【 夜の帳の中で (弐) 】
違う?と笑顔のまま問う吉田に、一琉はこめかみがピクピクと震えるのを感じた。それに気付きながらも、吉田は話を続ける。
「それにさぁ、あの一族の跡取りが僕みたいなのに、やられるのって凄く惨めだよね。もしかして、弱くなったんじゃ――」
――カカカッ!!!!
「誰が弱くなったって? そんなに吉田は死にてぇか?」
「うわぁ、見事な手捌き。流石だねぇ」
反射的に身体を低くし、難を逃れた吉田はそう呟いた。振り向いて背後の襖を見れば、いくつかの苦無が刺さっている。あのまま、突っ立っていたら、確実に当たっていただろう。
苦無と一琉を交互に見て吉田は目を瞬かせる。しかし、口元には笑みを浮かべたままだ。
「いやぁ、残念だったねぇ。僕に当たらなくて」
「別に。どうせ、避けるの分かってたからな」
「あれ? じゃあ、何で投げたのさ」
(お前の、その嫌味な態度に、思わず腹が立ったんだよっ!!)
そう心で、悪態を吐き一琉は深々と息を吐いた。
吉田の行動力や頭の良さは認めている。仲間としてはかなり心強い、とも思う。
だが、彼のこの性格だけは不愉快極まりない。
わざと人の癇に障ることを言い、人を苛め、そしてからかう。しかも、それを心から楽しんでるのだから質が悪い。
一琉は、これが原因で吉田が非常に苦手なのだ。
意味もなく、喧嘩を振られ怪我をした経験は数知れず。何の前触れもなく、刺客を差し向けられた事も多々あった。
(……そういや、あの時は本気で、吉田を殺したいと思ったな。ああああ、本気で腹が立ってきた……!)
先程の吉田の声で、過去の出来事が沸々と蘇ってくる。
不機嫌そうに眉間に皺を寄せ続ける一琉と、何処か満足そうな吉田を見て、久坂は軽く頭を押さえた。
吉田と高杉の組み合わせも悪いが、この二人も良いとは言えない仲である。それを肯定するように、どんどん部屋の空気が下がっていく。
刺すような冷たい雰囲気を、どうにかしなければいけないと眉を寄せ思考するものの、久坂には良い方法が浮かばない。
一体、どうしたものか。
一琉は吉田の対処に慣れてはいるが、そこまで我慢強くはない。このままの状況だと、確実に今朝の二の舞になるだろう。
それだけは何としても、避けたかった。
息を吐き、久坂が重い腰を上げようとしたその時だ。
襖の向こうからタタタ、と高くもなく、低くもない音が聞こえてくる。床が軋む音が止まったと同時に、澄がひょっこりと姿を見せた。
「……あのぅ、頼まれた着物と、軽食を持ってきたんですけど……」
恐る恐るそう告げた澄に久坂は苦笑し、部屋の中へと招き入れる。
久坂は有り難う、と礼を言いこの状況を説明すると、止める術を何か持っていないかと澄に問掛けた。
「一琉様はともかく、吉田様は僕が止めたとしても無意味だと思います……。逆に、僕が標的にされそうですし」
襖を閉めながら紡ぐ澄の言葉に、久坂は確かにな、と思う。
吉田のこのような態度は日常茶飯事だ。誰かれ構わず皮肉を言い、相手の機嫌を損ね、そして嘲笑う。
日頃の鬱憤を晴らす目的もあるのだろうが、出来るなら他所でやってもらいたい。はっきり言って、迷惑以外の何物でもないのだから。
このまま放って置きたいのが久坂の本音だが、これでは一向に話が進まず夜が更けていくばかりだ。
声をかけるべきかどうかを悩み、溜め息を連発する久坂に澄は慌てたように居住まいを正す。
「す、すみません。久坂様。忙しい中、わざわざ来て下さったのに……」
当事者でもないのに、頭を下げて謝る澄に久坂は片手を振った。
「澄の所為ではないだろう。謝る必要はない。むしろ、頭を畳に擦り合わせて謝らせたいのは、稔麿だ。今宵は、一琉をからかいに来たという訳ではない事、分かっている筈なんだがな」
澄が運んできたお茶に手を伸ばし、久坂はそれを啜る。その様子を見ながら、澄は久坂の隣にちょこんと座り直した。
「聞きたい事と言うのは、先日一琉様が会合に不参加された経緯、ですか?」
「ああ。文で報告は受けたが、余りに簡潔過ぎたからな。詳しく聞きたかったんだが……」
あの様子じゃ今日も無理そうだな、と久坂は呟き湯呑みを口へと運ぶ。
頷きながら澄はゆっくりと首を傾げる。そして、何かを思いついたのか手を叩いた。
「あの、良かったら僕が――」
「あれ? 澄、戻って来てたんだ?」
澄の言葉を掻き消すように吉田は声を上げ、此方にゆっくりと歩いて来ていた。
澄はハッとして、隅に寄せていたある物を手に取り吉田に手渡す。それは吉田に頼まれて、下の階から持ってきた風呂敷だった。中身は何が入っているのか、勿論、澄は知らない。
「ああ、持ってきてくれたんだ。流石だね。澄、僕にもお茶を頂戴」
吉田は受け取った荷物を畳に置いて、その場に腰を下ろす。それに頷き、慣れた手付きで澄は湯呑みへお茶を注いでいく。
それを静かに眺めながら、吉田は久坂に声を掛ける。
「……そういやさぁ、先刻、僕に土下座させたいとか何とか、言ってなかった?」
首を傾げながらそう問う吉田に、久坂は思わず手を止めた。ちらりと吉田を一瞥した後、久坂は再びお茶を啜る。
「そうか? そんな事、言った覚えはないんだが。空耳じゃないのか?」
「ふぅん? そう。聞こえたんだけどねぇ……」
不思議だなぁ、と呟いて、吉田は澄がお茶を入れ終えた湯呑みへ手を伸ばした。
「ああ! 吉田様、まだ熱いですよっ。此方のお茶の方が――」
「大丈夫大丈夫。で? 一体、何があったの?」
「はい?」
唐突な吉田の問いに、澄は目を瞬かせる。
先程の久坂とのやり取りは、疑問を残したものの、彼に取ってはもう終わった話らしい。視線は既に、澄の方を向いていた。
吉田はお茶を一口飲んで、瞳を意味深に細める。
「何がって、決まってる。一琉があの日すっぽかした理由、だよ。壬生狼に絡まれたって聞いたけど、それは本当の事?」
「……ええと……」
微笑を浮かべつつ、澄は目線を横へ横へと移していく。一体、何処まで話せば良いのだろうか。確かに、壬生狼に絡まれたのは強ち間違いではない。
最終的に自分達は追い回され、昨日、仲間内の二人捕縛されてしまったのだから。
しかし、そうなる原因を作ったのは壬生狼ではなく――……
ふいに両耳に痛みが走り、澄の思考は中断させられることになる。視線を上げると吉田が笑顔で、自分の両耳の膨らみ部分を横に横にと、引っ張っていた。
「澄ー? 聞いてる? というか、聞こえているかな?」
「い、たたたたたっ! 痛い、痛いですっ!! 吉田様、話しますっ。話しますからぁ!!」
吉田がニヤリと笑みを浮かべたのを見て、澄はしまった、と口を押さえるがもう遅い。澄の両耳から手を離して、吉田は軽く首を傾げる。
「さぁ、話してよ。一体、何があったの?」
「ええと、その……、大通りで――」
そう言い掛けて、澄は固まった。何故なら吉田の背後から見えた一琉の表情は、全く笑っていなかったからだ。
“言ったら殺すぞ?”
そう動かされた口に、澄は身震いする。
(こ、この場合、話さなくても、正直に話しても、僕は殺されるぅぅぅ!!!!)
正面には笑顔の吉田。その吉田の背後からは、無表情の一琉。正直、この場から逃げ出したくなった。今すぐに。
澄?と吉田の自分を呼ぶ声に、ビクンッと身体が跳ねた。
一琉には申し訳ないが、この吉田に逆らうなんて澄には無理な話だと、思う。いや、完全に無理だ。
心で一琉に謝り涙ぐむのを堪えながら、澄は一連の出来事を全て、吉田に話したのだった。
「成程な……、そういう噂は聞いてはいたが、一琉が絡んでいたとは知らなかったな」
暫くの沈黙の後、口を開いたのは吉田ではなく、吉田の隣で静かに話を聞いていた久坂だった。
湯呑みをお盆に置き、一琉へと視線を向ける。
「一琉が自分から女子に興味を持つなんて珍しいな。女子は利用するだけ、なんて言ってたお前が……。そんなに、変わった子だったのか?」
興味深げに目を細め、聞いてくる久坂に一琉は溜め息を吐く。そして軽く、澄を一睨みし口を開いた。
「誤解を招くような言い方すんなよ。言っとくが、声を掛けたのは別の輩だからな?」
何処か不機嫌そうに答える一琉に、久坂はクスリと笑みを溢す。
「それで、その子はどんな感じだったんだ? 想いは告げたのか?」
久坂の言葉に一琉は微かに眉を寄せた。何か今、聞き捨てならない言葉が聞こえたような気がする。
「…………おい、ちょっと待て。何で、恋仲前提での話になってんだよ。相手はまだ童だっつーの」
「ああ、年下好きだったのか。それは知らなかった。まぁ、趣旨は個人の自由でもあるしな」
にこやかに、そう告げ茶菓子を頬張る久坂に一琉は深々と息を吐いた。
「……ああああ、分かった。分かったよ! きちんと報告しなかったのは悪い。悪かったと思ってる。だから、もうその薄ら寒い、笑顔と演技止めてくれ!!」
自分の肩を叩き謝る一琉を見て、久坂は笑みを消すと一琉を真っ直ぐ見据えた。
「はは、分かれば良いさ。今後、虚偽報告なんてしたらどうなるか、分かるよな?」
「…………おう」
間違いなく、俺の人格を破壊するような噂を流されるであろうと一琉は確信した。
久坂玄瑞、やはり食えない男だ。
一琉は一息吐いて、顔に掛った前髪を掻き揚げながら目線を横に移す。其処には吉田の姿があった。