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夢想花〜藤森の姫と狼達の奏でる物語〜  作者: 桜柚
第壱章 記憶を巡る旅路
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【 雨の刃 (壱) 】







「……チッ、降り出したか」


漆黒の空から落ちてくる幾つもの雫を一瞥し、一琉は走る速度を速めた。


雨足が次第に強くなるが、傘を差す余裕など今はない。一刻も早く辿り着かなければ、取り返しのつかない事になる。


御所を出て報せを受けたのが一刻前。間に合う距離だが、あの佐伯の事だ。既に事を起こしていても可笑しくはなかった。何しろ独自に忍を雇い、店に潜ませていたぐらいである。此方が動く事を予想していたに違いない。


とある旅籠の前に差し掛かった時、見慣れた人影が一琉の目に止まる。そこにはひっそりと軒下に佇む澄の姿があった。


一琉は思わず足を止め、視線だけを軒先へと向ける。


「首尾は?」


「は、はい。言われた通り手配しておきました。到着するのに四半刻も掛からないと思います」


「そうか。じゃ、序でにもう一つ頼まれてくれるか?」


「はい。何でしょう」


素直に頷き一琉の指示を受ける澄だったが、その内容を聞いた途端表情を一変させた。


「一琉様、でもそれは……!!」


「緊急事態だ。今は四の五の言ってる場合じゃねぇんだよ。急ぎ、祇園に向かって壬生狼に伝えな。藤森の屋敷に来いと」


「……ッ、分かりました」


澄が驚くのも無理はない。本来ならあってはならない事、藤森の者として、壬生狼と接触する事を一琉自身が禁じていたからだ。


だが、今回ばかりはそれを無視せざる得ない。全ては自分の失策が招いた事、出来る限りの事はやるつもりである。


自分に一礼し、足早に去っていく澄を見つめ一琉は一息吐いた。夜空から降り注ぐ雨粒は、一琉の髪を濡らし額へと流れ落ちていく。それを、手で簡単に拭うと一琉は顔を上げた。


「……俺も、急ぐか」


目指すは、長州藩邸――







◇◇◇







灯りも点けず、真っ暗な部屋で吉田は夜空を眺めていた。生憎の雨空で、星すら見えないというのに、窓を開け放ち夜空を眺め続けている。


特に理由はない。ただ一人になりたいが為に、この部屋に辿り着いた。空を眺めているのも一種の気紛れに過ぎなかった。


降り注ぐ雨に目を細め、吉田は小さく息を吐く。


「……気に入らないね」


何が、と問われれば壬生狼だと即答するだろう。長年探し続けた愛しい存在をようやく見つけたというのに、未だ会う事が出来ない。彼女がいる場所が問題だったからだ。


壬生狼――いわゆる壬生浪士組は幕府側の人間だ。京都守護職、松平容保の下に集う浪人達である。


当初は大した敵ではないと嘲笑っていたが、実力ある剣客が複数いるようで度々同志が斬られ、捕縛されていた。今、尊攘派に一番嫌われているのは壬生狼に間違いないだろう。


その壬生狼のせいで同志は減り続け、愛しい人すら奪われている。吉田の苛立ちは日に日に増すばかりだった。


雨音に混ざり、藩邸の門扉が開く音が聞こえる。視線を夜空から下へと向けると、そこには門番を怒鳴り、邸内へ入っていく男の姿があった。


「一琉?」


いつもの着崩した着物ではない。衣冠姿できちんと髷を結っている。外にある行灯の灯りなので、朧気にしか見えないがその男は一琉に間違いなかった。


ここ数日、一琉は朝廷での仕事が忙しく藩邸には顔を出していなかった。むしろ避けていたと言っても良い程、寄り付いていない。


恐らくあの一件以来、吉田が一琉を弄り倒していたせいだろう。藩邸に来る度に生傷が増え、嫌がらせを受ければ、嫌になるのも当然である。


それを踏まえた上での訪問。喜ばしくない何かが起こったというのだろうか。


一琉が衣冠姿での訪問した事も異例の事だった。一琉としてではなく“藤森”の名を背負っての屋敷入り。つまり、それは一琉が藤森の名を行使しなければならない程の事があったのだという事に繋がる。


吉田のいる二階から一琉の表情は見えなかったが、門番に対する態度から、事の大きさを窺い知る事は出来た。


「……ま、聞いてみる価値はありそうだよね」


あの一琉が慌てる程の事態だ。面白い話に違いない。


吉田は開け放たれた窓を静かに閉めると、音もなく立ち上がる。

閉ざされた部屋の襖を開け、階下にある桂や高杉がいるであろう奥座敷を目指した。








――長州藩邸の奥座敷。



一琉は手拭いで身体の水分を吸い取りながら、座敷にいた桂と高杉に事の次第を話していた。


数日間の佐伯の行動、佐伯の目的。そして、先程起きた祇園の事件。一琉の知りうる全てを包み隠さず話していく。


桂は前々から、佐伯の危うさを知っていただけに、苦渋に満ちた表情を浮かべて聞いている。一方の高杉は、手にしていた三味線を叩き付けると勢い良く立ち上がった。


「……冗談だろ? んな話、俺は、簡単には……信じねぇぞ……。雛が、佐伯に刺されたかもしれないって、一体どういう事だ……!!」


怒り震える言葉。鋭く見据えられた瞳。高杉の怒りは尤もだった。

簡単に理解出来る事柄ではない。守るべき相手が身内に手を掛けられたのだから。


一琉は、手拭いを髪から取り払うと両手を畳に置きそのまま、頭を下げた。


「――悪い。全て俺の責任だ。アイツの、佐伯の性質を分かっていながら、きちんと監視していなかった俺が悪いんだ」


職務が忙しかった、それは確かに理由になる。だが、間者の管理を任されていた以上その言い訳は許されなかった。

佐伯の性質を知っていたのならば忍に任せる事なく、自分で出るべきだったのかもしれない。


桂と高杉は躊躇う事なく、すんなりと頭を下げた一琉に驚きを隠せなかった。身分を考えれば一琉が上に当たる。上の位に立つ、本来なら上座に座るはずの一琉が頭を下げるなど、恐れ多い事だった。


桂は高杉へちらりと視線を向ける。視線を受けた高杉は、深々と息を吐いた。


「……てめえだけのせいじゃねぇよ。俺らも同罪だ。佐伯を雇ってたのは長州なんだからな」


一琉だけのせいではないと、高杉は十分に分かっている。頭では分かっていても、怒りを口にせずにはいられなかった。


桂は高杉から視線を外し、一琉に目を向ける。顔を上げるように促すと重い口を開いた。


「……雛は、あの子の安否はどうなっている?」


桂が、彼らが何より一番気になっていたのは彼女の生死だった。

佐伯の強さを誰よりも知っている桂にとって、思い浮かぶのは最悪の状況ばかり。佐伯の手に掛かって、安易に無事だとはどうしても思えなかった。


一琉は畳から顔を上げると胡座を掻き直し、小さく息を吐く。


「無事、と言いたいとこなんだがな……。正直、まだ何とも言えねぇんだ。忍を向かわせて随分経つが、戻って来やしねぇ」


「……そうか」


一琉の言葉に高杉は舌打ちを鳴らし腰を下ろすと、拳を畳に叩きつけた。


連絡がない。それは最悪の事態を連想させる。一琉の回した策も全て、後手になったというのだろうか。


だが、結論を出すにはまだ早過ぎる。亡き師が遺した大事な忘れ形見を、大事な義妹をみすみす死なせたりはしない。


桂は表情を引き締めると思考を巡らせていく。何が一番良い打開策か、今一度一琉に問い掛けようとした時だった。


――――スパンッ!!!!


何の前触れもなく開いた、座敷の襖。驚き襖に目を向けると、そこには恐怖を感じる程に無表情で佇む吉田の姿があった。


「稔麿!? お前、いつから其処に、」


高杉が呼び掛けるも、吉田は反応しない。ただ、真っ直ぐに一琉だけを見据えていた。


「一琉、どういうことか説明してくれるよね?」


普段通りの口調だというのに言葉は鋭く重い。言葉の端々に、憤りが見える。吉田にいつもの不敵の笑顔は全くなく、常人ならば逃げ出す程の殺気を纏っていた。


「よ――っ!?」


口を開いたと同時に一琉の頬に痛みが走る。それが短刀の擦った後だと自覚するのに、随分と刻を要した。

一琉が読み取る事が出来なかった短刀の動き。普段と違う吉田の様子に、一琉は思わず息を呑む。


「言っておくけれど、謝罪や言い訳は聞かないから。知りたいのは雛に関する事だけ。雛が、どうしたって?」


吉田の瞳は鋭さと共に冷酷な殺意を携えていた。恐らく何を言っても、吉田は理解してくれないだろう。


彼女――藤森雛乃は吉田にとって掛け替えのない存在である。雛乃が危害を与えられた時点で、吉田から死刑宣告を受けたも同然だった。


吉田は高杉のように声を荒げる訳でもなく、責める訳でもない。淡々と静かに雛乃に起きた現状を聞いてくるだけだ。

それは罵倒を浴びせられるよりも遥かに辛く、堪えるものだった。


ここまでの事態にしたのはお前だと。そう暗に責められているようなもの。謝罪も何も、とても口を開ける状況ではなかった。


留まる事のない吉田の殺気によって、ピリピリと張り詰める空気。誰もが口を開けない。


それを破ったのは


「……一琉様」


廊下側から感じた僅かな気配と、一琉を呼ぶ微かな声だった。


一琉は顔を上げると、額に浮かんでいた汗を拭い廊下側へ視線を向ける。


「漸く戻ったか。入れ」


「……失礼致します」


音もなく障子戸を開き、入って来たのは小柄な忍だった。一琉を含む座敷にいる人間を確認し、深く頭を下げる。



「申し上げます。祇園にて、指示通り状況確認をしてきました。事態は大方沈静化。……姫は重傷を負っており、現在、久坂様の手により治療が行われております」

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