「好き」のかたち
三日目の営業時間が終わった。
私は相変わらず、妖怪語の注文に振り回されてばかりだった。使われる言葉のほとんどが狐に縁あるなにかだということは、なんとなくわかってきた。けれど、それで混乱がおさまることもなかった。同じ言葉が違うものを指していたり、違う言葉が同じものを指していたり。蓮司くんたちの話を信じるなら、妖怪の言葉が何を指すか、考えても意味はないんだろうけども。
ただ、一昨日からお目見えした梢の「油揚げとネギのカリカリ焼き」に限っては、妖怪さんたちの注文もとてもわかりやすかった。皆「あのカリカリ」「油揚げの新しいの」みたいに言ってくれて、何のことか私にもすぐわかる。だから、この注文が来ると少しほっとする。新しいメニューを指定するには、妖怪さんたちも新しい言葉を使うしかないのかもしれなかった。梢はさらに新メニューを試作しているようで、キッチンではみじん切りにされた大葉の香りが、油揚げの匂いに混じって漂っていた。
梢はきっと、ここでも可愛がられるんだろう。一方で私には何もない。パソコンやスマホはちょっと使えるけれど、アルカナムには両方ともない。せめてどちらかがあれば、もう少し役に立てるのに。
うつむいていると、蓮司くんが声をかけてきた。
「……疲れているか」
「別に、そんなことないよ」
「本当か?」
蓮司くんが、じっと私の顔を覗き込んでくる。鋭い目で見つめられると、言い逃れできない。数呼吸分の気まずい沈黙の後、蓮司くんはいつもの低い声で言った。
「ほんとにあんたは、気分が顔にも魂にもすぐ出るな。妖怪の相手はそんなに疲れるか」
「疲れるよ。妖怪語、全然意味がわからないし。見た目が違うから、何考えてるのか読めないし」
「それはそうだ。人間と妖怪は、そもそもが違う存在……住まう領域も使う言葉も、なにもかも違う。違う存在の全てを理解することは、そもそも無理だ」
わかってはいると、思う。けれど言葉にされてみると、なぜかすごく虚しい。
「境目の線は踏み越えられないし、踏み越えていいものでもない。だからあんたは……人間の藤森七葉は、人間にできる範囲で働いてくれればいい。それで、俺たちは十分助かる」
助かる、と言ってもらえるのは嬉しい。けれど――
私は蓮司くんの頭の上を見た。立派な三角の狐耳が、つやつやした毛に覆われてぴんと立っている。
「でもそれだと……私と蓮司くんの間にも、線を引かなきゃいけなくなるね」
「それはそうだな」
あっさり肯定されて、面食らう。
「俺は妖狐だし、七葉は人間だ。踏み越えてはいけない線は、確かにあるはずだ」
「……だったら、蓮司くん」
虚しさが、悲しさに変わってきた。いま目の前にいる蓮司くんは、いつも仕事の愚痴を聞いてくれていた蓮司くんは、「線」の向こうのものなんだろうか。手を伸ばしちゃ、いけないものなんだろうか。
「私、蓮司くんの淹れるコーヒー好きだし……お仕事してる蓮司くん見るのも好きだよ。カウンターで黙々と豆挽いてたり、食器洗ってたりするとことか」
「それとこれとは話が別だ」
蓮司くんの声が、みるみる低くなってきた。怒ってるんだろうか、戸惑ってるんだろうか。
わからないけど、私は私の言いたいことを言うだけだ。
「ずっと励ましてもらってたよ、蓮司くんに。蓮司くんが愚痴聞いてくれてたから、前の仕事だって、クビにされるまでは続いたんだよ……そういうの、全部迷惑だったのかな」
「それは――」
言葉に詰まった様子で、蓮司くんは横を向いてしまった。なんだかとても、戸惑っている様子だ。
追い打ちをかけるわけにもいかなくて、私も黙る。この虚しさも、顔に出てるんだろうか。蓮司くんに伝わってるんだろうか。
そろそろ気まずくなってきた頃、不意に、後ろから底抜けに明るい声がした。
「兄さんが言いづらいなら、僕から答えちゃうね?」
振り向くと壮華くんが、底抜けに明るい笑顔で手を振っていた。
「待て壮華! おまえ何を言う気――」
「兄さんね、七葉さんが店に来るの、すっごく楽しみにしてたんだよ。いつも!」
え、どういうこと、それ?
「七葉さんから電話があると、もう目に見えてそわそわし始めてねえ。冷蔵庫の中身を何度も確認するし、ミルを回す手に気合が入ってるし、僕がさぼってると怒るし」
「……人間の客が他に来ないからだ」
「まあ、兄さん側はそういうことにしておこうか……でもね七葉さん、僕としては、無理に『別のもの』の間に境界線引かなくても、いいと思ってる」
壮華くんは私を見て笑った。胸の奥がとてもあったまるのは、言葉から伝わる気遣いのためだろうか。それとも、壮華くんの笑顔からだろうか。
「もちろん、混ぜられない、混ぜてはいけない部分はあるんだけどね。もう少し気軽に考えてもいいと思うんだ。おいしいコーヒーが好き。だからおいしいコーヒーを作ってくれる誰かも好き。コーヒーを作る道具が好き。コーヒー豆が好き。コーヒーカップが好き。コーヒーを飲めるお店が好き……それでいいと思ってる。僕はね」
壮華くんは、私と蓮司くんを交互に見回した。蓮司くんは相変わらず無表情だけど、浅黒い肌が、ほんの少しだけ赤く染まっている気も……する。
「もちろんそうやって広げていくと、『好き』だけじゃどうにもならない色々なことにぶち当たるんだけど……だからって、最初の『好き』を消す必要はないはずなんだ。つまり――」
壮華くんは、目を細めて何度も頷いた。まるで、自分に言い聞かせてるみたいに。
「――人間が妖狐のコーヒーを好きでも、妖狐が人間を好きでも、何の問題もないってこと!」
「待て壮華!」
蓮司くんが、壮華くんの両肩を掴んで揺する。
「俺は人間に好意を持った覚えはない!」
「例え話だよ例え話! どっかで見た感じの例え話!」
壮華くんは部屋を走り出てしまって、追いかけて蓮司くんも外へ行ってしまった。取り残された私のところには、梢が作る料理の香りだけが、ふわふわと漂ってくる。私の胸の内がふわふわするのは、きっとこの、油揚げと大葉の匂いのせいだ――いったんは、そういうことにしておこうと思った。