壬生浪士組【弐】
沖田は部屋を出た後、笑いを抑えながら廊下を早足で歩いていた。
(プッ、ククク……ッ。あー、あの土方さんの最高ですねぇ!!)
最初から、こうなることは分かっていたが、実際に見るともう笑いが止まらない。
あの形相がなかなか頭から離れず、吹き出しそうになるのを堪えながら沖田はある場所へと急いでいた。
「あら、沖田はん」
名を呼ばれ、顔を上げると女中の一人である久が桶を持って此方に歩いてきていた。
沖田はにこりと笑って歩くのを止め、久に声をかける。
「お久さん、お疲れさまです。……ああ、土方さんならまだ暴れてますよ」
沖田の言葉に久は息をついて、桶を抱え直した。そして困ったような表情で、沖田が歩いてきた方向を見つめる。
「なんや、まぁだ、やっとるんやねぇ。夕餉、どないするつもりなんやろ? 隊士の皆はん、待ちくたびれてしもうとるのに」
呼びに行った方がええんやろか、と呟く彼女に沖田は微かに首を傾ける。
「今、原田さん達が犠牲になってますからねぇ。暫く近付かない方が、いいと思いますよ」
表情を曇らせ、少し気の毒そうに言う沖田からは、原因を作った張本人とは思えない哀愁が漂っている。
久は沖田の言葉に耳を傾けつつ、その言葉の隠れた意味を見抜き顔をしかめた。
「沖田はん、どうせアンタが原因やろ? 他の女中は騙せても、ウチの目は誤魔化せへんよ?」
「あ、やっぱり?」
表情をコロリと変えて、沖田は無邪気にあははと笑った。
久は元々八木家の女中である。
だが、こうして壬生浪士組が誕生してからは、この組の女中として身を削りながらも毎日働いてくれていた。
その所為か、幹部の皆の行動や性格は熟知しており、こういう事にはかなり目聡い。
久は乱れた髪を整えて、行く方向を変える。
「仕方、ない。土方はんは、ウチが止めに行きます。沖田はんは、どないするん?」
「私はちょっと、あの子の様子を見に」
サラリとそう告げて歩き出す沖田に、久は声を上げる。
「でも、沖田はん。まだあの子、目ぇ覚めてへんよ! それでも、行くん?」
久の言葉に笑顔を返し、沖田は振り返ることなくスタスタと歩いて行ってしまう。
それを見送り、久も土方達のいる座敷へと向かっていった。深々と、息を吐きながら。
「…………此処、何処? まだ、夢の続き?」
長い眠りから、ようやく目を覚ました雛乃は、布団から起き上がりそう呟いた。
部屋には自分一人しかいないようで、当然ながら返事は返ってこない。一息吐いて、ぐるりと周囲を見渡した。
外は夜に近付いているのか、部屋はかなり薄暗い。灯りを点けないと細部までは見えないだろう。
だが、古く趣のある和室だということは、漂う雰囲気で容易に分かった。
(なんか、おじい様の部屋に似てるかも。純和風みたいだし……。部屋の広さは六畳半ってとこかな)
呑気にそんなことを考えていた雛乃は、ようやくあることに気付く。
周りの景色が白黒でしか映らないのだ。
薄暗い所為かと、先程までは気にしていなかったが目が慣れた今では、その可能性は低い。
先程、気を失うまでは色彩があった。だから、夢だと思っていた。
だが、今の視界は現実と同じモノクロの世界。
「夢、じゃないの?」
雛乃はギュッと目を瞑り、古典的なやり方で両頬を一気につねってみた。
残るのは痛みのみ。ジンジンと伝わるそれは本物で。
目を開いて、雛乃は自分の存在を確かめるように、両手を強く握り締めた。
両手を握り締めたまま、雛乃は状況を整理しようと、記憶を遡っていく。
(……ええと、確か私、道に倒れてて、変なお兄さん達に絡まれて……。で、斬りつけられて……あ)
怪我したことを思い出し、腕を見ようとしたら、自分が襦袢姿である事に気づく。恐る恐る袖を捲ると、左腕には包帯が綺麗に巻かれていた。
(……治療されてるのは有難いけど、誰が着物を脱がしたのかなぁ……)
先日の藤の行為を思い出しそうになり、雛乃は数回首を横に振った。そんな事は一先ず隅に置いておくとして、今は状況を整理し、何とかして一日も早く家に戻る事が先決だ。
雛乃が頭を抱え、必死に記憶と戦っていたその時だった。
規則的な足音が聞こえたかと思うと、続いてスパンッと勢い良く部屋の障子戸が開け放たれる。部屋に入って来たのは年若い青年。起き上がっている雛乃を見るなり、嬉しそうに顔を綻ばせた。
「あっ! 目が覚めたんですね! 明日まで目を覚まさないのではないかと思ってたんですけど、ねっ?」
「え? ……あ、はい」
何が“ねっ?”なのかはよく分からないが、この青年が助けてくれたのは間違いないだろう。
雛乃はそう思い、素直に頭を下げた。
「あの、助けて下さって有難うございます」
「ああ、お礼なんていいんですよ。治療したのは私じゃありませんし。ついでに言うと、此処に連れて来たのも私じゃないですしねぇ。まぁ、私がこうして来たのは、単なる気紛れと暇潰しの為ですから」
笑顔で凄いことをしれっと言ってのけた青年は、にこにこと立ったまま雛乃を見つめている
そんな青年の言葉に戸惑いつつ、雛乃は首を横に傾けた。
「……えっと、じゃあ、何しに此処へ?」
「ふふ。あの時は、返事すらしてもらえませんでしたからねぇ。気絶しちゃいましたし」
「返事?」
そう言って雛乃はハッとする。開け放たれた襖から洩れる夕陽に、照らされる青年の顔に見覚えがあった。
「っ、もしかして! あの時の、自分勝手なお兄さん!」
「……自分勝手は余計ですけど。まぁ、正解だし良しとしますか」
若干不服そうに沖田は呟くと、襖を締め雛乃の隣に腰を下ろした。
「先ずは、自己紹介でもしましょうか。私は、壬生浪士組の沖田総司といいます」
姿勢を正し、そう告げる沖田は先程とは違った真面目な好青年に見えた。
「沖田さんですね。……わたっ、私は、えと、雛乃といいます」
少し噛みながら言う雛乃に、沖田はクスクスと笑い声を上げる。
「雛乃ちゃんですか。ふふ、名前のように可愛いらしいですねぇ」
雛乃は沖田の言葉に頬を赤らめたかと思うと、布団を握りしめ沖田をキッと睨み付けた。
「かっ、からかわないで下さいっ! 可愛くなんてありません。年齢の割に小さいし、それに……」
頬を膨らませた後、顔を背け何やらブツブツと呟く雛乃に、沖田は再び笑みを溢す。
雛乃は無自覚のようだが、幼い割に整った顔立ちをしている。大きな瞳と、癖のない艶やかな長い黒髪が印象的だ。
あと数年もすれば、島原の太夫をも凌ぐ美人になるだろう。
沖田は目を細め、何かを企むような表情を見せる。しかし、それはすぐに消し去り再び笑顔を繕った。
「年齢の割に、ですか……。そういえば、幾つなんです? 十は過ぎてますよね」
「えっ……」
沖田の言葉に雛乃は顔を戻し、目を瞬かせる。
雛乃は沖田を見つめ、ああ、と察する。
(……もしかしなくても、私を子供だと勘違いしているんだ……)
顔は童顔。身長も小学生並なのは重々承知していたし、現代でもよく間違われていたから、然程衝撃は大きくない。ないのだが。
(何か、満面の笑顔で聞かれると、余計悲しくなるよね……)
息を吐き軽く沈んでいると、何も知らない沖田が雛乃の顔を覗き込んできた。
「あれ、どうしました?」
不思議がる沖田に、雛乃が何かを言おうと口を開きかけた時。
ダダダダダダダ……!!!!
地響きのような、身体にも伝わる振動が耳に届く。身震いしそうになる、その音に沖田は笑った。
「……ああ、鬼さんが来るみたいですねぇ」
「はっ?」
鬼って何です?と言い掛けた雛乃の言葉を遮るように、襖が弾け飛ばんばかりに大きく開く。
「総司ィィィィ!!!!」
其処に居たのは前髪を乱し、額に青筋を浮かべ、荒く息を吐く“鬼”と表現してもおかしくない美丈夫だった。