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夢想花〜藤森の姫と狼達の奏でる物語〜  作者: 桜柚
第壱章 記憶を巡る旅路
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傷跡【参】






――奥座敷、藤の間。


浪士組が通された座敷よりも、遥かに重い空気が流れていた。


眠り続ける雛乃を見つめる三対の瞳は、憂いを帯びている。吉田が雛乃の手を握り締め、声を掛けてみるがやはり何の反応も示さない。


だが、雛乃は確かに生きている。掌から僅かに伝わる温もりと上下を繰り返す胸元がそれを物語っていた。


障子戸を開き、降り注ぐ雨を見つめていた高杉は、徐に口を開く。


「……久坂、教えて欲しい事があんだけど」


静まり返った座敷に予想以上に響く高杉の声。声を掛けられた久坂は、取替え用の止血帯を作っていた手を止め、顔を上げた。


「何だ?」


「お雛を最初に発見したのは、確か、お前ぇだったよな」


「……ああ、そうだ。会合を開くか否かの議論をし、帰路に着こうとしていた矢先の事だった。中階段近くで物音がして、行ってみたら――」




忘れようとしても忘れられない、緋色の光景。

血溜まりの中にあった小さい身体を見た時は、流石の久坂も色を失った。


まさか、と思った。彼女が此処にいるはずないと否定の言葉ばかりが脳内を巡る。だが、現実はとても残酷だった。


淡い色の着物は見る見る内に赤く染まり、髪につけていたであろう簪は床に落ち、無惨に壊されていた。


一瞬、死という単語が久坂の頭を過る。医者である久坂から見ても、生存が極めて難しい出血量だった。


突然、激しく咳き込んだ声が耳に響き、久坂はハッとする。違う、まだ雛乃は生きている。鈍い手足を必死に動かし、何かを伝えようとしていた。


『ッ、大丈夫か!?』


久坂は傷に障らないよう雛乃を抱き起こす。久坂を視界にいれると、雛乃は弱々しい手で久坂の着物を掴み、血に染まっている口をゆっくり開いた。


『……さ……き……やく……つ……かま……え……きゃ……。は……やく……ッ!』


弱々しくもそう、呟いた。


声はとても小さく、聞き取り辛いものだったが、久坂の耳にはちゃんと届いていた。


『……佐伯、か』


その名に久坂は覚えがあった。確か、桂が壬生狼に送り込んだ間者だったか。


佐伯と久坂、直接な接点は何もない。会話を交わした事すらなかった。ただ、刀の腕だけは良いが性格に難があると伝え聞いたぐらいの認識しか持っていない。


何故、佐伯の名がここに出てくるのか。


佐伯を早く捕まえなきゃいけないと、雛乃はそう何度も久坂に繰り返し訴えている。


訴え続ける佐伯の名。雛乃が受けた深手の傷。そして現場の状況を見る限り、佐伯が雛乃を手に掛けたのは間違いないだろう。


佐伯が刺したとして、何故雛乃を狙ったのか。桂から吉田や高杉、長州の大事な娘だと伝えられていたはず。雛乃を傷付ける事は即ち、長州へも牙を向いた事になる。


何よりも情報が欲しかったが、それ以上の詮索は出来なかった。雛乃が意識を失ってしまったのだ。喉に血を詰まらせたようで、呼吸困難にも陥っている。


そこから先の記憶は良く覚えていない。一琉が送った忍が着くまで、久坂はとにかく治療を続けた。


雛乃の命を繋ぐ為に。

ただただ必死に、手を動かし続けた。




張り詰めた空気の中、高杉は息を吐いた。


「……そうか。久坂も佐伯の姿は見てねぇのか」


久坂が発見者ならば、逃げる佐伯を目撃していたかもしれない。その淡い期待は見事に打ち砕かれた。


久坂の目撃がないとなると、独断での追尾は難しいだろう。やはり一琉の手を借りるしか手はなさそうだ。


雛乃を斬られた怒りと悲しみ。混在する思いは次第に高まっていく。これを早く佐伯にぶつけなければ、気が狂ってしまいそうだった。


「……姿は見ていないが、恐らく奴は手負いの筈だ」


「手負い?」


久坂の言葉に高杉は眉を寄せた。


佐伯はあれでも、間者として暗躍していた凄腕の剣客である。そう簡単にやられるとは思えないのだが。


「血痕が幾つか残っていたんだ。雛乃が倒れていた床ではなく、随分離れた場所でな。水滴のような血痕の跡、あれは足首辺りの怪我だろう。得物も、そこに落ちていた」


そう言って久坂が懐から取り出したのは、黒塗りの懐刀。淡い花の模様が鮮やかな珍しい刀だった。


その懐刀に、高杉は酷く見覚えがあった。


「それは、お雛のじゃねぇか……!!」


血が所々付いているが間違いない。四年前、吉田が雛乃に渡していた刀だ。

万が一離れる事があってはいけないからと、お守りの意味も兼ねて雛乃に渡したものだった。


久坂から受け取り鞘を抜くと、刀身は真っ赤に染まっている。徐々に浅黒く変色していることから、それが血であること意味していた。


「……ッ、必死に抵抗したんだな」


「恐らくな。力の入らない手で、奴に突き刺したんだろう」


雛乃がどれだけ酷い状況下にいたのか、この懐刀を見ただけでも、察する事が出来る。

声を出せず、助けも期待出来ない。そんな中、雛乃は状況を何とか打破しようと藻掻いていた。


佐伯はそれすらも、笑っていただろう。抵抗する雛乃を冷たい瞳で見下ろし、嘲笑っていたに違いない。佐伯とはそういう男だ。


「……佐伯はどうあっても殺すだけだよ。雛が味わった以上の苦しみを与えて、ズタズタにね」


驚く程に低い声で吉田はそう言うと、撫でていた雛乃の頭から手を離し顔を上げた。

無表情に近い吉田の表情は、怒りが滲み出ている。どうやら先程の話は全て、耳に入っていたようだ。


雛乃を思えば思う程、佐伯のやり方に怒りを覚える。何故、こんな残忍な方法を選んだのか。


本気を出させる為か、或いは単に斬りたかっただけなのか。どちらにしろ、許す以前の問題だ。佐伯には生きている資格などない。見つけ次第、黄泉へと送り出してやる。

そう吉田の瞳は訴えていた。


久坂は一息吐くと、再び手を動かし始める。


「……稔麿、くれぐれも勝手な行動はするなよ。今は壬生狼もいるんだ。下手に動けば、雛が長州(こちら)の者だと割れてしまう」


「分かってるよ。雛が目覚めるまでは何も――」


その先の言葉は続かなかった。何故なら、右手に僅かな感触を感じたからだ。まだ動く事がないと思われていた雛乃の手。


吉田は息を呑み、雛乃の様子を静かに見つめた。


「……ッ、」


震える双眸と共に漏れ出す吐息。吉田が見守る中、深紫の瞳がゆっくりと開いた。


「雛っ……!!」


思わず声を上げた吉田に、高杉と久坂は何事かと雛乃が眠る布団へ目を向けた。

すると、先程までなかった視線、彷徨うような瞳が此方を見ている。


雛乃の意識が戻った――

そう理解するより早く、高杉の身体は動いていた。


「は? マジかよ! 意識が戻ったのか!?」


ズカズカと吉田を押し退け、高杉は布団近くに腰を下ろした。自分の目で、雛乃が意識を取り戻した事をしっかりと確認し安堵の息を吐く。


顔色はまだ悪いが、意識が戻った事は少なからず好転と思うべきだろう。

高杉が吉田に話し掛けようと、首を動かした瞬間


「がふっ!!」


鈍い音と共に、高杉の頭は畳に沈んだ。


「煩い、馬鹿牛。雛に気安く近付かないでよ。下劣菌が移る」


いつの間に立ち上がったのか、満面の笑顔で高杉を見下ろしていた。だが、その瞳は一切笑っていない。迫力満点の笑顔に怯みながらも、高杉は負けじと言い返す。


「だ、誰が下劣菌だ、コラァ! 言っとくが、俺は牛でも、菌でもねぇからな!?」


だが、高杉の言葉には説得力の欠片もなかった。鼻から滴り落ちる血。額についた畳の模様。見るも無様な姿である。


こんな有様では、吉田に言われても仕方ないのではないか。しかし高杉が素直に折れるはずも無く、吉田に噛み付き続けていた。


「てめぇが牛牛牛、連呼しやがったお陰で、奇兵隊でも牛扱いされてんだ。挙げ句、菌だとか抜かしやがって! 俺の何処を見てそう言ってんだよ!!」


「全てだけど? うわぁ、自覚ないとか相当重症だね。だから、身長も伸びずにチビのままなんだよ。いっそのことチビ牛と改名したら?」


「んだと、ゴラァァァ!!!!」


高杉は挑発に乗りやすい。短気な性格故の事だとは思うが、こうも簡単に乗ってしまうのは藩士として如何なものか。

創設した奇兵隊隊士に、そう思われてしまうのも自業自得と言えるだろう。


高杉の悲鳴を聞き流しながら、久坂は雛乃の元へ近付いていく。


意識を取り戻したとはいえ、まだ体温が低く上手く頭が働いていないはず。久坂は雛乃の状態を知る為、ソッと手首に指を伸ばした。




まだ上手く働かない頭で、雛乃はぼんやりと周囲を見つめていた。


ガタガタと騒がしい音も今は気にならず、何処か遠くの出来事のように思える。此処は何処で、彼らは誰なのか。自分は一体どうして寝ているのか。


記憶が曖昧で、よく思い出せない。祇園で沖田達と共に過ごしていた。そこまではすんなりと思い出せるのだが、その先が分からないまま。


その時、雛乃の額に暖かな感触が伝わる。横に視線を向けると、短髪の青年――久坂が雛乃の脈と体温を測っていた。


誰?と問い掛けようと、雛乃は口を開くが、息が漏れただけで言葉を上手く紡げない。

それに気付いた久坂が、ある物に手を伸ばす。


「無理に話そうとしなくていい。喉が渇いているだろうから、先ずはコレを」


久坂が雛乃に差し出したのは、白湯の入った湯呑み。カラカラに渇いていたせいか、雛乃は白湯を見ただけでゴクリと喉が鳴った。


久坂が口元に運んでくれるが上手く飲み込めずに溢してしまう。だが、久坂は何も言わず、雛乃の喉が潤っていくのを静かに見守っていた。


白湯を飲み終えた雛乃は乾いた咳を何度か吐き、目の前にいる久坂を見据えた。

彼はどうやら医者らしい。頭に乗る掌や、着物からは僅かに薬の匂いが漂ってくる。


初対面のはずだというのに、何処か懐かしい彼の笑顔に安心しながらも、知らない場所にいるという不安が雛乃の胸中に渦巻く。


それを知ってか知らずか、久坂は雛乃の頭から手を離さず、撫で続けてくれていた。

子供扱いされるのを嫌う雛乃だが、何故か今あるこの温もりは嫌ではなかった。


どうしてだろうか?


その疑問に答えてくれる人は誰もいない。ぼんやりとした思考のまま、周囲を見渡していると、久坂が再び口を開いた。


「此処は藤森の屋敷。本家とはまた違うから安心していい。君は刀傷を負って、此処に運ばれたんだ。覚えているか?」


「藤……森……、傷……?」


水分を補給したといえど、渇いていた喉はそう簡単に治らない。雛乃は擦れた声で、久坂の言葉を反復すると、思考の波に目を閉じた。

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