妖怪喫茶、初仕事
案内してもらった部屋で白い寝間着に着替え、パイプベッドに腰掛けて、私はようやく一息ついた。とはいっても落ち着けたのは私だけで、一緒に来た梢は、相変わらず肩や指先を小刻みに震わせている。
「よくくつろいでられるね……七葉姉……」
隣のベッドで身をすくませながら、梢は私を呆れたような目で見つめる。
「パパもママもいなくなっちゃったのに、どうしてそんなに平気でいられるのか、私わかんないよ」
「まあ、でも、心配しても状況が変わるわけじゃないし……私は明日からお仕事だから、休んどかないと失敗しそうだし」
「七葉姉がそこまで割り切れる性格だったなんて、二十年一緒に生きてきて初めて知ったよ……」
まあ確かに、私はすっぱり割り切れる性格じゃあないと思う。割り切りとか切り替えがうまい性格だったら、片付けはもっと得意だったはずだ。
父さん母さんがいなくなっても平気なのは、たぶんもっと別の理由だ……ずっと上に乗ってた重石がなくなったような、奇妙な身軽さまで今は感じている。人として、本当はそんなこと感じちゃいけないんだろうけども。
梢は何かを振り払うように頭を振り、薄い布団にもぐった。梢は大学も既存のアルバイトもあるから、ここで働くのは週に二日ほどということになった。一方で、失業者の私はフルタイム。仕事の割り振りは、今晩のうちに蓮司くんと壮華くんが考えておいてくれるそうだ。
情報のとりまとめも仕事のうちらしいから、元IT系の私は多分それ担当だろう。アルカナムに事務用のパソコンはあるんだろうか、あるとしたらデスクトップだろうかノートパソコンだろうか、メモリやハードディスクはどのくらいだろうか――そんなことを考えているうちに眠気が湧いてくる。頭から布団をかぶって、時折すすり泣きを漏らしている梢を横目に見ながら、私は目を閉じた。
翌朝、目覚めて階下へ行くと、薄暗い店内で蓮司くんが机を拭いていた。地下階のアルカナムには窓がないから、朝日も入ってこない。褐色の肌が橙色の灯りに薄く照らされて、朝だというのに、夜のバーカウンターめいた雰囲気が漂っている。
「手伝おうか」
声をかけると、蓮司くんは私を振り向いた。
「そうだな、あんたも今日からここの店員だからな……ほら」
蓮司くんが、カウンター席の椅子に掛けてあった布を渡してくれた。広げてみると、赤いチェック柄のエプロンだった。
「ありがと」
お礼を言って手近な席に掛け直すと、蓮司くんが首を傾げた。
「着ないのか」
「え、だって、今この格好だよ」
スーツにエプロンは、ちょっと合ってない気がする。接客や厨房の仕事じゃなきゃ、必須じゃないだろうし。
けど、蓮司くんはますます怪訝な顔をした。
「その格好で仕事をする気か?」
「だめだった?」
「運動量は、たぶんあんたが思ってるより多いぞ。それで動けるのか?」
「え?」
首を傾げていると、蓮司くんはオーダーシートとボールペンを手渡してきた。
「まずは、お客に顔と名前を覚えてもらえ……注文取りと配膳、頼んだぞ」
話は、思っていたのと全然違う方向に進んでしまっているようだった。
喫茶アルカナムの開店は、午前十一時。
適当な着替えを調達できなくて、結局スーツの上にエプロンを着けて、私は直立不動でその時を待った。蓮司くんが入口のドアを開けて、「準備中」の札を「営業中」に掛け変えると、さっそくお客さんがふたり入ってきた。
何か言わなきゃ、と思っているうちに、壮華くんの元気な声が店内へ響き渡る。
「いらっしゃいませ、空いてるお席へどうぞ!」
しまった、言いそびれた。開店まで何度もイメトレしてたのに、本番になると出てこない。どうしていいかおろおろしていると、蓮司くんの声が飛んできた。
「水、頼む」
「あ……はいっ!」
あわててお盆にお冷を乗せ、持って行く。昨夜の大集合では人との違いばかりが目についたけれど、この店に来ている妖怪さんたちは、全体的には普通の人型とそれほど変わりない。目の前の三番テーブルに座っているお客さんも、見た目は普通の小太りのおじさんだ。頭の上の狐耳以外は。
「おー、君が新しい人間の店員さんかあ。若い子は初々しくていいねえ」
妖怪基準の「若い」がどの程度なのか、わからなくて返事に困る。
「えと、ご注文をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「あー、いつものやつで」
さらに返事に困る。私が今日からの新入りだって、知ってて言ってくるのはどういうつもりなんだろう。
「すみません、いつものやつ……とは」
「いつものはいつものだよ。純米大吟醸『玉藻』」
「……はい?」
喫茶店で日本酒。それも朝の開店一番から。どこまで本気なのか冗談なのかわからない。お客さんは、皺に埋もれそうな目を細めて笑っているばかりだ。しかたなく、オーダーシートには言われたままの品名を書き込む。
「しょ、承知いたしました……ご注文、純米大吟醸玉藻。以上でよろしいでしょうか」
お客さんはにやにや微笑みつつ、何も言わない。復唱したしもういいよね、と、次の五番テーブルへ向かう。こちらのお客さんは骨が浮くくらい痩せた男の人で、顔は二十代後半くらいに見える。肌が黄色い毛皮に覆われてる以外は、やっぱり普通の人間に近い姿だ。
お冷を前に置くと、くたびれたジーンズのジャケットを着込んだ妖怪さんは、腕を組みつつじろりと私を見た。
「殺生石の欠片。毒の水」
「……ええと」
今度は飲食物ですらない。混乱しながらオーダーシートに書き入れ、復唱する。
「ご注文、殺生石の欠片と毒の水……以上でよろしいでしょうか」
お客さんが、聞こえるような舌打ちをした。
「いつ持ってくるかは訊かねえのかよ」
「あっ、はい……毒の水は、食前がよろしいでしょうか、食後にいたしますか」
液体っぽい方が飲み物だろうと、あたりをつける。お客さんはまた大きな舌打ちをした。
「半分は一緒に、半分は食後に持ってこい。気が利かねえ奴だな」
「申し訳ございません……」
頭を下げつつ、メモを書き込む。お客さんの冷ややかな視線を浴びつつ、私はカウンターに戻った。蓮司くんは、箱型のコーヒーミルのハンドルを黙々と回している。お客としてアルカナムに来ていた頃は、背景の一部みたいに見えていた「いつもの蓮司くん」だ。けれど今の私にとっては、すがりつける唯一の希望の藁だった。