触れた指先【壱】
『お気の毒に……。まだあんなに小さいのに一人ぼっちだなんて……』
『あの子は奇跡的に助かったみたいよ』
『……可哀想に。聞いた話では記憶喪失らしい』
『まぁ、それはそれは……』
退院してから、私が受けた視線はとても心地良いものではなかった。
記憶がない私は、両親のことすら分からない。
兄達と過ごした時間も覚えてはいなかった。
その所為だろうか。
憐れみ以外の、他の声も聞こえるようになったのは。
分かっている。
私が一番分かっている。
忘れてしまったことが、苦しくて仕方ないのに。
悲しくて、胸が痛くてたまらないのに。
なのに――――……
『……アレは藤森には相応しくない』
――そう、拒絶された。
「――ッ!?」
パチンと何かが弾けるように、雛乃は目を覚ました。
夢見が悪かった所為か、額にじんわりと汗が滲み、長い黒髪がピタリと首筋に張り付いている。
何度か息を吐き、呼吸を整えた。そして布団から身を起こし、現状を確認するように周りを見る。
見慣れた天井に、古びた箪笥。少し色褪せた畳に部屋を仕切る襖。
そして、自分が横になっているふかふかの布団があるベッド。
全体的に和式なその部屋は淡い色合いで統一されている。残念ながら、雛乃には白黒にしか見えないが。其処は雛乃の自室だった。
軽く眉を寄せ、雛乃は壁にかけてある部屋着の着物へと、手を伸ばそうとするが、既に自分の服装が制服でないことに気づく。
着物があるはずのハンガーには、雛乃が着ていた制服がかけられていた。
ベッドから立ち上がり、パタパタと服を触ってみる。
(あれぇ? なんでパジャマ? そういや、なんで私、家に帰ってきてるの?)
学校で意識を失ってしまった事までは覚えているのだが、その先が全く分からない。
「――お、気がついたか。お姫様」
音もなく襖が開き、藤が部屋へと入ってくる。
部屋の主の断りも無く入室する藤を見て、雛乃は眉を寄せ声を上げた。
「マナー違反ー!」
「あーあー、いちいち細けぇなぁ。こういう時ぐらい見逃せよ。それよりも具合はどうだ? 気持ち悪いとか、ねぇか?」
藤は苦笑を浮かべながら、雛乃へ尋ねる。ベッドに座り直し雛乃は不機嫌ながらも質問に素直に頷いた。
「大丈夫だよ。それより私、一体どうしたの? 学校に居た筈なんだけど。それにこの服……」
ああ、と頷いて藤は襖を閉めて畳に腰を下ろす。そして胡座を掻いた。
「お前、脳振盪起こしたんだよ。幸い軽いもんだったからさ、安静にってことで俺が親切に、やさーしく、自宅に連れ帰ってあげた。ここまでは良いな?」
「うんうん。で?」
こくこくと先を促すように頷いて、雛乃は藤を見る。どうやら、自宅にいることより、何故自分がブカブカなパジャマを着ているのかが、気になってしょうがないらしい。
藤は頭をガシガシと掻いてハァと息を吐いた。
「……まぁ、手短に言うとそれ、俺のなんだわ」
「藤ちゃんの?」
「おう」
「なんで?」
「着せるの、他に見当たらなかったから」
壁に掛けてあったのは、あくまで部屋着の着物。夜着ではない。
箪笥から引きずり出して探そうとも思ったが、流石に女子の部屋でそれはマズいだろう。そこで、無難な自分のパジャマを着せた、という訳である。
藤から簡単に説明され、雛乃はふぅんと頷いて、また藤をジッと見た。
普段は雛乃を見下ろす立場の藤だが、雛乃がベッドに座っているせいで視線は彼女の方が高かった。
自分を責めるような、そんな視線に藤は眉を寄せる。
「……藤ちゃん」
「な、何だよ?」
「藤ちゃんが、もしかしなくても着替えさせてくれたの……?」
疑問というより、確認に近い質問に聞こえる。
「そうだけど?」
藤は否定することなく、事も無げに、さらりとそう答えた。
その答えに、雛乃は近くにあったクッションを藤の顔に向けて、投げつける。
声を上げる間もなく飛んできたそれに、藤は顔面を遮られた。数秒後、離れたクッションを畳に叩きつけて雛乃を睨む。
「っの、いきなり、何すんだ! バカ雛!」
「馬鹿は藤ちゃんでしょっ!? 人の、女の子の身体見るなんて、最低ぃぃ!!」
「身体ぁ? ……ははーん、何だ。恥ずかしいのか?」
「そ、そんなんじゃないもん!! ただ……っ!」
「ただ? 何だよ?」
雛乃の表情を見ながら、藤はニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべる。対する雛乃は顔を真っ赤にして、これでもかとばかりに頬を強く膨らませていた。
そんな雛乃に藤のはククッと声を出して笑う。
「安心しろ。今の雛を見ても何とも思わねぇよ。ま、胸の大きさだけは褒め、」
バチ――――ン!!
藤が言い終わる前に小気味良い音が部屋に響く。
「藤ちゃんの馬鹿ぁぁぁっ!! 早く、早く部屋から出てけ――!!」
雛乃の放った渾身の平手打ちと、次々に自分に向かって投げられる小物を目にして、藤は慌てて部屋を出て行った。その頰にはばっちり紅葉の手形が出来ていたが。
だが、直ぐに戻ってきて襖を開き、こう告げる。
「あ、そうそう。言い忘れてたが今夜、親睦パーティーがあるらしい。用意しとけよー?」
藤の足音が過ぎ去って、数分後。雛乃がガターンとベッドから立ち上がり、再び声を上げた。
「それを早く言ってよぅぅぅ!!」