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前世で討伐した魔王が可憐な女の子に転生して僕の幼馴染をやっている

作者: 崎浦和希
掲載日:2026/02/11

 この世界は、かつて一度滅んだ。


 きっかけとなったのは、当時代替わりしたばかりの年若き魔王。彼女の死が、魔族と人族、そして神族すべてを根絶やしにする大戦争を引き起こしたのだ。


 未曾有の事態は、世界がきれいさっぱり滅んだがゆえ何の記録にも残されず、今の世においてかつての出来事を知るものはいない。


 たったひとりを除いて。


 そのたったひとり、クリスは前世、魔王討伐を果たした勇者一行の魔術師だった。


 記憶がよみがえったのは、十になるやならぬやというような頃。そのとき、クリスは馬車に轢かれそうになった婚約者を助けようとし、勢い余って足を滑らせ、石畳にしたたか頭を打ちつけた。


「クリス!」


 その瞬間、クリスが声もなく気絶しそうになったのは、痛みのためでも、流れ込んだ記憶のためでもない。


 必死にクリスの名を呼ぶ世界一可憐な少女――前世で討伐した魔王が、涙目になってクリスの顔を覗き込んできたからだった。





◆・◆・◆・◆・◆





「クリス、おはよう」

「おはようフレデリカ」


 細く軽やかな金の髪をくるくると風に揺らし、やはり春のやさしい太陽のように笑う少女は、フレデリカ。


 信じがたいことに、なんと前世は魔族と魔物たちを統べた魔王。

 今世では幼馴染の侯爵令嬢である。もちろん、当の本人は己が魔王だったなどと、露とも思っていないだろう。

 前世の記憶は、クリスだけの秘密だ。


(今日も可愛い) 


 フレデリカの、短いジャケットに膝下丈のワンピースはともに黒、金のループに通されたミニスカーフは純白。魔法学校の制服を規則通りに身につけているだけなのだが、ほっそりした華奢な体に、あつらえたようによく似合う。


 今年十七になる彼女は入学して五年、とうに見慣れたというのにクリスはまぶしく彼女を眺め、次いで髪を飾るリボンに目を留めた。


「今日のリボンは、このあいだ買ったばかりのだね」

「そう! 憶えていてくれたのね」

「僕が選んだんじゃないか」


 背の半ばまで伸びた髪を半分すくって編み上げ、そこに結いつけられた鮮やかな緑のリボンは、フレデリカの緑の目とおそろいだ。


 記録にも残らない大昔、緑の目は魔物の目と恐れられた。

 けれど今では誰もそんなことはを思わないし、かつての偏見を知るクリスから見ても、フレデリカの目はとびきり美しい。

 朝のひかりが挿し込んで、緑色は明るい輝きを帯びていた。思わず惹き込まれそうになる。


「どうしたの、クリス?」

「……よく似合ってる」

「……大袈裟ね」


 クリスがしみじみ言うと、フレデリカははにかんで目をそらした。

 この可憐な少女の前世が魔王だなどと、肩書きばかりが仰々しくて、彼女を愛らしく思うたび切なくなる。

 今はもう、世界に魔物はいない。平穏な世で、フレデリカだけが過去を思い起こさせる。


「おいで、フレデリカ」


 フレデリカに手を差し出し、馬車の乗り降りをエスコートする。そっと乗せられる、細く折れそうな手が恐ろしいくらいだ。


 クリスとフレデリカはともに王立魔法学校の男子部と女子部に通っており、お屋敷が隣同士の婚約者だから、毎朝いっしょに登校していた。


 クリスが生まれた夜、『一年後、ひときわ月の輝く夜に生まれる娘が妻となれば、世は安泰』との予言を授かり、それに従ってフレデリカは生まれてすぐクリスとの結婚を決められた。だが、おとなたちの思惑はともかく、幼いころから仲は良い。


「もうすぐ春祭りね。お魚のかたちのアップルパイと、ラベンダーのビスケット、ローズケーキに……」


 馬車の窓から街のようすを眺めながら、フレデリカは鈴が弾むような声でお菓子の名を挙げていく。


 長い冬が明け、春を迎えた王都はいま花ざかりだ。色とりどりの花が街路樹や植え込み、ベランダの植木鉢などに咲き誇っている。


「お花は?」

「スミレの砂糖漬けを作るわ」


 そうじゃなくて、と言うのはやめた。


 春祭りといえば、街中に花があふれ、鮮やかで生気にあふれた様相を楽しむもの。あちらこちらでパーティが開かれて、少女たちはこぞってドレスに生花を飾る。

 ところが甘いものに目がないフレデリカといえば、色気より食い気と言わんばかりであった。


(それもかわいいんだけど……)


 いや、フレデリカのダンスの相手は決まっているのだから、むしろ着飾って相手探しをする必要はない。


「ドレスはどうするの?」

「それは、ひみつ。楽しみにしていて」


 フレデリカは悪戯に微笑んで、薄い花びらのような唇に細い人差し指を当てた。

 彼女に目を奪われながら、クリスは忙しく思考を巡らせる。


 春祭りのパーティーで、男性は女性に花を贈る。女性は贈られた花をドレスや髪に飾るならわしだ。


(ドレスの色がわからなくても、フレデリカにいっとう似合う花は……)


 可愛いフレデリカ。

 彼女への贈り物に、一切の妥協は許されない。

 世界でいちばん幸せでなければならないひとだから。







「♪」


 大通りで馬車を降りたフレデリカは、クリスの隣を弾むような足取りで歩きながら、ご機嫌な鼻歌を歌っていた。

 スカートがふわりと揺れ、小さな膝が見え隠れして、なんとなくどきりとする。

 可憐という言葉は、まさにフレデリカのためにあるようなものだ。


「あ、ツバメさん!」


 クリスの心境など知らないフレデリカの鈴のような声が、朝のさわやかな風にさらわれていった。


 校舎まで馬車で乗りつけたっていいのだけれど、朝の混雑で発生する下車の列、あれが少々鬱陶しい。それで、学校から少し離れたところで降りて、あとは歩いて登校しているのだ。

 いささか侯爵家のお嬢さまらしくない習慣かもしれないが、クリスはフレデリカと並んで歩く朝夕の時間が好きだった。


 不安なのは、女子部の校舎に入っていくフレデリカを見送ってから。


「じゃあまた、お昼に」

「ええ。またね、クリス」


 フレデリカは可愛らしく手を振ってクリスに背を向け、途中で合流した友人と楽しそうに喋りながら昇降口へ向かっていった。


 男子部と女子部は校舎がわかれており、異性の生徒は立ち入りを禁じられている。図書館や食堂などは共用なので完全に交流がないわけではなく、貴族の子女が多く通うこの学校では、そこが小さな社交場でもあった。

 クリスが心配しているのは、男子禁制、女子部の校舎内でのことである。


「おはよう、クリス」

「ああ、おはよう」


 フレデリカが見えなくなるまで見送っていたところ、クリスもまた、友人に肩を叩かれた。振り向くと、同じクラスの彼はクリスの視線の先を見やって、「今日もかわいいな、フレデリカ嬢」などとつぶやいている。


 フレデリカとクリスの婚約は周知のことなのに、その目に熱っぽさを見てとって、クリスはほんのかすかに眉を寄せた。けれど、さとられないようすぐに取り繕う。


「かわいいだろう。僕の自慢の婚約者だからね」

「は〜、ほんっと、うらやましいよ。あんだけ可愛いけりゃ、お前が目に入れても痛くないほど大事にするのもわかるな」

「まあね」


 君に何がわかる。

 内心でそう答えつつ、無難に微笑んでおく。


 級友の話はそこから彼自身の婚約者への不満と惚気へと移ってゆき、クリスはほどほどに適当を装いながら、話題がフレデリカへ戻らないよう、気をつけて相づちをうった。


(大事にするに決まっているだろう。フレデリカは、この世の誰より大切にされるべきひとなんだから)


 こうしている今も、女子部の校舎内で何か苦しんでいやしないかと心配になってしまう。王の名のもと整備されている学校内で何が起ころうかと冷静には考えるものの、フレデリカは優しすぎて、よく他人のトラブルを抱え込んでしまうのだ。


 昔――遥か昔からそうだった。

 だから悲劇が起きた。


(もう二度と、あんなことを起こしてはならない)


 クリスは自分の役目を心得ている。

 フレデリカを幸せにして、犠牲を出さないこと。

 きっと予言はそのために、フレデリカの婚約者として、あらかじめクリスを指名したのだろう。





◆・◆・◆・◆・◆





 ところで、幼馴染はもうひとりいる。

 昼休みにクリスが食堂へ行き、生徒の波をかき分けていると、彼女の声が聞こえてきた。


「だからそういうのやめなさいって、フレデリカ」


 どうやら、クリスの懸念通りのことが起こっているらしい。声を頼りにクリスがテーブルまでたどり着くと、思った通りの光景があった。


「でも、エリー……」

「だめよ」


 うつむきぎみのフレデリカが、やや上目遣いにおずおずと黒髪の少女を見上げている。凛々しい顔立ちの黒髪の少女は難しい顔をして首を振った。


「そんな顔をしてもだめ」

「だって、可哀想よ」

「また何かあったの?」


 椅子を引きながら声をかける。ふたりが同時に顔を上げ、フレデリカは縋るような目を、エリー――エリザベスは同意を求めるような目をそれぞれ向けてきた。

 クリスは心労を予想し、内心でため息をついた。


「クラスの子のおうちの人が呪われてしまったと言うのよ。それでフレデリカを頼ってきたの」

「また……。それで、フレデリカは何て言ったの?」

「いつも通り。ふたつ返事で引き受けようとしたから、遮ってここに連れてきたところ」

「だって……」


 フレデリカは気まずそうにうつむいた。それでも引かないのが彼女で、だからこそクリスとエリザベスの頭痛の種でもある。


 このエリザベスがまた前世からの縁をもち、かつては勇者と呼ばれていた。記憶のあるそぶりはないが、今世でも剣術が得意だ。そして魔法はいまいち。

 エリザベスの父親は、男兄弟の中で男勝りに育ってしまったと嘆くけれど、前世を知るクリスにしてみればさもありなんである。


「そうやって何でも引き受けるから、みんなに色々頼まれてしまうのでしょう。本当に呪いなら、魔術師を頼ればいいのよ」


 前世から頼もしかった勇者は、今世でもしっかり者であった。


「大事にしたくないって……」

「だからと言って、あなたが犠牲になる必要もないの」


 ぴしゃりとエリザベスが言う。もっともである。フレデリカの目をじっと覗き込んでさとすエリザベスに、フレデリカは、すすす、と視線をそらした。

 エリザベスがお手上げとばかりに肩をすくめてクリスを見る。


「フレデリカ、自分を大切にしなくてはだめだよ」

「犠牲なんて、そんなたいそうなことじゃないわ。困っているお友だちを助けてあげたいの」

「お友だちって、別に親しくもないクラスメイトでしょ。どうしてフレデリカがそこまでしてあげるのよ」

「……わたしなら、たぶんどうにかできるから……」


 少し引っ込み思案なところのあるフレデリカは、気が引けるようすでそう口にした。

 言っていることは間違いではなく、フレデリカは魔法学校の生徒でありながら、すでに国家魔術師、それも上級魔術師たちに引けを取らないほどの実力を持つ。成績は学年で一、二位を争い、開校以来の天才と言われている。


「フレデリカ、あなたはちょっとお人好しがすぎるのよ。クリスを見てご覧なさいよ、頼まれごとなんてしないじゃない」


 エリザベスはクリスをぞんざいに顎で指し示した。この幼馴染は、こちらも貴族令嬢のくせに仕草がやや乱雑だ。


「クリスは人当たりはいいけど、面倒事を頼まれてもちゃんと断るから、みんな気軽に声をかけないのよ」


 成績の一、二位をフレデリカと争っているのが、ほかならぬクリスであった。

 魔力量の多さもさることながら、何よりそれを操る技能が年齢のわりに熟達しすぎているふたりを、周囲は『生まれる前から魔術を知っていたかのよう』と評する。

 その通りではある。ただ、記憶がないフレデリカには、『天性の才能』という言葉が当てはまるだろう。


「そうやって僕が断った面倒事を、フレデリカが拾ってしまうのも問題だけれどね」

「うぅ……」


 フレデリカはたいそうばつが悪そうに身を縮めたが、クリスとエリザベスにとっては、あまりに見慣れた光景だった。

 いったい、似たようなやり取りを何度繰り返したことだろう。

 そしてそのすべてで、クリスはフレデリカに負けている。


「……ごめんなさい。でも、できることがあるのに、放っておけないの」


 フレデリカはずるい。困りきった顔で上目遣いに見つめられて、どうして抗えようか。これが計算ならばクリスとしても跳ね除けられるけれど、彼女は毎回真剣に謝るし、真剣に反抗するのだ。


「……それで、どういう依頼だったの」


 クリスはため息を押し殺して尋ねた。


「クリス」


 エリザベスが非難の目を向けてくるのに力なく首を振って返す。


 無駄だし、無理。

 それに、ここで強固に反対して、ひとりで行動されたらそれこそ大事である。


 エリザベスもそれはわかっているのか、わざとらしくため息をつきつつ、降参を示すように脱力して背もたれにもたれかかった。


「あのね――」


 クリスたちのようすを見たフレデリカが、安堵して頬をゆるめ、口をひらく。その微笑みがまた可憐なのである。

 胸にわき起こるのは、しおれた花に水をあげたら、翌日にふたたび元気になっていたときの気持ちに近い。いつものことながら、クリスは閉口するしかなかった。








「クラスメイトの……あの子爵家のご令嬢、その小さな妹さんのことなの」


 フレデリカは声をひそめて言った。自然と三人で額を寄せ合うようになる。


 フレデリカの挙げた子爵家は、クリスの家と付き合いが浅い。フレデリカやエリザベスも同じはずだ。ただ、女子部のクラスメイトの家とあって、フレデリカとエリザベスはその妹とやらを認識しているようだった。


「あそこの妹さんって、たしか初等科の?」

「そう。お馬さんが好きで、その日も遠乗りに出かけたそうなの」


 フレデリカの話をまとめるとこうだ。


 遠乗りに出かけた先で、その少女は見慣れない洞窟を発見する。好奇心に駆られ中へ入ってみると、洞窟は明らかに人工的な石造りの構造物で、おそらくは滅亡以前の――超古代の遺跡だった。


 途中まで進んだところでお供の使用人に強く止められたことから、少女は引き返して帰宅。しかしながらその日以降、日に日に衰弱し、今では寝たきりで意識も朦朧としているという。


「このあいだの嵐で、埋もれていた入口が崩れたのか」


 クリスはそのあたりの地理を思い出しながら言う。

 超古代の遺跡は、数少ない世界滅亡前の史料だ。いまだ謎に包まれている滅亡の原因を探るため、既存のものなら徹底的な調査がおこなわれていて、危険な場所に誤って侵入することなどない。


「遺跡について、国への報告は?」

「していないみたいなの。妹さんは、ご両親に怒られると思って言えなかったみたい」

「だったらなおさら、さっさと調査に入ってもらうべきでしょう」


 エリザベスが言うのに、首を横に振ったのはクリスだった。


「国の調査になってしまえば、遺跡を保護して慎重に進められる。妹君が衰弱しているなら、待っていられない」

「クリスはフレデリカを危険な目に遭わせるっていうの?」

「……僕たちが反対しても、フレデリカは行くだろう」


 フレデリカを見やると、目を伏せてクリスたちの視線を避けている。

 見た目や普段の言動の可憐さに反し、案外お転婆な少女であった。それこそ、ひとりで家を抜け出しての遠乗りくらいはやらかすだろう。


「……結局こうなるのね……」

「わかってただろ」


 肩を落とすエリザベスに、クリスは無慈悲なひと言を贈った。







 放課後になり、フレデリカとふたりで下校する馬車の中で、フレデリカはやけに静かだった。


「どうしたの、フレデリカ」


 水を向けてやると、彼女は膝に落としていた視線を上げた。けれど目は合わない。


「……ごめんなさい。わたし、クリスとエリーに甘えてばかりで……」

「いまさら?」


 クリスはふふ、と笑って、そっとフレデリカの手を取った。恐ろしいほど華奢な手を支えるように包み、爪の先にほんの小さなキスをする。


「いいんだよ、フレデリカ。君のお人好しがすぎるところはどうかと思うけれど、ひとりで抱え込まれるより、僕にもわけてほしい」

「クリス……」


 ようやくフレデリカと視線が合う。弱く、どこか気後れしたように微笑む彼女がいじらしくて、思わず抱きしめてしまいたくなるけれど、衝動を押し殺して微笑み返した。


「大丈夫。フレデリカが僕を頼りにしてくれるのが嬉しいよ」

「……うん……」


 フレデリカは今度こそ安心したように頬をゆるめ、そっとクリスの肩に頭を預けてきた。小さなつむじにキスしたい気持ちを抑え、頬を寄せると、フレデリカがゆっくりと息を吐く気配がする。


 前世でもこんなふうに甘えられたなら、結末は違っていたかもしれない。


「ありがとう、クリス」


 フレデリカに前世の記憶はない。

 もしあれば、愛らしく笑いかけてくれることも、こうして甘えてくれることもなかっただろう。


(……あんな記憶は、無くていいから……どうか一生、思い出さないで)


 クリスはひそかな祈りを胸に秘め、やがてフレデリカがささやかな寝息を立て始めるのを見守っていた。





◆・◆・◆・◆・◆





 件の遺跡は、王都から馬車で二時間ほどの小高い丘の向こうにある。

 クリスとフレデリカ、それにエリザベスは、ピクニックを装って休日に出向いた。


 家族にはピクニックだと言っている手前、フレデリカやエリザベスは、動きやすいがいつもの制服よりおしゃれなドレスを身につけている。フレデリカはシフォン地の白い霞のようなドレスで、軽やかながら儚げな印象が、可憐な彼女によく似合っていた。思わず、抱きしめて確かにそこにいるのを感じたくなるほどに。

 人前で堂々とやるには、午前の光は似つかわしくなく、どうにか我慢したけれど。


 一方でエリザベスは、ドレスには似つかわしくない剣を持ち込んでいる。

 これは彼女の常で、今さら誰も何も言わない。


「それで、これがローズマリーのクッキー、こっちがストロベリージャムのケーキ、これがオレンジのマフィン」


 馬車の中で大きなバスケットを開けて、楽しげにお手製お菓子紹介をするフレデリカは、いかにも無邪気だった。エリザベスが、『何しに来たかわかってるの?』と言いたげに眉を上げたが、声に出すのはやめたらしい。


「今日のもおいしそうね」


 やや投げやりながら、優しさの残る声音で褒め、エリザベスは「それで」とクリスに向き直る。


「きのう、フレデリカと例の妹さんのお見舞いに行ってきたのよ」

「うん。どうだった?」


 見舞いという名の調査であるが、異性のクリスは同行できなかった。その後、家では人目もあって聞けなかった話を、エリザベスはようやく切り出した。


「妹さん本人からは話を聞けなかったの。意識がなくて」

「魔力が……ずっとどこかへ流れ出していたの」


 エリザベスの説明を補うフレデリカは、悲痛に顔を曇らせた。


(そんな顔をしないで、ずっと無邪気に笑っていてほしいのに)


 フレデリカがつらそうだと、クリスの胸もひりひりと痛む。その向かいで、エリザベスは淡々と説明を続けた。


「だからこれは妹さんと一緒にいたメイドの話なんだけど、遺跡に入ってしばらくは何ともなかったらしいの。妹さんも馬鹿ではなくて、むやみに何かに触ったりはしなかった。ただ、遺跡内は暗くてあまりよく見えなかったと」

「何か喋ったりは?」


 うっかり口に出した言葉が、遺跡内に仕掛けられていた何かに触れたかもしれない。そう思って問うも、エリザベスは首を横に振った。


「ふたりの会話は、メイドが『アニーさま、帰りましょう』と言ったのに、妹さんが『アンナよ』と答えただけ。そのあとすぐに遺跡を出てる」


 その少女は最近、幼少期の愛称で呼ばれることを拒むようになっていたという。ありがちな話よ、と挟んだエリザベスが軽く息をつき、少し顔を顰める。


「たったそれだけなのよ。で、帰っている途中から妹さんは異様な疲れを訴えて、だんだん衰弱していったわけ。それがちょうど一週間前」

「メイドは、遺跡のことをご両親には言ってないの?」

「報告はしてる、ただご両親も、公の調査が入ってしまえば娘は助からないと思っているみたい」

「どうして、そんなに国や国王さまに信用がないのかしら……」


 フレデリカが悲しそうにつぶやいた。そのさまが前世と重なって、クリスははっと息を呑み、気づかれないよう静かに吐き出す。


「そんなものだよ。国王陛下は良い方だけど、国がどう動くかはまた別の話だ。それほど、超古代の遺跡は貴重なんだ」


 クリスはフレデリカを慰めるために声音を和らげた。


 世界がなぜ滅んだのかを知ることは、同じあやまちを避けることにも繋がる。クリスとしては、人々には早く真相にたどり着いてもらいたい。

 魔王を討ち、戦いは確かに終わった。疲弊した人族と魔族とを、神族が支配しようと企むまでは。

 結局、誰かを犠牲にしたって、争いは消えないのだ。


「ともかく、用心して調査しよう」


 過去への遣る瀬無さを記憶の底へ押し戻し、気を取り直して少女たちに告げた。







 遺跡の入口は、丘向こう側の斜面の木立に隠されていた。付近に土の崩れた跡がみられたから、やはり先の嵐で埋もれていた部分が露出したらしい。


「この感じ、もしかしてこの丘そのものが遺跡なのかもしれないね」


 クリスは自分たちが越えてきたゆるやかな斜面をさし示した。

 小ぶりな丘で、十五分もあれば登って反対側に降りることができる。斜面もゆるやかだから、フレデリカやエリザベスのようなドレスとブーツの出で立ちでも、さほど苦労はない。


「そんなに広いの?」


 エリザベスが丘を見渡しながら問う。


「どういう構造物かによるけれど……」


 クリスは遠い昔の記憶をひそかに探った。

 大きな神殿なら、この丘ほどの規模のものも存在していた。超古代では今よりも魔術が発達しており、神殿は祈りの場であるとともに、魔術の儀式をおこなう場でもあった。


「……もしかして……」


 記憶を辿るほどに、いやな予感がつのる。

 人々が祈りとともに捧げるのは、生贄だ。


「クリス?」


 顔を顰めてしまったからか、フレデリカが心配そうに覗き込んでくる。安心させるために微笑んでみたけれど、頬が強張っていたかもしれない。


 何も知らないでいてほしい。

 過去のことも、犠牲も、今のフレデリカには、もう関係がない。


「先へ進もうか」


 フレデリカを置いていきたいところだが、絶対に納得しないだろう。

 入口からすぐに光は届かなくなった。天井が高い。どうやら廊下のようで、闇に沈む先に続いている。

 いつもなら魔法で明かりを灯すところ、魔力に反応される可能性を危ぶみ、ランタンに火をつけた。


「フレデリカ、手を」


 足元が暗いことを言い訳に、フレデリカの手を取る。こうすれば、少なくとも勝手に動き回られることはない。


 しばらくして、やたらひらけた場所に出た。ランタンで照らしても全容は見えず、先に何があるのかまったくわからない。


「さすがに、この暗さじゃ……」


 エリザベスの声が反響する。それで広さや空間に想像がついた。

 石造りで、やはり天井が高いようだ。壁を照らすと湾曲していることから、おそらくは円形。


「何かのホール?」

「待って、エリザベス」


 クリスとフレデリカの横を抜けて先へ進もうとしたエリザベスを止め、クリスはゆっくりと足元を照らした。風化した石がむき出しの床を一歩ずつ、にじるように進みながら慎重に観察する。

 やがて弧を描くラインがランタンの炎に照らし出されたとき、クリスは思わず息を詰め、それから意識して深く吐いた。


「これは、魔法陣?」


 フレデリカが近寄ろうとするのを手を引いて制し、ランタンを掲げる。


「だろうね」


 見えてきたのは、石に描かれているのではなく、刻み込まれた複雑な文様だった。


「もしも妹さんがここまで入ったなら、この魔法陣を踏んだんだろう」


 言いながら、クリスは異変がないか確かめながら少量ずつ魔力を練り上げ、いくつかの光球を作り出した。魔術を使っても、ひとまずは何事も起こらない。ほっとしつつ、光を天井に散らす。


 ぱっと照らし出された空間は、思った通りの円形の広間だ。


「ここは……」


 驚いたようすで辺りを見回すフレデリカの手をしっかりと握り、クリスは複雑な気持ちで彼女を見下ろしていた。

 これは、人族が作った神殿の一部である。神殿といっても、魔族に対抗するための儀式の場だ。


「……神殿、だ」


 クリスはぽつりと言った。

 超古代の代物について、知りすぎていてはおかしいと思われてしまう。それでも、何とかみなに知らせなければならない。


「そうみたいね」


 意外にも、エリザベスがクリスに同意して隣に並び、足元の魔法陣を眺めた。

 円形で、直径を歩いたら十数歩はかかりそうな、大きな魔法陣である。


「わかるの?」


 クリスが問うと、エリザベスは肩をすくめる。


「こういう雰囲気があれば、わかるでしょ。ここは、人が祈りを捧げた場所よ」

「…………」


 クリスは応えず、辺りを見回した。


 祈り。

 それがときに残酷な生贄を必要としたこと、ここがそういう場であること。


 今のクリスには関係がないのに、胸が生々しく痛む。

 クリスが過去に引かれて呆けていると、ふいにフレデリカが足を踏み出そうとした。クリスは驚いて我に返り、慌てて彼女の手を強く引く。


「何をしているの、フレデリカ」

「……この魔法陣、わかる気がするの」


 フレデリカは、何かの覚悟を決めたような静かな眼差しで、魔法陣を見下ろしていた。


「……何が」


 動悸がするのを息を止めてなだめながら、クリスは慎重に尋ねる。フレデリカはクリスを振り返り、少し困ったような顔をした。


「これは、人から魔力を吸い上げて、コアに貯めるための魔法陣。きっと超古代に、魔力の少ない人間が、何か大きなことをするために貯めていたんだわ」


 魔族を殺すためだ。


 クリスは思い出したくもない光景が脳裏をよぎってつい顔をしかめた。それを見たフレデリカが、クリスが想像に胸を痛めたと思ったのか、同情するように痛ましげに目を伏せる。


「名前が重要だったの。ここに入って名を名乗ることが、生贄の条件だったのよ」


 フレデリカの声は少し震えていた。それは繋いだ手も同じで、クリスは彼女を引き寄せて肩を支える。


「自分から魔力を捧げたってことね」


 エリザベスが魔法陣のふちをたどるように数歩踏み出し、じっと足元を注視する。彼女は無謀なことはしないから、クリスはフレデリカに視線を戻した。


「そうするほどの憎しみが、昔、ここに……」

「フレデリカ、あまり考えすぎないで。昔のことだ」

「……わかっているの。わかっているのよ」


 フレデリカの震えは大きくなり、支えていなければ今にも崩れ落ちそうに見える。まさか記憶が戻るのではないかと戦慄した。


「今は違う世界だ。魔族も人族もいない。二度と争いあって滅びることのないように、ふたつは同じになった」


 フレデリカを抱きかかえ、顔を寄せてじっくり言い聞かせると、彼女は小さくうなずいて息を吐いた。


「もう、昔みたいなことは起こらないのよね?」

「そのために、国はこういうわずかに遺る遺跡を研究しているんだ」


 クリス自身は、研究者になるつもりはない。フレデリカをなるべくそういうものに関わらせたくないからだ。

 世界への裏切りのようで罪悪感がこみ上げるときもあるけれど、何よりフレデリカを守りたかった。

 そのフレデリカが、ふいに前に出ようとした。


「何をしているの、フレデリカ」


 慌てて彼女を抱え直すと、フレデリカは懇願するようにクリスを見上げた。


「妹さんを助けなきゃ。わたしが代わりにコアへ魔力を満たすわ」

「馬鹿なことを言わない」

「でも、このままでは妹さんは魔力を吸いつくされて命を落としてしまう。わたしなら、魔力が枯渇しない……」

「わからないだろう、そんな危険なこと……」

「でも、クリス」

「フレデリカが犠牲になる必要はない!」


 声が、悲鳴のようにこだました。


 フレデリカがびくりと震えて大きく目を見開き、異常を察したエリザベスが、魔法陣の向こうから駆け戻ってくる。


「どうしたの、フレデリカ、クリス?」


 かつての絶望がよみがえり、クリスは唇が震えて声が出せなかった。黙り込むクリスと説明を求めるエリザベスを交互に見て、フレデリカがうつむきながら小さく答えた。


「コアを満たすために、わたしが儀式をおこなうって……」

「絶対ダメ」


 みなまで言わせず、エリザベスは厳しく、きっぱりと言った。

 その冷静な声を聞いて、クリスも大きく息をつき、落ち着きを取り戻す。


「……大きな声を出してごめん、フレデリカ。でも、エリザベスの言う通りだよ」

「フレデリカの悪い癖だわ」


 しゅんと小さくなるフレデリカを、このときは慰めてあげることなどできなかった。小さくなってもうなずかない彼女が、諦めていないのは明白だ。


「このままじゃ、あの子が……」


 フレデリカが未練がましく魔法陣を見下ろすので、クリスは彼女を抱く腕の力を強くしながら、腹をくくった。


「装置を破壊しよう」


 ぱっと顔を上げたフレデリカを微笑みでなだめ、ふたたび魔法陣へと目をやる。

 クリスの脳裏には遥か昔の光景がよみがえり、目の前の現実に重なって見える。


 昔、あれを必要な犠牲だったと言う者もいた。自分たちが滅びゆくのは、その後に欲をかいた者たちのせいであって、長く続いた戦いを終わらせるためには、誰かが生贄にならなければならなかった、と。

 かつてのクリスは、ただ黙るしかなかった。


「でも、貴重な遺跡なんでしょう。過去のあやまちを、繰り返さないための……」

「そう言って理由をつけて、フレデリカが犠牲になることを、僕は肯定しない」


 フレデリカの目をみつめて、静かに告げた。


「私なんかのために、クリスが罪を犯すなんて……ただの、予言が決めた婚約者なのよ。クリスがそこまで……」


 フレデリカの言いように、ちりりとクリスの神経が逆立つ。

 大切にしてきたつもりなのに、フレデリカは義務だと思っていたわけだ。

 それが表情に出ていたのか、フレデリカが言葉を途切れさせ、怯えた顔をした。クリスははっとして一度目をつむり、息を吐き出して冷静になる。


「フレデリカは大事な幼馴染だよ。予言は関係ない」


 優しく言い聞かせるように言ったのに、フレデリカは傷ついたように瞳を潤ませた。それを隠そうとするかのようにうつむき、弱々しくつぶやく。


「だけど……わたしのせいで、また同じあやまちが起こったら……?」


 妥当な懸念だろう。けれど、どうにも上滑りして聞こえた。フレデリカの本心が、そこにはない気がしてしまう。

 だが今は、追及している場合ではない。


「別の方法があるなら、それを選ぶ。人が犯すあやまちを止めるすべは、この遺跡だけじゃない」


 フレデリカのためなら、自分の記憶をすべて掘り返して差し出してもいい。それが必要になるときが来るとしたら、人がまた滅びに瀕しているということなのだろう。

 そうなる前に、できることもあるはずだ。


「フレデリカ、君はたったひとりでこの世界を救おうとしなくていい」


 フレデリカがはっと息を呑んで目をみはる。クリスに向けられた緑の目は、やはり潤んではいたが、今度はひかりを宿していた。


 かつて言えなかったことを、いま清算しているわけではない。

 クリスが心を差し向けているのは、遠い昔に失った魔王ではなく、いまここにいるフレデリカだ。


 ひたむきな想いが伝わったのか、フレデリカは目を伏せたあと、そっとクリスの胸に頬をすり寄せた。


「怖かったね、フレデリカ」


 フレデリカをいたわって優しく髪を撫でる。


(この記憶はありがたく使わせてもらう――おかげで、かつての『君』ができなかったことも、僕ならできる)


 自身の奥底に眠るいにしえの魔術師へとひそかに語りかけながら、素直に身を任せてくれるフレデリカを、いっそう大事に抱きしめる。


 クリスは最後に魔王を討伐した勇者一行の魔術師だった。

 しかしながらあるときから諜報として魔王城に潜入し、魔王の側近くに仕えていた。


(戦いを終わらせなければならないことも、魔王を犠牲にしてはならないことも、わかっていたのに何もできなかった)


 もう、あんな無力感はたくさんだ。


「大丈夫だから……。僕が、どうにかしてみせる」


 信じてほしい。

 その気持ちを切実に声音に乗せて、フレデリカの耳もとにささやきかけた。


 フレデリカが自分を犠牲にしなければならないなどと、二度と考えることのないように。







「問題はどうやって装置を破壊するかよ。コアはたぶん、アレね」


 クリスがフレデリカを抱きしめているあいだに魔法陣を精査していたエリザベスが、頃合いをみて口をひらく。クリスとフレデリカは、彼女の指さす天井を見上げた。

 魔法陣のちょうど真上に、半透明の大きな球体が天井から吊り下げられている。


 魔法陣の半分ほどはある大きさにもかかわらず、言われるまで気づかないほど存在感がない。魔族から隠すために、魔力の気配を漏らさない仕掛けがされているのだろう。 


「超古代からの魔法が今も生きているなんてね」

「今よりもずっとずっと、魔法が発達していたのよ」


 エリザベスがため息混じりに言う。

 クリスは少しの魔力を放ち、球体にぶつけてみるも、あっさり無効化されてしまった。


「魔力の吸収は術の発動をもってのみ、それ以外は受け付けないのか」

「魔法は通じないと思ったほうがよさそうね」


 言いながら、エリザベスは鞘に納めたままの剣先で、こつ、と床を突く。


「エリーが危険だわ」

「適材適所よ。もし、コアを破壊して蓄積された魔力があふれ出すなら、フレデリカが吸い取って」


 魔力の器の大きさは、人それぞれで違う。フレデリカは無尽蔵とも言えるそれを持ち、しかも自分の魔力に変換できる。

 本人は知る由もないが、前世の魔王の性質だった。

 そうして魔力とともに、世界中の憎しみを一身に集めて死んでしまった。


「フレデリカ、コアの貯めた魔力は僕が封じるよ」


 前世の記憶がもたらす痛みで疼いた胸をなだめるように、クリスはフレデリカを胸元に抱き込んだ。


「どうやって?」

「さっき魔力を当てたとき、コアの周りに一瞬、魔法式が見えた。コアの魔力を隠す魔法みたいだ。応用できる」


 クリスは魔法の解読と応用が得意だ。と、いうことにしている。実際は前世の知識を流用して、あれこれと現代ふうに組み直しているのだった。

 先ほども、一瞬でコアから読み取ったわけではない。もともと知っている魔法だから、そうとわかったのである。


「フレデリカは、最後にこの遺跡のすべてを消し去って」


 所在なげに肩を落とすフレデリカに、クリスはそう言ってぐるりと全体を見回した。


 こんなものを遺していて、また使うような事態を起こしてはならない。過去のあやまちは知るべきだが、知りすぎなくていい。


 フレデリカの過去も。


「わかったわ」


 うなずいたフレデリカに、クリスは思惑をきれいに隠して微笑みかけた。







 コアの破壊はあっさりと終わった。

 超古代と現代で、魔法は大きく衰退したが、それ以外の技術は現代のほうが上回る。

 金属加工もそのひとつであり、エリザベスの剣の強靭な合金の強度を、超古代にはとうてい想定できなかったのだろう。


「あっけないわね」


 防御結界ごとコアを粉々にしたエリザベスが、凛々しい所作で剣を鞘に納める。クリスは警戒をほどき、ほっと息をついた。


 コアに貯められた魔力はわずかだった。すでに使い切ったあとだったのか、あまりに永い時のなかで消失したのか。


「あとは、外に出て遺跡を壊して終わりだ」


 ほんとうにいいのか、と少し不安そうな顔をするフレデリカに手を差し出し、うなずいてみせる。


「もう二度と、この魔法が使われることのないように」


 ちいさなフレデリカの手を取って、軽い体を引き寄せた。


「平和な僕たちの世界に帰ろう、フレデリカ」






◆・◆・◆・◆・◆





 

 遺跡を葬り去ったあと、クリスたちは丘のふもとでピクニックをした。

 靴を脱いで敷布に楽に座り、フレデリカの作った軽食や焼き菓子をのんびりと楽しみ、春の陽気を満喫する。


「それにしてもフレデリカは、すぐ自分が犠牲になろうとするんだから」


 緊張が抜けたところで、思い出したようにお説教を始めてしまったエリザベスを、クリスは「まあまあ」と宥めた。


「確かに大問題だけれど、今はいいじゃないか。それに、僕たちが必ず止めるよ」

「優しい婚約者がいて、よかったわね、フレデリカ」


 甘やかすクリスを呆れた目で見ながらエリザベスがからかうと、フレデリカは恥じらうのではなく、少し寂しそうに目もとを陰らせた。


「ほんとうに……わたしは、予言に選んでもらっただけなのに……」

「予言だからじゃないよ」


 クリスはフレデリカの手を優しく取って、手遊びに編んでいたシロツメクサの指輪を薬指にはめてやった。

 フレデリカがぽっと頬を赤くする。

 子どものおもちゃより素朴なそれに、ひどく大切そうに触れるフレデリカの膝から、敷いていたハンカチが風に吹かれて舞い上がった。


「あっ……」


 フレデリカがさっと立ち上がって、裸足のまま風を追って走っていく。

 その身のこなしは軽やかで、出遅れたクリスが追いつくころには、彼女はハンカチが引っかかった木に登っているところだった。


「フレデリカ、危ないから……」


 太い枝のどっしりした木で、そう高くはないとはいえ、手の届かないところにいられると心配になってしまう。


「平気よ、このくらい」


 木の枝に腰掛けて振り返り、明るく笑うフレデリカの手には、薄いレースのハンカチ。ものを大事にする彼女だから、風に飛ばされたそれを放っておけなかったのだろう。


 それにしたって、侯爵令嬢がみずから木に登るなんて。

 新入りのメイドが見たら卒倒しかねない光景だろう。


「降りておいで、受け止めるから」

「大丈夫、自分で……あっ」


 フレデリカが下を見おろして前かがみになった拍子に枝がしなり、バランスを崩した彼女はあっさりと枝から落ちる。

 クリスは落ちてきたフレデリカを危なげなく受け止めて、強く抱きしめた。


「だから言っただろう。怪我はない?」

「……うん」


 華奢な体を感じる。

 もそもそと身じろぎして顔を上げたフレデリカは、気まずそうに目もとを染めてぱちぱちと瞬きをし、「ごめんなさい」とかぼそく言った。


「無事ならいいんだ」


 前世の魔王は、長く続きすぎた人間と魔族の戦争で犠牲になった。積もり積もって暴走する憎悪に、代替わりしたばかりの可憐な少女が命を捧げることしか、戦いを終わらせるすべがなかったのだ、と、誰もが言った。


「フレデリカ……」


 間近に見つめた面差しに、かつての魔王が重なって映る。


 魔王を死なせてはならなかったのだ。

 人族と魔族との融和の道を探っていた魔王を、人々が受け入れてさえいれば、その死の隙を神族に突かれることもなかった。

 みなが彼女を信じていたら、きっと世界は滅びず、平和への道がひらけただろう。


 クリスの前世の魔術師は、すべてとともに滅びながら、ざまあみろ、と世界を嘲笑った。


「クリス、もう大丈夫だから、降ろして……」


 お転婆で天真爛漫で、いつも太陽のように笑っているフレデリカが、頬を赤くしてしおらしくしている姿にはぐっとくるものがある。

 ただ、クリスの胸を熱くするのは、別の衝動だ。


「気をつけて」


 ゆっくり地面に足をつかせてやると、フレデリカはその拍子に少しよろめき、ふたたびクリスの胸に飛び込んでくる。その体を、クリスは紳士らしくそっと支えて放してやった。


「……ありがとう」


 はにかむ彼女を、今度こそ守ってやらなければ。


 いちど世界が滅んだせいで、歴史書にすら載らない、忘れ去られた少女の犠牲を、クリスはいまだ鮮明に憶えている。儚げな最後の微笑みは脳裏に焼きついて、生まれ変わっても忘れられなかった。


 自分たちがふたたび生まれてきて、予言のもと結ばれようとしているのは、もしかしたら、前世にできなかったことを成し遂げよという、誰かの思し召しなのかもしれない。


 けれど、前世といえど所詮は他人だ。


(『君』がやらなかったことを、僕は必ず……)


 前世の残滓を叶えてやるつもりなんてない。フレデリカを、そんな他人には渡さない。


 腕にはまだ、フレデリカの柔らかな名残を感じる。じんとしびれる指先を握りこんで、クリスは愛おしい彼女を見つめていた。

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