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夢想花〜藤森の姫と狼達の奏でる物語〜  作者: 桜柚
第壱章 記憶を巡る旅路
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鴨と雛と梅の花【拾】



「私、色のある世界が欲しいんです」


思いがけない雛乃の言葉に芹沢は動きを止めた。色とはまた、珍しいものを願うものだと芹沢は眉を寄せる。

冗談のつもりか?と笑い飛ばそうとしたが、雛乃の表情を見て芹沢は徐に口を閉じた。今にも泣き出しそうな、悲しみを堪えた笑みに芹沢は二の句が継げなかったのである。


雛乃は顔を上げると、開いた障子戸から見える庭に目を移す。整えられた庭は緑に覆われ、端々に花々が咲き乱れていた。


だが、それはそのまま雛乃の瞳には映らない。雛乃の目は色彩を無くした白黒の世界へと変わる。


「庭はきっと、色鮮やかで綺麗で、快晴の空も青く澄んでいるんですよね……。なのに、私にはそれが見えなくて」


「……見えない?」


新緑鮮やかな草木達が風に煽られ、さわさわと揺れていた。それを見つめながら芹沢の問いに雛乃は頷く。


「色が、色彩が私には見えないんです。私が見る世界に鮮やかな色なんて、存在しないんですよ」


人と同じ景色を雛乃が見る事はない。雛乃の視界はあの時から止まったまま。十年間、同じ色を映し続けている。


「……成程な。道理で」


そう呟くと、芹沢はようやく合点が行ったような表情を見せた。時折見せる寂しさを含んだ笑みも、雛乃が着物を素直に着ようとしなかったもこれが理由だったのだ。


一つ息を吐くと、芹沢は雛乃の頭を優しく叩いた。その動きに雛乃は視線をゆっくり芹沢へと戻し、恐る恐る芹沢の表情を見るが、それは先程と変わらない、穏やかなものだった。


「色が無いと言ったな? 雛乃、お主の目からは一体どんな景色が見える?」


「はっ?」


てっきり哀れみの視線と共に、色が映らない原因を聞かれると思っていた雛乃は、咄嗟に反応出来ず間抜けな声を出す事しか出来なかった。


芹沢は、そんな雛乃の様子に堪らずくつくつと喉を鳴らす。対する雛乃は羞恥心から顔を真っ赤に染めた。そして、そのまま芹沢から思いきり視線を反らしてしまう。


「どっ、どんなのかって言われても、白黒の虚無感漂う景色としか言えないです。何も感じられな――」


「そうか? 儂はそう思わんがな」


「――え?」


思わず視線を戻した雛乃に芹沢は笑みを溢し、雛乃の頭から手を離した。


「お主の瞳は澄んでおる。寂しげに揺らいではおるが遥か先を見通せる、良い瞳だ」


音を立てて扇子を開くと芹沢はゆっくりと扇ぎ始める。生暖かい風が扇子に煽られ、雛乃の髪を撫でた。


「過去に何があったかは今は聞かん。色を失うくらいだ。何事かに巻き込まれ、心に傷を負った事は容易に想像出来る。……雛乃。お主はその目は何の為にあると思う?」


再度尋ねられた芹沢の問いに、雛乃は困惑したように眉を潜める。


何の為に――?

決まっている。これは罰だ。

生き残ってしまった故の、全てを忘れてしまった罪の証――


今も昔も変わらないその考えを雛乃が口にしようとした瞬間、芹沢はそれを止めた。


芹沢は口端を緩く吊り上げると盃を、雛乃の前へと差し出す。芹沢の動きによって波打ち、中身が少し零れ落ちた。


差し出された盃には酒が並々と入っている。それを怪訝そうに見つめ、雛乃は首を傾けた。


「……何ですか、これ」


「何って、酒だが?」


「いや、それは見れば分かります。私が言いたいのは何故、お酒なんかを――」


芹沢は雛乃の言葉を遮るように、盃を更に雛乃の前へと押し付ける。思わず零れないように盃を受け取ると、雛乃は緩く息を吐いた。


「この酒は、何色に見える?」


「何色って……」


雛乃の視界に色彩はない。それは芹沢も分かっているはずだ。なのに、今更何を言っているのだろうか。


酒は色彩関係なく、透明にしか映らない。そう思いながら盃の中身を覗くと、


「白濁色……?」


その酒は白く濁っていた。


「そう、白酒だ。お梅からな、こればかり渡されてしまってな。最近は、白酒しか飲んでおらんのだ」


白酒は女子供にも飲める甘味豊かな酒だ。古くから雛祭の祝酒とされている。それ程、強い酒ではない。


雛乃はゆっくりと盃に鼻を近付ける。鼻腔を擽る独特の甘い香り。思わず雛乃は目を細めた。


「白酒って……確か、春によく飲まれるお酒ですよね」


「そうだな。今の時期には合わんだろうな。だが、程よく酔うには丁度良い」


空になった酒瓶を畳に転がした後、芹沢は大きく息を吐く。呼気から漂う酒の匂いに、多量の酒を摂取したのだと分かる。


雛乃は苦笑を浮かべ、受け取っていた盃を芹沢へと返す。雛乃が持つ盃に手を伸ばすと、芹沢は再び口を開いた。


「この白濁した酒……。今の雛乃の目は正にそれだ。澄んではいないが、その存在をきっちりと主張をしている。意外に味も深い」


霞んでいるとも言える中身が見えない白濁色。それは色彩を失い、白黒の世界に浸る雛乃によく似ていた。ゆらゆらと揺れる、白濁の奥に味があるように、雛乃の白黒の世界にも何かしらの意味があると思われる。


「損失ばかりではない。得るものも少なからずあったはずだ。まぁ、色彩を失った衝撃で、それすら気付いていないかもしれんが」


芹沢は盃に口を付けると味わうように、白酒を喉へと流し込んでいく。それを見つめながら、雛乃の表情は次第に曇っていった。


芹沢の言葉が次々と響いてくる。疎ましいとばかり思っていたこの瞳にも、何かしらの意味があるのだろうか。


(……いや、でも、得たものなんて、一つもないような気がする。白黒のせいで人の表情がはっきり分かり過ぎるし、色で示されたらどう対応していいか困ってばっかりだったし……)


思い返してみれば、白黒の視界で苦労した事ばかりが浮かんでくる。良かった事なんて記憶の何処にもなかった。


眉間に皺を刻み思案し続ける雛乃を見て、芹沢は笑みを溢す。扇子を軽く閉じると、それを雛乃の頭へと向けた。


「もしかすると、案外それは、何かを守る為に奪われたものかもしれんぞ?」


「……守る、為?」


扇子の影に気付き、顔を上げた雛乃が芹沢に問い掛けてみるも、芹沢は何も答えず笑みを浮かべるだけだった。


雛乃は益々眉を寄せ、首を傾げる。


(……この瞳に守られた……?)


何かを守る為に失われた色彩。芹沢の言う通りだとするならば、一体何の意味があって色彩を隠しているのか。精神的な症状という訳ではないのだろうか。


ふと、雛乃の脳裏に一つの線が浮かび上がる。それは忘れ去られていた過去の自分。


「記憶……?」


そう、雛乃には“あの日”を含んだ十年前以前の記憶がない。思い出そうとしても、頭痛と目眩によって思い出す事が出来ずに、深い深い闇の中へと追い遣られていた。色彩と記憶が失われたのは同時期。因果関係は深いと思われる。


残虐な事件だった、と当時の事を祖父はそう語っていた。思い出す必要もない、忘れていた方が幸せかもしれないと。


「……私は、一体……」


記憶も色彩も無くす程に何を見て、何をしたというのだろう。


記憶の奥にある何かがちらついて離れなかった。ぼやける視界。伸ばす掌。大勢の人々。思い出しそうなのに、思い出せない。


必死に何かを掴もうとすれば、見たくないものが見えてしまう。だから――


「……思い当たる何かを見つけたか」


パチン、と弾く扇子の音と共に、芹沢の声が座敷に響く。

その声に導かれるように混沌とした思考から、雛乃は抜け出した。


雛乃は安堵の息を吐くと視線を下に向ける。微かに震える掌に息を呑んだ。


ほんの僅かだが、触れようとした記憶の断片。それなのに怖いと思った。思い出したくないと身体が拒否を示した。


「あの、芹沢さん……」


そう声を掛けてみたものの、上手く言葉が続かない。伝えようと懸命に口を動かすも、声にならず空気として外へ出ていってしまう。


そんな雛乃の態度に気付いたのか、芹沢は


「逸り過ぎると、逆に身を滅ぼす。ゆっくりとやる事だな」


諭すような言葉を返し、笑みを溢した。


芹沢はかなり酔っているにも関わらず、毅然とした態度を崩していない。むしろ余裕が有り余っているようだった。

扇子を左右に揺らしながら、全てを見通しているような眼差しを雛乃に向けている。


芹沢にはやはり、適いそうにない。心を見透かし、それを宥める言葉を的確にくれる。ずっと自分を見てくれていた保護者のようだ。


まるで――


「芹沢さんて、ほんとに狡いですね」


雛乃は次第に落ち着いてくる心音と共に息を吐き出すと、芹沢を見つめ返した。


「……でも、ありがとうございます」


ほんの僅かしか溢せなかったが、雛乃にとっては大きな一歩。だからこそ伝えたかった言葉を、そっと口にしてみた。


聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな声だったが、芹沢の耳にはしっかりと届いていたようで、口元を緩く吊り上げる。


「……フン。そのように礼など言われる覚えはないわ。言いたい事や聞き出したい事をただ、口にした。それだけの事よ」

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