散る命、進む歴史【参】
一琉から聞いた話では、桂は長州が政界復帰する為に日々奔走しているという。
女中として働く雛乃に何ら価値はない。だが“藤森雛乃”としてなら話は別だ。
この時代、京に根付く藤森の影響力は凄まじい。藤森の姫として、雛乃を手中に収めれば長州の力が増すのは目に見えている。
それに、雛乃は先の時代から来た人間だ。これからの情勢、事件、人の生死、歴史の流れを知っている。桂からしてみれば、喉から手が出る程に欲しい存在だろう。
「……私に、求めても何も出来ませんよ」
桂の思惑を読み取り、雛乃は眉を寄せ桂から視線を外した。
今の雛乃にとって、最優先事項は芹沢派の行く先だ。長州や藤森に構っている暇はない。
拒絶とも取れる雛乃の言葉に、桂は目線を下へと向ける。
「……成程。今の雛にとって大事なのは壬生の狼達か。稔麿程ではないが、やはり妬けるね」
何処か寂しげな声色に、雛乃は思わず顔を桂の方へと戻すが、桂の笑みは崩れていなかった。雛乃と目が合い桂は笑みを深める。
「そんなに警戒しなくても何もしないよ。本当に今日は、君に会いたかっただけだから。元気ならばそれで良い」
桂はそう言って雛乃の頭を優しく撫でた。子供扱いされるのを極端に嫌う雛乃の表情は更に曇っていく。
それに気付きながらも桂は、雛乃の頭から手を離す事はなかった。撫でやすい頭だなぁ、と嬉しそうに撫で続けている。
暫しの間、雛乃の頭を堪能した桂は頭から手を離すと腕を組み息を吐いた。
「悪かったね。引き留めてしまったお詫びに私が、目的地まで送り届けてあげるよ」
「えっ? 結構で、」
「祇園の山緒。雛は其処に向かい、新見の死を見届けるつもりなんだろう?」
雛乃の言葉を遮り、桂は笑顔でさらりとそう告げた。
雛乃は驚きに目を見開き桂を凝視する。そんな雛乃とは対照的に、桂は穏やかに笑っていた。
新見が今日死ぬ事自体、外部の者が知る筈が無い。新見に切腹を申し付ける土方達以外で知るのは、ごく一部だ。
笑みを絶やさず自分を見つめる桂を一瞥し、雛乃は口を開いた。
「一琉さんから、聞いたんですね」
「ああ、そうだよ。君がこれから何をするのかも、彼から全て聞き出した」
口外するなとは言われていたがね、と苦笑を浮かべる桂に雛乃は、何とも言えない感情が渦巻く。
桂の思惑が分からなかった。政に活用出来る自分を手に入れようとはせず、雛乃の私情を知り手助けをしようとしてくる。
一体、彼は何をしたいのか。
此方の反応を楽しんでいるだけなのだろうか。それとも、何か意図があっての行動なのか。
桂を睨み付けても笑顔で躱される。桂の飄々とした態度に、雛乃はいつもの調子を尽く狂わされていた。
額に掌を当て息を吐くと、雛乃は桂に視線を戻す。
「……何も、手を出さないつもりなんですか。最終的には、貴方方の仕業にされるんですよ」
「ははは、確かに腹立たしくはあるが、今回は傍観に徹するつもりさ。壬生狼同士で潰し合ってくれるのは、此方として有難い事だからね」
新見は協力者でもあったが、助けるつもりは毛頭なかった。芹沢の意に沿う為に長州と手を組んでいた男だ。自分だけ生き延びる道など、選ぶ筈がない。
見逃し、最後の娯楽の場を与える事だけが桂達に出来る唯一の手助けだった。
「……でも、簡単には朽ちないだろうね。新見や芹沢が堕ちても目障りな狼が多数いる。芹沢が斬り捨てて逝ってくれたら、どんなに楽か」
「芹沢さんはそんな事、絶対にしませんよ」
壬生浪士組の事を思い、自らの命を土台にと差し出したのだ。武士の誇りとして刀は抜いても土方や近藤を殺す事はしない。
「理解もしているんだね、彼等の事を」
怯えながらも、澄んだ瞳で自分を睨み付ける雛乃に桂はゆっくりと目を細めた。
揺るぎない強き思い。幾ら説得しても、今の雛乃に自分の気持ちは届かないだろう。やはり、吉田の言うように、失った過去の記憶を取り戻させるのが先のようだ。
「そう睨まないでくれないか。……ああ、そうだ。そろそろ動かないと手遅れになってしまうよ」
桂の指摘に雛乃はハッとする。呉服屋からこの通路に至るまで少なくとも四半刻は経過しており、半日が過ぎようとしていた。
つまり、新見の命の期限も残り僅か。
「い、急がないと――、ッ!?」
「焦る必要はない。ちゃんと目的地までは送り届けるからね」
桂の声が通路に響いたと同時に、雛乃の首筋に素早く手刀が打たれる。
時間が無い。そう焦った雛乃は完全に気を抜いていた。霞む視界。顔を上げ桂の姿を瞳に映せば、彼は哀れみの表情を見せている。
「まだ此方側ではない君に、通路の全てを見せる訳にはいかないんだ。――すまないね」
雛乃は何処か遠くに聞こえる桂の謝罪を耳に残し、そのまま意識を失った。
意識を失い倒れ込んだ雛乃を抱き抱えると、桂は後方にいる楠へ視線を向ける。
「さぁ、先を急ごうか」
にこやかにそう告げる桂は、先程の行為をしたとは思えない程に爽やかだった。
だが、桂に抱き上げられ深い眠りへと落ちた雛乃を見るとやはり実際に起きた事なのだと実感する。
「桂先生。こんな事をして、吉田先生に怒られないんでしょうか」
桂の後に続くように、足を動かし歩き始めた楠は小さく息を吐いた。
今回、雛乃との邂逅は桂の独断によるものだ。藤森邸に滞在している吉田や一琉すら把握していない。吉田の知らぬ所で、雛乃の心情を揺さ振った挙句、手荒に眠らせたとなれば吉田は黙っていないだろう。
「ははは、間違いなく憤慨するだろうね。雛の事になると、稔麿は冷静さを無くすから」
楠の心配を余所に桂は笑い飛ばした。もし、そのような事になっても、乗り切れる自信が桂にはあったからだ。
桂の言う打開策。それは大半が他の者に責任を押し付けるもの。今回は確実に自分に皺寄せがくる。そう悟った楠は、眉間に深く皺を刻んだ。
「……前回のように、全てを丸投げするのは止めて下さいね?」
「気を付けるよ」
軽く手を振り頷く桂は、どう見ても反省しているように見えない。同じ事が繰り返されるだろう、と楠は心の中で悪態をついた。
「――楠君。君は雛をどう思う?」
「はっ?」
楠は突拍子な桂の問いに驚き、思わず動作を停止する。どう思う、とは一体どういう意味での問いなのだろうか。
動きが固くなった楠に桂はああ、と笑みを溢し再び手を横に振った。
「違う違う。そういう意味ではなくてね。君の目から見て彼女はどう見える? 女中として、このまま浪士組に置いておくべきだと思うかい?」
「……ああ、そういう事ですか……」
楠は安堵の息を吐いた。雛乃に好意を持っているか否かと意味であったなら、確実に自分は生きて通路から出られなかったに違いない。
「そうですね……。はっきり言って勿体無いと思います。和学だけでなく、洋学にも精通している……。それに、そこらの武士より度胸もあります。女子にしておくのが勿体無いですよ」
男尊女卑のこの時代、雛乃のように学がある女子は珍しい。男を立て一歩身を引く女が素晴らしいと賞賛される。女は家庭を守る者。家庭では優位であっても、社会的地位は無いに等しかった。
「雛に言わせれば、学を得るのに男も女も関係ないらしいよ。雛は異国に滞在した事もある。故に、今この国が置かれている立場をよく理解しているんだ。――誰よりもね」
そう言うと桂は自分に身体を預け、深い眠りに落ちた雛乃に目線を落とす。
雛乃の知識は桂のそれを上回る。先の時代から来たという事も理由の一つだろうが、状況認識力も遥かに高かった。
これから切り開いていこうとする動乱の時代に、雛乃は欠かせない存在と言える。その利用価値は計り知れない。
「異国にも通じて……? 藤森家は、異国とも繋がっているのですか?」
楠の問いに桂は顔を上げ目を細めた。楠は雛乃の素性を完全に把握している訳ではない。藤森の血を引く娘で吉田の許嫁――という認識しかないだろう。
歴史の裏を握る一族とはいえ、本来ならば屋敷に籠もっている筈の高貴な身分である雛乃が、異国にも精通しているのが不思議でならないらしい。
「――いや、私の知る限り雛だけだね。あの一族は古式を重んじる。天子様が攘夷を掲げている以上、異人に関わろうとはしていない筈だからね」
そう。何があろうとも、藤森は必ず中立を保つ。裏では異人の暗殺等を繰り返し、異国の文化に触れているかもしれないが、それを決して表には出さない。
一琉も個人としては高杉の上海視察に付き合っていたが、表向きには無い事になっている。
そのような慣習から、異国に通じている藤森の者は桂が知る限り雛乃だけだった。
「では何故、雛乃は異国に通じているのですか。公儀の要人でも、そう簡単に国を出る事は出来ないこの時世に――」
「何故だと思うかい?」
自分の声を遮るように響く穏やかな桂の声色に、楠は口を思わず閉じた。
雛乃の存在は長州藩内でも知るのは極僅かだ。それは桂の采配に他ならない。
それ程に徹底された雛乃の存在。今後に関わる何かがあるのだろうか。
「別に、重要な機密という訳じゃない。雛と関わる以上、君にも知る権利はあるだろうね。――だが。他言無用だよ」
鋭く細められた桂の瞳。もし破れば自分は徒では済まないだろう。
楠は拳を作り強く握り締めると、ゆっくり首を縦に動かす。
「……聞かせて下さい」
物怖じせずに自分を真っ直ぐに見据える楠に、桂は満足そうに微笑んだ。
「良い目だ。……と、その前に、雛を山緒へ送り届けなくてはいけないね」
桂は雛乃の眉に掛かる前髪を払いのけ、優しく撫でると歩く速度を早める。
「急ぐよ」
「ッ、はい!」




