表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ホラー

潮待ちの契り【短編】人魚喰い5【夏のホラー2025】

艶やかな鱗をまとった人魚たちは、珊瑚の影に身を寄せ合い、海水のぬるさに眉をひそめていた。


ひらひらと舞う尾びれは、くたびれたドレスのように揺れ、彼女たちのダンスからは、優雅な切れ味が消えた。


水温は、かつてのやさしい抱擁ではなく、肌にまとわりつく重い重い絹布のように感じられ、彼女たちの泳ぎを鈍らせ、呼吸を浅くさせていた。


◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇


海藻の陰でひときわ美しい人魚が目を閉じ、ふぅと吐息を漏らした。


「今日も、水が、ぬるい・・・」


アレトゥサがつぶやくと、テティスが、すぐに頷いた。


「昨日よりひどいわ。ヒレが重たくて、泳ぎたくないもの。」


その隣で、デルフィネが、珊瑚のかけらをくるくると回しながら言う。


「朝、東の崖の大岩あたりに行ったけど、潮が動いてなかったわ。前は、冷たくて気持ちよかったのに・・・」


「それ、このあいだも言ってたじゃない!」


奥からすっと現れたのは、エウリュノメ。


小柄で、背中の翠色の鱗が、不気味に光っている。


「でも本当よ。あそこの珊瑚も、ここと同じで、また白くなってた。」


「海が変わってきてる。」


どこか沈んだ声でそう言ったのは、年長のペルセ。


いつもは穏やかな声も、今日はどこか沈んでいた。


「泳ぐたび、体にまとわりついてくる。水に嫌なぬめりがあるみたい。」


怒っているのか、テティスの声は、震えていた。


「ここは、わたしたちの庭だったのに・・・ホント、居心地が、悪くなっちゃったよね。」


アレトゥサは、右手で白くなった珊瑚をポキリと折りながらつぶやいた。


「前は、もっと透き通ってた。冷たくて、シュっとしてて・・・」


エウリュノメが言うと、皆が沈黙する。


「この海、どこまで変わるんだろうね。」


誰が言ったのかもわからない声が、水中に滲んだ。


答えはなかった。


ただ、重たいぬるま湯の中で、お互いの存在だけを確かめるように、彼女たちは、ゆっくりと漂っていた。


  パシャリっ!


突然、ペルセが、尾を一度、強く振った。


静かな合図。


水を打つその動きが、海の空気を変えた。


いつの間にか、人間の船が、すぐ近くまで寄ってきていたのだ。


テティスが、最初に動いた。


金の尾をふわりとなびかせて、何も言わず南の岩棚へと泳ぐ。


エウリュノメは、ひと呼吸遅れて、翠色の鱗を不気味に光らせながら東の深場へ。


ペルセは、しばらく動かず、名残惜しそうに珊瑚の影を見つめたあと、やがて小さく体をひねって、すっと北の方角へ消えた。


きらめきだけが、小さな名残を残し、音もなく散っていく。


尾びれが残す波紋が、広がってはすぐ消え、人魚たちの会話の終わりを告げていた。


アレトゥサは、動かずにいた。


残された水が、さっきよりほんの少し冷たく、そして少しだけ静かになる。


海は、どこまでも青く、深く、少しの冷たさが、離れがたく感じるほど恋しかった。


しばらくの間、漂う砂の粒を見つめると、ゆっくりと、彼女も泳ぎ出した。


もうそこに、仲間たちの影はなかった。


彼女は、珊瑚の間を縫って、近くの海草の森へと尾びれを強く打って進んだ。


◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇


アレトゥサは、美しい人魚である。


濡れた黒髪は、水面にたゆたう月のように光り、瞳は深淵の底から覗く碧き夜のよう。


肌は淡く白く、細かな泡をまとうように冷たくなめらか。


背には、微かな鱗がきらめき、水の神秘をまとう。


それは、満月。


月が満ちる夜、人魚は、本性を現わす。


ギラリと光る瞳、鋭い牙、湿った鱗が月光に照らされ、異形の美を放つ。


水面を割って上がり、陸に向かう姿は、夜を統べる海の女王。


けれど、彼女の目は、優しくない。


それは、獲物を捉える者の鋭さ。


顔に張り付く笑みは、冷ややか。


人を見つければ静かに近づき、戸惑う間もなくその命を喰らうのだ。


アレトゥサは、美しい女である。


人魚の性別は、女だけだ。


人魚には、女しか生まれない。


それは、古代から続く種の理。


新月の夜。


空が光を失った夜に、彼女らは、人に似た姿で海から現れる。


尾びれは消え、するりと生えた長く美しい足で陸を歩く。


声は、波が砂を撫でるように優しく、男の心にじわりと染み入る。


人に近づき、言葉少なに目を合わせ、静かに交わる。


冷たく、しかし、抗えないほど魅惑的な体は、水が形をとったかのよう。


彼女たちは、人間の男と交わることで命を宿し、海の底にて静かに子を産むのだ。


命の繋がりを守ってきたのは、自然との調和と、月の周期に合わせた生の営みであった。


しかし、ここ500年で、状況は激変した。


子を宿す適齢の人魚が、目に見えて減っているのだ。


15世紀から17世紀にかけての大航海時代に起こったヒトによる人魚の乱獲。


そして、近年は、水温の上昇で若くして病に倒れる者、水の毒にやられ身籠る力を失う者、人の網にかかり姿を消す者が増えた。


こうして、海辺に近寄ることすら危険になり、陸にあがる人魚の数が、減る。


当然のごとく、陸に上がらねば、交配は、出来ない。


その上、交わりの儀式が成立しても、命を宿す者はごくわずか。


以前は、年に10以上の新たな命が産まれたが、今では10年に一人の人魚が産まれれば、良いほうであった。


残された人魚たちの間には、言葉にできない焦燥と、静かな絶望が広がっていた。


産めぬ身体、減る仲間。


誰かが死んでも、次が、産まれない。


海底には、子どもの声が、響かなくなった。


水の中を漂う不安が空虚に揺れていた。


若き人魚のアレトゥサもまた、自分の身体の沈黙に苦しんでいた。


彼女は、これまで三度、人と交わったが、一度も子を宿さなかった。


自分の身体が壊れているのか?


命を繋ぐべき相手が間違っていたのか?


答えが分からぬまま、時間だけが流れていく。


「私たちは、もう終わりなのかもしれない。」


年長のペルセなどは、そう言って、すでに出産を諦めていた。


かつて白く光っていた彼女の肌は、まだらに変色し、背のうろこには、ひびが入っていた。


年齢もまだ比較的若く、本来なら出産が可能であるはずの彼女ですら、産む意思を失っていたのだ。


◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇


ある夜のこと。


この海域の長老が、近海に住む人魚たちに招集をかけた。


年長のペルセも、エウリュノメも、もちろんアレトゥサも、海底の長老の元へと向かった。


しかし、テティスとデルフィネが居ない。


長老である人魚が、おもむろに口を開き告げた。


「テティスとデルフィネが、ヒトに殺された。」


千鳥浦の沖合に、漁師が仕掛けた大型の網。


ふたりは、その網にかかったのだ。


水中に張られたその網に絡まり、逆さに吊られるような形で捕らえられた「異形」のふたりは、水面に引き上げられ、自衛隊の運搬で、大学の研究室へと送られることとなった。


研究室で行われたのは、冷徹な解剖。


内臓の構造、筋肉の働き、水かきの機能、生殖器の形状・・・全てを調べ尽くす目的で、何度も、何日にも渡って生体実験が繰り返された。


デルフィネなどは、生きたまま麻酔も無く、その腹を裂かれたという。


人魚の肉体は強靭で、食物さえあれば、回復力が高い。


しかし、それは、ヒトにとって都合のいい「素材」を意味した。


水は、記憶を運ぶ。


彼女たちの悲鳴は、厚い研究室の壁で阻まれるも、その血の記憶と痛みは、下水を伝って海へと流れ、長老へと伝わった。


「ヒトは、我らを殺した。そして、人の手によって汚された水で、我らは産めぬ。ならば、人の血で再び水を清めるしかない。今宵は、新月。月明りも無く、足も生える。」


その言葉に、沈黙が、海底を満たした。


復讐、怒り、生存のための選択。


女しか生まれぬ種が、産めぬまま消えていく・・・


『命を、喰らう』


それが、最後に残された、長老の意志だった。


「待ってください。」


声をあげたのは、アレトゥサであった。


「人間にも、色々な者が、居ります。海水の温度を気にして、サンゴをもとに戻そうと努める者。海を愛し、海神に祈り、舞を捧げる者。夏子などは、怪我をしたわたしのために、毎日大量の魚まで持ってきてくれました。」 


「アレトゥサ、お前は、ヒトに心を預けすぎた。喰らい続けるうちに、逆に、ヒトに取り込まれ、種の誇りを失ったか。」


年長のペルセが、声を荒げた。


「そうだ、ヒトの記憶や想いに触れすぎた者は、それに取り込まれ、ヒトの理で語る。だが我らは人魚。我らの理屈は、海の理だ。」


エウリュノメは、翠色の鱗を不気味に光らせながらアレトゥサを見据え、静かに言った。


長老は、カッと目を見開き、人魚たちに告げた。


「今こそ海の民として、ヒトに裁きを下す時。我らは、忘れぬ。我らは、許さぬ。流された血には、血で応える。それが、我らの生。」


水は、まだここにある。


しかし、その水が、かつての水ではない。


それは、命を育む水ではなく、静かに種を腐らせていく。


このままでは、自分たちは、ただ消えていくだけだと。


子を産める者が減り、生まれる者が途絶えれば、すべてが水とともに流れ去る。


長老は、ふたたび言い放った。


「今宵、人の血をもって、海を清める。」


その言葉に反対する者はおらず、沈黙が、海底を満たした。


人魚たちは一体となり、海から陸、浜から街へと移動した。


身体は、ぬらりと黒光りし、不吉な翠色の鱗が、ヒトの喉を裂き、声を奪い、腹を食い破った。


人魚たちは、人々の家々に現れた。


その姿は、美しく、恐ろしく、その声は、甘やかに、残酷に響く。


そして、その瞳に宿るのは、容赦なき怒りだった。


「お前たちが、奪ったものを、返してもらう。」


その言葉通り、子ども、大人も、老人も・・・関係なく襲われた。


人間は、もはやただの獲物であった。


大地に喰われたヒトの血が染み込み、海面に喰われたヒトの残骸が浮かび、隠れた光なき月は、ひっそりと宴を見守った。


◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇


「こうして、人魚たちは、海辺の人を駆逐し、海岸沿いを制圧したの。」


岩に囲まれた狭い空間。


その中心に座するのは、語り部の婆さま・・・鈴木七海。


語り部の婆さまの周りを囲み、昔語りに耳を傾けるのは、子供たち。


「嘘だぁ。今、陸に人魚なんて居ないよっ!そんなの信じられないっ。」


語り部を囲む少女の一人が、声をあげた。


「えぇ、人魚は、今、陸にはいないわ。だって、人間を食べた人魚は、その記憶や性格・・・強い想いを受け継いでしまうから。」


語り部の婆さまは、少女にそう答えた。


そう・・・陸に上がり、多くの人間たちを喰らった人魚は、人間本来の性質を強く受け継いだ。


ただの人魚では起こり得ぬことであったが、その仲間同士で、縄張り争いをはじめたのだ。


こうして、陸にあがった人魚たちは、共食いで全てが居なくなり、わずかに生き延びたのは、あの新月の夜、海に残り、人間の『命を、喰らう』ことを拒んだごく少数の人魚たちだけ。


「だから、今、人魚は、海にしかいないのよ。」


そう告げた語り部の婆さま・鈴木七海に、少女が何か言い返そうとした瞬間であった。


  パシャリっ!


突然、鈴木七海が、尾を一度、強く振った。


静かな合図。


水を打つその動きが、人魚たちの浮かぶ巫女の大岩周辺の海の空気を変えた。


いつの間にか、人間の船が、すぐ近くまで寄ってきていたのだ。


最も若いスキュラが、最初に動いた。


金の尾をふわりとなびかせて、何も言わず南の岩棚へと泳ぐ。


ディオネは、ひと呼吸遅れて、明るい紅色に鱗を光らせながら東の深場へ。


さきほどまで、「嘘だ。陸に人魚なんて居ない。」と騒いでいたトリトネーは、しばらく動かず、名残惜しそうに語り部の婆さま・鈴木七海の顔を見たあと、やがて小さく体をひねって、すっと北の方角へ消えた。


きらめきだけが、小さな名残を残し、音もなく散っていく。


尾びれが残す波紋が、広がってはすぐ消え、人魚たちの話の終わりを告げていた。


アレトゥサこと人魚の語り部・鈴木七海は、動かずにいた。


岩場の海は、どこまでも碧く、その波が、離れがたく感じるほど懐かしかった。


しばらくの間、波に打たれる岩場を見つめた鈴木七海は、ゆっくりと泳ぎ出した。


彼女は、珊瑚の間を縫って、近くの海草の森へと尾びれを強く打って進んだ。


もうそこに、彼女を囲んでいた自身の子供たちの姿はなかった。


◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇


光は、海面に砕け、ガラスのようなさざ波が静かに揺れる。


海は語らぬまま、すべてを知っているような眼差しでこちらを見つめる。


砂は、白磁のようにさらりと滑らか。


その下には、遠い記憶が、眠っている。


波は、一定のリズムで岸を叩き、まるで古くから続く目に見えぬ祈りの舞のよう。


風は、名を持たぬものの声を運び、耳を澄ませば、心の奥底に何かが目覚める。


すべてが静かで、すべてが生きている。


碧は、ただの色ではなく、魂を包みこむ深淵。


巫女の大岩は、今日も波に打たれる。


そこに立つとき、ヒトは、何かに見つめられていることに気づく。


波穏やかな南海の果て「千鳥浦」・・・


その美しい海の底で、白い波と共に、何かが、じぃっとヒトを見つめ続けている。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ