2_宵の華
一幕 遭逢に厭忌
@: モントレー 西暦2372年
「はぁはぁはぁはぁ…… ッ」
彼自身何故追われているのか、どうしても理解できなかった。いや、違う。それが認め難いのだ。少なくとも彼が今この時追われており、もう力も尽きようとしている事は歴然とした事実である。逃げ切ることができる万に一つの可能性に賭け、泥濘んだ薄暗い林を糸を通す様に駆けていく。
“チッ、クソが!“
男は追手の二人の影が近づく感覚を、湿った背中にひりひりと感じとる。何故あれだけの重装備でサイの如きスピードで走れるのか。明らかに人間の其れでは無い。男は人類に対する甚大な冒涜をそこに見た。
この先進み続ければいつか海に辿り着き捕まるだろう。開けた場所に出た時点で終わりなのだ。それが男にはわかっていた。到底泳いで渡れる様な幅では無いし、開けた土地に出た時点で追手の手に握られた拘束収束銃、略称RCGの魔の手に掛かるだろう。だがしかし未だ男の眼は未だ爛々と輝き生へ執着を燃やしていた。何故だろう。
ああそうだ。男の右手側には繁華街があるのだ。ネオンが夜を追いやる趣味の悪い光を放つ中、酒気を帯びた陽気な人々が溢れかえっているに違いない。そしてさらに奥山間部には飛行場が有る。其処の無人小型飛行機でも奪い去り国外に亡命する事を計画しているのだろう。海外はこの国よりマシに違いない。そう考えている。
人混みの中で発砲などできるものではなかろうし、そして何より奴らが自身の行動を世間に知られてはいけないと考え行動している事を男は承知している。そしてだからこそ希望を目にとらえて走り続けるのだ。一途に生に縋っているのだ。
しかし現実は実に非情なものだ。それはいきなり男の身に起った。ズキリ、という危険信号を彼の脳が捉えた。信頼していた足場が崩れていく様な極めて深い焦燥感に苛まれる。そして、足が止まり、頭から前につんのめるようにして倒れ込んだ。身体中に泥が纏わり付く。要するに足を攣ったのだ。
今の時代、自分から好んで走り込みを行う様な人間はごく稀である。その絶滅危惧種の中にこの平凡な男が入っている筈が無い。そんな碌に走ったこともない様な足の状態でいきなり限界まで走るのである。攣るのも必然であろう。
しかし、この数秒の出来事で男の心は簡単に折れてしまった。空気の入ったカプセルの中で大事に護られていた心の炎が外の部屋に曝け出されたのだ。男は目の前の世界が瓦解していく様に感じた。
“ピュゥン ピュゥン ピュゥン”
RCGの銃声は小さい。前時代的な火器と比べると差は歴然である。しかしそれは確実に聞こえ、男にとってそれは死神の声なのだ。
因みにRCGには殺傷能力が無い。リミッターが付いている数少ない軍用の物はそれを解除すれば殺す事ができるが、いかんせんバッテリーの消費が重い。一発でバッテリーを三分の二は持っていく。だが火薬を用いる銃はその限りでは無い。メリットだけの物など無いのだ。
三つの銃声のうち二発の弾丸が彼の背中を捉えた。この弾を受けると数分間身体が動かしにくくなる。その間に拘束されるのだ。しかし重罪者と判断された者に於いてはその限りでは無い。
男は地面の傾斜を利用して辛うじて仰向けになった。追手の顔を見たかったのだ。彼は追手が憎かった。この世が憎かった。自分は何も悪事を働いていない善良な一市民である。そんな自負があった。しかし現にこうして追われる身となっている。何故自分がこんな理不尽な不利益を被らなければならないのか、甚だ理解できなかった。
男は追手の顔を見た。若い男と女の二人組だった。顔を隠していないのは彼を殺し切る自信からか。こんな若い内から人を撃つなどどんな教育をしたのだ、などと呑気な事を考える反面、追手を目に収めた瞬間何故私は起き上がり再度走り出すことができなかったのかという後悔の念に襲われた。そしてその感情を、自分の全ての負の感情を燃え上がらせ2人組にぶつけた。男にはそれしかできなかったのだ。男の心はもう希望に燃えていない。だがしかし後悔、憎しみ、そして憎悪の悪感情に燃え盛っていた。カプセルの外の部屋は酸素に満ちた空間だったのだ。
“カチッ カチッ ビュオォン”
男の眼前に青白い光が満ちた。銃を撃った若い男の照らされた冷たい表情には少しばかり嫌悪の色があった。何に対するものなのか、撃たれた男にはもうわからない。
彼は臍の辺りまでどんどん小さくなっていく。
しかし彼の視線が二人組から逸れる事は無かった。
グシャ、という生暖かい音と共に夜の林に彼岸花が咲いた。
その日の月は新月であった。
逃げていた男はもう知る由もない事だが彼に生き残る道など無かった。飛行場には自動警備システムがある。しかもただの飛行場には余りある、最新型のものだ。入った瞬間脳天を撃ち抜かれていただろう。男にはカプセルの中の空気を使い果たし、世間の人に認知されながら炎を穏やかに散らせるか、酸素の部屋で燃え盛り一時の爆発的な輝きを手にすれども人知れず華々しく散るかの二つの道しか残されていなかった。まあどちらにしろ追手の存在など世間は知る由もない。彼らに目をつけられた時点で男は死んでいたも同然なのだ。
彼は世界の盤面から脱落してしまった。この国に彼はいなかった。
作者のおはなし
一口メモ:
宵・夕暮れ時から日が暮れて間もない頃にかけての時間
「冒涜をそこに見た。」の「見た」・ここでの「見る」は物体を見たのではなく物事をそうと知覚した(そうだと考えた、思った)という意味で使われています
一章はちょっと、ちょこっとだけ、ほんのちょっとだけ暗めにいきます。(多分) そして一章はコメディ要素は殆ど無いです。
此処まで読んで頂き有難うございます。次話からもよろしくお願いします。楽しんで読んでいただければ作者冥利に尽きます。
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