影の中にて
ここはどこだろう。
真っ暗闇の中、上下左右の感覚がない。水の中を漂っているみたいだ、けれど息はできてる。星のない宇宙空間を漂っているみたいだ。無重力と言われれば、そうなのかもしれない。
手足を動かしてみても、手応えも感覚もなにもない。そもそも手足があるのかもわからない。幽体離脱、という言葉が不意に浮かんだ。ひょっとしたら、身体はなくなってしまったのかもしれない。
どうすればいいのかもわからなくて、漂うに任せていると、不意に遠くに光が見えた。どうやってあそこへ行こう、と考えていると、光の方から寄ってきてくれた。
光の中には、はっきりした映像があった。白いお皿の上に、ケーキが一切れ乗っていた。
レアチーズケーキだった。やわらかく固まった白いケーキの上に、ミントの小さな葉っぱが一枚、ちょこんと乗っている。
これ、アルカナムの定番のやつだ。季節限定ものがない時は、これかチョコレートケーキを頼んでる。一切れ口に入れると、まろやかなチーズクリームにかすかにレモンの香りがあって、とってもおいしいんだ。
味を思い出したのとほとんど同時に、隣に別の光が灯った。茶色のチョコレートケーキと、コーヒーで満ちたカップが浮かび上がる。これもアルカナムのやつだ。私の心を読んだんだろうか。
次々と、私の周りを光が包む。アルカナムの内装。壮華くんが引いてくれたタロットカード。小腹が空いたときに頼んだバタートースト……いくつもの映像が私を取り巻いていく。同じメニューの映像もいくつかあったけれど、フォークの置き方や紙ナプキンの角度は少しずつ違っている。
やがて、てっぺんに栗が乗ったモンブランが現れた。橙色のカップに、パスタみたいな細いクリームがぐるぐる巻いてあって、艶やかなシロップ煮の栗がちょこんと乗せてある。この映像に、私は確かに見覚えがあった。
あの日――私が会社を退職した日、九月三十日に、アルカナムで出してもらったモンブランだ。食べる前にスマホで撮った時、確かに、こんな感じの画像になってた。
不意に気付いた。ここに浮かんでる映像――というか画像、全部、私が撮ったやつだ。
どれもスマホで撮ったものだけど、自動でサーバに保存される設定になってたはず。だから、部屋のノートパソコンから見ることもできる。カメラロールの写真って、時々見返すと「こんなものまで撮ってたんだ」ってものも混じってたりして、楽しい。
あらためて、周りの画像たちを見る。たくさんの写真たちが、私の周りで螺旋を描いてくるくる回る。ラインダンスを踊っているみたいだ。
最初に見たレアチーズケーキは、確か、はじめてアルカナムへ来た日に撮った。あの時は蓮司くんの表情もずっと固くて、でもがんばって笑いを作ろうとしてた。壮華くんは明るく接客してくれたけど、目が笑ってないなあ、とは感じた覚えがある。でもケーキはおいしかったし、コーヒーのおかわりも格安だったから、その後もなんとなく通うようになったんだ。
その後はレアチーズケーキとチョコレートケーキが、だいたい交互に並んでいる。少しずつ二人と顔馴染みになって、壮華くんがタロットカードのサービスをしてくれるようになって……最初に引いてもらったのは何だっけ、と思ってみたら、目の前に「ソードの八」が出てきた。そうそう、これこれ。縛られて目隠しされた女の人の周りに、剣が突き立てられていて、あんまり良くは見えないカードだ。でも壮華くんによれば、縛られているのは手だけで、足は自由だから実は逃げられるんだよ、ということらしい。いつでも逃げられる、と聞かされて、ずいぶん気持ちが楽になったのを覚えている。
画像のほとんどはケーキとカードだけれど、たまにそれ以外も混ざっている。カウンターの向こうでうたた寝する蓮司くん。いつも不愛想気味なのに寝顔はかわいいんだな、と思わず撮ってしまった。そしたら壮華くんに気付かれて、一緒に写真を見て笑ったんだった。
知らない人が見たら、この画像の山はきっと退屈なだけだろう。でも私にとっては、ひとつひとつが思い出と結びついた大切なものだ。一枚だって消したくない。
(……けさないで)
どこからか声が響く。落ち着いた口調だけれど、男性とも女性ともつかない、個性と感情が乗っていない声だ。
(すてないで。だいじにして。かわいがって)
抑揚が一本調子なせいか、合成音声に聞こえなくもない。だのになぜか、話し手のひどい不安が伝わってくる。これらの画像を消さないで、と言いたいんだろうか。
「大丈夫だよ。大事な思い出だし、消したりしないから」
一昔前ならともかく、今の画像保存サービスはものすごく大容量だ。一日に一枚か二枚程度の常識的な撮り方なら、そうそういっぱいになることはない。だから、他人から見たらつまらないはずの日常写真だって、捨てずに全部置いておくことができる。
(ありがとう)
相変わらず一本調子な声から、お礼が来た。
(ずっとすてないで。ずっとだいじにして。ずっとかわいがって。ここで、ずっと)
喋りは滑らかなはずなのに、強い怯えが伝わってくる。何を怖がっているんだろう。できれば、安心させてあげたい。
「大丈夫だよ。私は――」
言いかけたとたん。
周りに浮かぶ映像が全部消し飛んだ。強烈な光に、見えるものすべてが白く塗り潰される。
「七葉! 大丈夫か!!」
「七葉さん、帰ってきてください……!!」
聞き覚えのある声ふたつが、怯えた声をかき消す。
肩を揺すられて目を開けると、蓮司くんと壮華くんが険しい表情で私を見下ろしていた。ふたりの顔の隙間に、見慣れない板張りの天井が見える。
「どうにか、取り込まれずには済んだか」
どこかから番紅花さんの声が聞こえる。身体の上に、布団の重みがある。
起き上がってみると、大きな和室だった。古そうな畳の上に布団が敷かれ、私はその上に寝かされていた。奥に神棚があって、稲荷大明神のお札やお神酒徳利、榊や三方などが並べてあった。
「母上の屋敷だ。だいぶ危ない状態だったからな、ここで母上に祓っていただいたが……無事でなによりだ」
蓮司くんが言った。
ようやく状況が思い出せてきた。確か私は、自分の部屋で「影」に襲われたはず。その後に取り込まれかけて、皆に助けてもらった……ということなんだろうか。
だとすれば、さっきのあれこれは「影」が見せてきたんだろうか。
「……ねえ。蓮司くん、壮華くん」
頭の中を整理しながら、私は呼びかけた。気になることが、いくつもあった。