巡る季節、結んだ絆【陸】
高杉は吐き捨てるようにそう口にすると、桂の横を通り過ぎて行く。
そんな高杉を横目に見つめ、桂は何か思案するように顎へと手を当てる。
「……近い内に政局が動くだろうから、私も急いでいたのだけどね……」
息と共に吐き出された言葉は直ぐに、その場で掻き消えた。だが、その微かな声が地獄耳でもある高杉の耳朶に触れる。
「おい、何か言ったか?」
「いや、何も?」
「……そうかよ」
振り返った高杉に、桂は顎に当てていた手を下ろし軽く振る。先刻と何も変わらない桂の笑みに、高杉は息を吐くと相手をしていられないとばかりに音を立て、その場から足早に立ち去った。
途中で久坂が居たようで、音を立てるな!と叱る声が廊下に響く。
「賑やかだねぇ」
私塾に響き渡る声を聞き流し、桂は高杉が去った方向とは反対側へと歩き出す。
――この時、桂が何の為に密かに動いていたのか。
それは、全てを喪った後に知る事になる。
◇◇◇
安政五年、六月十九日。
大老・井伊直弼の指揮下、自由貿易を骨子とする“日米修好通商条約”が調印された。
この条約は、天皇の勅許を得ず調印したばかりか、領事裁判権を認め、関税自主権を喪失するなどの不平等条約でもあった。
七月には、蘭露英仏とも同内容の条約を結んでいる。
松下村塾の主宰者である、松陰はこれらの幕府の断行に激怒した。
倒幕の意志を示し、老中間部詮勝の暗殺を計画する。
――しかし、弟子である久坂に高杉、桂達が反対し同調しなかった為計画は頓挫してしまう。
暴挙に走る松陰を危険視した長州藩は、同年暮れに松陰を野山獄に投じた。
「……ととさま……」
そんな目まぐるしい状況の中、雛乃は杉家に預けられていた。
高杉や久坂は江戸に遊学して不在、常に傍にいた栄太郎も何やら忙しく奔走している為、此処数日顔を合わせていない。
「……みんな、いなくなっちゃう……」
日々賑やかだったあの頃が懐かしい。塾生の皆に会えないのは勿論、義父である松陰が隣に居ない事が辛かった。
「雛ちゃん、此処にいたのね」
「ふみねえ……」
庭の隅に踞る雛乃に気付いた文が、優しく声を掛けてきた。文は笑みを携えたまま、雛乃と同じようにその場に腰を下ろす。
「暖かいお茶をいれたの。冷めない内に飲もう?」
「うん……」
頷きはするが、雛乃はその場から動こうとしない。
肌を刺すように冷たい風。普段なら、寒さを逃れ足早に家屋へと入るのに、今は何故かこの冷たさが心地良かった。
部屋に籠もっていると、嫌な思考ばかり過るから。春へと近付いている筈なのに、雛乃の心はどんよりと曇っていた。
文は小さく笑みを溢すと、雛乃の頭を撫でる。それは叱るものでなく、慰めるような優しいものだった。
「そうね……。寂しいし、不安になるわよね。誰も何も言わないから」
松陰が置かれた状況や、塾生各々の行動を雛乃は知らない。急な用事が出来たからと、説明もなく引き離されたのだから。
見るからに元気が無くなっていく雛乃に、文は不安を抱いていた。
だが、真実を話そうにも雛乃は幼い。松陰を喪う恐れがあると知れば、雛乃がどうなってしまうのか。皆、それを恐れ一様に口をつぐんでいた。
「さみしい、けど……。おしごとなら、しかたないよ。ととさま、きっと、がんばってるとおもうから。おうえんしなきゃ」
「雛ちゃん……」
文の言葉にそう返すと、雛乃はふにゃりと頬を緩める。それは泣き顔にも似た笑顔だった。
それが雛乃の精一杯の強がりである事は、容易に理解出来る。
文は、居た堪れない気持ちになり、思わず雛乃を強く抱き締めた。
「ひゃあっ! ふみねえ、どうしたの?」
「寒いから、雛ちゃんで暖を取ってるのよ。ほらほら、こうすると温かいでしょう?」
「う、うん……」
戸惑う雛乃の頭や背中を撫でていく。長い間冷たい風に晒されていた身体は、すっかり冷えきっている。これでは、着物を着込んでいても意味がない。
暖めるように雛乃の身体を撫でていれば、袖口がしっとりと濡れている事に気付く。やはり泣いていたのかと文は表情を歪ませた。
何処にぶつけたら良いのか分からない悲しみと怒りを隠し、文は雛乃に笑い掛ける。
「大丈夫よ、雛ちゃん。兄上は直ぐに帰ってくるわ。だから、今は中に入ってよう?」
返事は返ってこなかった。代わりに、文の着物がギュッと握り締められる。
雛乃も雛乃なりに、この異様な雰囲気を察知しているのかもしれない。
「ととさまも……」
「ん?」
「ととさまも、かぜひいてないかな。だいじょうぶかな……」
文は震えそうになる声を抑え、大丈夫よと、その言葉しか今は口にする事が出来なかった。
二人の祈りも虚しく、時勢は残酷だった。
大老・井伊直弼による“安政の大獄”が始まり、松陰は江戸の伝馬町牢屋敷へと送られる事になる。
その一報を聞いた文は栄太郎に雛乃を託し、松陰を見送らせた。
江戸に送られれば、二度と会えないかもしれない。そう察しての事だった。
「ととさま……!!」
雛乃の声が届いたかは分からない。だが、松陰は穏やかな顔で萩の地を去っていった。
松陰は、至誠をもって臨めば幕府に通じると、信じて疑わなかった。しかし、その純朴さが仇となる。
取調べの際、老中暗殺計画を口にした事で自らを窮地に追い込む事になった。
自らの生命が尽きると察した松陰は、門下生宛ての遺書“留魂録”を書き遺す。
身はたとひ武蔵の野辺に
朽ぬとも 留め置かまし
大和魂
安政六年(1859年)
十月二十七日
吉田松陰は、伝馬町獄の刑場で斬首に処された。
享年三十歳。
松陰が亡くなった。
その事実は、雛乃に暗い影を落とした。
松陰が亡くなってからの出来事は、余り語りたくはない。
倒幕へひた走る栄太郎達の姿を、ただただ見つめる事しか出来なかったから。
子供でなければ、大人であれば、松陰を止める事が出来ただろうか。
もし、あの時“真実”を知っていたら。
松陰と、もっと話せていたら――――
記憶を思い出した事に悔いはない。だがどうしても、松陰の死に関しては後悔ばかりが頭を過る。
走馬灯のように流れていく記憶の中で、印象強いのは松陰の表情だ。
最期までいられなかった。
言葉を交わしたのも、あれっきりで、
雛乃は松陰の最期すら知らない。
松陰がこの世から居なくなった事を知り、泣き叫んだくらいだ。
ぐるぐると巡る、記憶に押し潰されないように身を屈めると、強く強く目を閉じた。
「とと様、私は――」