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夢想花〜藤森の姫と狼達の奏でる物語〜  作者: 桜柚
第壱章 記憶を巡る旅路
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朱い雨【弐】







どんよりと淀んだ空は次第に曇っていく。


「……九月十八日……」


ぽつりと呟いて、雛乃は出していた顔を布団の中へと引き戻した。起きなければいけないと思いつつも、このまま寝ていたいと思ってしまう自分がいる。


だが今日は、今日だけは何があっても逃げる訳にはいかないのだ。


今日は後世に伝わる芹沢派の粛清、暗殺日――。

昨夜、芹沢と近藤が隊士らに角屋で会合を開くと話していた事から、実行に移すのは今日で間違いないだろう。


雛乃は起き上がろうと身体に力を入れるが、ズキンズキンと頭に響く痛みに眉を寄せ、その動きを止めた。


新見が亡くなったあの日から眠りが浅く、一刻程しか休めない日々が続いている。ようやく眠りにつけたとしても、過去の重い夢に苛まれてしまう。


逃げ場など何処にもなかった。


「母様……父様……」


その所為か、記憶の断片は集まりつつある。あの日、あの屋敷で一体何があったのか。


目を閉じれば視界は緋色一色に染まる。焼ける匂いが鼻をつき、鉄の味が口に広がっていく。誰か助けてと、手を伸ばそうとすれば、父の首が落とされ泣き叫ぶのだ。


「兄様――」


抱き締められた感触。あの時、雛乃は確かに兄に抱き締められていた。


だが、一体何の為に――?


思い出そうとすれば、頭をキリキリと締める痛みは更に増す。嫌だ、と心が拒否を示しているようだ。でも、引き返す事など出来はしない。もう既に――


「雛乃ちゃん、起きてますか?」


廊下側の障子戸から控え目に自分を呼ぶ声に、雛乃は思考を打ち消し布団から跳ね起きた。


「起きて、ますっ」


頭痛を紛らわすように頭を軽く振ると、急いで身支度を整えていく。


何故なら今日は、いつもの起床時刻より四半刻も遅れていた。このままでは朝餉が間に合わなくなってしまう。


一方、雛乃の声が再び掛かるまで廊下で待機する沖田は、慌ただしく室内を駆け回る雛乃の影を見つけ笑みを溢す。


どうやら、先刻まで雛乃は床に就いていたようだ。雛乃は誰に頼まれる訳でもなく、連日遅くまで朝餉の仕込みや繕い物をやっている。起床が遅くなってしまうのは致し方ない事ないのかもしれない。


「雛乃ちゃん、そんなに慌てなくても大丈夫ですよ。朝餉なら、源さんとお久さんが既に作り終えてますから」


沖田の言葉を耳にした雛乃は動きを止め、沖田のいる廊下側へ視線を向ける。


「えぇっ!? 本当に――って、きゃぅっ!!」


雛乃の悲鳴と共に何かが落ちる音が響いた。音が止むと部屋は物音が一切消え、静寂に満ちる。


「……雛乃ちゃん?」


沖田が呼び掛けるも返事は無い。代わりに何かを叩くような音だけが聞こえる。


「雛乃ちゃん!?」


沖田が慌てて障子戸を開くと、其処には


「あらら……、そういう事でしたか」


大量の布団に潰され、身動きが取れない雛乃の姿があった。


助けを求める為、口を開いてはいるようだが布団に遮られ上手く発声出来ていない。仕方なく、布団の隙間から辛うじて出ている右手を使い、畳をパンパンと叩いていた。


時折、むーむーと聞こえる声は恐らく雛乃のものだろう。


沖田はそれを暫し見つめ、思わず笑みを溢す。雛乃にしてみれば緊急事態だろうが、端から見るとその姿は何だか可愛く見えた。


やはり、年相応には見えない幼さが雛乃にはある。


「むむむむーっ! むーっ!!」


「はいはい、今助けますね」


沖田はもう一度笑みを溢すと、埋もれた布団の中へ手を伸ばした。


「えと、助けてくれてありがとうございました」


「いえいえ。ふふっ、雛乃ちゃんは小さいですからねぇ。ああなるのは致し方、ないですよっ」


「……なんで笑うの」


沖田の手を借りて布団の山から無事生還した雛乃は、朝餉を食べる為沖田と共に、皆が揃う大広間へと向かっていた。


先を歩く沖田に先程の礼を伝えたのだが、沖田は肩を揺らし思い出し笑いを繰り返している。


どうやら雛乃の布団に埋もれていた様がツボにはまったらしい。口元を押さえてはいるが、笑い声はしっかり雛乃の耳に届いていた。


「……好きでああなった訳じゃないのに……」


頬を膨らませ、そうひとりごちて雛乃は小さく息を吐いた。


実は先程、雛乃が布団へ埋もれた経緯は余所見だけが原因ではない。強烈な立ち眩みにより身体の重力を支えきれなくなった所為でもある。


しかし、それは布団に呑まれてしまった状況により沖田に知られる事はなかった。


(……ある意味、布団に助けられたようなもの、か……。今日を終えるまでは、寝込む訳にはいかないんだから。気合いで、乗り切ってみせる……!!)


新見から芹沢の事を託された以上、何時までも悩んでいる訳にはいかない。絶対に後悔する事のないよう、最善の策を取る。


雛乃は人の死、ましてや暗殺の場に立ち合う事自体に最初から戸惑いがあった。父が、家族が壮絶な死を遂げた所為かもしれない。


故にその一歩は大きかった。


何気なく握り締めていた掌に目線を落とす。その目に映った光景に雛乃は目を見開いた。


(……色が、ある……!?)


掌の肌色を始め、雛乃の着ている着物、床下、先を歩く沖田の袴に“色彩”があった。味気ない白黒ではく、温かみのある色彩。


突然の出来事に驚いた雛乃は反射的に目を閉じた。再び目を開けると、そこには見慣れた白黒の世界が広がっていた。


安堵の息を吐くと同時に、雛乃は早鐘を打つ心臓を抑える為胸元に手を当てる。

あれ程望んでいた色彩のある視界。だが、予想に反し雛乃の心は恐怖一色に染まっていた。


「雛乃ちゃん? どうしました?」


足音が止まった事に気付いた沖田が振り返り、此方へと歩いてくる。それに気付いた雛乃は動揺を素早く隠し、笑顔を取り繕った。


「何でもない。ちょっと考え事をしてただけ」


えへへ、頬に手を当て笑う雛乃に沖田は違和感を覚える。それはかつて感じた嫌なものと酷似していた。


「雛乃ちゃん、まさかまた――」


「あ。ええっと、私……さ、先に行って配膳を手伝ってくる!」


沖田が疑問を口にするよりも先に、雛乃は皆が集まる広間の方へと駆けて行った。普段、廊下でよく転倒するとは思えない程の素早さで、自分の前から去っていった雛乃に沖田は小さく息を吐く。


「相変わらず、無茶をしますねぇ。そんなに私は頼りないですか……」


眉を寄せ、そう口にした沖田の表情は酷く哀しげだった。


頼る頼らない以前に、自分に打ち明けられる問題では無いという事は分かっている。新見の件や、あの事件の当事者である以上、距離が出来てしまうのは仕方ない。


だが、沖田自身としては雛乃の良き理解者でいたい。その思いが強く、どうしても口にせずにはいられなかった。


それに、雛乃の行動を制限する権利など、今の自分には無いに等しい。ならば、何も詮索せずに見送る事が妥当な判断ではないだろうか。


土方と決めた対策に不満はある。しかし、それ以外に有効な手段が思い付かないのだから大人しく従うしかなかった。


そんな事しか今は出来ない自分が腹立たしくて仕方ない。だが、組の為、近藤の為を思えば計画を阻止する訳にはいかなかった。


それでいて、雛乃を守ろうとしているのだから自分勝手にも程がある。


「最低、ですよねぇ……」


ただ、いつものように屈託無く笑っていてほしいと願うだけなのに。


それは、自分の手では無理なのかもしれない。

これから仲間の血に染まる、自分には――







◇◇◇







朝餉を食べ終えた雛乃は、久と共に家事に勤しんでいた。


だが、何処か雛乃の動きは何処か覚束ない。同じ着物をもう四半刻も洗い続けている。


それを見た久が見兼ねて口を開いた。


「お雛ちゃん、どないしたん? 心此処にあらずって顔やないの」


「……へっ? ってああぁぁぁ!?」


久に指摘され、雛乃はようやく自分の動きを知る。擦り過ぎた着物は今にも千切れそうになっていた。


雛乃は慌てて着物から手を離すと、久の方を振り向き勢い良く頭を下げた。


「すみません、綺麗にするどころか着物をぐちゃぐちゃに……!!」


「構へん構へん。こないな事、ようある事やし。せやけど、これは持ち主に謝らなアカンなぁ。恐らくやけど、着るには生地が薄ぅなってしもとる」


額に砂がつく程に下げられた雛乃を見て、久は優しくそう諭した。すみません、と弱々しく紡がれた言葉に久は雛乃の頭を思わず撫でる。


常に失敗を繰り返していたなら、久も怒っていただろう。だが、雛乃は誰よりも働き、暇さえあれば誰かの仕事も手伝おうとする。


病み上がりだというのに働き過ぎではないかと心配していた分、大事に至る前に発見出来て良かったと久は安堵もしていた。


「失敗は誰にでもある事。せやから、大丈夫や。皆、笑ぅて許してくれはるて――」


久は雛乃の頭から手を離すと雛乃が駄目にしてしまった着物へと手を伸ばす。そして見事に固まった。


「――あぁ。こら、アカン」


「ふぇっ!?」


久の言葉に雛乃は思わず顔を上げる。そんなに酷く擦ってしまったのかと、不安に揺らぐ雛乃を一瞥し久は小さく息を吐いた。


「これ、土方はんのやわ……」


久の言葉によって、立ち直り掛けていた雛乃の気持ちが再び沈んでいく。


平隊士や副長助勤の面々ならまだしも、よりにもよって副長である土方の着物とは。雛乃の不運の強さは未だに健在のようである。


雛乃にとって、今、一番会いたくない人物が土方その人だった。新見の件から間違いなく警戒されている筈。出会ったが最後、確実に尋問されるに違いない。


目の前にある水の入った木製の(たらい)に、今にも顔を沈めてしまいそうに落ち込む雛乃を見て、久は慌てて声を掛ける。


「お、お雛ちゃん、大丈夫やって! 今日は珍しい会合の日やし、土方はんの機嫌もいつもよりは――」


「総司ィィィ! 総司!! 総司は何処だ! 何処に行きやがった!?」


久の声を遮るように、土方の怒号と鬼気迫った足音が屯所に響く。


どうやらまた、沖田が何やら為出かしたらしい。庭に面した廊下を歩く土方の額には、見事に青筋が浮かんでいた。


それを目の当たりにした二人に、何とも言えない空気が漂う。


「……お雛ちゃん、気張りぃや」


「はいぃ……」


一筋縄ではいかないだろうと、久は激励の意味も込めて雛乃の肩を優しく叩いた。

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