その男、芹沢鴨【拾】
芹沢に再び視線を合わせて話そうとした矢先、視界が反転する。
目を瞬かせて周りを確認してみると、どうやら髪の毛を引っ張られ後方に向けられたらしい。雛乃の身体は首から上だけ反り返っている状態だった。
「おい。いい加減に芹沢先生から離れたらどうなんだ、チビ助」
そんな言葉と共に、雛乃を見下ろすように視界に現れたのは嫌味な口調が特徴の青年、新見。
芹沢の腕の中にいるのが気に入らないのか、それとも雛乃自身が気に入らないのか。
新見の目は酷く冷たいように見える。
そんな新見の視線に軽く眉を寄せ、雛乃は口を開く。
「……あの、一応言っておきますけど、好きで座っているんじゃないんですよ? 芹沢さんが私を抱き締めたまま離してくれないんです。私が悪いんじゃ、」
「ならば、先生に許しを貰ってさっさと離れれば良いだろう。幾ら、先生が抱き締めて下さってるとは言え、長く座るべきではない」
先生を敬っているのならばそれくらい思って行動するのが当然だろう、と新見は雛乃を鼻で笑う。
新見の思いも寄らない言葉に雛乃は声を上げることなく、新見をただ呆然と、見上げることしか出来なかった。
色々と突っ込みたい箇所が多々あるのだが、尋ねたところで期待する答えは返ってこないような気がする。
何故なら新見は、この件はあくまで雛乃が悪く芹沢は決して悪くないと言ってるのだから。
(……何で? 私が悪い要素なんて何処かにあったっけ? 此処にいること自体が間違い? ああもう、何なの、この虚無感……)
未だに引かれている髪にズキズキと痛みを感じながら、雛乃はゆっくりとため息を吐いた。
「新見。何だ、お主もこれが気に入ったのか?」
一連の動作を止めることなく楽しげに眺めていた芹沢は、そう言って閉じた扇子で自身の胸元を指す。
そこには反り返ったまま新見を見据えている雛乃がいた。どうやら、これとは雛乃の事を指しているらしい。
それを理解するなり新見は不機嫌な表情を更に不機嫌にさせ、雛乃を睨み付けた。
「……まさか。気に入る、気に入らない以前の問題です。先生、自分は童が凄く嫌いなんですよ。存在自体が苛々します」
新見はそう言って掴んでいた雛乃の髪を振り払う。彼の絡まっていたのか、髪が少し擦れてしまっていた。
早く退けろと目で訴えてくる不機嫌な新見に、雛乃は我慢の限界を感じ始める。
何度も何度も子供扱いされて黙っていられる程、雛乃は大人ではない。雛乃に対して身長と年齢の事に関する事は禁句と言った方が良いだろう。
雛乃は体勢を芹沢の膝上で直し、新見を鋭く睨み返した。
「先程からチビだの、童だの、失礼じゃありませんか? 私はこれでも十六なんですけど!」
精一杯睨んだ雛乃の眼力ではなく、当然の如く言葉の方に、二人は驚きの表情を見せた。
芹沢は一瞬の反応で終わったが、新見は信じられないという様子で雛乃をジッと凝視し続けている。
それ程、雛乃は実年齢より幼く見えてしまっているということだ。
それは良いことなのか、悪いことなのか。
雛乃にとっては悪いことにしか見えないらしく、二人の反応に少なからず打撃を受けていた。そんな雛乃の気持ちを知る由もなく、新見は胡乱げに雛乃を見据えたまま軽く息を吐く。
「十六? ……どう見ても十ニ歳前後だろう。嘘を言うんじゃない、お前のような幼い娘がいる訳が、」
「いますよ。い・ま・す! 現に、此処に存在しているじゃないですか!!」
何度も言わせないとばかりに雛乃はそう言い放ち、新見の言葉を遮った。
新見の言い方には何かしら刺がある。それが雛乃は嫌で堪らない。
好んでこのような姿をしてる訳ではないし、雛乃も普通の女子のような身長が欲しいに決まっている。そう。普通であったなら、親類だって認めてくれていたはず――
新見を睨むその瞳には、様々な思いが溢れていた。新見は再び息を吐くと、雛乃から視線を反らす。雛乃の睨みに負けたという訳ではなく、単に疎ましく感じたからだろう。
つまり、新見はあの言葉を謝る事もないし、撤回する気持ちすら微塵もないらしい。
腑に落ちない様子で雛乃が新見の横顔を見ていると、太い腕が雛乃の腰へとゆっくり伸びていた。
「……成程な。道理で良い身体をしておる」
「ひゃわぁ!?」
新見に全集中を向けていた雛乃は瞬時に避ける事が出来ず、悲鳴を上げることしか出来なかった。
ギギギ、と軋んだ機械音のように首を動かすと視線に移ったのは芹沢の片手。そのまま顔を上げると、意味深な笑みを浮かべる芹沢がいた。
「せ、芹沢さん。てっ、てててっ、手ががががっ!!」
「ふむ。もう少し、と言ったところか。成長が楽しみだな」
雛乃の悲鳴を気にすることなく腰から上へと上り胸元を撫でるその手は、止まる事を知らない。
何処か慣れた嫌らしいその手付きに雛乃は熱が上がると同時に、全身の毛も逆立つのを感じた。
「……何をしてるんですか、芹沢さん?」
その声に芹沢は手の動きをピタリと止める。そして喉を鳴らし、くつくつと笑った。
芹沢の手が止まったことに雛乃はホッと安堵の息を吐いた。
このまま続けられていたら、間違いなく芹沢に手を上げ叩いていただろう。
芹沢は感情の起伏が激しい人物。
此処で、もし芹沢の逆鱗にでも触れ激怒されたら――
雛乃は思考を振り払うように、ギュッと自身の着物を握り締める。
考えたくもない結末。史実のような被害に合うのだけは遠慮したかった。
だから、あの声は救世主と思っても良い。口調や声の大きさからして、あれは沖田だろうか。
雛乃が再び息を吐いて芹沢の視線の先をゆっくりと辿る。すると、そこにいたのは怖いくらいの笑顔で芹沢を見据えている沖田だった。
笑顔を見せてはいるが、目が全然笑っていない。刀を今にも取り出しそうな迫力を持つ眼差し。
いつもと違う雰囲気の沖田に雛乃は思わず畏縮してしまう。それ程、沖田の殺気は凄まじかった。そんな沖田の視線を警戒しているのは新見だけで、芹沢は平然と楽しげに笑っている。
芹沢は閉じていた扇子を開くとゆっくり扇ぎ始める。
「……フン。何だ、沖田。土方との痴話喧嘩はようやく終わったのか?」
「えぇ、何とか。土方さんしつこいんですよねぇ。一人で行って片付けてしまえば良いのに」
声だけ聞けば何気ない会話のように思えるが、途切れることの無い笑顔が何とも不気味だ。
芹沢と沖田の凄まじい笑顔の攻防に、二人の周囲の空気が次第に凍っていく。
そんな二人に挟まれている雛乃は、物凄く居心地が悪かった。攻防が止まない限り逃げ出そうにも逃げられないこの状況。
さて、一体どうしたら良いのだろうか。
(……ど、どうしたら良いのかな。助かったと思いきや、何だが危ない雰囲気だし……。っ、そうだ。土方さん!!)
沖田が無理ならば土方に助けを求めるしかない。雛乃は土方を探すように、ゆるゆると横へと視線を動かしていく。
そして、雛乃の目に飛び込んできたのは、畳に顔を沈めたまま、腹部を押さえ悶絶している土方の変わり果てた姿だった。
先程の元気だった面影のない土方の姿に雛乃は言葉を無くす。
「ひっ、土方さん!?」
酷い有様に思わず声を掛けてみるが、土方からの反応は返ってこない。時折、彼から呻き声が漏れることから息絶えている訳ではなさそうなので、雛乃は少し安堵した。
しかし、一体誰がこんなことをしたのだろうか。副長である土方がそう簡単にやられるはずがないのだが。
それに先程まで此処には沖田がいたはず。
雛乃は嫌な予感がしつつも沖田の方へと視線を戻してみた。すると沖田は目元を更に細めにっこりと微笑む。
まるで、自分がやりましたよ、と言うような態度を見せる沖田に雛乃はガックリと肩を落とした。
間違いない。土方をこんな風にしたのは沖田だ。恐らく腰に下げている刀で土方に手をかけたのだろう。理由は全く分からないが。
「……あのぅ、沖田さん?」
「はい。何ですか? 雛乃ちゃん」
「ええと……」
雛乃は素直に理由を聞いてみようと口を開いたが、上手く言葉が出てこない。
そんな雛乃を見て、沖田はまた笑みを深くする。
沖田が土方をやったのは、単に口煩いのを黙らせたかっただけで、深い意味などは一切なかった。それに刀を使いはしたが鞘のみで、見た目より土方に外傷はない。
そうとは知らない雛乃は、沖田に土方の安否と原因を聞こうとしている。必死に言葉を見つけようとする雛乃に、沖田は笑って誤魔化すしかなかった。
「……先生。そろそろですが、如何なさいますか」
沖田を睨み付けていた新見が控えめにそう芹沢に声を掛ける。
「ほぅ、もうそんな刻限か」
芹沢は扇いでいた扇子をパチンと閉じると、それで畳を叩いた。
それが合図だったようで新見を始め芹沢派の面々は立ち上がると、廊下に出る障子戸付近へ集まる。
新見が障子戸を開けると芹沢は沖田から目線を外し、腕の中にいる雛乃を見据えた。
「今日の所は是で終いにする。雛乃、沖田と帰って良いぞ」
「……え? い、良いんですか?」
あっさり帰してもらえるとは思っていなかった雛乃は、思わず芹沢に聞き返してしまう。
それに芹沢は可笑しそうに頬を緩めた。
「何だ? そんなに驚くことか? ……正直に言うとお主を離す気はなかったが、残念な事に先約があるんでな」
「先約、ですか」
芹沢は壬生浪士組の筆頭局長という立場にいる。だが、ちゃんと仕事をこなしていたかと言えばそうではない。島原通いや、金策集めばかりを行っていたという。
恐らく今から向かうのも、そういう類のものかもしれない。
「良いか、雛乃」
思案をしていた雛乃を引き戻すように芹沢の声が、頭上から降り注ぐ。雛乃が顔を上げると同時に、芹沢の唇が雛乃の耳元へと引き寄せられた。
「これで逃れられたと思わぬ事だ。お主の事は全て暴く。覚悟しておけ」
何を、と聞く前に芹沢は意味深な笑みを浮かべ、自身から雛乃を引き離し沖田へと渡す。
「っ、きゃう!」
一瞬畳に落ちるかと心配したが、身体は無事沖田に抱き止められていた。
「おかえりなさい、雛乃ちゃん」
「た、ただいまです……」
沖田は待っていましたと言わんばかりに雛乃の身体を強く抱き締めて微笑んでいる。それが恥ずかしいのか雛乃は顔を真っ赤にさせていた。
そんな雛乃にクスクス笑みを溢し、沖田は雛乃の頭を撫でる。
「しかし、芹沢さんには困ったものですねぇ……。雛乃ちゃん、大丈夫でしたか?」
「だ、大丈夫っ、ですからっ。と、とにかく離して下さいぃぃっ!!」
先程、芹沢にされたことを忘れた訳ではない。その出来事よりも、今のこの状況をどうにかしたかった。
雛乃は沖田の胸を押しながら何とか抜け出そうと藻掻く。だが、それを簡単に許す程沖田は優しい人間ではない。
「はいはい。さーて、ひとまず前川邸に戻りましょうか」
笑みを崩さないまま、沖田は雛乃を抱き締めたまま立ち上がる。小さく悲鳴を上げて、降ろしてと抗議をする雛乃を無視し沖田は歩き出した。
それに戸惑いながらも自分で歩けない以上、沖田に従うしかない。
深々と息を吐いて雛乃は沖田を睨みつける。
「……沖田さんはやっぱり意地悪です。意地悪過ぎますっ。土方さんを倒しちゃうし」
「んー、酷い言われようですねぇ。土方さんのは自業自得なんですから、放置するのが一番なんですよー?」
沖田は座敷から廊下へと出る際、雛乃を抱え直し緩く首を傾げた。その仕草から反省の色は全く見えない。
これ以上は何を言っても無駄だ。
そう思い、沖田から視線を反らし雛乃は今から渡る廊下に目を移した。もう既に芹沢達の姿はない。屋敷から出て行ってしまったのだろうか。
(……芹沢さん、か。思ったよりも厄介な人だったなぁ。色々と疲れちゃったよ……)
性格や行動も去る事ながら、芹沢の眼力は思った以上に手強いものだった。雛乃を腕に抱いて、離さなかったのも全てを聞き出そうと図っていた為に違いない。
芹沢と芹沢派とのやり取りにはかなり骨が折れそうだと、沖田の腕に抱かれながら雛乃は深々と息を吐いた。
◇◇◇
一方、屋敷を出た芹沢一派は市中を歩いていた。
芹沢の後に新見、平山、平間と続き最後尾に野口がいる。芹沢の目立つ風体に独特の雰囲気を放つ新見達。
町の人々はそんな彼らを避けて歩き、胡乱げに見つめていた。そんな人々の視線を気にすることなく、彼らは市中を闊歩していく。
そんな中、新見は前方を歩く芹沢へ声を掛けた。
「先生、あの童……娘は置いておくつもりで?」
「ああ。今は、な」
扇子を扇ぎながら笑う芹沢はいつもより遥かに機嫌が良い。
何か面白いことを思いついたのか、それとも――
「……もし、災いにでもなったら?」
「フン。その時は斬り捨てれば良いだけよ。まぁ、アレは間者というよりは、何かを隠し持っていると言ったところだろうが」
良い遊び道具を見つけたように嬉々として語る芹沢に、新見は複雑な表情を見せていた。
(……ッ、あの娘は色々厄介で追い出すべき存在だというのに……。さて、どうするべきか……)
芹沢なら直ぐに処断するかと思っていたが、新見の予想よりも遥かに芹沢は雛乃を気に入ってしまっている。
このままでは予定通りに事が運ばないかもしれない。芹沢は眉間に皺を刻み続けている新見に気付き、視線を後ろへと移した。
「何だ、不満そうだな。新見、あれに何かあるのか?」
「……いえ、何も」
否定しつつも、新見の不満そうな顔が崩れないことに芹沢は微かな疑問を持つ。
だが、今はそれに触れないことにした。
「確か、童嫌いだった、か。ならば近づかなければ良いだろう。……まぁ、お前の場合、只の童嫌いじゃないようだがな?」
「ッ!!」
反射的に顔を上げると、芹沢が意味深に新見を見つめていた。その瞳は嫌なものではない。全てを見通す、静かな焔だ。
視線を外し、再び歩いて行く芹沢の背に新見は深々と息を吐く。
やはり芹沢には到底適わない。だからこそ新見は彼を尊敬して止まないのだが。
「……何とかせねば……」
まずは、奴と会って決めるべきか。
芹沢が駄目ならば、自分で何とかするしかないと、新見は決心し芹沢の背を追い掛け歩みを進めた――




