懐かしい温もり【陸】
誰がやったん!?と、声を張り上げる梅に一琉は深々と息を吐いた。
お前だろ、と指摘したいが興奮状態である梅とあまり関わりたくない。一琉は呆れた視線だけを梅に向けていた。
対する芹沢は慣れているのか、扇子を扇ぎながら笑みを浮かべている。その姿はまるで娘を見守る父親のようだ。
「お梅、程々にな。雛乃に何かあれば此処の狼が黙っていないぞ」
芹沢の言う狼とは吉田の事を指している。雛乃との面会時に何時も目を鋭く光らせていた吉田を、芹沢はそう例えていた。
早く帰れと言わんばかりの、吉田の目。芹沢はそれを受け止めつつも、誰も寄せ付けない冷たい瞳が自分達に似ているとも感じていた。だから、狼と言ったのだ。
芹沢の言葉に梅は雛乃から手を離し、頬に手を当てる。
「せやかて、雛ちゃんが可愛ええ事言うもんやから……。抱き締めずには、おれへんかってん。芹沢はんもそれは分かるやろ?」
普段甘える事がない雛乃が相談を持ちかけてきたのだ。それだけでも嬉しいのに、ありがとうなんて言われたらもう喜ばずにはいられない。
「気持ちは分かるがな。雛乃はまだ本調子ではない。悪化でもすれば、再び会えなくなるぞ。儂まで会えなくなるのは、御免被りたい」
雛乃の傷はまだ完全に回復した訳ではない。傷は塞がったが、手荒く扱えば直ぐに開いてしまうような状態だ。
梅は雛乃が壬生の屯所に帰って来る日を心待ちにしている。それなのに、自ら駄目にしてしまうという愚かな行為だけは避けたい筈。
案の定、梅は顔色を変え素直に自分の非を認めると頭を下げた。
「ッ、そらアカンわ。雛ちゃんに会えへんのは辛過ぎや。……せやな。少し、はやり過ぎてしもたな」
堪忍な、と雛乃の頭を撫でるが雛乃からは返事が返って来ない。どうやら酸素不足に陥った所為で、思考が完全に停止してしまったようだ。
それを見て梅は思わず雛乃を抱き締めようとするが、一琉から阻止される。梅から逃れた雛乃の身体は芹沢に受け止められていた。
「雛乃。無事か?」
「ふぇ? ……あ、せ、芹沢さん?」
まだ思考が上手く働かず、吐き気と眩暈に戦いながらも雛乃は芹沢の声に反応する。
目を開け芹沢の姿を捉えると、雛乃はふにゃりと頬を弛ませた。
祖父によく似た芹沢の傍にいると何だか落ち着いてしまう。横暴だと恐れられてはいるが、雛乃にとって芹沢は普通の壮年男性にしか見えない。
不器用で、酒狂い。だけど誰よりも優しさと暖かさを兼ね備えている。そんな芹沢が雛乃は好きだった。
「話は、もう終わったんですか?」
「ああ、興味深い話を幾つかしてな。……しかし、雛乃。お主は相変わらず小さいな。童と言われても何ら不思議ではない形をしておるぞ」
「むっ。まだそれを言いますか。私は、これからグーンっと、伸びるんですよっ!」
眩暈が治まったのか、身体を起こすと雛乃は頭の高さより更に高く手を伸ばした。雛乃の計画では、今の身長より一尺程伸ばす気でいるらしい。
必死に手を使って身長は伸びるんだと主張する雛乃に、芹沢は笑みを溢すと雛乃の頭を乱暴に撫でた。子供扱いしないで下さい!と抗議する雛乃の声は無視し、頭を撫で回し続けている。
そんな雛乃と芹沢を端から見ると、仲睦まじい父娘のようだ。動乱とは無縁の、平凡な父娘にしか見えなかった。
「あーあ、芹沢はんに雛ちゃん、取られてしもた。何だか寂しいわぁ……」
「表情を見る限り、そんな風には見えねぇけどな。最初から、芹沢にアイツを渡す気だったんだろ」
梅は声量を下げため息を吐いていたが、雛乃達を見つめるその表情は慈愛に満ちた優しいものだった。一琉の指摘に梅は雛乃達に目線を向けたまま、再び口を開く。
「何で、そう思うん?」
「会津中将からの通達もあったし、芹沢と先刻色々と話したしな。余裕ねぇんだろ、色々と」
「……鋭いんやねぇ。流石は京を統括する藤森様や」
梅は一息吐いて雛乃達から視線を外すと、隣に立つ一琉を見据えた。
「芹沢はんの自由は、もう極僅かや。せやから、少しでも長う雛ちゃんと過ごしてもらいたいねん」
先日起こした大和屋の放火によって、芹沢の立場は危ういものとなっている。
芹沢だけではない。芹沢派全体が、殺気のようなピリピリした空気に包まれていた。
以前に比べ酒を飲む量が増え、芹沢は隊務に全く関わろうとせず、近藤と土方の二人に任せきり。八月十八日の政変以降、芹沢は主だった活動もしていない。強引な金策も止めていた。
まるで自分の役目は終わったかのように、芹沢は酒に入り浸り続ける。土方らも完全に芹沢を見限っているのだろう。口出しする事も一切無くなっていた。
自分の命と引き替えてでも守りたいものがある。その芹沢の思いを梅は尊重したかったが、ある不安が頭を過り知らぬふりをする事が出来ないでいた。
「……成程。雛乃の事か」
一琉の呟きに梅は頷きを返し、両手を強く握り締め胸に当てる。
「芹沢はんは、雛ちゃんを娘のように思うとる。雛ちゃんも同様に、芹沢はんに父親を面影を見とる。二人はほんまに、親子のようや。せやけど、このままやと……最後に傷つくんは雛ちゃんやろ? それがどうしても嫌で嫌で……」
一琉は微かに眉間に皺を刻むと、腕を組み柱に寄り掛かった。
既にこの件は、御上からの命で水面下で動き出している。このまま事が運べば、芹沢が行き着く先は間違いなく“死”。
それとなく介入出来る権限を一琉は持ってはいるが、その命令自体を破棄する事は出来ない。出来る事と言えば、遺体を入れ替える事、殺害標的を別人にする事ぐらいだろうか。
どちらにしても、暗殺を回避したければ身代わりを立てる必要がある。誰にも露見せずに密かに入れ替えを済ます――
暗殺も然る事ながら、それも途方もない話だ。だが、藤森の権力を酷使すれば回避する事自体難しい事ではない。
しかし、芹沢はその件に関して既に拒否を示していた。
『万が一の事があろうと、儂を助けるなどしてくれるなよ。儂の命はあの壬生浪士組の為にある。最後の最後に邪魔されては、今迄の苦労が全て水の泡になるではないか』
そう芹沢は笑いながら一琉に釘を刺していた。
芹沢は己に待ち受ける運命に抗う事をせず、そのまま受け入れる心積もりのようだ。
「……潔過ぎんだろ。もっと自分を大事にすりゃいいのによ……」
梅には聞こえない程の声量で呟くと、一琉は視線の先にいる芹沢と雛乃を見据える。雛乃の話に穏やかに笑う芹沢が、何故か酷く小さく見えた。
芹沢のような人物は滅多にいないだろう。幕臣や公家の連中は自分の身可愛さに、滅多に動こうとしない。むしろ、何かあれば部下に全ての責任を押し付ける。
一琉もそういう部下達を始末してきた過去があった。
公儀内部は既に腐り切っている。公儀の重鎮の誰もが自らの保身を守るばかりで、誰も国の為に動こうとしなかった。上が動かねば、下は身動きが取れない。
黒船が来航したという事は、恐ろしい爆弾を突き付けられたのと同じ事。先を見据え、早急に体制を見直すべきだというのに、公儀は椅子に座ったままだ。
意見を聞く耳すら持っていない。
故に、あの安政の大獄も大老の思うままに断行された。その結果、明日を憂い行動してきた優秀な人材を失い、この長く暗い動乱の時代へと日の本は堕ちたのだ。
嫌な時代に生まれてしまったと、一琉は思う。芹沢も、こんな時代でなければ長生き出来ていたに違いない。いや、この時代だからこそ芹沢は命を賭したのか。
鬼として、死ぬ事に何の迷いもない――
「……なぁ。一つ、聞きたい事があるんやけど」
梅の声に一琉は複雑に入り組んだ思考を止め、視線を横に向けた。梅は先程の悲しげな瞳とは違い何処か真剣味を帯びている。
「何だ?」
「やっぱり佐伯はんを殺ったんは、藤森様なん?」
「……ッ、いきなり直球過ぎやしねぇか……?」
頭の痛い話が続けて出るとは思ってもみなかった。流石はあの芹沢の愛妾。全く物怖じせず、ずかずかと踏み込んでくる。
藤森の暗殺家業はかなりの機密事項で、声に出して言う事自体危険な事なのだが。一琉は組んでいた腕を解き小さく息を吐いた。
「残念ながら俺じゃねぇよ。壬生狼のモンでもねぇ。アイツを殺ったのは長州の奴だ」
「長人が? 何でやの?」
「……邪魔になったからだろ。送り込んでいた間者が情報もろくに送って来ないで、人斬りばっかやってたんだからな」
佐伯を殺したのは長州の人間。――そう、吉田に間違いない。
当初、佐伯は藤森の忍で始末しようとしていたのだが、その忍達が佐伯のいる島原に着いた時、佐伯は既に路地裏で事切れていた。
その身体は原形を留めておらず身体中の至る所に刀傷があった。
一思いに殺さず、長く苦しむように斬り刻み殺していく。それは、佐伯がよく使っていた手口だった。
――自業自得、だな。
そう思わずにはいられない佐伯の最期だったという。あの時、一琉の忠告を素直に聞いていれば佐伯の運命もまた変わっていたのかもしれない。
後日、さりげなく吉田にこの件を問い質せば、殺害を素直に認めた。桂も容認した事だからと笑顔で言ってのけていたが、その所為で此方の裏処理が大変だった事は、分かっていないだろう。
お陰で一琉は睡眠不足の日々がずっと続いている。
静かに一琉の言葉に耳を傾けていた梅は、眉間に皺を深く刻んでいた。芹沢と共にいる所為か血生臭い事に多少の免疫はあるが、複雑な話となると頭が痛くなる。
「……なんやよう分からんけど、複雑なんやねぇ」
「腹の探り合いの中心にいるからな、間者ってのは。佐伯は馬鹿な死に方をしちまった」
間者としては最悪な最期と言っていい。雇い主を裏切り勝手な行動をした挙句、後始末までさせたのだから。
残念そうに語る一琉に梅は声を上げた。
「佐伯はんは当然の結果やっ。雛ちゃんに消えない傷、ぎょうさん、残しはったんやから」
「まぁ、そうだよなぁ」
複雑、と梅が呟いた表現は案外的を射てるかもしれない。闇に生きる者は様々な感情が交ざり合い、それを膨らませていく。いつ爆発するかは分からない。
「……遣り過ぎたら自滅、か」
それは芹沢の末路にも重なるようだった。
「――ふむ。どうやら、傷はだいぶ癒えたようだな」
「はい。あと少ししたら、布団から出て自由に過ごしても良いって、お医者様も言ってましたから」
「そうか。皆、雛乃の帰りを待ち侘びておる。くれぐれも悪化させぬよう、気を付けろよ」
「……何で、私が脱走する前提での話になってるんですか。ちゃんと我慢して安静にしてますからねっ!」
芹沢と雛乃は縁側に座り、他愛ない会話を繰り返していた。
雛乃にとって、芹沢は本音を語れる数少ない人である。土方達には余り関わるなと言われていたが、暇さえあればよく芹沢とこんな風に世間話で花を咲かせていた。
雛乃が深手を負い、藤森別邸で療養に入ってからは回数が極端に減ってしまったが、芹沢が見舞いに来ると決まってこの形となる。
雛乃は一通り笑い終えると何かに気付いたように芹沢を見つめた。
「ん? どうした?」
「えと、何だか芹沢さんが酷く疲れてるように見えて……。大丈夫ですか?」
芹沢は微かに目を見張るが、それを直ぐに打ち消すと雛乃に笑いかける。
「何、最近酒の量を増やしてしまってな。少し悪酔いしただけだ。心配するようなものではない」
「でも……」
不安げに揺れる雛乃の瞳。それを察知した芹沢は雛乃を安心させるように雛乃の頭を再び優しく撫でた。
「大丈夫だと言っておる。何だ、儂の言葉を信用出来ないか?」
反射的に雛乃は首を横に振った。芹沢を疑うなど天地がひっくり返っても有り得ない。何より、雛乃は人を疑う事いう行為自体が嫌いだった。
自分の身体の事だ。芹沢自身がよく分かっている。大丈夫と言えばそうなのだろう。
普段なら、素直にすとんと胸に落ちる芹沢の声もこの時ばかりは何故か、落ち着かなかった。
「儂の心配するよりも己の心配をしろ。そのようでは治るものも治らんぞ」
「そ、そうでしたね。早く治さないと、芹沢さんに二日酔いの注意も出来ないみたいですし!」
「はははっ、そうだ。悔しければ早く壬生に戻って来い。文句ならば、屯所で存分に聞いてやる」
胸を燻る不安は気のせいだと自分に言い聞かせ、雛乃は笑顔を繕うと静かに目を閉じた。
雛乃はすっかり忘れていた。
確実に終焉の足音が迫ってきている事に。
残された刻は、あと僅か――




