているんだから、もっと丁重に扱えよ」
半ばふざけた感じで、シーがそう言う。その袋の中に、アンナが入っているのだ。その忠告を無視して、ウロンは乱暴な動作で袋から縛られているアンナを取り出した。
「無駄よ。そいつは、むしろ女の子が入ってるからこそ、乱暴に扱っているんだから」
と、呆れた声でキャサリンが言う。もちろん、シーはそれを分かっていた。
「う・噂通り、可愛い、な」
取り出したアンナを見ながら顔を赤くし、ウロンはそう言う。彼女は虚ろな瞳で、ただじっとしていた。それを聞くと、セピア以外の全員が肩を竦める。
「お前の好きにしろよ、ウロン。どうせ、後で拷問にかけて、魔力を奪い返すんだから。ついでに手下にでもするか」
少しの間の後に、シーがそう言った。ウロンは無言のまま、アンナを抱えると、倉庫に置いてある大きな荷の裏へと消えていく。セピアはそれを聞いて慌てる。
「おい、お前ら、分かっているのか? 今、アタシ達は、とんでもない爆弾を抱えているようなもんなんだぞ?」
それに、キャサリンがこう返した。
「あんた、まだそんな事を言っているの? 例え、あの女が爆弾だとしたって、心配ないって。ワタシの緊縛魔法で、身体も魔法も封じられいるんだから」
イーがそれに続けた。
「オレも呪いをかけてるヨ。あの女は今、目も見えなければ、耳も聞こえない。盲目無音の恐怖の真っ只中さ。放っておいたら、気が狂うかもな」
そのイーの言葉が終わると、シーがセピアの肩に手を置いた。
「ま、そんな訳だ。ウロンが遊び飽きたら、拷問した上で、お前の魔力を取り戻して、まずは尋問だ。抵抗するようなら、更に拷問。手も足も出ず、何にも見えない聞こえない状況で、ウロンに襲われている時点で、既に拷問かもしれないがな」
それにセピアは微かに震えながら、「どうなっても知らないぞ」と言った。
その頃、オリバー・セルフリッジは、アンナが中々、帰ってこない事に不安を抱いて一人、家にいた。彼女の身を案じていたのだ。彼女が、人事部部長のセルビア・クリムソンと会うと聞いた時点で、彼は既に不安に思っていた。彼が特殊科学技術局で最も警戒している相手は、局長のグロニアではなく、実はセルビアだったのだ。セルビアは、セルフリッジが意図的に業績を低く見せている点を見抜いている。彼はそれに気付いていた。勘が鋭く、隙がない。そして、どんな手段に出るかも分からない。
「まさか、何か罠に嵌められたのじゃ…」
そう、彼は独り言を漏らした。
真っ当な手段で、アンナを嵌める事などできないだろう。しかし、セルビアは裏で何をやっているか分からない。そこまで考えてセルフリッジは、千人殺しの魔人達が、アンナを敵視している点を思い出した。そして、考える。
“まさか、連中を使って……”
不安に駆られた彼は、家を出た。彼の感知能力の範囲外に今アンナはいたが、近づけば直ぐに分かる。アンナが前に突き止めた、千人殺しの魔人達が集会場としている地下室を目指し、彼は走り出していた。
地下室。大きな荷の裏。異常な怪力の持ち主、二ー・ウロンが、虚ろな表情のアンナの目の前にいた。彼は女好きで、しかも女が嫌がるのを見るのが好きという困った性癖の持ち主でもあった。それでいて照れ屋な彼は、アンナを見ながら少し躊躇していたが、やがては彼女を押し倒した。
アンナは縛られている。ウロンにその束縛を解くことはできないが、それでも充分に身体を触れはする。しかし、いよいよ彼がアンナの服の中に手を入れようとする段になって、彼女が何かをボソボソと言い始めたのだった。
「あ? 何、言ってるんだ、お前」
そう言って、ウロンはアンナの口元の近くに耳をやってみる。すると、彼女はこう呟いていた。
「セルフリッジさん以外には触らせない… セルフリッジさん以外には触らせない…」
――次の瞬間、ウロンの意識はなくなった。
「妙にウロンの奴、静かじゃないか?」
ウロンが荷の裏に消えてから、少しの時間が経った後で、セピアがそう言った。彼女は闇の森の魔女の存在を恐れている。だから、それが不安になったのだ。
「心配しょーう」と、それにキャサリンは気にする様子も見せずにそう答えたが、シーは「確かにな、あいつにしては珍しい」と、そう返した。
「躊躇っているのじゃないの? あいつ、サディストの癖に照れ屋だから。そのうち、耳障りな音を発て始めるでしょう」
それを聞くと、キャサリンはそう応えた。
「ま、そんなに時間はないんだし、もうちょっと経ったら急かしましょう」
そう彼女が言い終えたタイミングで、イーが言った。
「この地下室に、感知能力を使いながら向かっている男がいるネ。もちろん、対象は闇の森の魔女」
それから、彼は水瓶の中の水面に、何かを映し出した。
「こいつは、オリバー・セルフリッジか。なるほど、調査能力だけは優れているって噂は本当だったか。囚われの姫君を救い出す、王子様のご登場ネ」
それを聞くとキャサリンが言った。
「この場所を知られているって事?」
シーがそれに続ける。
「だとすると、厄介だな。殺しておくか?
単独行動って事は、まだ局にはばらしてないのだろうし」
イーもそれに頷いた。
「ここには魔法による障壁を張ってあって普通は分からないが、この男にはばれそうだヨ。オレの趣味だと、カエルにでも変えてやる方が好きなんだが、呪いが解けた時に面倒になるしネ。殺すか…」
その会話に、セピアが慌てる。
「おいおい、ちょっと待て。それは止めておけ! 爆弾のスイッチを入れるようなもんだぞ?
オリバー・セルフリッジの事になると、闇の森の魔女は豹変するんだ!」
その言葉を聞くと、キャサリンは「あ、そうか」とそう言った。そして、杖を振る。途端に、セピアの身体は魔法で縛られた。身動きが取れなくなる。
「何しやがる?」
と、セピアはその不意打ちの攻撃に抗議した。
「何って。あんた、セルフリッジを守るよう契約を結ばされているのでしょう? だから、暴れないように動きを封じてあげたのよ。あんたは、接近戦の戦闘力だけは、バカ高いしね。それを止めて欲しかったんじゃないの?」
それを聞くと、セピアは叫ぶ。
「馬鹿! 違う! 闇の森の魔女が、暴れ出すから止めろと忠告したんだ!」
それを聞くと、キャサリンは「はぁ」と軽くため息を漏らす。それから、「イー。やっちゃって」と、そう言った。セピアの忠告を聞く気は皆無のようだ。イーはそれを聞くと、細く長い針を取り出す。そしてそれを水瓶の中に映っているセルフリッジに向けてから、「苦しめずに、殺してやるヨー」と言った。が、その瞬間だった。セルフリッジに針を刺そうとした、イーの動きが止まったのだ。
「ギ… ガ…」
そして、苦悶の表情で声を漏らす。
「どうした?」
異変に気付いたシーがそう訊くと、彼はこう答えた。
「だ、… が、心臓を…… 掴まれ…」
彼は心臓を掴まれていたのだ。それで、身体全体が痙攣し、上手く呼吸ができなくなっている。シー達がよく目を凝らしてみると、薄い影のようなものが、イーの背後にいるのが分かった。手を、その背中に差し入れているようだ。そのまま、イーは口から泡を吹いてその場に倒れてしまう。
「闇の森の魔女…」
シーがそう呟いた。幽体だったが、そのシルエットは間違いなくアンナのものだった。
「何やってる? ウロン!」
その後でシーはそう叫ぶと、風を起こして魔女を隠している大きな荷を左右に除けた。視界が開かれ、彼らの目に飛び込んできたのは、二ー・ウロンの石になった姿だった。近くにはまだ縛られたままのアンナの姿がある。彼女は黙って立ち尽くしていた。
『何で動かない?』
突然、怯えながらその様子を見守るセピアの頭の中にそんな声が響いた。しかも、目の前には大きく光る二つの怒れる眼球が、彼女を睨んでいる。
『セルフリッジさんを守るという、契約だったでしょう?』
闇の森の魔女が、セピアを脅す。セピアは声を出してそれに返した。
「だから、アタシは、止めようとしただろうが!」
セピアが突然発した声に微かに反応すると、キャサリンはこう言った。
「ふん。なかなかじゃない。だけど、束縛はまだ完全には解かれてない。だから、幽体を飛ばしたのでしょう? その縄は、ウロンの怪力でも切れないわよ!」
しかし、そう彼女が言い終えると、アンナはまるで服でも脱ぐかのように、簡単に縄を解いてしまった。縄は、床にだらしなく落とされる。キャサリンは目を見開いて、「嘘…」と呟いた。
「ハッ! セピアが恐れるだけはあったって事か。闇の森の魔女!」
次にシーがそう叫ぶと、彼は火球を創り出して、それをアンナに向けて放つ。しかし、その火球は、何の手応えもなく、アンナに届く前に小さくなって消えてしまった。
「ふん」
それを見ると、シーは言う。
「なるほど。魔法攻撃は、全て無効にするってか。しかし、直接攻撃ならどうだ?!」
それからシーは剣を構えて、アンナに向けて高速で突進していった。ところが、その瞬間に彼は異変を感じる。進めば進むほど、視界が広くなっていくように感じたのだ。彼以外の全てが大きくなっていくような。彼が何が起こったかに気付いた時は既に遅かった。彼はすっかりと小さな小人になっていたからだ。アンナの巨大な足が、彼のすぐ近くに降ろされる。彼は逃げようとしたが、そのままお椀を被せられて、捕えられてしまった。その上に、アンナは魔法でコーディングし石膏のように固めてしまう。
その光景を見たキャサリンは驚愕し、固まった。それから、近くにあった椅子を掴むとアンナに向かって投げつける。しかし、椅子は見る間に小さくなり見えなくなる。まるで何処かに消えてしまったかのように思えた。
「まさか… あんたに近付いた物は、全て小さくなるって事?」
抵抗ができる、たった一人になってしまったキャサリンが言う。
「ふざけないでよ。そんな魔法、見た事も聞いた事もないわよ!」
それから後ずさりをした。恐怖で震えている。正体不明。何をどうすれば、攻略できるのかも分からない。もしかしたら、アンナの方から近づいても、身体は小さくなってしまうのかもしれない。
「セルフリッジさんを殺そうとして、無事で済むなんて思わないでよ… 二度と逆らえないくらいの目に遭わせてあげる…」
それからアンナはそう言った。彼女は静かに激怒していたのだ。
「畜生! あんたに近付いた物が全て小さくなるって言うのなら、対巨人用の魔法を使うまでの話よ!
断っておくけど、ワタシのこの緊縛魔法に、“大きさ”は関係ないからね!」
そうキャサリンは叫ぶと、アンナの足元に向けて魔法を使った。無数のツタが、アンナを覆い身動きできなくする… そのはずだった……。しかし、それは起こらない。“どうして?”とキャサリンが思った次の瞬間、彼女自身がツタに覆われていた。身動きが取れなくなる。
“ちょっ… これ、ワタシの魔法?”
魔法がそのまま返された事実に、キャサリンは愕然とする。もう彼女は何もできない。そしてこれで、彼女達は全滅した事になる。
それから、アンナは地下室の中央辺りにまで歩を進めると、こう言った。
「……さて。セルフリッジさんを殺そうとしたあなた達に、どんな罰を与えようかしらね?
そうだ… 不死身にした上で首だけにして、永遠に苦しめ続けるなんて、どうかしら? ね、どう思う? セピアさん…」
呼ばれた事で、セピアは「ヒッ」と声を上げると、冷や汗を垂らしながらこう返した。
「まぁ、待て。こいつらだって、もう充分に反省していると思うんだ。そこまでやる必要はないと思う。ほら、アタシみたいに契約魔法を使うとか…」
それを聞くと、アンナはニッコリと笑った。
「あら? 何を自分だけは違うみたいに言っているの? あなたも同罪よ。わたしは今、怒ってるの。とてもとても……」
言い終えると、アンナは杖で床をコンコンコンと叩き始めた。
「どう、苦しめて、やろう、かな…」
“これ… 終わったんじゃないか? もしかして…… アタシ達”
それを受け、セピアは涙目になってそう思う。しかし、そのタイミングで異変が起こった。地下室の扉を誰かが叩いたのだ。
「アンナさん! 無事ですか? この中にいるのは分かっています!」
それは、セルフリッジの声だった。そしてそれを聞くなり、アンナの顔が明るくなる。
「セルフリッジさん!」
そして、地下室の扉まで向かうと、難なくそれを開けてしまった。普通に取っ手を持って引いただけだ。この扉には鍵がかけられてあったし、魔法で防がれてもいたのだが。もっとも、それを見てももうセピアは全く驚かなかった。これくらい、できて当然。
アンナは扉を開けると、そこに現れたセルフリッジを迷わず抱きしめた。彼もアンナを抱きしめる。
「良かった、無事でしたか…」
それから、そう彼は言った。アンナはそれに、「はい。セルフリッジさんこそ、大丈夫でしたか?」と尋ねる。その言葉の意味が分からず、彼は「はい、大丈夫ですけど?」と不思議そうに返した。それから、彼は地下室の中を覗き込みながら、こう言う。
「この中に、もしかして?」
それを聞くとアンナは少し照れながら、「はい。あの、さらわれたものですから、少し、全滅させちゃいました…」とそう答える。それから、セルフリッジは少し困ったような複雑な表情でこう言った。
「もしかして、殺しちゃいましたか?」
アンナは首を横に振りながら、こう答える。
「いえ、一人も死んでいないはずです」
「入っても?」
「問題ないです」
そう彼女から聞くと、抱きしめた手をほどき、セルフリッジは地下室に足を踏み入れた。そして、中の様子に愕然とする。
「これを、たった一人で…?」
気を失っていたり、石にされていたり、縛られていたり。厄介なロスト達が、一網打尽にされていたからだ。
「はい…」と、アンナは頬を赤らめながらそれに返す。
“……凄い”
と、それを聞いて、セルフリッジは思った。
“これだけの力を持っているのなら…”
それから、彼はアンナを見つめ、にっこりと笑うと、こう言った。
「彼らを解き放つ事はできますか?
彼らがいなくなると、騒ぎになってしまいますから…」
アンナはそれに「はい」と即答した。それから、セルフリッジはセピア達に向けてこう言う(と言っても、話を聞けるのはキャサリンとセピアだけだが)。
「聞いてください。僕らは、あなた達と敵対する気はありません。だから、あなた方から手を出さない限り、あなた方を攻撃する事もありません。それに、もしかしたら、僕が目的を達成すれば、あなた方の目的も達成できるかもしれない。どうか、僕らを邪魔をしないでください」
言い終えると、彼はアンナを見て頷き、こう言った。
「三時間後に解放で、お願いします。もちろん、ちょっとしたオマケつきで」
アンナはニッコリと笑うとまた「はい」と、そう応えた。
家に辿り着いた後、落ち着くと、セルフリッジは「どうして、大人しく捕まったのですか?」と、アンナに尋ねた。アンナは少し迷うと、逆にこう質問する。
「あの… わたしは、セルフリッジさんの迷惑になってはいませんか? わたしの所為で目立ってしまうし、危険な任務を任せられるかも…」
セルフリッジはその質問に驚く。目を少し大きくすると、“なるほど、クリムソンさんに何かを言われたか”と、そう思う。それから自然に微笑むと、彼は彼女にこう尋ねた。
「あの、アンナさん。抱きしめても良いですか?」
アンナはそれに少し戸惑ったが、もちろん「はい」と答えた。セルフリッジは彼女を抱きしめながら、「アンナさん。聞いてください」とそう言う。アンナはわずかに頷いた。
「まず、僕はもし危険な目に遭うようなら、尻尾を巻いて逃げるので安心してください。僕は腰抜けですから。それと、確かに僕は、これまでできるだけ目立たないよう努力してきました。そうする必要があったからです。ですが、最近になって、少し事情が変りました。だから、これからは戦略を変えていこうと思っています。そしてその為には、どうしてもアンナさんの力が必要なんです。もし、アンナさんが嫌でなければ、僕に協力してくれませんか?」
それだけを言い終えると、セルフリッジは少し間を作った。アンナはそれに、涙目になりながら頬を赤らめ、「はい」と声を出そうとしたが、それは声にはならない。代わりに、彼女は大きく頷いた。
「ありがとうございます」と、彼はそれに応える。それから、彼はアンナを放そうとしたが、今度はアンナの方から彼を抱きしめた。
「アンナさん?」
セルフリッジは不思議そうな声を上げる。
「わたしからも、一つ言う事があります」
それに答えるように、アンナはそう言った。
「今日、セルフリッジさんは、殺されるところでした… あの連中の呪いによって」
アンナは、偶には自分が主導権を握って、彼を叱らなければいけないと思っていたのだ。
「わたしが助けなければ、本当に死んでいたかも。お願いだから、そんな軽率な行動は慎んでください」
しかし、アンナがそう言うと、彼女にとって予想外の事態が。アンナを抱きしめる、セルフリッジの手が強くなったのだ。
「アンナさん。それ、本気で言ってますか?」
アンナはそれに震える。これ、セルフリッジさんが怒った時の抱きしめ方だ…
「あの…」
そう声を出そうとする彼女に、彼はこう言った。
「アンナさん。行動には、目的とコストという要因があります。もちろん、愚かな目的の為に命をかけるような行動は執ってはいけません。しかし、その目的が命をかけるに値するのなら、迷わず実行すべきです。
あの時、アンナさんが酷い目に遭っている可能性がありました。だから僕は必死になった。あなたを助ける目的の為に行動するのは、僕にとって充分に価値のある事なんです…
どうか、分かってください」
“どうしよう… 怒ってる…”
それを察するとアンナは震えた。
「ごめんなさい…」
アンナはただそう返した。それを聞くと、セルフリッジはにっこりと笑う。
「それに、僕はちゃんと呪い対策もしていたのですよ? 身代わりの護符を用意していました。僕の代わりに呪いを受け、その情報が本部に飛ぶというものです… でも、とにかく、助けてくれてありがとうございます」
そして、彼女をまた優しく抱きしめる。
「アンナさん。もう一つ、お願いがあります。僕に協力しくれると言っても、どうか自己犠牲は止めてください。僕が、あなたの身が危険になるようなお願いをしたら、その時はどうかそれを拒否してください。僕はあなたを犠牲にするのが、怖いんです。どうか、お願いします」
それを聞くと、アンナはゆっくりと頷いてから、彼の身体に顔を埋めた。
……一匹の蝿が、仕事中のセルビア・クリムソンの肩にとまった。それに気付いた者は一人もいない。もちろん、その蝿から彼女が情報を受け取っていた事も。
“まさか、あの連中が簡単に壊滅させられるとは……”
蝿から情報を受け取った彼女はそう思う。
“闇の森の魔女、これは、遊ぶ相手としては、少しリスキー過ぎるわね。それに、オリバー・セルフリッジの目的が何であれ、私が被害を受けなければそれで良いのだし…… 監視はするけど、手は出さないでおくか”
そう結論付けると、セルビアは仕事の続きをし始めた。
……大型の馬車の中。揺られながら、セピア・ローニーらロスト達は、そこで話し合いをしていた。もちろん、魔法により障壁を張って他にはばれないようにしながら。セピアが言う。
「ほら、どうだ、アタシの言う通りだっただろう? 闇の森の魔女には、手を出しちゃいけなかったんだよ」
その嬉しそうな声に、キャサリンが返す。
「なんで、あんたが勝ち誇っているのよ? そもそも、あんたが初めに手を出さなくちゃ、こんな事にはなっていなかったでしょうが!」
「ま、いずれにしろ…」と、ため息を漏らしながらシーが言う。
「これから、どうするかだな。何しろ、俺達が今まで溜めてきた魔力は全て、あの魔女に奪われた訳だし。ビルの十や、二十は軽く破壊できるくらいの量は溜まってたのに…」
その後で、ウロンが続ける。
「あの女、可愛かったなぁ…」
そして、そう言い終えると、彼の手は石化し始めた。「うぉ」とそれで声を漏らす。それを見て、キャサリンがため息を漏らした。
「はぁ… ウロン、学習しなさいよ。闇の森の魔女か、セルフリッジへの攻め方を考えるだけで、“あの時にかけられた魔法が再現する呪い”をかけられているんだから。一定時間で解けはするけどさ。
しかし、これじゃ、リベンジもまず不可能。呪いをかけられていないのは、セピアだけね。あんたがやりなさい」
「冗談じゃねぇ! アタシは契約魔法を結ばされているって言っただろう?」
「セルフリッジに対してだけでしょう?」
その後で、イーが口を開く。
「少し調べてみたけどサ。あの闇の森の魔女は、どうやら単に囚われていただけじゃないらしいヨ。闇の森の中で、常に無数の魔物達によって魔術を進化させ続けてきたらしい」
それにキャサリンがこう返す。
「つまり、百年前に封じられて、時が止まっていたワタシ達とは差があるって事ね」
「ま、何にせよ」と、そこでシーが言った。
「しばらくは、大人しくしておくしかないな。魔力を溜めてさ」
そして、最後にそう締めた。