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夢想花〜藤森の姫と狼達の奏でる物語〜  作者: 桜柚
第弐章 蘇る記憶、動き出す運命
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踏み出す一歩【弐】

突然、出てきた志馬の名前に澄は怪訝そうな顔を見せる。


「志馬様は、体格の良い壮年の男性ですよ。確か、今は尾張の方に長期滞在されている筈です。志馬様が、どうかされましたか?」


「……ううん、ちょっと聞き覚えのある名前だったから……。特に、何かあった訳ではないの。教えてくれて有難う」


疑問に思いながらも素直に答えてくれた澄に、雛乃は感謝の意味を込めて礼を述べた。


あの志馬と、十人衆の志馬は同一人物ではない。それには安堵したが、胸を燻る不安と疑問は以前として雛乃の中にある。


(……藤森が受け継いできた十人衆の名前……。それが現代に残っていても不思議じゃない。でも、何の為に? 兄様達は名を継いで何をしていたの?)


考えても考えても、答えには辿り着かない。祖父や兄達が直隠しにしていたお陰で、雛乃は現代の藤森の裏事情に詳しくないのだから。


思考を一旦打ち切り、小さく息を吐けばゆっくりと顔を上げる。すると、自分を見つめる澄が視界に入った。


一筋の案が雛乃の脳裏に過る。


「ねぇ、澄くん。一琉さんは今、屋敷にはいないよね?」


「え? あ、はい。今日は朝早くから参内されています。……ああ、そういえば、吉田様も桂様に呼び出されていましたね」


そうだね、と雛乃は浮かんだ案を頭の隅に追い遣り、小さく息を吐いた。


相談する相手を変えるべきか。しかし、藤森の闇の部分に関しては一琉にしか聞いたり話す事は出来ないだろう。


あの事件は下手すれば、藤森の内情が崩壊した事を意味する。幕末(いま)を必死に生きている澄達に腐敗した、未来(さき)の藤森の現状を告げたくはなかった。


勿論、吉田にもこの手の話は――


「雛乃様は、吉田様がいらっしゃらないと、やっぱり寂しいんですか?」


「はぇえっ?」


思いも寄らない澄の質問に、雛乃は驚きに声を上げた。


思考も何もかも吹き飛ばしてしまったのか、口を何度も開閉させる雛乃を見て、澄は首を横に傾ける。


「あれ? 違いました?」


「ななな、何で、そうなるの!? 私、寂しいとか、そういうの言った事あったかなっ?」


「――あ。いえ、すみません。何となく、そう思っただけです。先刻から何やら悩んでらっしゃいますし、吉田様といらっしゃる時は凄く穏やかにしてたのになぁと思って、つい」


口に出しちゃいました、と澄は頭を下げた。


素直に謝罪する澄に雛乃はそれ以上、何も言う気にはなれなかった。言葉を紡ごうにも、思考がぐちゃぐちゃになって上手く纏められない。


「寂しい、んじゃなくて、私はね……!」


吉田に対してはそういう感情より、迷惑を掛けたくないという気持ちが今は強かった。


栄太郎は優しい。あの頃から変わらない優しさを、自分に向けてくれる。


恐怖に苛まれ、絶望したあの頃に道標になってくれた人。その優しさに、全てを投げ捨てて縋りつきたくなってしまう。


でも、それは許されない。これは自分の我儘で招いた事態だ。自分で答えを見つけ、解決しなければいけないと雛乃は思っていた。


深く息を吸い吐き出した雛乃の表情が、先刻より曇っている事に気付いた澄は、その場から勢い良く立ち上がる。


「澄くん?」


「雛乃様! 確か、甘い物お好きでしたよね?」


「へっ?」


「先日、一琉様が珍しい甘味を持ち帰られたんです。今から此処に持ってきますから、ちょっと待ってて下さいね!」


「え、あ、ちょっ、待っ……!?」


雛乃の返事も待たず、澄は部屋から慌ただしく出て行った。


後を追おうかと思ったが、未だに安静の身。思わず浮き上がった腰を下ろし、息を吐く。


「広いな……」


雛乃は一人残された部屋を見渡し、ぽつりと呟いた。


壬生にある浪士組の屯所と違い、藤森別邸であるこの屋敷は常に静寂に満ちている。

人の気配は滅多にしない。感じるは、自然の息吹。あちこちに漂う動植物達の日々の営みだ。


忍の、裏方でひっそりと生きる一族だからだろうか。この屋敷には、市井とは違う独特な刻が流れていた。


(……風の音がする。今日は風が強いのかなぁ……。って、今日は何日なんだろ……)


自分から動かない限り、外の様子は分からない。だが、今も尚、精神が安定していない雛乃にとって不特定多数の人々と会う事は苦痛以外の何物でもなく、この環境はある意味、有難かった。


手にしていた湯呑みを盆に戻し、自分の掌に目を移す。色彩は完全に戻り、日常生活に不自由はない。


「……やっぱり、まだ汚いや……」


何日も経ったというのに、感触は未だに消えずにこの手の中にある。


蘇る記憶と呼応すように、手が震え始めた。血に染まった掌。拭っても拭っても、それが消える事はない。


雛乃が血に濡れたそれを、振り払うように手を上げた時――


「――お邪魔するよ」


懐かしくも、含みのある声が室内に響いた。


声に導かれるように雛乃が視線を横に向けると、其処には桂の姿があった。


「……け、(けい)兄……!?」


何の気配もなく、現れた桂に雛乃は驚きを隠せない。

対する桂は、驚く雛乃に穏やかな笑顔を向けると、開け放っていた障子戸を静かに閉めた。

そして音も無く、雛乃へ近付き腰を下ろす。


「はは、懐かしい呼び名だ。という事は、殆ど思い出せたようだね」


「……うん」


何が、と言われなくても分かる。桂は再三、雛乃の記憶を呼び戻そうと画策していたのだから。


上げていた手を布団の上に下ろし、雛乃は桂を見据えた。


優しく微笑む桂に懐かしさを覚えると共に、警戒心が心の奥で燻る。萩に居る頃から桂は常に優しかったが、時折見せる狡猾さを幼いながらも雛乃はしっかりと覚えていた。


桂の来訪に喜び半分不安半分、複雑な感情が胸中を駆け巡る。


そんな雛乃の心情など知ってか知らずか、桂は過去を思い出させるように優しく雛乃の頭を撫でていた。


「なかなか、見舞いに来れなくてすまないね。体調の方はどうだい?」


「……桂兄。今日は、栄太郎を呼び出してたよね。なのに、何故、此処にいるの?」


自身の問い掛けには答えず、疑問をぶつけてくる雛乃に桂は小さく笑みを溢す。その表情には、少なからず喜びが見て取れた。


「ああ、私が相手をせずとも通る話だったからね。稔麿の相手は乃美殿に任せて来たんだよ」


勿論許可を得て入ってきたからね、と軽く手を振り不法侵入していない事を強調する。


桂の足音も気配もなく、訪れた桂を疑問に思った雛乃の声を読み取ったのだろうか。

何度も否定を示す桂に思わず雛乃は表情を緩めた。


(……藤森に不法侵入出来る訳ないから冗談だとは分かるんだけど……。でも、桂兄なら難なくやっちゃいそうだなぁ……)


神出鬼没が通例化している桂なら、いつか遣り兼ねない。一琉に気を付けるよう進言しておいた方が良いだろう。


一息吐きながら、雛乃はふと先刻の桂の言葉を思い出す。聞き慣れない名前があったな、とさりげなく首を横に傾けた。


「乃美って……、確か、長州藩京都留守居助役の、乃美織江(のみ おりえ)だっけ……?」


桂の目がスッと細められる。

空気と共に吐き出された雛乃の呟きを、桂はしっかりと聞き留めていた。


「――そうだよ。よく知っているね」


「……ッ、」


慌てて口を押さえるも、遅い。桂は満面の笑顔で、雛乃を見据えていた。


ザワリと全身の毛が粟立つ。初めての感覚に雛乃は戸惑いを隠せない。


だが、視線を逸らせば桂に弱味を見せたも同然だろう。雛乃は恐怖を押さえ込み、素知らぬ振りして桂を見つめ返した。


病床に臥しながらも、強い眼差しを向ける雛乃に桂は息を吐く。


「……相変わらず、強い。そういう所は、先生によく似ているよ」


「え?」


上手く聞き取れず、雛乃が聞き返すも桂が再びそれを口にする事はなかった。笑顔を張りつけたまま、緩やかに腕を組む。


「雛が、随分と知識を持っている事は知っていたよ。松陰先生から、大まかな話を聞いていたからね」


雛乃は懐かしい名前に思わず胸が痛んだ。思い出したと同時に、今は記憶の中でしか会えない事を再認識してしまう。


(……とと様は、江戸で斬首されたんだ……。あの、笑い掛けてくれた、あれが最期の姿で……。っ、嫌だ、とと様の歴史なんか、思い出したくない……!!)


単なる歴史上の一人物だったのに、松陰は今や肉親と言っても過言ではない存在。そんな彼の一生を、雛乃は史実の一部分として、見る事が出来なくなっていた。


しかも、それは松陰に限った事ではない。


「雛。君は、全てを知っているね?」


雛乃の身体がビクンと跳ねる。


――予感はしていた。


桂には何れ聞かれるだろうと覚悟もしていた。だが、実際に目前にすると、どう反応して良いのか分からない。


今迄のように白を切るべきか。いや、桂の事だから全てを知った上で、質問している可能性もある。


桂とはそういう男だ。


(……桂兄相手に嘘が通用する筈ない。でも、素直に話す事も出来ないよ。私は、歴史を変える事なんて出来ないんだから……)


考えたくもない事実。出来る事なら、蓋をして何も知らなかった事にしたい。


これから先、失うものが多いのは確かだから。だが、それは不可能な事なのかもしれない。


雛乃の心は、既に――


「桂兄、私は――」


「今迄の世、これからの世。刻の流れを。先生が断罪された経緯も、私達がこの四年間何をしてきたのかも、君は把握しているんだろう。違う、とは言わせないよ」


「――ッ、」


核心を衝き、桂は完全に雛乃の逃げ道を潰す。


穏やかな口調だが、有無を言わせない力が其処にはある。雛乃は痛む心を隠すように胸元で両手を握り締めると、目線を下げた。

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