【 夜の帳の中で (参) 】
先程まで煩い程、自分に噛みつくように言葉を被せてきた吉田は無表情で、ただそこに座っていた。
何かを考え込むような仕草をしている吉田に、一琉は眉を寄せる。
どうしたのか、と息を吸い込んだ瞬間、その場の空気が変わった。
「ねぇ、一琉」
自分が口を開くよりも早く口を開いた吉田がゆっくりと顔を上げ、一琉を見据える。
「その子ってさ、黒塗りに淡い桜色の模様の入った懐刀とか、持ってなかった?」
「は? 何でまた……。そんな事、聞いてどうすんだよ」
「いいから。答えてよ」
吉田の顔に笑みはない。いつもの嘲る口調も消え、見た事もない鋭い視線が、一琉の身体を射抜く。
一琉は苛立ちを抑え、言葉を紡いだ。
「……知らねぇよ。そいつの荷物までは見られなかったし。長い黒髪の童ぐらいしか覚えてねぇ」
「嘘じゃないよね?」
「嘘吐いてどうすんだよっ!」
そう吐き捨て、一琉は吉田から目線を反らす。そうしなければ、そのまま吉田の眼力に呑まれてしまいそうだった。
一方の吉田は軽く舌打ちして立ち上がる。
「……役立たず」
「あ゛ぁッ!?」
吉田の言葉に思わず、一琉は視線を戻し彼を睨む。だが、既に吉田の姿は其処には無かった。
吉田は部屋の出入口の襖を開き、目線だけを此方に向ける。
「風に当たってくる。暫くは、戻ってこないから」
「は? おい、吉田っ!!」
――パシンっ!!
返事の代わりに襖が閉まり、部屋は静寂に包まれた。
「どうしたんだ、あいつ……」
「いつもの癖だ」
お茶を再び飲んでいた久坂はそれを飲み干し、息を吐く。
「あれから四年経つが、似た年齢の子の話が出るとああなるのさ」
「悪ぃ。全然、話が見えねぇんだが……」
一琉にそう指摘され、久坂は目を瞬かせた。
「何だ。一琉には、まだ話してなかったか?」
「だから、何の話だよ……」
不機嫌そうに眉間へ皺が益々寄っていく一琉の表情に苦笑を漏らし、久坂は口元を押さえた。
「知らないのなら、話しておくべきだろうな。あの話を」
「あの話?」
ああ、と頷いて久坂は目を細めた。
「まだ、俺達が萩に……、松下村塾に通っていた頃の事だ」
◆◆◆◆
――カラン、コロン。
いつもは履かない下駄の音を響かせながら、吉田は夜の街を歩いていた。
高く結われた髪が風に当たる度にふわりと揺れる。
“えいたろーのかみ、ふわふわしてて、だいすき!”
ふと思い出した懐かしい声に、吉田は口元を緩ませた。
――四年。あれから、四年が経った。
かけがえのない師を失ってから、大事な義妹を失ってから。四年が、経った。
「……雛……」
そう呟いて、吉田は唇を噛み締める。
いつも共にいた少女。松下村塾に毎日顔を出し、自分を慕い、師である松陰を父と呼んで笑顔で笑っていた。そう、笑っていたのに。
少女は松陰が亡くなったと聞かされた翌日、行方知れずとなった。
髪紐と着ていた着物をその場に残して、忽然と姿を消した。
吉田を始め、松門一派は必死に少女を探した。長州だけではなく、江戸や京、探せる場所は全て当たってみた。
だが、少女が見つかる事はなかった。
先生はもう戻ってこない。
そして、あの子も――……
仲間のほとんどは、諦めている。少女は、雛は死んでしまったのだと。
(そんな筈、ない。雛が、あの子が簡単に死ぬ筈ないんだ……)
吉田は今も変わらず、少女を探し続けている。数名の部下に命じて、この京でも捜索を続けていた。
秘密裏に行っているが、長い付き合いの久坂達の事だ。自分の行動は把握済みなのだろう。
その証拠に彼らは時折、さりげなく様子を聞いてくる。だが、吉田は敢えて何も答えなかった。
沈黙が、答えだったからだ。
ゆっくりと息を吐いて、吉田は腕を組む。
(……これだけ探して見つからないのだから、諦めるべきなんだろうけど……)
それが出来ない自分がいた。
少女の“死”を認めたくないという強い思いが、吉田の心を縛りつけている。
何故なら、あの日。少女を最後に見たのは自分で、少女と初めて喧嘩をした日でもあったから。
再び息を吐いて、ふと目線を前に向けると嫌な色の羽織が目に入る。
だんだら模様の羽織――公儀の狗。壬生狼の物だ。吉田は軽く舌打ちし、近くの路地裏へと身を潜めた。
通りにいる、隊士の数は十人程。幹部である隊長を先頭に、町を練り歩いて行く。
吉田の居る所と彼等が巡回している場所は、かなりの距離がある。気配を隠している限り、此方に気づくことはないだろう。
(……あーあ、壬生狼ってホント邪魔だよねぇ……。苛々するよ)
先程までの感情とは違うものが心の中で燻っていく。
憎悪にも似た醜い塊。この四年で、それは衰える事を知らずに膨らんでいくばかり。恐らく公儀が消えるその日まで、燻り続けるのだろう。
もし、少女が今も隣にいてくれたなら、この感情も少しは違っていたのかもしれないが。
ザワザワ、と雑音と足音が通り過ぎて行く中、壁に寄り掛り目を閉じていた吉田は気になる言葉を耳にした。
『――ああ、壬生狼や。まぁた見回ってんのかい』
『汚らわしいなぁ。そいや聞いたか? 先日連れて行かれた童は、壬生狼にこき使われとるそうやで』
『はぁ、あの橋に現れたっちゅう、なんや不思議な女子のことか?』
『そうや。どうやら――』
笑い声を上げながら、通り過ぎていくほろ酔いの商人達を物陰から見送り、吉田はゆるゆると思考を巡らせていた。
(……先日の、童って澄や一琉が言ってた子の事かな。ふぅん。まだ、壬生狼に捕まってたんだねぇ……)
一琉達の話では、その少女はまだ幼い女子だったと聞いている。だから、直ぐに釈放されたのだと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。
(間者の疑いでも掛けられたか、もしくは釈放出来ない事情が出来たか……。何方にしろ、調べてみる価値はありそうだ)
公儀を一刻も早く潰したい吉田にとって、公儀の狗である壬生狼は邪魔な存在でしかない。その彼等を潰す為の材料があるのなら、何としてでも手に入れて置きたかった。
早速、宿に戻って探りを入れる手筈を整えようと吉田が口元を緩めた時だった。
「――ッ!」
ふいに感じた気配に吉田は目を開けることなく、鍔を弾き瞬時に刀を抜いた。そして、背後にいるであろう輩に剣先をピタリと当てる。
「ひッ……、よ、吉田先生……ッ!!」
そう相手から漏れ出た声に、吉田は眉を潜めた。自身を先生と呼ぶのは同郷の者や、仲間内にしかいない。そう思い当たり、吉田は目を開け彼等を見た。
「君達さぁ、こんな所で何やっているの?」
視線の先に居たのは、長州の浪士達。一琉と行動を共にしていた三人の青年だった。
呆れたように剣先を向けたまま尋ねる吉田に、青年達は互いに顔を見合わせる。
どうやら、理由は言いにくい内容らしい。
吉田は軽く目を細めて、そのまま刀を一人の青年の喉元へと移動させる。
「ねぇ、早く言わないとこのまま刺すよ? いーち、にー、さーん……」
「いっ、言います言います! 実は――」
青年達はその言葉は身体をビクリと震わせて、事の次第を話始めた。
彼らの話を要約するとこうだ。
一琉と行動に共にしていたが、先日の騒動により別行動をすることになった。
一流と合流しようにも出来ず、それどころか壬生狼に見つかってしまい今、身を潜めているのだという。
「馬鹿だね」
吉田は彼らの状況を不憫に思う事も労る事もせず、そうバッサリと切り捨てた。
「一琉が一緒にいるからって、大丈夫だとは限らないんだよ。君達さ、分かってる? 少し調子に乗り過ぎてたんじゃないの?」
吉田の言葉に言い返せず青年達は黙り込む。以前、一琉にも同じようなことを言われていたからだ。
余り安易な、軽率過ぎる行動は取るなと。
それが頭を過るも、一人の青年が何とか弁解しようと口を開く。
「しかし、吉田先生。俺らにも事情があって……!」
「事情って何? 勝手に騒ぎの真ん中に飛び込んで、上手く逃げることも出来ずに公儀の狗に追い回されてさ。此方としては、迷惑以外の何物でもないよ」
刀を下に降ろしながら、吉田は冷たい眼差しを青年達に向ける。その瞳に優しさは見受けられない。
機嫌が悪い吉田にとって使えない同志など、苛々させられるだけだった。しかも現在、壬生狼が巡回中だ。見つかれば乱闘は避けられないだろう。
今、此処で騒ぎを起こすのは非常に不味い。自分一人だけならどうにかなるだろうが、彼らは壬生狼に遭遇し、恐らくだが顔が割れている筈だ。逃げ切れるとは考えにくい。
(……壬生狼だけに、鼻は良く効くみたいだしねぇ)
此処に居るだけで、壬生狼に出会う確率は格段に上がっていく。吉田は握ったままの刀に視線を落とした。
薄暗い路地裏に風が入り込み、カタカタと特有の音が鳴る。それに目を細め、吉田はある事を思い付く。
「……そういえばさ、一琉とは連絡ついたの?」
「いえ、連絡つけようにも迂濶に動けなくて。……あの、吉田先生から、何とか言って頂けませんか?」
青年の言葉に吉田は緩やかに微笑んだ。
「いいよ。ただし――」
風を切る音と共に、何かが地に落ちた。
「君達の亡骸と共にだけどね」
地面に転がったのは吉田の目の前にいた、青年の首。そう理解した瞬間、残りの二人は目を見開き息を呑んだ。
「ひっ……!?」
「吉田先生、何を!!」
刀から血を払い、吉田は狼狽する二人を見据える。
「何って、簡単なことだよ。君達に責任を取って貰うだけ。……その命を持ってね」
そう言って妖艶に微笑む吉田は、何処か楽しんでるように見えた。
そんな吉田の表情を見て、二人は絶望に似た感情が渦巻く。
腰に携えた刀を掴もうと必死に手を伸ばすが、震えが止まらない。路地裏から脱け出そうにも、大通りへ出る路は吉田が塞いでいる。
ああ、もう逃げられない、そう確信した。
吉田は刀を下げたまま、緩く首を傾ける。
「……役立たずは必要ないんだ。公儀を倒すのに、必要なのは君等みたいな駒じゃない」
このまま、公儀に捕まるぐらいなら自分の手で始末した方が都合は良い。情報が漏れる恐れもないし、これ以上手を焼く必要もない。手数が減るのは惜しいが、この際仕方ないだろう。
一琉もどの道、彼らを処断するつもりだった筈だろうから、多少の手間は省けたに違いない。
「さて、と。壬生狼に見つかる前に済ませなきゃね」
カシャンと鉄の音が鳴り、吉田は静かにそれを振り上げる。
吉田の瞳は氷のように冷たいまま――
ザシュッ!!!!
その場に、夥しい量の鮮血が滴り落ちた。