潮待ちの契り【短編】人魚喰い5【夏のホラー2025】
艶やかな鱗をまとった人魚たちは、珊瑚の影に身を寄せ合い、海水のぬるさに眉をひそめていた。
ひらひらと舞う尾びれは、くたびれたドレスのように揺れ、彼女たちのダンスからは、優雅な切れ味が消えた。
水温は、かつてのやさしい抱擁ではなく、肌にまとわりつく重い重い絹布のように感じられ、彼女たちの泳ぎを鈍らせ、呼吸を浅くさせていた。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
海藻の陰でひときわ美しい人魚が目を閉じ、ふぅと吐息を漏らした。
「今日も、水が、ぬるい・・・」
アレトゥサがつぶやくと、テティスが、すぐに頷いた。
「昨日よりひどいわ。ヒレが重たくて、泳ぎたくないもの。」
その隣で、デルフィネが、珊瑚のかけらをくるくると回しながら言う。
「朝、東の崖の大岩あたりに行ったけど、潮が動いてなかったわ。前は、冷たくて気持ちよかったのに・・・」
「それ、このあいだも言ってたじゃない!」
奥からすっと現れたのは、エウリュノメ。
小柄で、背中の翠色の鱗が、不気味に光っている。
「でも本当よ。あそこの珊瑚も、ここと同じで、また白くなってた。」
「海が変わってきてる。」
どこか沈んだ声でそう言ったのは、年長のペルセ。
いつもは穏やかな声も、今日はどこか沈んでいた。
「泳ぐたび、体にまとわりついてくる。水に嫌なぬめりがあるみたい。」
怒っているのか、テティスの声は、震えていた。
「ここは、わたしたちの庭だったのに・・・ホント、居心地が、悪くなっちゃったよね。」
アレトゥサは、右手で白くなった珊瑚をポキリと折りながらつぶやいた。
「前は、もっと透き通ってた。冷たくて、シュっとしてて・・・」
エウリュノメが言うと、皆が沈黙する。
「この海、どこまで変わるんだろうね。」
誰が言ったのかもわからない声が、水中に滲んだ。
答えはなかった。
ただ、重たいぬるま湯の中で、お互いの存在だけを確かめるように、彼女たちは、ゆっくりと漂っていた。
パシャリっ!
突然、ペルセが、尾を一度、強く振った。
静かな合図。
水を打つその動きが、海の空気を変えた。
いつの間にか、人間の船が、すぐ近くまで寄ってきていたのだ。
テティスが、最初に動いた。
金の尾をふわりとなびかせて、何も言わず南の岩棚へと泳ぐ。
エウリュノメは、ひと呼吸遅れて、翠色の鱗を不気味に光らせながら東の深場へ。
ペルセは、しばらく動かず、名残惜しそうに珊瑚の影を見つめたあと、やがて小さく体をひねって、すっと北の方角へ消えた。
きらめきだけが、小さな名残を残し、音もなく散っていく。
尾びれが残す波紋が、広がってはすぐ消え、人魚たちの会話の終わりを告げていた。
アレトゥサは、動かずにいた。
残された水が、さっきよりほんの少し冷たく、そして少しだけ静かになる。
海は、どこまでも青く、深く、少しの冷たさが、離れがたく感じるほど恋しかった。
しばらくの間、漂う砂の粒を見つめると、ゆっくりと、彼女も泳ぎ出した。
もうそこに、仲間たちの影はなかった。
彼女は、珊瑚の間を縫って、近くの海草の森へと尾びれを強く打って進んだ。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
アレトゥサは、美しい人魚である。
濡れた黒髪は、水面にたゆたう月のように光り、瞳は深淵の底から覗く碧き夜のよう。
肌は淡く白く、細かな泡をまとうように冷たくなめらか。
背には、微かな鱗がきらめき、水の神秘をまとう。
それは、満月。
月が満ちる夜、人魚は、本性を現わす。
ギラリと光る瞳、鋭い牙、湿った鱗が月光に照らされ、異形の美を放つ。
水面を割って上がり、陸に向かう姿は、夜を統べる海の女王。
けれど、彼女の目は、優しくない。
それは、獲物を捉える者の鋭さ。
顔に張り付く笑みは、冷ややか。
人を見つければ静かに近づき、戸惑う間もなくその命を喰らうのだ。
アレトゥサは、美しい女である。
人魚の性別は、女だけだ。
人魚には、女しか生まれない。
それは、古代から続く種の理。
新月の夜。
空が光を失った夜に、彼女らは、人に似た姿で海から現れる。
尾びれは消え、するりと生えた長く美しい足で陸を歩く。
声は、波が砂を撫でるように優しく、男の心にじわりと染み入る。
人に近づき、言葉少なに目を合わせ、静かに交わる。
冷たく、しかし、抗えないほど魅惑的な体は、水が形をとったかのよう。
彼女たちは、人間の男と交わることで命を宿し、海の底にて静かに子を産むのだ。
命の繋がりを守ってきたのは、自然との調和と、月の周期に合わせた生の営みであった。
しかし、ここ500年で、状況は激変した。
子を宿す適齢の人魚が、目に見えて減っているのだ。
15世紀から17世紀にかけての大航海時代に起こったヒトによる人魚の乱獲。
そして、近年は、水温の上昇で若くして病に倒れる者、水の毒にやられ身籠る力を失う者、人の網にかかり姿を消す者が増えた。
こうして、海辺に近寄ることすら危険になり、陸にあがる人魚の数が、減る。
当然のごとく、陸に上がらねば、交配は、出来ない。
その上、交わりの儀式が成立しても、命を宿す者はごくわずか。
以前は、年に10以上の新たな命が産まれたが、今では10年に一人の人魚が産まれれば、良いほうであった。
残された人魚たちの間には、言葉にできない焦燥と、静かな絶望が広がっていた。
産めぬ身体、減る仲間。
誰かが死んでも、次が、産まれない。
海底には、子どもの声が、響かなくなった。
水の中を漂う不安が空虚に揺れていた。
若き人魚のアレトゥサもまた、自分の身体の沈黙に苦しんでいた。
彼女は、これまで三度、人と交わったが、一度も子を宿さなかった。
自分の身体が壊れているのか?
命を繋ぐべき相手が間違っていたのか?
答えが分からぬまま、時間だけが流れていく。
「私たちは、もう終わりなのかもしれない。」
年長のペルセなどは、そう言って、すでに出産を諦めていた。
かつて白く光っていた彼女の肌は、まだらに変色し、背のうろこには、ひびが入っていた。
年齢もまだ比較的若く、本来なら出産が可能であるはずの彼女ですら、産む意思を失っていたのだ。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
ある夜のこと。
この海域の長老が、近海に住む人魚たちに招集をかけた。
年長のペルセも、エウリュノメも、もちろんアレトゥサも、海底の長老の元へと向かった。
しかし、テティスとデルフィネが居ない。
長老である人魚が、おもむろに口を開き告げた。
「テティスとデルフィネが、ヒトに殺された。」
千鳥浦の沖合に、漁師が仕掛けた大型の網。
ふたりは、その網にかかったのだ。
水中に張られたその網に絡まり、逆さに吊られるような形で捕らえられた「異形」のふたりは、水面に引き上げられ、自衛隊の運搬で、大学の研究室へと送られることとなった。
研究室で行われたのは、冷徹な解剖。
内臓の構造、筋肉の働き、水かきの機能、生殖器の形状・・・全てを調べ尽くす目的で、何度も、何日にも渡って生体実験が繰り返された。
デルフィネなどは、生きたまま麻酔も無く、その腹を裂かれたという。
人魚の肉体は強靭で、食物さえあれば、回復力が高い。
しかし、それは、ヒトにとって都合のいい「素材」を意味した。
水は、記憶を運ぶ。
彼女たちの悲鳴は、厚い研究室の壁で阻まれるも、その血の記憶と痛みは、下水を伝って海へと流れ、長老へと伝わった。
「ヒトは、我らを殺した。そして、人の手によって汚された水で、我らは産めぬ。ならば、人の血で再び水を清めるしかない。今宵は、新月。月明りも無く、足も生える。」
その言葉に、沈黙が、海底を満たした。
復讐、怒り、生存のための選択。
女しか生まれぬ種が、産めぬまま消えていく・・・
『命を、喰らう』
それが、最後に残された、長老の意志だった。
「待ってください。」
声をあげたのは、アレトゥサであった。
「人間にも、色々な者が、居ります。海水の温度を気にして、サンゴをもとに戻そうと努める者。海を愛し、海神に祈り、舞を捧げる者。夏子などは、怪我をしたわたしのために、毎日大量の魚まで持ってきてくれました。」
「アレトゥサ、お前は、ヒトに心を預けすぎた。喰らい続けるうちに、逆に、ヒトに取り込まれ、種の誇りを失ったか。」
年長のペルセが、声を荒げた。
「そうだ、ヒトの記憶や想いに触れすぎた者は、それに取り込まれ、ヒトの理で語る。だが我らは人魚。我らの理屈は、海の理だ。」
エウリュノメは、翠色の鱗を不気味に光らせながらアレトゥサを見据え、静かに言った。
長老は、カッと目を見開き、人魚たちに告げた。
「今こそ海の民として、ヒトに裁きを下す時。我らは、忘れぬ。我らは、許さぬ。流された血には、血で応える。それが、我らの生。」
水は、まだここにある。
しかし、その水が、かつての水ではない。
それは、命を育む水ではなく、静かに種を腐らせていく。
このままでは、自分たちは、ただ消えていくだけだと。
子を産める者が減り、生まれる者が途絶えれば、すべてが水とともに流れ去る。
長老は、ふたたび言い放った。
「今宵、人の血をもって、海を清める。」
その言葉に反対する者はおらず、沈黙が、海底を満たした。
人魚たちは一体となり、海から陸、浜から街へと移動した。
身体は、ぬらりと黒光りし、不吉な翠色の鱗が、ヒトの喉を裂き、声を奪い、腹を食い破った。
人魚たちは、人々の家々に現れた。
その姿は、美しく、恐ろしく、その声は、甘やかに、残酷に響く。
そして、その瞳に宿るのは、容赦なき怒りだった。
「お前たちが、奪ったものを、返してもらう。」
その言葉通り、子ども、大人も、老人も・・・関係なく襲われた。
人間は、もはやただの獲物であった。
大地に喰われたヒトの血が染み込み、海面に喰われたヒトの残骸が浮かび、隠れた光なき月は、ひっそりと宴を見守った。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
「こうして、人魚たちは、海辺の人を駆逐し、海岸沿いを制圧したの。」
岩に囲まれた狭い空間。
その中心に座するのは、語り部の婆さま・・・鈴木七海。
語り部の婆さまの周りを囲み、昔語りに耳を傾けるのは、子供たち。
「嘘だぁ。今、陸に人魚なんて居ないよっ!そんなの信じられないっ。」
語り部を囲む少女の一人が、声をあげた。
「えぇ、人魚は、今、陸にはいないわ。だって、人間を食べた人魚は、その記憶や性格・・・強い想いを受け継いでしまうから。」
語り部の婆さまは、少女にそう答えた。
そう・・・陸に上がり、多くの人間たちを喰らった人魚は、人間本来の性質を強く受け継いだ。
ただの人魚では起こり得ぬことであったが、その仲間同士で、縄張り争いをはじめたのだ。
こうして、陸にあがった人魚たちは、共食いで全てが居なくなり、わずかに生き延びたのは、あの新月の夜、海に残り、人間の『命を、喰らう』ことを拒んだごく少数の人魚たちだけ。
「だから、今、人魚は、海にしかいないのよ。」
そう告げた語り部の婆さま・鈴木七海に、少女が何か言い返そうとした瞬間であった。
パシャリっ!
突然、鈴木七海が、尾を一度、強く振った。
静かな合図。
水を打つその動きが、人魚たちの浮かぶ巫女の大岩周辺の海の空気を変えた。
いつの間にか、人間の船が、すぐ近くまで寄ってきていたのだ。
最も若いスキュラが、最初に動いた。
金の尾をふわりとなびかせて、何も言わず南の岩棚へと泳ぐ。
ディオネは、ひと呼吸遅れて、明るい紅色に鱗を光らせながら東の深場へ。
さきほどまで、「嘘だ。陸に人魚なんて居ない。」と騒いでいたトリトネーは、しばらく動かず、名残惜しそうに語り部の婆さま・鈴木七海の顔を見たあと、やがて小さく体をひねって、すっと北の方角へ消えた。
きらめきだけが、小さな名残を残し、音もなく散っていく。
尾びれが残す波紋が、広がってはすぐ消え、人魚たちの話の終わりを告げていた。
アレトゥサこと人魚の語り部・鈴木七海は、動かずにいた。
岩場の海は、どこまでも碧く、その波が、離れがたく感じるほど懐かしかった。
しばらくの間、波に打たれる岩場を見つめた鈴木七海は、ゆっくりと泳ぎ出した。
彼女は、珊瑚の間を縫って、近くの海草の森へと尾びれを強く打って進んだ。
もうそこに、彼女を囲んでいた自身の子供たちの姿はなかった。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
光は、海面に砕け、ガラスのようなさざ波が静かに揺れる。
海は語らぬまま、すべてを知っているような眼差しでこちらを見つめる。
砂は、白磁のようにさらりと滑らか。
その下には、遠い記憶が、眠っている。
波は、一定のリズムで岸を叩き、まるで古くから続く目に見えぬ祈りの舞のよう。
風は、名を持たぬものの声を運び、耳を澄ませば、心の奥底に何かが目覚める。
すべてが静かで、すべてが生きている。
碧は、ただの色ではなく、魂を包みこむ深淵。
巫女の大岩は、今日も波に打たれる。
そこに立つとき、ヒトは、何かに見つめられていることに気づく。
波穏やかな南海の果て「千鳥浦」・・・
その美しい海の底で、白い波と共に、何かが、じぃっとヒトを見つめ続けている。