鴨と雛と梅の花【伍】
そう言えば藤堂と普通に話すようになった事を誰にも話していなかった。先程の藤堂との親しげな会話を聞けば、沖田がそう勘違いしてしまうのも頷ける。
「恋仲とかそういうのではなくて。……えと、実は――」
雛乃は誤解を解く為、朝に起きた土間での出来事を沖田に話した。全てを話すとややこしくなりそうなんで掻い摘んだ内容だが。
「なるほど……。つまり、雛乃ちゃんは平助から頼まれて敬語を止めた。そういう事なんですね?」
「は、はい。そうです」
嘘ではないと何度も頷きを返す雛乃に、沖田は思わず笑みを溢した。真相を聞いて大分落ち着いたようで、いつもの表情に戻りつつある。
もしかして、沖田は自分の態度が気に入らなかったのだろうか。そうだ。気に入らなかったから、あのように不機嫌そうな笑顔を向けていたに違いない。
居候の身でありながら、馴れ馴れしく幹部に接するなど風紀を乱す原因にもなりかねない、とそう沖田は判断したのだろう。
この時代の人間じゃない自分が関わる事自体、そもそもの間違い。一線を引き続けていくべきだった、と雛乃は視線を下げる。
「……やっぱり、私が幹部の方に敬語無しだなんていけませんよね。沖田さんが気分を悪くするのも無理ない――」
「誰がそんな事、言いました?」
雛乃の言葉を遮り沖田は雛乃の頭に手を乗せた。それにつられるように、雛乃は顔を上げる。
「何も責めているつもりは、全くありませんよ。むしろ平助が羨ましいです」
乗せていた手を緩く動かし、沖田は雛乃の頭を撫でていく。
雛乃がこの壬生浪士組へ来て一月経ったが、沖田の知る限り雛乃の敬語が取れたことは一度もなかった。年齢的に、目上の者に敬語を使うのは当たり前なのだろう。だが、沖田にはそれが壁ように見え、雛乃と自分達の境界線のようで何処か嫌だった。
藤堂に感謝はしたくないが褒めてはやりたいと思う。敬語を取り除く事で、ようやく素の雛乃が見られるのだから。
「でも平助だけなんて、やっぱり狡いですよねぇ……」
ポツリと漏れた沖田の呟きは雛乃には届く事なく、風に乗って消える。雛乃の頭を撫で続けながら沖田はある事を思い付き、口元を緩く上げた。
そうだ。藤堂に出来た事をやらない理由なんて、何処にもないじゃないか。
動かしていた手を止め、沖田は自分の視線に気付き不思議そうに首を傾げた雛乃を真っ直ぐ見つめる。
「雛乃ちゃん」
「な、何ですか?」
妙に明るい沖田の声に嫌な予感がするが、雛乃はいつものように言葉を返す。にこにこといつも以上の笑みを浮かべ沖田は、こう言った。
「平助だけに敬語無しではなく、皆さんに敬語無しにしましょうか。勿論、私にも敬語は無しで。名前で呼んで下さいね?」
「は?」
聞き間違いかと、再び首を傾げるが沖田の表情を見る限り、どうやら間違いではなかったらしい。
沖田の事だから、またとんでもない事を言い出すとは思ってはいたが、まさか藤堂と同じだとは。
このような状況を予想していなかった訳ではない。単に、雛乃の予想より遥かに沖田の動きが早かっただけだ。
反論しようと口を開くが、驚きの方が大きかったようて、なかなか声にならず空気になって漏れるばかりだ。深呼吸を繰り返し、何とかして気持ちを落ち着かせると雛乃は、もう一度口を開く。
「何でそんな話に……。しかも、何で、敬語禁止になるんですか!? どんな言葉を使おうが個人の自由じゃ――むむっ!?」
反論する雛乃の口を頭から離した手で塞ぎ、沖田は不満そうに息を吐いた。
「……酷いですねぇ、雛乃ちゃん。平助には出来て、私には出来ないんですか?」
「うっ……。それは、えっと、少々事情が、ありまして……」
痛いところを突かれてしまい、雛乃は徐々に歯切れが悪くなっていく。
雛乃は決して敬語が癖な訳ではない。今まで周りにいるのが大人ばかりだったから、敬語を使う事が多かっただけだ。
だから、普通に話そうと思えば話せる。沖田とも対等に話す事は苦痛という訳でもなく、むしろ嬉しい事だった。
但し、それは現代で生活していたらの話、になるのだが。
過去と未来。幕末と現代。二つを繋ぐものは恐らく雛乃自身だろう。それを分かっているからこそ、雛乃はなかなか一歩が踏み出せずにいた。
大切な場所になってしまうかもしれないという期待と恐怖。待ち受ける歴史の流れを思うと、どうすべきなのか迷い続けている。
歴史の流れを守るならば、余り干渉するべきではない。しかし、此処で暮らしていく以上、彼らと接する機会は山のようにある。ぞんざいな対応など出来るはずがなかった。
(……でも、あんな思いをまた味わうくらいなら……関わらない方が良い。誰かが亡くなるのはもう見たくないよ……)
関わる事を拒む思いを心中で吐露しながら、雛乃はふと思う。
(……ちょっと、待って。あんな思いって何? 亡くなるって、まさか――)
雛乃は一気に身体中の体温が下がっていく感覚に陥った。
脳裏に過るのは記憶の二文字。過去の記憶が徐々に甦りつつあるのだろう。血溜まりの風景が瞳を閉じる度に浮かんでくる。
それは十年以上前の忌まわしい記憶――
急に黙り込み、何の動きもしなくなった雛乃に沖田は気付き目線を落とした。
「……雛乃ちゃん?」
呼び掛けて見るが反応はない。何かに驚いたように目を見開き、唇を強く噛み締めている。それは、何かを我慢しているようにも見えた。
「雛乃ちゃん!」
もう一度、今度は強く呼び掛けて見ると雛乃はハッと我に返る。そして笑顔を作ると沖田に向き直った。
「え、えへへ……。ちょっとボーッとしてました。すみません、何ですか?」
何もない、と取り繕うように先程の表情を消し笑う雛乃に沖田は違和感を感じた。それを確かめようと、雛乃の頭を軽く一撫でして沖田が口を開いた時――
「――お前達、一体何時までそこにいるつもりだ?」
威厳のある太い声が廊下に響く。
振り向いた先にいたのは芹沢。手に持った扇子で扇きながら、此方に歩いて来ていた。
「せっ、芹沢先生!」
「あ、芹沢さん。おはようございます」
慌てる野口を余所に、沖田は芹沢へのんびりと挨拶を返す。挨拶を返しながらも雛乃の頭は撫で続けていた。止めて下さいよ、という雛乃の声は完全に無視している。
それを見て芹沢はくつくつと喉を鳴らす。
「ふむ。雛乃、お主は今日もまた随分と可愛いがられておるな。まぁ、毎度の事だ。当然と言えば当然か」
「……芹沢さん。ちょっと、何で普通に納得しちゃってるんですか……」
雛乃はそう言って微かに眉を寄せ、頬を膨らませた。
芹沢が悪気なく言っているのは分かっている。此方の反応を楽しむかのような戯れ言。恐らく芹沢は楽しんでいるのだろう。
この半月の間、八木邸に食膳を運ぶ事で芹沢派の面々を一通り知る事は出来た。
普段、よく話すようになったのは野口や平間ぐらいで極力芹沢との接触は避けている。以前の事もあり、芹沢に話し掛けられても誤魔化しを利かせ、何とかやり過ごしていた。
ひとしきり笑い終えた芹沢はパチンと扇子と閉じ、沖田を見据える。
芹沢の視線を受けた沖田は微かに目を細めた。
芹沢が嫌でそのような反応をした訳ではない。嫌悪というより、芹沢が何の為に此方に来たのか。それを探る為のものだ。
雛乃が芹沢を避ける以上に沖田も雛乃と芹沢の接触を懸念し続けている。あの件の事を考えれば、警戒するのは当然だろう。何かあってからでは遅い。
スッと一瞬で笑みを作り直すと、沖田は芹沢に笑顔を向けた。
「何ですか? 芹沢さん。もしかして、私の顔に何か変なのでも付いてます?」
「いや? 特に意味はない。ないが、沖田。その手をいい加減退けたらどうだ?」
芹沢は閉じた扇子で沖田の手を差し、退けろと言わんばかりにそれを横に払う。
「えー、嫌ですよ。厄介な狼が目の前にいますし。ねぇ?」
「……フン。沖田、お前も厄介以外の何物でもないわ。過保護過ぎるぞ」
二人が交しているのは何気ない会話。そう、何気ない会話のはずなのだが、所々刺があるのは恐らく気のせいではないだろう。
先刻まで穏やかだった周りの空気は急激に冷えていく。何の免疫もない平隊士だったら、耐え切れず真っ青になりそうだ。
思わず縮こまりそうになる雰囲気の中、野口は徐に口を開く。
「それにしても、芹沢先生は何故此方に? 座敷で待って頂くようにと、お願いしていたはずですが」
「ああ、それはな」
野口の問いに芹沢はパチン、と扇子を開き再び扇ぎ始める。視線を沖田から野口に移し口端を微かに上げた。
「ちょっと所用があったのだ。雛乃、お主に会わせたい者がおる」
「へ? 私に、ですか?」
雛乃が首を傾けると同時に八木邸の方から誰かが小走りで駆けて来る。
「芹沢はん、遅うなってすんまへん。平間はんとちょっと……って、何廊下で突っ立ってはるん?」
そこにいたのは浪士組には似合わない妙齢の女性。色白の肌に美しい目元。妖艶さを漂わせる香を身に付けていた。
芹沢は扇子を使い、その女性を手元へと呼び寄せる。
「おお、来たか。お梅」
(お梅? ……って事はあのお梅さん!? うわぁ、想像してた以上の凄い美人……)
芹沢の言葉に素早い反応を示したのは他でもない、雛乃だった。
突然現れた彼女の存在に、先程頭を悩ませていた記憶の事など、すっかり頭の隅に追い払ってしまっている。
お梅という女性は芹沢の妾だ。史実にも記載されている数少ない女性である。
彼女に対する様々な噂があるが、雛乃は彼女を嫌な女だとは解釈していない。むしろ、一度会って直接話して見たかった。
雛乃がまじまじと女性を見つめていると、女性とふと目が合う。気まずそうにお辞儀を返した雛乃に対し、女性は雛乃を見て笑みを溢した。
「……もしかして、芹沢はん。あの子が雛乃、いう子?」
「ああ、そうだ。紹介するのが遅れたな。お梅、あれが沖田らが溺愛しておる女中の雛乃だ。……雛乃、こいつはお梅という。数少ない女同士だ。仲良くしてやってくれ」
そう言って、扇子で雛乃と女性――梅を交互に指し説明をする芹沢は、とても穏やかな表情をしていた。




