モノクロの世界
――時は平成、平和な時代。
キーンコーンカーンコーン……
閑静な住宅地の中にそびえる白亜の校舎に、午後の始業を告げるチャイムが鳴り響き渡る。
大半の生徒は教室へと戻り授業を受け始めているが、一人例外の生徒が屋上にいた。
「ぐぅ……」
図書室から拝借した大量の本を近くに積み上げ、気持ち良さそうに寝転び、寝息を立てている。
咎める者は誰もいない、のどかな空間。少女はチャイムに気づく所が、起きる気配すらない。
終業の時間まで、このままだろうかと思われたその時、足音と共に屋上の扉が乱暴に開けられた。
「雛ぁ!! 起きろ――!!」
「はっ、はひっ!?」
低い、だがよく耳に通る声で怒鳴られた少女は、夢見心地のまま勢いよく起き上がる。そして、目の前にいる人物に目を瞬かせた。
「むぅぅ、あれぇ? 藤ちゃん~?」
「今は先生だろうが。馬鹿」
コツンと軽く少女の頭を叩いて、藤ちゃんと呼ばれた青年は深く息を吐いた。
青年の名前は相模原藤。この学校、柏木学院の非常勤講師である。
少し赤みがかった黒髪。だらしなく緩められたネクタイ。校内にも関わらず、火の点いていない煙草を咥えている様から、指導的立場の者には決して見えないが。
それでも、生徒からの人気は高い。分かりやすい授業、気さくな性格。中でも一番の理由はそのルックスだろう。
スラリと伸びた長身。体格は細身に見えるが意外と筋肉質。何より、美形な顔が女子生徒のハートをガッシリと掴んでいた。
だが、それもこの少女の前では形無しである。
少女はゴシゴシと何回か目をこすって背伸びをする。その後、自分を立ったまま見下ろす藤を見て、首を傾げた。
「藤ちゃん、どうして屋上に? 授業はいいの?」
「だから、藤ちゃんは学校で止めろっつったろ。……今日は午後から、授業無しだ。先生から呼び出し来たんでね」
「おじい様から?」
おう、と頷いて藤は少女の横に散らばる本を取りながら、少女と同じ目線になるよう足を屈める。
「それを一応、お前に報告しようとしたら教室いねぇし。予鈴鳴っても教室に帰ってこねぇ……となると、また屋上にいるんだろうと思ってよ。連れ戻しに来た」
「連れ戻しにって……。子供扱いしないでよぅ。ちゃんと自分で戻れるしっ」
そう呟いて、ぷぅと頬を膨らませる少女はどう見ても、歳相応の表情には見えない。
童顔で尚且つ、身長が低いせいか高校生にも関わらず、よく小学生に間違えられている。
そのせいか、子供扱いされるのを非常に嫌っていた。
その態度に藤はククッと笑い、少女の頭をぐりぐりと撫で回す。
「悔しかったら、身長伸ばして色っぽくなってみろよ。何なら、俺が」
「女誑しの藤ちゃんのアドバイスなんか聞きたくないよ。なんかいやらしい」
藤の言葉を遮るように、彼の手をパチンと払い、少女は立ち上がった。積み上げていた本を持って、ドアの方へ向かって行く。
「なんだ。行くのか?」
「行く! 藤ちゃ……ううん、相模原先生も早く行ったらどうですかー?」
ベーッと舌を出して少女は屋上を後にした。
バタンと勢い強く閉まるドアに片目をつむり、藤は口元の煙草を手に掴む。
「……ったく、相変わらずだなぁ」
藤は緩む口元を抑え、空を見上げる。
「……あれから、何年経ったんだっけなぁ……」
空は青々として、何処までも澄み渡っていた――
(うぅ、藤ちゃんのばぁかっ!!)
心の中で悪態をつきながら、少女は階段を慎重に一歩ずつ降りていた。
両手に抱えている本の所為で前が見にくいせいもあるが、もっとも大きな原因は――
「きゃっ!!」
階段をあと一歩で終わると言う時に、少女は階段の先に躓く。そして、そのまま本と派手な音と共に床にのめり込んだ。
「……痛いぃ……」
少女――藤森雛乃は何もない所でよく躓き、よく転ぶ。気をつけて歩いても効果はなく、怪我をしない日は一日もない。
不幸体質なのか、単なるドジなだけなのか。雛乃にとっては、毎日がトラブルの連続だ。
だが、雛乃の不安はそれだけではなかった。
立ち上がり埃を落としながら、雛乃は前方に目を移す。目に映るのは白と黒の世界、色彩の失われたモノクロの世界だ。
瞳に映る全てには色がない。今、前方にある茶色の床も雛乃の目には黒にしか見えていない。
「……むぅ」
目を閉じる度に、再び目を開けると色彩が戻ってくるんじゃないかと未だに思ってしまう。
色彩を失って、もう十年になるというのに。
色彩が、色が見えないと気付いたのは十年前。雛乃が七歳の頃だ。
最初は色どころか、視界全てが靄が掛っていて闇色だった。数日経ち、視界がハッキリとなるにつれ、あることに気づいた。
色が一切ないとと。
原因は不明。染色体にも脳にも、目にすら異常は見られない。
何故、こうなったのか医師も困惑していた。前例がほぼない症状なのだという。
とある専門の医師が言うことには精神的なものなのだそうだ。
あまりにも強いショックで記憶に潜む何かを拒否する余りに、色彩を遮断してしまったのではないかという事だった。
原因には、心当たりがある。
十年前、ある事件で雛乃は大事な家族を失っており、後遺症が残る怪我を負っていた。
多分、それが一番の要因だろう。
あの事件で受けた、心的外傷が視界に現れてしまっただけ。
そう。ただ、それだけ。
それだけの事なんだ。
それだけの、事なのに。
何故いつも、考えてしまうのだろう。どうして、知りたいと思ってしまうのだろう。
記憶が無いのだから、思い出せる訳ないのに。
落ちてしまった本を手に取りながら、雛乃は無表情で自分の空いている片方の掌を見つめる。
(私は何がしたいの……? ほんとは、)
「ああっ! いた! 雛ちゃーん」
自分を呼ぶ声に雛乃は思考を止め、ハッと顔を上げた。
そこには自分の元に駆けてきている数人の友人の姿があった。
雛乃は友人の姿を認めると、憂いを帯びた表情を消し直ぐ様、笑顔を浮かべる。
「あれ? 皆、どうしたの?」
きょとんとしながら首を傾げ自分達を見る雛乃に、友人達は深く溜息を吐いた。
「どうしたのじゃないわよ」
「なかなか雛ちゃんが戻ってこないから、心配して見に来たの! 五時限目、自習になったんだよ?」
「先生、今ならいねぇからさっさと教室に戻ろうぜ」
口々に雛乃を呼びにきた事を、次々に説明する友人達に雛乃は笑みを返す。
「そっか。ごめんね? 心配かけちゃって」
「いいっていいって。どうせ暇だったし」
友人の一人は軽く手を振って、雛乃の近くに落ちている本を見る。そして眉を寄せた。
「……もしかして、またコケたのか?」
「あはははー」
空笑いをして誤魔化そうとする雛乃に、友人達は再び息を吐く。
「もーう、雛ちゃんのドジー! 気をつけてって、毎回言ってるのにっ!」
「よせ、小牧。雛に何言っても無駄だって。コイツの転倒はもはや、日常生活の一部になってるから」
小牧と呼ばれた少女は、自分より長身の少年をムッと睨む。
「ちょっと! それは雛ちゃんに失礼でしょ!? 確かに雛ちゃんは、ちょーっと天然で、鈍感で、ドジで、童顔で、同年代では身長かーなり低いけどっ!!」
「勝也より小牧の方が酷いこと言ってるわよ……」
そうボソリと呟いて、傍観していた友人の一人、静香は雛乃を見る。
案の定、雛乃は頬を膨らませ、勝也と小牧を見据えていた。
睨んでいるのだが、やはり怖くない。年齢より幼く見えるせいだろうか。
「勝っちゃんも、牧ちゃんも酷いよ……。もう良いもんっ!! 一人で戻る! レポートも二度と手伝ってあげないんだから!!」
雛乃はそう宣言して、本を両手に持つと、勝也達の横を通り抜け廊下をズンズン進んで行く。
後ろを振り返らずに歩いていく雛乃の様子を見て、静香達は表情を曇らせた。
「……あらら、拗ねちゃった」
「じ、冗談だよぅ!! 雛ちゃん! ちゃんと謝るから! そう、勝也君が!!」
「おい、俺だけかよっ!?」
次々に声を上げる、彼らの言葉を無言で聞いていた雛乃はピタリと足を止め、視線だけを後ろに向けた。
その表情は怒ってなどいない。むしろ楽しんでいる風に見える。
舌をペロッと出して雛乃は再び、歩き出そうとしたが――
「……あ。雛! 前、前!!」
そう勝也から注意された時には、もう遅かった。
ガタ――ン!!!!
何かが倒れる音と、本が大量に落ちる音が廊下全体に響いた。
「ひ、雛ちゃぁぁぁん!?」
再び転倒した雛乃に小牧達は慌てて駆け寄る。心配する小牧達に大丈夫、大丈夫と笑顔を返し、雛乃は立ち上がった。
だが、倒れた時に頭を少し打ってしまったのか、ズキリと響く頭痛に表情を歪ませる。
「おい、雛! 顔色悪いぞ? 大丈夫か?」
「……大丈夫っ! 平気だもん」
ズキズキと鳴り響く頭の痛みを隠すように、雛乃は笑みを溢した。
本当は痛くて痛くて、たまらないのだが、決してそれを口に出すことはしない。
あの時から、ずっと。
苦しくなんか、ない。
悲しくなんか、ない。
そんな感情、私は知らないし必要ないんだ。
弱音なんて、吐けない。
悩みなんて、言えない。
同情なんか、いらない。
憐れみの視線も感情も、慰めなんか、私はいらないの。
私は、ただ――……
プツリと思考が消える。
「……雛? おい! 雛っ!?」
誰かが自分の呼ぶ声を遠くに感じながら、雛乃の意識はそこで途切れた。