寒空の下で【伍】
「……ッ、ごめんなさい。何を言われても、私は其処には戻れないんです。一琉さんからも藤森として生きるよう言われてしまいましたから」
雛乃は多くは語れない。全てを語れば長州の、吉田松陰の縁者だと発覚してしまう。やりたい事をやり遂げる為にも、新たなる道へ踏み出さなくてはならない。
例え、それが決別に繋がるとしても。
「だから、沖田さーー」
その先を紡ぐ事は出来なかった。
雛乃の身体は瞬時に引き寄せられ、沖田
の腕の中へとすっぽりと収まる。暫しの沈黙の後、抱き締められていると自覚すると雛乃は慌て始めた。
「おおお、沖田さん!?」
「……違います」
「はぇっ?」
「名前で呼んで下さいって、言ったじゃないですか」
そう言ってにっこり笑みを見せた沖田に、先刻までの剣呑さはない。悪戯を思い付いたような、童の表情で雛乃を見ていた。
雛乃は別の意味で、危機感を露わにする。何とかして逃げようと藻掻くが、沖田の腕でしっかりと固められており、身動き一つ取れない。
「名前で呼んでくれない限り、離しませんよー?」
「えぇっ!? ひゃわっ! ちょ、耳、耳下で喋らないで下さい……!」
「あはは、相変わらず弱いですねぇ」
「笑い事じゃないです!」
嫌がり頬を紅潮させる雛乃を一瞥し、沖田は腕の力を更に強めた。
理由を聞き出せないのなら今の状況を、存分に利用するしかない。離れてしまうのは嫌でたまらないが、二度と会えない訳ではない。会おうと思えば理由をつけて会えるだろう。
そう気持ちを切り替え、沖田は雛乃を愛でる事に専念した。
◇◇◇
一方、境内に残された土方と吉田は無言の睨み合いを続けていた。沖田の逃亡に関しては意見があったように見られたが、それも一瞬の事だった。
寺に似つかわしくない、殺伐した空気が周囲に漂い始める。冷たい風が双方の髪を揺らすが、状況が変わる事もなく。
このままでは埒が明かないと、早急にこの場を脱したい吉田が重い口を開いた。
「ーーで? 言いたい事があるなら、話せば?」
面倒臭そうに息を吐く吉田からは一切の隙が見られない。些細な動きも最小限に抑え、何かあれば直ぐにでも鯉口を切れるだろう。
それを視界に入れた土方の眉に、皺が深く刻まれる。ただの浪人ではないと勘は告げていた。
「アンタ、本当は何者だ。藤森の縁者じゃねぇだろ。脱藩浪士……いや、長人か」
「……だったら? 何、捕縛する?」
否定するどころか、肯定を示した吉田は土方と対照的に笑みを見せていた。
似たような面差しに、自分が笑っているようだと土方が心の中で悪態を吐く。
「ま、したくても出来ないだろうね。今、此処で僕をぞんざいに扱えば藤森に話がいく。延いては、会津に迷惑が掛かる。違うかな?」
吉田の言い分は正しい。正式な隊名を頂いたとは言え、新撰組はまだまだ組織としては弱く権限もそう多くを与えられていなかった。会津の配下にいる限り、彼らの機嫌を損なう事は、組織の壊滅を意味する。
だが、土方とてそれは十分に理解している。しているだけに、水面下でギリギリの行動を起こしていく。
新選組を、着実に発展させる為に。
「ハッ、理由なんざ、後からでもどうとなる。てめえが、丸腰の相手に危害を加えたとかな。実際、先日うちの輩に喧嘩を振っただろ」
「ああ、それは把握してるんだね。何の反応もないから、見抜けていないのかと思ってた。壬生狼の監察は良い仕事をする。それだけは褒めてあげるよ」
神経を逆撫でするような物言いをする吉田に、土方の皺は一つ、また一つと刻まれていく。
吉田の話す度に、土方の脳裏に見知った人物が過る。あれは、上手く扱い制裁を加えれば大人しくなるが、吉田に手を出す事は出来ない。刀を取る事は此方の負けを意味する。
揺さぶられたままで、引き下がる訳にはいかない。土方は舌打ちを鳴らし、吉田を睨むように見据えた。
「てめえが長州なら、雛乃もそうなのか?」
吉田の表情が一瞬にして変わる。
土方の読み通り、雛乃の話になると吉田は冷静でいられなくなるようだ。
吉田は笑みを消し、土方を鋭く見つめる。
「雛は関係ない。勝手に巻き込まないでくれる?」
「女子だろうが、藤森だろうが、関係ねぇ。公方様に仇なすならな」
「……は、公儀は腐っているというのにねぇ。よく忠誠を誓えるものだよ」
吉田はそう呟いて、嘲笑を浮かべた。
「だから、雛を壬生狼と会わせたくなかったんだよ。君らは雛を必ず不幸にする。公儀はことごとく、僕らの日常を潰していく……」
「今はてめえらが、市中を乱しているだろうが。ふざけんな」
「大事な人を奪われて、同じ事が言えるのかな? もし、近藤が無残に斬首されても?」
「例えがくだらねぇ。んな事、万一あってたまるか!」
吉田に余裕を無くさせ、動揺させるつもりが土方が逆に苛立ってしまう。
漸く掴んだ夢への第一歩。新撰組を、組織の長を侮辱する事は許さない。
「君らだって、血に濡れている癖に。善人みたいな回答が気に入らない。……立場が変われば直ぐに分かるよ、嫌でもね」
吉田はそう吐き捨てるように言うと、土方を鋭く睨みつけた。その瞳には怒りが見て取れる。否、そんな生易しいものではない。
これは、憎悪だ。
吉田は幕府に、かなりの殺意を抱いている。それを土方の予想を遥かに超える巨大なもの。簡単に止められはしないだろう。
「だから、なんだってんだ。勝手に話を、てめえの事情を押し付けるんじゃねぇよ。俺らは敗者にはならねぇ。或いはんな状況に陥る前に、てめえを斬り落としてやるよ」
「はっ、言うよね。壬生狼だけによく吠える……」
吉田は殺気を和らげると、雛乃達がいる方角へ視線を向ける。何かを感じ取ったのか眉間に皺を刻んだ。
程なくして、雛乃の悲鳴が境内に響く。
「……あの馬鹿」
大方、沖田が雛乃に何かしたのだろう。久々の再会にかこつけて無理難題を突き付けていそうだと、土方はひとりごちる。
ジャリ、と砂を踏み締める音が耳に入り土方は顔を上げた。
「今日は雛もいる事だし、何もしない。けど、近々君らに素敵な贈り物をしてあげるよ。楽しみにしてるといい」
「いらねぇよ。んなモンより、自らの首を差し出しやがれ」
間髪入れず拒否を示した土方に吉田は笑みを返すと、来た道を戻り始める。
土方は斬り付けたい衝動に駆られながらも、それを行動する事はなかった。苛立ちに舌打ちを鳴らす。
「……ああ、そうだ。一つ教えてあげるよ」
「あん?」
反射的に声を上げれば、吉田は足を止め土方を見据える。その表情は何処か余裕すら感じられた。
「栄太郎という名は昔の名でね。今の名は、稔麿。吉田稔麿、だよ」
吉田稔麿。その名に土方は覚えがあった。長州における尊皇倒幕の急先鋒ーー。あの大獄で斬首された吉田松陰の弟子の一人。
「ッ、てめえがか……!」
強い風が吹いたと同時に、土方と吉田は動く。だが、互いの刀が交じる事はなかった。
◇◇◇
「沖田……ッ、総司さん! いい加減に離して下さいよっ!」
「えー、良いじゃないですかー。減るものでもありませんし」
「ッッ、私の心臓が保ちません!!」
ーー四半刻は経っただろうか。
沖田と雛乃の一悶着は今だに続いていた。雛乃が逃げれば逃げる程、沖田は雛乃を抱き締める力を強くする。
一旦、沖田から離れた時もあったのだが直ぐ様捕まってしまった。お陰で先刻より力が更に強くなった気がする。
護衛と監視の役割で境内に潜んでいる澄も、無害だと判断し救出に来ない。
(……うう、栄太郎が戻ってくるまでの時間稼ぎってとこかなぁ……。しかし、目が回る……)
雛乃は火照る頬を手で押さえ、沖田を睨みつけた。だが、それは簡単に受け流され笑みを返される。
「ははっ、相変わらず雛乃ちゃんは可愛い睨み方をしますねぇ」
「嬉しくないですーっ!」
そう声を上げて沖田を見据えれば、沖田から笑みが消えていた。何事かと声を掛けようとしたが、それは直ぐにはばかられる事になる。
ピリッとした殺気が肌を刺す。それは奥の、土方らがいる場所から此方に向かってきていた。
沖田は息を吐き出し、雛乃から漸く手を離す。あっさりと手を引いた沖田に雛乃は目を瞬かせた。
「総司さん?」
「……向かってくるならば、迎え打たないと。離れてて下さいね」
「え」
沖田が刀を抜くと同時に、殺気を放っていた人物が姿を現す。だが、それは予想していた者ではなくーー
「総司! 雛乃を捕まえておけ!」
土方の怒号が境内に響き渡る。沖田はハッとし手を離していた雛乃に再び手を伸ばす。
手が届く、そう思った時雛乃の姿は瞬時にかき消された。否、控えていた澄にその身を引かれ境内から離れたのだ。
気配はそう遠のいていない。今走れば確実に後を追えるだろう。しかし、今の沖田にそんな気はなかった。
二人の気配が消えた境内で、沖田は深く息を吐く。抜いていた刀を収め、此方に向かって来る土方に笑い掛けた。
対して土方は苛立ちを隠さず、沖田を鋭く睨みつける。
「総司! 何故、追わなかった!?」
「追ったところでどうせ、撒かれちゃいますよ。藤森なんですから」
落ち着いて下さい、と嗜める沖田の手を払い退け土方は声を荒げた。
「ッ、落ち着いていられるか! やはり、藤森は長州を懇意にしてやがる。奴は、あの栄太郎とかいう奴は、長州の吉田稔麿。長州の重要人物……やはり、長人は京に潜伏してやがった……!」
土方から放たれた衝撃の事実に沖田は目を見開く。
「あの、土方もどきさんが、長州の吉田……? ちょ、ちょっと、待って下さいよ。彼は雛乃ちゃんの許婚で、雛乃ちゃんの幼少の頃からの付き合いだと。だとしたら、雛乃ちゃんは……」
「長州の出かもしれねぇな。先刻、育ての父がいると言ってやがった。長州に縁があるのは間違いねぇ。チッ、藤森の者でなけりゃ、引っ立てられんだがな……」
つらつらと土方から発せられる言葉を耳にしながら、沖田は雛乃から何故別れを告げられたのか、やっと合点がいった。
雛乃は藤森として、線を引いたのではない。長州と縁があるからこそ、距離を置く事を選んだのだ。
敵ではない、と口にしていたが、本当にそんな関係でいられるのだろうか。
殺し合う間柄、どちらかが死すという状況でもそんな甘い事を言えるのか。
「……やはり、離すべきではありませんでしたねぇ」
掌に微かに残る雛乃の温もりを握りしめ、沖田は再び土方を見据えた。
「土方さん、提案があるんですけどーー」