第五話
ヴェルカの姿が森の闇に消えていく。
ヴァイスはそれを追うこともなく任務完了の報告を行うために歩き始める。
しばらくするとヴァイスの元に影が近づいてくる。
「こちらの処理も終わりました」
数人の男たちがヴァイスの前で足を止めると、そのうちの1人が報告した。
『……そうか、ご苦労』
ヴァイスは一度だけ屋敷の方へ視線を向ける。
領主の屋敷は確かにそこに存在していたが、生き物の気配を感じさせなかった。
戻るぞ、と部下に告げると男たちも頷いて従う。
「お待ちください、ヴァイス様。少々宜しいでしょうか。」
ヴァイスを呼び止める声。
声の主は執事服に身を包んだ若い男、ヨシュアであった。
ヴァイスが動きを止めたことを続きを話す許可と受け取ったヨシュアは深々と礼をすると報告を続ける。
「領主たちの間には娘がいます」
『…続けろ』
ヴァイスは冷静な声で続きを促した。
「使用人の死体の中に、アンナという侍女の姿がありませんでした…恐らく領主達がエントランスに向かう直前に娘を侍女に託して逃がしたのかと…」
ヴァイスはヨシュアの報告に耳を傾けていた。
『…ならさっさと処理しておけ』
「かしこまりました」
ヨシュアは再び礼をすると集団から離れて、迷うことなく森の中に入っていった。
彼の口元には僅かに笑みが浮かんでいた。
―――――――――――――
「ヴァイス様……宜しいのですか?」
ヨシュアが領主の娘とアンナを追って森に消えていった後、考えを巡らせていた部下の1人が口を開いた。
部下の視線はヴァイスと森の中を交互に見ている。
『何がだ』
ヴァイスは静かに問うた。
「ヨシュアのことです。あの男は最初から使用人の数が足りないことをわかっていたはずです…我々をもしも裏切っていたのなら……」
『裏切り者は信用できない、と?』
ヴァイスは部下の言葉を遮る。
雨が落ちる音だけが響く中、部下は黙ることで肯定した。
『裏切り者は使いやすい』
ヴァイスは興味もなさそうに言った。
『次も裏切るからな』
部下たちにはヴァイスが鼻で笑ったように聞こえた。
その言葉を聞いた部下は雨の音が急に増した気がしていた。
―――――――――――――
「はぁ、はぁ…」
雨が降っている。
木々が傘になっているというのに、雨量が多すぎて目も開けていられないほどであった。
雨は氷のように冷たく、体に当たるたびに息が止まりそうになる。
衣服は雨を吸収していつもより重く、そして肌に張り付いて気持ち悪かった。
おろしたての白い靴下も泥が跳ねて見る影もない。
「はぁ、はぁ…」
アンナはなるべく早く、一直線に走っていた。
木々の隙間を抜けて躓きながらも懸命に走っていた。
彼女の腕の中にはローアンとルーナに託された小さな生命が息をしている。
アンナは小さな生命が雨に濡れてしまわないように出来るだけ体で覆って走っていく。
襲撃者には気が付かれていないと、そう言い聞かせながら。
時折、背後を振り返ると誰の姿もないことを確認して再び前を向いて走る。
アンナは何処に向かっているのかもすでに分からなくなっていた。
(大丈夫です…!今頃、ローアン様が何とかしてくれているはずです…!)
ローアンやルーナ、屋敷の仲間たちの顔を思い出して泣きそうになる。
ふいに泥濘に足を取られる。
「わっ…!」
(危ない…!)
バランスを崩して勢い良く倒れるが何とか幼子に衝撃がいかないように両手を伸ばして地面から離した。
その代わりにアンナは顔も含めて前面を泥に塗れることになってしまった。
口から土の味がする、そんなことも気にする余裕もなく、彼女は幼子の無事を確かめるために体を起こした。
奇跡的に泥も付いておらず無事であったため安堵の息を吐いて立ち上がるために足に力を込める。
「痛ッ!」
足を取られた拍子に足を変にひねってしまったのだろう。
アンナは鋭い痛みにしゃがみ込んでしまう。
(こんな時に…!)
辺りを見渡すと大きな大木の存在。
幸運なことに大木には虚があったので足を引き摺りながら幼子と身を寄せて隠れることにした。
アンナはどれくらいの時間が経っているのだろうと考えてはみたが、分かるわけもなかった。
ただ夜の闇に目が慣れていたことからある程度は経っているのではと当たりをつけた。
(そのうち迎えも来るはずです…!)
アンナはそれまで誰も来ないでと心の中で祈り続けていた。
雨は降り続けている。
一息つける場所に身を寄せたことで襲撃や緊張、慣れない道を走った反動が出てしまい、すぐにでも瞼が落ちそうになっていた。
その度に頭を振って、意識を取り戻している。
胸の中の幼子を覗き込むと未だにすやすやと眠っていた。
(ローアン様やルーナ様が言っていたように、この子は大物になりますね…)
人の気も知らないでと眠り続ける幼子に苦笑するアンナ。
涎を拭ってあげると幼子は口をもぐもぐと動かす。
その仕草にアンナの表情は慈愛の笑みへと変わる。
アリアの安らかな寝顔を見ながら雨音に混じる幼子の寝息を聞いていると妙に心が安らぐのを感じていた。




