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4_往日の岐路

暗闇の中何か物音が聞こえる。何かが動く。それに合わせて私も揺れる。視界が何やら明るくなってきた様な気がする。視界が濁る。何にも形が無い。此処はどこなのだろうか。


「はッ」


 どうやらいつの間にか寝てしまっていた様だ。時計は夜の三時を回っていた。寝落ちする前に何をしていたのか、何をしておらず何をしなければならないのかいまいちはっきりと想起出来ない。まあ少しずつ意識も明瞭として来るだろう。だが本を片手にソファーに座っているのを見るに本を読んでいたらしい。

 参ったなと思ったが、明日が休日である事を確認し落ち着いた。それにしても随分と絶妙な時間に目を覚ましたものだ。起きるには早いが二度寝するにも遅い。私に朝寝坊は性に合わない。結局このまま起きておく事を選択した。睡眠時間を削らなければならないが、元を辿れば灯りをつけたままソファーで寝てしまった私が悪いのだ。辛抱することにしよう。


 時に君は夜一人、幾許も無い灯りの中心穏やかに過ごせるだろうか。私には無理だ。何かしらの存在圧を背中に感じ取りどうしても移動が早歩きになる。


 お化け屋敷は怖く無いのだ。来ると分かっている物を警戒ながら自ら部屋へと入っていくわけである。何を怯えることがあろうか。その恐怖を甘んじて受け入れることができる。マジシャンが剣を飲む時も、不遜にも私に立ち向かって来るゴキブリと対峙する時も分かっていれば怖くは無い。その眼前に敵の影は無い。


 だが暗室はどうだろう。何が来るのかそれとも来ないのかそして何があるのか分からない恐怖に打ち震える。そしてそれは我が家であれば尚のこと怖い。何か生物としての根本的なところに恐怖を感じるのだ。風呂で後ろから何かが見つめて来る様に感じるのと同じだ。宿泊先のホテルなどでは我が家程恐怖を感じない。無意識に泥棒がいる可能性を考えているのだろうか。


 しかしうじうじしていても何も変わらない。部屋の隅に椅子と机上灯を置き本の続きを読み始めた。








「………。。。…??(声にならない声)」


何故私はこんな本を読んでいたのだろうか。甚だ理解し難い。少なくとももう1年間は朝が来ないであろう。そうに違いない。


 気持ちの良い朝日の筈なのに微塵も心地よさを感じない。ここまで酷い朝は久々である。目に隈ができ、髪はボサボサである。遅く起きることがない様にといったどうでも良い意地を張らずしっかりと睡眠をとるべきであった。今更後悔する。のそりのそりとゾンビの様な足取りでフォロワーの前へ向かう。


「…フォロワー。風呂を入れてくれ。あと朝飯も作っておいてくれ。内容は任せる」


声までゾンビである。風呂に入って眠気を流してしまおう。


 朝食のパンを齧りながら今日やるべき事を思案する。先ず午前中に家事道具と食材の買い出しに行くべきであろう。いくら便利なフォロワーといえども、原子すら無い「無」から「有」を創る事はできないのだ。一応メモに必要な物を書き出しておこう。


 そして午後はベインブリッジ島での作戦の資料を読み進めるべきであろう。まだ作戦まで三日程あるが頭に作戦を染み込ませシュミレーションする時間が必要だ。時間が余ったらランニングも良いだろう。


 予定が決まれば残りはその通りに行動すればすむ。私はいつもそうやって行動している。一期一会を楽しみたいという人間を否定するわけではないが、私にとってそれは性に合わないのだ。カップを片手にレースのカーテンを退け、大開口窓から町を眺める。ここは角部屋だが、こちら側にベランダは無い為景色がよく見える。


 彼方へ延びる幹線道路には車が走り去り、駅には人が集まっている。この視界の中に入っている人々それぞれに人生の物語があり、目的があって行動しているのだろう。今まで殺してきた人間もそうだった筈だ。やりたいことは出来たのだろうか。気にはなるが殺した張本人である私に詮索する権利は無いと思っている。それが仕事だとしても。        たった一口でハートのラテアートが崩れた。


 そろそろ買い出しに行くか。このまま居てもネガティブな思考に陥るだけである。気分転換は必要だろう。


 今日のスーパーはセール中らしい。野菜が割引されている。少し多めに買って野菜を使う料理を増やすか。そんな事を考えながら店内を見て回った。


 今の風習として多くの人々は買い物はインターネット上で済ませる。便利であるし家備え付けのAIが商品の状態、サイズ諸々を踏まえて助言してくれる。その為には今の自分の体のサイズなどの情報をインプットしなければならないが。また仮に服のサイズが合わなかったなどの問題が起こったとしても、返品サービスも備られている。何と便利な事か。しかし私はそうしない。


 何故ならば買い物に行くと言う行為が重要な物だと考えているからだ。別に無駄に長い時間をかけようと言うわけでは無い。買い物は契約である。謂わば結婚と同じだ。その身に触れ、匂いを感じこれだと思った物にこそ価値がある。自分にピッタリと合った、何ひとつ間違いの無いものが必ずしも最良だとは思わない。尤もそうである事が多い事実がある事は否めないが。


 そして何より外の空気を吸う事が大事だと思っている。部屋の中の個体の様に凝り固まった空気では意識の切り替えが容易で無い。対して外の自由奔放な流れるようは空気は心の蟠りを乗せて飛びたち、意識を切り替えてくれる。そこにあるのは山の中を流れる可憐な小川なのだ。ダイアモンドの様に輝く花を咲かせ太陽の下魚が跳ねるのだ。


 家に帰りフォロワーに昼飯を作る様に頼む。その間に買ってきた食材などを所定の位置に仕舞う。林檎が一つ入り切らなかったので昼にでも食べることにしよう。


 昼食を食べ終え作戦についての資料に目を通す。重要な所を抜き出してみる。


 第一に容疑者。名前は「モーン=ベルセ」を名乗っているそうだが、真偽は不明。年齢三十程。だが二十年程前の一斉誘拐事件の被害者名簿に名前がある為、その被害者である可能性があるらしい。今回の作戦の目的は彼の確保である。


 第二に何故製薬施設に突入するのか。それは違法とされる薬の製造が組織的に行われた可能性があるかららしい。麻薬の様なもので高い依存性があり健康被害も及ぼすが、一時的な身体機能の向上効果を得る事ができるらしい。


 第三にどの様な動きをするのか。先ず警察の方で施設を囲む。島からの陸路での出入りは検問し、海には警察用船舶を巡回させるらしい。つでに空には警察ヘリを浮かべる様だ。次に我々実働課の部隊と警察の特殊部隊が共に内部に突入し容疑者を捕える。我々実働課は警察の特殊部隊に合わせた格好を用意するとの事だ。まあ妥当だろう。報道が入るのだ。表向きには知られていない我々の存在がテレビに映るわけでありそこで目立つ格好をしていれば疑問に思われるのは必然だ。

 しかしここで何故我々が協力する必要があるのかと言う疑問に帰結する。まあ何かしらの意図がある事に違いは無いだろう。

 最後に報道機関だ。国営放送は当然に、さらに二つの報道機関が中継するらしい。世間でそこまで話題になったことはなかった印象だ。これもまたわからない。まずもって突入を中継することなど滅多に無いことだと言うのに。全てが私の預かり知らぬ所で進行している君の悪い感覚がある。取り敢えずは作戦内容を理解し適切な行動を取れる様にシュミレーションしておけば良いだろう。それが終わったら今日は早く寝よう。とにかく体が怠いのだ。


 





side: エリス=ブルーム




「あれ?どこにやったっけ」


 わたしにとっていつもの事だ。直すべき事なのは分かっている。物は無くすし時間は浪費する。さらには好きな人に「生活習慣がなっていない人だ」と思われる可能性もある。わたしの好きな人はそういうのに厳しそうな人なのだ。そう分かっている。しかし直らない。性格的な所だと諦めるのは簡単だが治す方法を考える方が発展性もあり大切な事だろう。次は家にあるものや食品全てにしまう場所を記載する事を試してみよう。


 数十分経ってベッドの僅かな隙間にようやくそれを見つけた。無くしていたらどうなっていた事か。私は干物になっていただろう。香ばしい哀愁と絶望が漂ってきそうである。


『〔機密〕ベインブリッジ島における製薬施設突入作戦案詳細』


ああなんて愛らしい子。もう一生いなくならないでね、と見つかった資料に頬擦りをする。宛ら家財道具にマーキングする猫である。おっといけない。こんな事をしている暇は無いのだ。何せ作戦が明後日に迫っているのだから。


 椅子に腰掛け机に資料を広げる。その枚数に軽く絶望する。だがやらなければ終わらない。意を決して資料に目を通し始めた。




 




 わたしは貧乏な家の出だ。わたしの家は世間の一般的な所得を一回りも二回りも下回っていた。それは家の収入の担い手となっていた父がわたしが生まれて早々に他界したからだ。わたしの母は仕事に就いていなかった。昔は仕事に就いていたが、子育ての為に辞めたらしい。その為仕事探しに奔走した。それでも生きていくのに最低限のなけなしの給料しか稼げなかったらしい。


 いつしか今まで住んでいた駅近のマンションも売り払い、丘陵地帯の麓の所謂スラム街に住む様になったと聞く。実際わたしの記憶が残っている頃にはわたしたちはもうスラム街に住んでいた。この世界は平等だ。誰しもチャンスを与えられ、社会はいつでも挑戦を待っている。スラムにでさえ他と同水準の学校があり、成績優秀であれば奨学金をもらえるほどに。

 昔は「コミュニズム」と言う理念を掲げる国もあったらしい。しかしその仕組みが平等だとは全く思わない。何故優秀な者がやる気のない者のためにその努力による利益を分配し、更には行動を制限されなければならないのか。


 しかし母はそこに確かに存在するチャンスを掴む気がさらさら無い様に見えた。仕事以外で家から滅多に出ず、知り合いも周辺の家に住んでいる人だけであった。わたしはそれが悔しく、そしてやるせ無かったのだ。日々最低限の金を稼ぎ、もっと稼ごうという野心が無い。日々繕いの笑顔を顔に貼り付け、自分に現状で満足している様に信じ込ませようとしている様に見えた。昔は優秀な人間だったのでは無いか。なのに何故この現状を飲み込まんとすることができるのか。何故折れてしまったのか。能力はあった筈なのに。でなければ父の様な稼げる人間に嫁ぐ事など難しかっただろう。


 私は母を見返したかった。その為に血に汗滲む努力をした。スラム学校を飛び級で卒業、奨学金で進学校に進学、カリフォルニア工科大学まで卒業した。私には選択肢はいくらでもあった筈だ。しかしわたしは焦っていた。何としてでも安定しており尚且つ給料が高い職業を探した。そこで見つけたのが公務員であり給料も高かった「幸福局」の募集である。


 しかし出勤してようやくどんな局なのかを知った。こんなに給料が高いなど普通の仕事では無い筈なのに。そして何よりそんな局の存在を聞いた事がなかったのに。


 わたしは馬鹿だった。ただでさえ切り詰めていた精神にとどめを刺す様に鉛玉が襲ってきた。わたしの精神はとっくに参っていた。白黒の世界だった。せめてもの救いは先輩がわたしに寄り添ってくれる好感の持てるいい人であった事だろう。


 


 そんな時母の存在を思い出した。そしていつからか自分の目標が母を見返すことではなく、いい職に就く、鳥瞰すれば周りよりもより優秀な人間になる事に置き換わっていた事実に気がついた。なんて愚かなのだろうか。胸にメスを差し入れ、肉をぐちゃぐちゃに濁り潰してしまいたい。


 それでも誰かに会いたかった。久々に母に会おうと思い連絡すると、直ぐに『いいよ』という返信がくる。風の様に準備し電車に駆け込んで実家に向かって行った。




 スラム街の様子は大きく変わっていた。直ぐ建物が置き換わるのだ。しかしそれでも実家の周辺は全く変わっていなかった。ここで過ごした幼少期の記憶がありありと蘇って来る。だが紙と文字とインクの記憶が大半であり遊んでいる記憶や友達と笑っている記憶がほとんど無かった。なんて損な生き方だったろうかと自嘲する。


 実家のガタついた扉の前に立ち、ノックした。すると中から知らない声が聞こえてきた。もしかして家を間違えたのかと思い、


「ここはファーン=ブルームさんの家で間違い無いですか」


と聞く。だが、


「あってますよ」


と聞こえてきた為、「母ももう歳なので近隣の人に手伝ってもらっているのだろうか」などと考えながら中に入った。中には白衣を着た男以外人型の機械しか無かった。何か嫌な予感がした。怪しい白衣の男の事は取り敢えずどうでも良く思えた。


「あの、何ですか…これ」


と震える声で聞く。


「君のお母さんですよ」


耳を疑った。信じたく無かった。だから目を瞑った。わたしの母は人間だ。断じて機械などでは無い。再度目を開けた。しかし事実は変わっていなかった。思わず声が出る。


「え…。」


「君のお母さんは病気になったんですよ。筋萎縮性側索硬化症、通称ALS。体がだんだん動かなくなっていくんです。辛かったでしょうね。ですがあなたの前では自然を保とうとした。そしてあなたが家を離れた時、浮いた金を使って動かなくなった部位を機械に置き換えて行った。あなたがいる時にその事を言って心配させてしまい、努力を打ち切らせてしまうのが嫌だったのでしょう。でもどんなに症状が進んでも脳だけはいや運動ニューロンだけは置き換えようとしなかったんです。そこを変えたら自分では無くなると思ったんでしょうね。そしていつか帰って来ると思われるあなたに会おうとしたんでしょう。勝手でありながら美しい物語ですね。大丈夫です。あなたの母は死んでませんよ。ALSでは死にませんので。ですがここ十年で寿命でしょう。話しかけても大丈夫ですよ」


男は淡々と言った。まるで印刷機から次々と出て来る印刷物の様に。わたしは自分を恨んだ。親の変化に気がつけず、親を憎しみ、いつしか自分がより「できる」存在になっていく快感に溺れ、次第にわたしの中での母は希薄な存在になっていった。覚束ない足取りで母と思わしきものに近づいていく。何でわたしに隠してたの、何で一人で耐えようとしたの。こんな時にも相手を責めることしかできない腐った根性にドブの臭いを感じ取った。その刺激臭に涙が溢れた。


「母さん…。」


「ええ…エリス。久しぶりね。長らく見ないうちに大きく可愛くなって嬉しいわ」


機械には母の顔が形どられた面がついている。それは動かないが笑っている様に見えた。


「ごめんなさい…。帰るのが遅くなって」


「いいのよ。わたしは途中で諦めちゃったからね。わたしの事嫌っていたでしょ。エリス」


「そんな事ない…。母さんは頑張ってたよ」


「エリス、あなたはいい仕事に就けた?」


「……。うん」


本当の事を言えるはずが無かった。母を悲しませたく無かった。だから繕った。だがそれは気付かれているだろう。親に興味が無く何にも気づかなかったわたしと違って。


「今日はこの家にいるよ。明日は帰らなきゃいけないけど」


「ゆっくりしていきなさいね」


何も追求してこない母に感謝する他なかった。男はいつの間にかいなくなっていた。


 翌朝一番、母に挨拶する。


「さようなら、母さん。今まで本当にごめんなさい。これからは時間が空いたら連絡するから」


「ええ。さようなら。私のことは気にしなくて良いからね。元気に過ごすのよ。落ち込んだ時は周りの人を頼りなさい」


その機械の様な声には何処か温かみがあった。しかし何処か掠れている様な気がした。


「うん」


わたしはまだ幼い。そんなわたしにできる精一杯として冷めたスープを温める様に、暖かい手で包み込む様に母の冷たい面の頬にキスをした。母の面に、冷たい花火が咲いた。何かが崩れた気がした。でも気にする事は無かった。「これからやり直していこう。わたしにはできる。」と思える気がしたから。


 一ヶ月経った、六月の頃だった。知らない電話番号から電話がかかってきた。出てみるとあの時の白衣の男と同じ声だった。


『あなたのお母さんが亡くなりました。小規模ながらも葬式を行うので急いで来てください。』




あまり驚きはしなかった。母は死期を悟っていたのだろうか。いや、分かっていたはずだ。休みを取り、黒い喪服を纏い、電車に乗り込んだ。


 葬式場のある町に着いた頃にはもう日は落ちかけていた。式は明日から行う様だ。今は体に取り付けた装置を取り外しているらしい。何でも貴重な物だそうだ。今日は宿で泊まろう。


 葬式場に着いた時にはわたし以外の参列者はもう来ていたらしい。人影がちらほら見える。葬儀社は母が前もって決めていたらしい。


 葬儀は母の仲の良かった数人とわたし、そして白衣の男で行われる、小規模なものだ。



 ビューイングの時間が来た。棺の中にいる母は仮面が外れ、ボロボロになった顔が顕になっていた。全ての感覚をあの仮面で補っていたらしい。体の方もひどい物だ。肉は機械の形に抉り取られ、骨が見える。こんな体でもわたしに心配させまいとした母に罪悪感を覚えた。そっと胸の上に朝買ってきた白のアジサイを乗せた。


母は火葬された。だが骨は余り残らなかった。機械の取り付けの過程で骨も取り除かれたのだろうか。少ない骨をひとつひとつ、丁寧に壺に入れていった。




 葬式を終え帰ろうとするわたしは木の上に作られた鳥の巣に気が付いた。雛が3匹乗っている。ずっと見ていると暫くして親鳥が帰ってきた。餌を強請る雛を宥める様にして食事を与える。そのずっと昔の母とわたしに重なった。涙が一筋溢れてきた。


 母がそろそろ死ぬであろうことは、それがもう程なく近い事はわかっていた。いつかの母らしい元気の良さが無かったのだ。まるでインフルエンザになった時の様な雰囲気だった。スラムは衛生環境がお世辞にもいいとは言えない。母の死因も感染症だったらしい。体を機械に置き換えたとしても全てを置き換えているわけでは無い。よく知っているわけでは無いが感染症で死ぬ事もあるようだ。


 母は感染症で死んだが、一ヶ月前はそれ程ひどい状態では無かった。寧ろ平常時の方が余程近いと言える程元気だった。わたしで無いと変化に気がつけないだろう。病院に入れ、然るべき処置をしていれば生きながらえていた筈だ。それが本人の希望で無いとしても。わたしが母を見捨てたのだ。


 わたしは母の死に納得した気でいた。母に会った一ヶ月前よりも大きくなった気でいた。だが違った。自分の気持ちを騙していた。母と話し合う事もせず、母に向き合わずに漫然と「まだ大丈夫、これからなんとかしよう」などと考えていた。それは自己欺瞞であり現実からの逃避に他ならない。

 今のわたしは昔愚かだと思った母の姿と同じだった。自分のしたい事、なりたい未来を見れていなかった。我慢する事だけが美徳だと思っていた。まだわたしはあの雛の内の一匹だ。親孝行も出来ていない。取り返しの付かないミスすら犯してしまった。都合の悪い事に向き合わず、先延ばしにするただの餓鬼だった。わたしは親の、周りの人間の温かみに甘えていただけなのだ。強い大木の木陰に寝転がっていただけなのだ。そんな当たり前の事をやっと理解した。増長していた自分が踏んでいた小枝と共にパッキリと折れた音がした。


 ありがとう母さん、そしてがんばるよ母さん。ごめんなさいは言わない。涼しい風が夕焼け色の髪を揺らして吹き抜けた。





 


 仕事の資料に隅々まで目を通す。仕事はしっかりと最後までやり遂げるつもりだ。確かに気持ちの良い仕事では無い。前も先輩と少し揉めてしまった。わたしの甘さが原因だろう。先輩の言うことはもっともだ。仕事と私情は別である。切り替えなければならない。このままではだめだ。だけど急ぐ必要も無い。今のわたしの世界には色がある。わたしはまだこの道を歩み始めたばかりだ。少しずつ変われば良い。わたしの考える大人な人間へと。体の細胞が少しずつ入れ替わる様に。わたしを育ててくれた母との約束の為に、そしてわたしの辛い時を支えてくれた先輩のために。何よりわたしの人生の為に。



【お詫び】




 作者の浅慮により、2人の一人称が同じになりました。はい。まず作者としては生真面目そうな一人称である「私」、女性としてより多くの人が用いる「私」の2種類を使おうと考えます。しかしいざ読み直してみると一人称が同じ。ここでようやく作者は失態に気がつきました。そう。誰が喋っているのか分からない。そこで漢字の「私」をエヴァン、平仮名の「わたし」をエリスと使い分ける事にしました。一人称を変える気は無いので些か(少々)わかりにくいでしょうが納得してください。


 


 それと個人的に本文中の数字表記を漢字にしているのには拘りがあるので、アラビア数字表記へと変わることはありません。





作者のおはなし1




 今回の話個人的に好きな部類なんですが如何でしょうか。


 さて今回の話作者としては2つ話したい事があります




1つ


表面的に「こんな事をしたんだ、こんな事言ってる」とだけなぞるのでは無く、何故こんな事をしたのか、何故こう考えているのかを考えてほしいと思っています。案外楽しいものですよ。




2つ


この回、今後の展開に直接的に大事な回です。あのよく分からない1話と同じくらい大事です。ホントに。絶対忘れないでくださいね。






作者のおはなし2




 最近「関心領域」という映画を鑑賞する機会に恵まれました。アウシュビッツ強制収容所の所長の家族にスポットライトを当てた映画です。


 この映画はその家族の日常を描いています。そこには少年マンガの様な華やかさや日常アニメの様なゆったりとした面白さがあるわけではありません。ただの何処にでもある様な家族の日常を描いているだけです。そこに山場などありません。敢えて言うなら寝てしまう映画です。何の前提知識も持たず、盛り上がりのある「面白い」映画を期待して観たなら即切りするか眠るしか選択肢は残されないレベルです。


 しかしこの映画には数多くの「違和感」が存在します。そしてその「違和感」こそがこの映画の重要な点なのです。全て言っても面白くありませんので1つ紹介しましょう。


 まず前提としてアウシュビッツ強制収容所を知っていますか。アウシュビッツ強制収容所とはナチスドイツ下のユダヤ人の収容所であり、数多くのユダヤ人がここに連行され、殺されていました。これを念頭におかなければ「違和感」には気がつけません。


 では「違和感」は何でしょうか。それは「銃声」です。この映画では時折銃声が聞こえてきます。彼ら彼女ら家族は普通の生活を送っているのに。ではどこからその銃声は聞こえてくるのか。それはアウシュビッツに他なりません。彼らの家はアウシュビッツのすぐ隣にあります。なので必然的にそこの中で行われている行為の音も聞こえてくるわけです。そして銃声が鳴っていると言うことは人が撃たれた、という事です。その瞬間命が1つ奪われたのです。そんな横でこの家族は暮らしているのです。しかし銃声に触れる声はひとつも無いのです。それは慣れによる物でしょうか。作者はそうは考えません。これは興味がないからだと考えています。人の死など慣れるものではありませんし慣れて良いものでもありません。少々の胸焼けはするものです。しかしこの家族にそれはありません。それは興味がないからだと考えています。壁一枚僅かな距離の物事に興味を持てないのです。もしくは壁がなくとも。


 この映画の題名は「関心領域」です。この家族の関心の領域はどれ程のものなのか。そして私たちはどうなのか。考える必要がありそうです。

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