4-5
抗いがたい睡魔がハルティシオンの意識を冒していく。
これは天使の力だ。
天使が俺に「お眠り」と命じている。
そう思うと、ハルティシオンの中の反骨精神は抗う余地もなくほどけ、思考は不本意なほど従順さに沈んでいく。
――従ってしまいそうになる。
けれど。
『私、まだ生まれて日が浅いの。未練を覚えるようなものがなんにもない。人々を救って消えられるなら、本望です』
汚れを知らぬ初雪のような、神聖不可侵の天使。
これから咲きほころぶ気配を纏った純真無垢なつぼみのような、絶対に守らねばいけない侍女の少女。
……リエル。
あの娘が消えてしまうのは――嫌だ。
そもそも、天界は俺の願いを叶えていないのではないか?
意識をかろうじて繋ぎ止めながら、ハルティシオンは胸の奥のわだかまりを見つめた。
そう――ずっと気になっていた。
納得いかない思いがあった。
八歳のとき。
正義感と使命感でいっぱいの、まっすぐな天使は美しかった。
ハルティシオンは強烈にその崇高な志に魅了された。あれは疑いようもなく、人生で最初に抱いた特別な恋心だった。
『天使様にいなくなってほしくない。
ただでさえお母様が亡くなられたのに、天使様まで、この世から消えるなんて、耐えられない。
ぼくのそばにいなくてもいい。生きていてほしい。
未練を覚えるようなものをいっぱいもってほしい。幸せになってほしい』
ハルティシオンは、そう願ったのだ。
天使が抗って契約が歪んだのかもしれない。しかし、代償だけ取っておいて……。
「ふざけるな。これが、俺の願いの結果だというのか」
怒りがハルティシオンの胸の中で燃え上がった。
そもそもこの十四年間、リエルという少女はあまり幸せではなかったという。
地方都市オルディナに記憶も能力もない無力な少女として放り出され、拾われた先では家族に冷たく扱われて、聞くに堪えない苦労をしていたというではないか。
約束違反だ。
こんな結末は、望んでいない。
「……絶対に許さない!」
怒りが天使の力を上回る。
ハルティシオンは睡魔を振り切り、カッと目を開けた。
意識が闇の底から一気に浮上する。
見慣れた天蓋が視界に入る。
ハルティシオンの私室だ。窓の外はまだ青黒く、夜明け前の冷たい空気が部屋に満ちている。
ハッとして顔に手を当て、耳に触れる。
「……見える。聞こえる……」
体も調子がいい。ここ最近は日に日に怠さと寒気が続いていたが、数年前のような健全な感覚がある。
――夢ではない。
天使が救ってくれたのだ。
ハルティシオンはベッドに上体を起こし、胸元に手を当てた。心臓が早鐘を打っている。肌を見ると、瘴気に侵された痣は消えていた。
「……リエル」
名を口にした瞬間、胸の奥がひりつく。
天使であり、侍女の少女。ハルティシオンの初恋であり、憧れの人は、自分を犠牲にしてラクリマリア王国を救うつもりに違いない。
十四年前、ハルティシオンがそんな事態を防ぐように、と願ったのに。
奥歯を噛みしめると、静かな怒りが確実に広がっていくのを感じた。
「許さない」
ハルティシオンはベッドを降りた。
迷いはなかった。
ハルティシオンは衣を掴んで着替えを済ませ、壁に立てかけてあった星竜の剣を手に取って部屋を飛び出した。
ハルティシオンが向かった先、魔塔は、『眠らずの塔』の異名も持つ。研究熱心な魔法使いたちは夜型の生活を送っている者も多く、窓のほとんどに煌々とした明かりが点っている。
その最上階に近い区画は、人が集まっていて特に賑々しい。
亡くなった魔塔魔法使いたちの遺した研究論文が発見され、その内容が研究を大きく前進させたからだ。
自分たちの研究は完成する。王国を救うことができる。この功績は歴史に刻まれるだろう。
そんな希望の炎が全員の胸を焚きつけ、作業の進度を何倍にも加速させた。結果――。
「起動準備はどうなっている」
「ハルティシオン殿下! こちらは順調です!」
ハルティシオンの確認に、部下たちは誇らしげに胸を張る。
「魔力変換率は想定以上です。瘴気に汚染された高密度魔力であっても、理論上は浄化が可能です」
「成功率は」
「九割以上になります」
九割という数字を聞き、ハルティシオンは短く息を吐いた。十分すぎる確率だ。
「起動しろ」
一瞬の静寂のあと、装置が稼働を始める。低く唸るような振動が塔全体に伝わり、魔力が流れ、絡まり、性質を変えていくのが肌でわかった。
魔法技術には、長い歴史がある。
始まりは、ごくささやかな願いだった。
火の魔法を使えない者でも、簡単に火を灯せたらいい。水仕事に追われる者のために、手間なく適温の湯が用意できたらいい。新鮮な果実や野菜を、腐らせることなく冷やしておけたらいい――そんな日常の不便を埋めるために、魔法使いは研究開発をするようになり、魔道具は生まれた。
ひとつ願いが叶えば、次の欲が芽吹く。
馬に頼らず、もっと遠くへ行けたらいい。そうして汽車が生まれた。
やがて瘴気竜が空に雲を集め、日照を遮るようになると、人々は空を見上げて考えた。奪われた陽光を補うことはできないか。寒さをしのぐ暖房器具や、闇を裂く灯りを、魔法で作れないか――魔道具の研究は、生活を守るために加速度的に進んでいった。
研究というのは、すぐに実を結ぶものではない。
一年や二年で成果が出ることのほうが、むしろ稀だ。十年、二十年――あるいは先祖の代、そのまた先祖の代から受け継がれた研究がある。志だけを継いだ世代は完成を見届けられず、次へと託し、また次へと託す。そうして幾度もの挫折と試行錯誤を重ねた、生涯をかけた研究のリレーの果てに、ようやくひとつの技術が形になる。
それは、静かで、しかし確かな感動を伴う瞬間だ。
完成した魔法技術は、人を救う。暮らしを守り、命をつなぐ。
だからこそ研究者たちは、その成果を誇りに思うのだ。自分ひとりのものではない、積み重ねられた無数の願いの結晶として。
「ラクリマリア王国のハルティシオンが宣言する。魔法使いたちは誇るがいい。長い間、我々の王国の上に居座っていた悪き瘴気竜は、お前たちの研究成果により浄化されるであろう!」
星竜の剣を抜き、天を貫くように突き上げると、割れんばかりの歓声が沸いた。




