【 夜の帳の中で (壱) 】
「……あぁ、かったりぃ……」
漆黒が空を包む、夜五ツ刻。
とある旅籠屋の屋根上に、一人の男の姿があった。
この日は月明かりが無く、人通りがいつもより少ない。その為、それを利用しようと男は裏口に近い屋根に飛び乗って、二階の部屋へ向おうとしていた。
だが、その足は思うようになかなか進まない。それどころか、行くのを渋っているように見える。
腕を組み、眉を寄せている姿から察するに何かを悩んでいるようだ。ハァ、と本日何度目になるか分からない溜め息を吐いて、男は頭を掻いた。
「一琉様ーっ! ほらほら、早く入りましょうー!!」
小声ながらも、しっかりと耳に届いたその声に視線を屋根下に移す。すると、そこには小柄の少年が自分を真っ直ぐ見上げていた。
彼の名は、澄。男の小姓役を務めている少年だ。澄は頬を膨らませ、早くしろと目で訴えていた。
その視線を受け流し、一琉と呼ばれた男は片手をヒラヒラと振る。
「んー、やっぱ駄目だわ。なんかアイツがいそうな気がするし。殺されるのは、真っ平御免だしなあ」
「それは、一琉様の所為ではありませんか。約束をすっぽかすのが悪いんです!」
「俺だって、好きですっぽかしたんじゃねぇよ。あれは壬生狼が悪い」
澄の言葉に男はそう返して、顎に手を当てた。
本来、此処に来るのは三日前の昼間だった。だが、あの出来事の所為で逃げ回る羽目になり、今日まで伸びに伸びてしまったのである。
日時を変更したいという文は送っているから、問題はないのだが。あるとすれば、旅籠に来ている人物だろう。
(……久坂はともかく、あいつに会いたくはねぇ。ぜってぇ殺す気で俺に――)
――ガララッッ!!
「ねぇ、いい加減に入ってきたら? 待つの飽きたんだけど」
「うげっ……」
二階の障子窓が開き、一人の青年が顔を覗かせる。満面の笑顔で、男を部屋へと誘うがその瞳は笑っていなかった。
「何、その反応。君に聞きたい事が山程あるんだよね。……ああ、大丈夫。先日よりは、手加減はするつもりだから」
その笑顔は死刑宣告よりも恐ろしく。
この後、一琉と呼ばれた男がぼろ雑巾のようになるまで、殴られたのは言うまでもない。
「――災難だったな」
傷だらけになった一琉を治療しながら、短髪の青年は苦笑を浮かべている。それに一琉は顔を歪めた。
「笑い事じゃねぇぞ、久坂。何で、俺が、こんな目に合わなきゃなんねぇんだっ!!」
一琉の姿は見るも無惨な状態だった。着物は所々破れかけており、身体には無数の痣が出来ている。
端から見れば、荷を全て奪われ、暴行を受けた無一文となった浪人に見えるだろう。
一琉はふて腐れたように膝頭に頬杖をついて、青年――久坂から目を背ける。それを横目に、包帯を一琉の腕や足に巻きながら、久坂は緩く首を傾けた。
「俺が思うに、前回すっぽかされた事を根に持ってやったとは思えないんだ。きちんと理解はしてたようだしな。恐らくだが……、高杉がいない腹いせじゃないか?」
「はぁ!? 何で、高杉がいない所為で俺が殴られんだよ!? ……ははーん、またいつもの小競り合いやってたのか、あいつら。高杉め、逃げたな」
舌打ちして、吐き捨てるように高杉の名を呟くと、一琉は足を崩し胡座をかいた。
名前が出た高杉という男と、目の前にいる久坂という青年。どちらも長州の人間だ。
高杉晋作と久坂玄瑞。
高杉は長州藩の藩士の嫡男として、久坂は藩医の家に生まれている。年は高杉が二十五。久坂が二十四だ。
かの吉田松陰が開いた松下村塾で学んだ門下生でもあり、二人は松下村塾の双壁と讃えられている。
松陰亡き後、長州藩の尊皇攘夷派志士の中心人物として、彼らは活動をし、此処京で暗躍していた。
そんな彼らと頻繁に会合を開いている一琉も、尊皇攘夷派だ。かなり幕府を毛嫌いしている。
ふわぁと欠伸をかいて、一琉は久坂に再び視線を移した。
「んじゃ、高杉は今日来ないのか? 吉田から逃げたんだろ?」
尋ねられた久坂はどうだろうな、短く言葉を返す。くるくると包帯を巻き終えて、それを畳に置いた。
「あいつはお前に会いたがっていたようだし、後から顔出すかもしれない。まぁ、それを稔麿が許すかは分からないが」
今朝は大変だったからな、と何処か遠い目をして笑う久坂に、一琉は顔を引き攣らせる。
(……おいおい。一体、今朝何があったんだよ……)
部屋を半壊や器物破損ぐらいなら、まだ可愛いものなのだが。久坂の表情を見る限り、それ以上の事を彼等はやらかしたのだろう。
(事後処理は全て、久坂がやったんだな。じゃなきゃ、こんなに哀愁漂わせてねぇって……)
そう悟り、一琉は深々と息を吐いた。
「……久坂もよく付き合ってってるよなぁ。あいつらの子守り大変じゃねぇ?」
一琉の言葉に久坂は目を瞬かせる。そして、確かに、と笑った。
「だが、止める奴がいないと収拾が着かなくなるだろう? 同郷の友として、暴走するあいつらを放ってはおけないさ。ま、正直、疲れるがな」
「毎度毎度、お疲れさん。俺には真似出来ねぇよ」
労うように久坂の背中を数回叩き、一琉は立ち上がる。そして腕と足の具合を確かめるように、動かしていくが、予想以上に身体のあちこちが痛んだ。
この身体では二日程、遠出は無理だろう。身体もだが痣も無数にあり、全て隠すのは難しい。
「……あー、仕方ねぇな。予定変更するか」
肩をコキコキと鳴らしながら一琉はそう呟く。困ったような一琉の物言いに、久坂は視線を上げた。
「何だ、何か用事があったのか」
「ああ、まぁな。この後、少し実家に顔を出さなきゃなんねぇんだわ」
面倒臭そうに息を吐く一琉を見て、久坂は眉間に皺を寄せた。
ボサボサの髪に不精髭。しがない浪人にしか見えない一琉だが、こう見えて一応高貴な家柄の出である。
藩という枠に捕われることなく京に屋敷を構える、ある一族の長子だ。
「もしや、一琉。それは重大な呼び出しなのか?」
「んー、多分違うな。物騒な話を聞くだけだと思う。……闇討、とかのな?」
声を落として、そう言う一琉にああ、と久坂は思い出す。彼らは闇に潜むのを得意とし、暗殺業も扱っていた。
表向きは朝廷に仕える武士の一族。だが、影では数え切れない程の悪業を行っていた。遥か、千年前の時代から。
その為、一族と朝廷との絆は何よりも深く強固だ。何人たりとも、其処に立ち入る事は許されない。
久坂達と一琉が出会った経緯も、その生業に関する出来事からだった。
「じい様や父上も、厳しい方だからな。どう言い訳したらいいか……。ったく、こうなりゃ吉田に責任取らせるか――」
「何故、僕が責任取らなくちゃならないのさ。これは一琉の責任でしょ?」
スパンッと勢いよく襖を開き、長い髪を高く結い上げている笑顔の青年が部屋へと入ってきた。中性的な顔立ちをした青年は、男にも女にも見える。
彼が、噂に出てきた高杉を騒動を起こした人物。そして、先刻一琉を殴り倒した、張本人でもあった。
名を吉田稔麿。年は二十三。長州出身の足軽の子で、高杉や久坂と同じく松下村塾で学び、松門四天王の一人に数えられている。
武術に非常に優れており、一琉も舌を巻く程の腕前だ。
げっ、と一琉が呟けば、吉田は浮かべていた笑みを更に深める。それが一琉の癇に障った。
眉を潜め、一琉は吉田をじろりと睨む。
「……おい。誰の所為で、こんな怪我したと思ってんだよ」
「嫌だなぁ。誰の所為って、君の所為に決まってるでしょ? 僕は悪くない。だって、僕の機嫌が悪い時にやって来た君が悪いんだから」