青天の霹靂【壱】
「うわぁ、今日は凄く良い天気だなぁ……。これなら、これだけの量でも直ぐに乾きそう」
穏やかな風と、燦々と降り注ぐ太陽の光。雛乃は腰に手を当てて息を吐き、物干し竿へと干した大量の洗濯物を見つめた。
以前は何度も転倒し、洗った着物や袴を地面に落とし駄目にしていたが、今ではその心配は全くない。雛乃一人で、全ての洗濯物を片付けられるまでに成長していた。
染みや汚れが無いか最終確認を終えると、空になった盥を指定の場所へと戻す。そして、雛乃は久の待つ土間へと足を向けた。
時の流れとは早いもので、八月も数日が過ぎようとしている。季節は秋に近付きつつあり、朝方と夕方はほんのりと風が冷たく、とても心地が良い。
長く伸ばした髪を風に遊ばせながら、雛乃は緩く首を傾けた。
(……そういえば、八月ってなんか色々あったような気がする。何があったかなぁ……)
土間へと歩みを進めながら、雛乃は思考の波へと意識を落としていく。
雛乃は新撰組や幕末に関する一連の出来事は、殆ど暗記している。思い出すのも容易で、直ぐに日付と史実を言う事が出来ていた。
だが、今は曖昧でどうにも上手く思い出す事が出来ない。新しい史実から思い出していくが、やはり穴が開いたように空欄は埋まらなかった。
(……八月十八日の政変、大和屋焼き討ち事件……やっぱり、この二つの事件の前に何かがあったような気がする……。ああ、でも、思い出せない……)
幕末の年表を思い浮かべているのに、見慣れない記憶が邪魔をする。
それは微かな睡眠時に見られる夢での出来事。今まで夢を覚えているなんて殆どなかったのだが、何故かこの夢だけはしっかりと脳裏に焼き付いて、離れなかった。
優しく穏やかに笑う幻の彼らに、思わず手を伸ばしそうになる。何も考えずに笑っていられるならどんなに楽だろうか。
雛乃は両手で頬を強く叩き、思考を一旦停止させた。ヒリヒリと痛む頬を擦りながら息を吐く。
「思い出したとしても、一体何が出来るんだろ……」
歴史を変えるつもりは毛頭ない。この時代には多くの血脈が未来へと確実に流れている。歴史を覆す事は未来を変える事に等しい。おいそれと簡単に行う事は出来なかった。
でも、と雛乃は思う。
その場面に遭遇したら、自分は果たして冷静でいられるのか。無関心のまま、傍観者として手を出さずにいられるのだろうか。
一瞬にして蘇る血溜まりの風景。雛乃はそれを振り払うように、首を横に振った。と同時に感じた気配に顔を上げる。
視線の先には廊下の柱に寄り掛かり、此方を凝視している土方の姿があった。その瞳は何処か呆れたようにも見える。
「……相変わらず百面相してやがんのな、おめぇは」
「む。好きで百面相してた訳じゃないですよ。ちょっと考え事をしてただけです」
雛乃が眉を寄せて抗議するも、土方は鼻で笑い飛ばしてしまう。土方にとって雛乃の意見などどうでも良いようだ。
土方の態度を少し不快に感じながらも雛乃は息を吐くと、土方の元へに向かった。
「それで? 土方さんはこんな所で何をされてるんです?」
「あ? ああ、ちょっと捜しモンをな――と、そうだ。雛乃、総司を至急捜し出して此処に連れて来い」
「は?」
急な申し出に雛乃は意味が分からず、首を横へと傾ける。
「何でまた、総司さんを? 」
「ちょっとした野暮用だ。ま、急ぎではねぇが、お前ぇを買い出しに行かせる予定だったからな。丁度良いだろ?」
「別に構いませんけど……。もしかして、また総司さんが何か為出かしました?」
土方の動きが一瞬だけ止まる。いつも深く刻まれている眉間の皺がまた一つ増えた。その表情から何となく状況を理解した雛乃は、詮索するのを止める。
「……えと、買い出しは……」
「硯と筆を二つずつ頼めるか?」
頭を抑え息を吐く土方に、雛乃は怖ず怖ずと頷きを返し、買い出しと沖田探索を引き受けた。
「総司の首根っこ掴んで必ず連れて来いよ。もし、無理だった場合――、分かってるな?」
「す、速やかに行ってきますっ!!」
◇◇◇
賑わう市中の雑踏を避けるように、雛乃は大通りをゆっくりと歩いていた。一人での外出は禁止されている為、護衛役も兼ねて藤堂も一緒である。
雛乃が外出する機会は殆ど無いに等しい。故に、見るもの全てが新鮮で楽しくて堪らなかった。物珍しそうに周囲を見渡しながら、藤堂の後方を付いて行く。
「あの、平助君。付き合わせちゃってごめんね。出掛ける予定だったんでしょ?」
「ん? あー、大丈夫大丈夫。どうせ、左之さん達に飲みに付き合わせられるだけだったからさ」
藤堂は片手を振り、苦笑を浮かべると雛乃の方を振り向いた。
「左之さん達の酒飲みは本当に凄いんだよ。浴びるように飲んで、べろんべろんに酔っ払うんだから。酔っ払らって、絡んでくるのがまた最悪なんだ」
眉間に皺を寄せて、力説する藤堂に雛乃は思わず笑みを溢す。
「つまりは、逃げ出したくて堪らなかったって事? なら、良かったね。今日はちゃんと抜け出せる事が出来て」
作り物ではない自然な笑顔。口に手を当てて、笑い続ける雛乃を見て藤堂は目を細めた。雛乃はそんな藤堂の視線に気付き、首を横に傾ける。
「平助君? どうかした?」
「あ、いや、こうして話してみると、雛乃も普通の女子なんだなぁと思って」
「えぇぇ、何それ。私の事どんな風に見てたの?」
不満そうに頬を膨らませる雛乃に、平助は苦笑を見せる。
何も雛乃を傷付けようとして掛けた言葉ではない。雛乃の変化が嬉しくて、思わず出てしまった言葉だった。
幼い表情に小さい身体。大人びた雰囲気を纏い、壬生狼と蔑まれる自分達にも、物怖じする事無く対等に接してくる。
不思議な娘だと思った。先の時代から来ただけでも希有な事だというのに、いつの間にか、その存在に皆惹かれていった。
それはきっと、雛乃が完璧な存在ではなかったからかもしれない。
雛乃は、誰に対しても分け隔てなく笑顔を振り舞いてはいたが、心から笑っていない事を幹部の皆は早くから気付いていた。
そうなった理由や原因を藤堂は知らない。知りたいという興味はあったが、それを詮索しようとは思わなかった。
そんな事したところで、何の意味にもならない事を知っていたから。他人の過去を覗き見た後に残るのは、重い心と罪悪感。安易に他人が掘り越せば、酷い傷と為り兼ねない。
自分にも触れて欲しくない過去がある――
だから、何もせず見守る事を選んだ。
敬語を取り払って貰うようお願いしたのは、少しでも心から笑って貰いたい。そんな願いから思い付いた事だった。
自分と雛乃が敬語じゃなくなれば、沖田も当然割り込んで来る。それは恐らく原田達にも広がっていくだろう。
実際、結果は予想以上のものになった。雛乃は、沖田により敬語を禁止されてしまい、近藤達以外には砕けた口調で話す事が義務付けられてしまった。
お陰で、雛乃は敬語を使わずに話してくれるようになり、敬語の時に存在していた見えない壁も少しは薄れているように見える。
最初の頃より随分と話しやすくなった、と言えるかもしれない。
「――たの。だから……って、平助君? 聞いてる?」
「へっ!?」
突然聞こえた雛乃の声に藤堂は、驚き思わず足を止めた。雛乃を見てみると不思議そうな顔をして自分を見つめている。
どうやら、ずっと話し掛けてくれていたらしい。簡単に思い返していただけが、思いの外深く考え込んでいたようで、雛乃の話は全て聞き流していたようだ。
返事をしようかと思ったが、話の内容は全くと言っていい程分からない。下手に誤魔化すより、此処は素直に謝った方が良いだろう。
「……あ、ごめん。聞いてなかった。何?」
藤堂が素直に謝れば、雛乃の表情は一瞬にして悲しみに染まった。眉間に皺が寄っていく雛乃に何度も謝るが、表情が晴れることはなく返事は何も返ってこない。
怒らせてしまったのかと、藤堂が頭を上げると、藤堂の額に雛乃の指先が飛んできた。
「あいてっ!!」
パチン、と瞬間的に感じた痛みがじわじわと額へ広がっていく。痛みに顔を歪ませながら藤堂は額に手を当てた。
痛みと共に、一部が真っ赤に染まった額を擦りながら、藤堂は雛乃の手に目を向けた。指先が弾くように形どられ、藤堂に見せ付けるように弾く動作を今も繰り返している。どうやらそれで、この額を思いきり弾いたようだ。
小さな手からは想像出来ない強い衝撃に怯んだ藤堂は、
「……ごめん」
もう一度、頭を下げるしかなかった。
そんな藤堂を見て、雛乃はクスクスと笑みを溢す。どうやら気は晴れたようで、表情は穏やかなものに変わっていた。
雛乃は息を一つ吐いて、藤堂に向き直る。
「あのね、総司さんの居場所に心当たりないかって聞いてたの。壬生寺には居なかったらしいから、壬生寺は除外して、考えて欲しいなって」
「総司の居そうな場所?」
頷く雛乃に、藤堂は腕を組み記憶を辿っていく。
「んー、基本総司は遠出はしないから近場に居ないとなると……やっぱり、甘味処しかないんじゃないかなぁ。総司の甘味好きは度を超えてるし」
「甘味処かぁ……」
沖田の甘味好きは自他共に認める程のものだ。毎日の食膳より甘味。暇さえあれば甘味を食し、沖田からは甘い匂いばかりが漂っている。
あの細い身体でかなりの量を食すのだから、一体沖田の胃はどうなっているのか。甚だ疑問である。
「今日もまた、数え切れない程の甘味を食べてるのかな……」
「……多分ね。総司は、遠慮というものを知らないから」
幸せそうな笑みを浮かべて甘味を食していく沖田の姿を想像すると、何故か胸焼けがしてくる。
大量の甘味。その量が数十個以上にも及ぶのを知っているからかもしれない。
「甘味処を巡っていけば、直ぐ見つかると思うよ。総司のような大食いは滅多にお目に掛かれるモンじゃないしね」
「あ、確かに。人集りなんかが出来てそう」
沖田程の甘味好きには滅多にお目に掛かれないだろう。迷う事なく大量の甘味を口の中へと運んでいく総司の姿に人々は驚き、物珍しさにいつの間にか野次馬化してしまう。
藤堂の話によると、江戸にいた頃もよく見られていた光景らしい。




