【 雨の刃 (弐) 】
「玄瑞が治療? 一体、どういう事さ」
吉田の疑問は尤もである。思いも寄らない人物の名が出てきた事に、皆、驚きを隠せなかった。
一琉から聞いた状況を踏まえて考えると、その場には佐伯がいたはずだ。佐伯は一体どうしたのだろうか。それに何故、久坂は祇園にいたのか。浮かんできた疑問は幾つもある。
忍は顔を上げるが、その表情は困惑に満ちていた。
「……申し訳ありません。私もそこまでの詳細は把握しておらず……。分かっているのは、姫が無事である事。久坂様が場の収集を、手配なさった事ぐらいでして」
一息吐くと、忍は懐から一通の文を取り出す。それを両手に持ち直すと、一琉の目の前に差し出した。
「……詳しい事の顛末はこれを。久坂様が書き記したものです」
「そうか。ご苦労だった。暫く下がってろ」
「御意」
一琉が書簡を文を受け取ると同時に、忍は緩やかに下がりその場から姿を消した。
次第に去っていく気配を感じながら、一琉は文を開き、目を通していく。
文には祇園に居た経緯、雛乃を見つけた理由、そして、雛乃の怪我の具合について記されている。急いで書いたようで、文字の滲んでいる箇所もあったが内容はほぼ理解出来た。
「……成程な。久坂の奴も祇園で仕事してたって訳か……」
久坂が雛乃を見つけたのは偶然に過ぎない。だが、その偶然により雛乃は一命を取り留めた。
恐らく、一琉が手配した医者では間に合わなかっただろう。文によると、雛乃の傷は深く出血が酷いらしい。一刻も早い処置が必要だった。
もし、久坂が居なければ雛乃は息絶えていたかもしれない。そう考えると、自分は久坂に助けられたとも言える。雛乃が死んでいれば、確実に一琉自身も――
「一琉、ちょっといい?」
「何だ――っ、がふぁっ!?」
思考の波に揺られていた一琉を現実へと引き戻したのは吉田の強烈な蹴りだった。
まさか、真正面から来るとは思ってもみなかったようで一琉は受け身を取る事が出来ず、全身を畳に強く打ち付けてしまった。
だが、忍として鍛えられたお陰か打撲など一切なく、瞬間的な痛みだけだった。
一琉は軽く舌打ちし起き上がろうとするが、それは再び吉田によって制される。
「あ、起き上がらないでよ。視界の邪魔だから」
「ごふっ!!」
上げようとした頭は上から掛けられた圧力と共に、畳へと再び沈められた。鈍い音が響き、一琉は鼻を打ち付け数滴の血を垂らす。
痛そうだ、と誰もが顔を顰めるが吉田はそれを気に留める事無く、一琉の頭を何度も何度も踏み続けている。
「いッ……!? よ、吉田! その足、直ぐに退けろ!!」
吉田に踏み付けられた頭は重く、思うように動かない。何故なら、吉田は簡単には起き上がれないように、頭上を強く片足で押さえ付けていた。吉田は一琉を一瞥すると、その瞳を細める。
「駄目だよ。これは許す、許さないの問題じゃないからね。先ずは一琉を痛め付けようかなと思ったんだ」
「はっ?」
瞬時には理解出来なかった。しかし、今の状況と吉田の表情を見て一琉はある結論に辿り着く。
頭で理解すると同時に、一琉の顔からサーッと血の気が引いていった。
これから身に降り掛かる出来事は決して良いものではない。むしろ、死に直結するものだ。回避しなければ間違いなく三途の川を渡ってしまうだろう。
吉田は笑っているが、明らかに目が笑っていない。あの瞳は獲物を仕留める時のそれである。吉田が本気で手を下そうとしている事がありありと見て取れた。
「まっ、待て待て待て!! そんな事よりしなければならない事が山程あんだろ!?」
「僕にとっては、コレを始末するのも大事なことなんだけどね。何事にも順序は必要でしょ?」
「確かそうだけどよ……って、納得する訳ねぇだろうが!! 今、始末っつったか? 俺を始末するっつったよな!?」
刀を抜き始める吉田に一琉も必死の抵抗を見せる。だが、それも何時まで続けられるか。
二人のやり取りを口出しすることなく、傍観していた高杉と桂は深々と息を吐いた。
「……なぁ、あれ止めなくて良いのか」
「んー、まぁ、とばっちりは御免だからねぇ」
涼やかな笑顔で桂はそう答えると、畳に落ちていた文を手に取り目を通す。文は一琉が転倒した際に破れたようで、所々読めなくなっていたが一通りの内容は把握出来た。
「ふむ、雛の容態は余り芳しくないようだね」
「はぁっ!? ……ッ、大丈夫なのかよ」
高杉は思わず声を上げるが、吉田と一琉の二人の攻防を視界に入れ声量を抑える。その様子に微かに笑みを溢すと桂は、書簡を高杉に手渡した。
「怪我より出血が酷いらしい。発見が遅かったら死んでても可笑しくなかった。……彼に、容赦無く遣られたんだろうね」
一琉に管理を任せていたものの、元を辿れば原因の大本は桂にある。桂が佐伯に利用価値を見出だし、間者の道へと送らせた。一番に責められるべきは自分なのである。
桂は一息吐くと、その場から音も無く立ち上がった。書簡に目を通していた高杉は徐に顔を上げる。
「桂?」
「ちょっと祇園に出掛けてくるよ。幾松もいるし、佐伯の足取りが分かるかもしれないからね」
佐伯は現場に居なかった。つまり、逃亡した可能性が高い。近日中に見つけ先手を打たなければ、此方の情報が漏れてしまう恐れがある。
「それなら、俺も――」
「いや、晋作。君は二人の喧嘩を収拾させ、藤森の屋敷に向かうんだ。雛はそこに移される手筈だから」
今、大人数で動く訳にはいかない。混乱しているとはいえ、祇園には壬生狼が大勢いる。感付かれない為にもここは分散して動くのが得策だ。
奉行所などには一琉が手回ししている筈。そちらは心配せずとも良いだろう。
桂の指示は理解出来たが、高杉にはただ一つ納得出来ない事があった。
「……おい、あれをどうやって止めんだよ? 下手すりゃ、俺まで斬り殺されそうな勢いなんだが」
いつの間にか苦無を取出し、一琉は吉田と完全に斬り合いを繰り広げていた。衣冠姿の一琉は思ったより身軽に動き、劣勢だった先程とは違い吉田と互角に遣り合っている。
間に入れば、確実に傷を負うのは先ず間違いない。それを一瞥して桂はふむ、と腕を組んだ。
「まぁ、晋作なら大丈夫だろう? 暴走する稔麿を抑えるのは手慣れたものじゃないか。松下村塾でも、よく身体を張っていたしね」
「ありゃ、先生が俺を犠牲にして収めてたんだっ!! 俺が率先してやってた訳じゃねぇ!」
確かに、当時から吉田との口論や斬り合いが絶えなかったが、それは全て師である吉田松陰が仕組んだ事。高杉は極力関わらないようにしていたが、松陰がそれを許さなかった。
桂は初耳だと言わんばかりに、目をしばたたかせ驚きの表情を見せる。
「おや? そうなのかい? てっきり晋作が頑張っているんだと思っていたよ。散々弄られてもやり返す力があるもんだ、と感心していたんだが」
「あれをどう見たら、そう思えんだよ……」
思い出したくもない過去を掘り起こされ、高杉はズキズキと痛むこめかみを押さえた。
そんな高杉の様子に苦笑していた桂だが、止む事のない刀を振るう音に微かに目を細める。
やはり、この状況が続くのは好ましくない。折角の機会も無駄になってしまう。
雛乃の怪我を喜ぶ訳ではないが、良い時期ではあったと思う。雛乃を此方へ連れ戻す計画を立てていた矢先の事態だったからだ。
高杉は笑みを消し思案する桂を見据え、小さく息を吐く。
「……桂。お前、なんか企んでんだろ」
「さぁ、どうだろうね」
桂はそう言って顔を綻ばせるものの、それが本物の笑顔でない事を高杉は知っていた。
流石、あの松陰の弟子というべきか。簡単に感情を読み取る事は出来ない。仲間内でも桂の心理を読めるものは殆どいないだろう。
機嫌を損ねた童のように自分を見つめる高杉の肩をポンと叩いて、桂は足先を襖へと向けた。
「大変だとは思うが一琉を早く屋敷へ連れて行かねば、全てが後手に回ってしまう。頼んだよ、晋作」
「ちょ、待て……っ!!」
高杉の制止を聞く事なく桂は足早に座敷を出て行った。高杉が伸ばした掌は空を切り、声も座敷の雑音に掻き消されてしまう。
響く、刀の擦れる音。これを止める手段は一つしかない。
「……仕方ねぇな」
高杉は半ば諦めるように呟き、その重い腰を上げた。




