第1話
深く昏く広がる森の中。地面を打ち付ける無数の雨水が乱雑なメロディーを奏で、森の訪問者の聴覚を鈍らせる。
冷たい雨が降り注ぐ真夜中の森林。その奥にひっそりと佇む廃教会を前に二つの人影が在った。
一つ。薄汚れたローブに身を包み、うつ伏せに倒れ込む長身の男。
二つ。黒一色の上質な喪服に身を包んだ貴族らしき青年。
ローブの男はいくつもの傷を負っており、特に右肩を深く抉った傷はそこから止めどなく血を溢れさせる。
息も絶え絶えとなり、最早自力で立ち上がる気力すら残されてはいない男は霞む視界の中へ、自身の目の前で足を止めている青年を何とか映し込む。
彼の鮮やかな赤い瞳が不敵に笑みを浮かべる貴族の青年を映し出す。
すっと通った鼻筋、長く細かな睫毛、繊細さを感じられる艶やかな銀髪。完璧な設計で作り上げられた顔はその精巧さ故にどこか人形の様な冷たさを覚える。
そんな整った顔をローブの男が見つめる事数秒。
貴族の青年は突如その酷く整った顔を歪め、不敵さの溢れる笑みを浮かべた。
「さあ、ドブネズミ」
刹那。銀色の光が過る。
それを合図に舞い散る鮮血。それは貴族の青年の晒されていた腕から出たものであった。
握っていたナイフで己の腕を傷付けた青年は、痛覚に顔を顰めることもなく悠々と笑みを湛え続けた。
「己が役に立つことを証明してみせろ」
傷口から血を流しながら大袈裟に両手を広げ、這いつくばる男を見下ろす瞳。
その姿にローブの男は息を呑んだ。
降り頻る雨の中。
あまりにも精巧に造られた顔をこれでもかという程に歪め、冷酷さを秘めた青の瞳を細めて笑うそれは。
――『天使の姿をした悪魔』であった。
『吸血鬼戦争』。
後にそう呼ばれた戦が終結したのは凡そ三百年前の話。
互いの均衡を保って生きていた六種族の内の一つ。
最大の武力を保持していると言われていたヴァンパイアが他の種族と対立したことにより勃発したこの戦は、長年の時を経て五種族が勝利を収める形で終結した。
しかしヴァンパイアと他種族との隔たりは現在に至るまで続いた。
特に人族はヴァンパイアを嫌悪し、危険視し、彼らの自由の殆どを奪い去る方法を選んだ。
ヴァンパイアの国はその殆どを人族の支配下に置かれることとなり、日々の生活に大きな制限と思い労働を課せられることとなる。
彼らは母国を離れることを許されず、その大きな籠の中での生活を強いられることになった。しかし時にその苦痛から逃れる為か、はたまた他種族への恨みを晴らす為か亡命を果たす者が現れ、更にその一部が多種族を襲う事件が横行した。
これを機に人族は悪しきヴァンパイアを粛正する為の組織を結成し、これをヴァンパイアへの対抗、牽制の要とした。
人族は二度とヴァンパイアによって窮地に立たされることがない様にと彼らの徹底的な排除に動き出した。
――ヴァンパイアハンター。
俗に『ハンター』と呼ばれるその名はヴァンパイアを狩る者に与えられた名であった。
大雨に見舞われたこの日、互いの目的の為に結ばれた契約があった。
『狩る者』と『狩られる者』。それは本来交わるはずのない者同士が手を組んだ瞬間である。
***
青年がドブネズミと称した男――名を、イリスという。
彼は人とそっくりな姿はしているものの、その正体はヴァンパイアハンターから命を狙われていたヴァンパイアである。
青年はそんな彼を面白がり、自身の傍に置く為に館へ連れ帰った。
深夜に帰宅した青年――エメリー・アークライトは空き部屋にイリスを押しやり、着替えを命じる。
使用人として正しい装いに整えた頃、扉がノックされる。
「私だ」
「あー、ハイハイ」
未だ傷が癒えていない体を引きずりながらイリスは廊下へ出る。
扉で待っていたエメリーは使用人服に身を包んだイリスを見ると満足そうに頷いた。
「今日からお前は私のバディだ。丁度、飼っていたヴァンパイアが一匹死んでしまってね。代替品を探していたところだったんだ。運がいい」
「オタクもヴァンパイアハンターですよね? そのバディって事は……同族を殺す武器になれって事ですか?」
「ああ。本来ならば戦闘民族など奴隷を雇うところだが、同族の事なら同族の方が詳しいものだろう」
「血も涙もない」
「そうは言いながらも、抵抗があるようには見えないがな」
「そりゃ、自分の命第一ですからねぇ」
エメリーはイリスへ目配せをすると廊下を歩きだす。
その隣に並びながら、イリスはふと思い至った様に口を開いた。
「そうだ。自己紹介がまだでしたね」
「必要ない。今日からお前はドブネズミだ」
「まあまあ、一度くらい耳に入れておいてくださいよ」
イリスはエメリーの前へ回り込むと深く頭を下げる。
「イリス・ローセンダールです。まあ呼び名はお好きに。よろしくお願いしますよ」
彼がエメリーに気に入られた理由は二つある。
一つは従順なヴァンパイアであったから。
そしてもう一つは――
「――お嬢さん」
彼女の性別を一目で見抜いた事であった。
青い瞳を冷たく細めたエメリーは持っていた杖に隠された刃を晒し、それを瞬時にイリスの首筋へ突き立てた。
「一度目、私が愉快だと思ったのはその声を誰も聞く事がなかったからだ。ここで次その呼び方をすれば、即刻首を落としてやろう」
「……やっぱり性別は内緒なんですねぇ」
男性としての装いをしている事から薄々察しがついていたイリスは両手を上げながら小さく頷く。
そして物怖じもせず深々と頭を下げた。
「では改めまして。よろしくお願いしますよ――『マスター』」




