朱い雨【壱】
まだ夜明け前、薄暗い刻限だというのに人影が集まっていた。
そこは副長である土方の私室。彼等は声を潜め、密談を交わしている。
――そう、ある目的の為に。
「……首尾は?」
「上々です。何の問題もありません」
「店の手配も滞りなく済ませました。後は事を起こし、無事に終わらせるだけです」
薄暗い部屋で報告を受け、部屋の主である土方は大きく頷くと、咥えていた煙管を口から離し一息吐いた。
「明日、予定通り角屋で会合を開く。無礼講で酒も大量に振る舞う。存分に酔わせてやれ」
言葉と共に吐き出された紫煙は、部屋の中をゆらゆらと漂う。
頷く人影の中、黒衣に身を包んだ青年が一歩前へ出る。それに気付いた土方が視線を青年へと移した。
「……一つ、気掛かりな事があるのですが」
「何だ」
「藤森雛乃。彼女の存在です」
ザワリ、と空気が騒つく。
中でもその名に素早い反応を見せたのは、廊下側に腰を下ろしていた沖田だった。
「雛乃ちゃんにまで、危害を加えるつもりですか!」
「そこまでは言っていません。ただ、引き離しておくべきではないかと言っているだけです」
沖田の視線を物ともせず、青年――山崎は言葉を続ける。
「彼女は誰よりも、芹沢を慕っています。妨害する可能性が無いとは言えません」
「ッ、それは、そうかもしれませんが……」
「沖田助勤も気が付いている筈ですよ。既に彼女が、この計画を把握している事に」
沖田は開いていた口を閉じると、強く唇を噛み締めた。沖田を始め、この場に居る皆が思っていながらも口にしなかった事がある。
それは、雛乃が先の流れを予知出来るという事。
雛乃は先の時代から来た娘。この件も恐らく、自分達以上に詳しく知っているに違いない。だからこそ先日もあの場にいた――
ザワザワと不穏な空気が部屋全体を包む。既に纏まっていた話が平行線に戻るのか、と誰もが頭を悩ませた時だった。
山崎、沖田の双方の話を静かに聞いていた知的な風貌の青年――山南が腕を組みながら、やんわりと口を開く。
「確かに、山緒に居た事から考えて今回も乗り込んでくる可能性は否めないね。だからと言って、引き離す事は容易ではないよ。彼女はとても勘が良いし、頭も働くからね」
雛乃は幼い風貌ながらも、刻に土方さえも舌を巻くような行動も見せる。故にこういう場合扱いに困ってしまう。
下手な言い訳は、此方が墓穴を踏む事に成り兼ねない。
山南の隣に鎮座していた原田が眉間に皺を寄せたまま、山南へ目を向けた。
「山南さん、なんか良い案でもあんのか?」
「どんな手でも使っていいのなら、ね。でも、それを総司や土方君は望みはしない。だろう?」
自分達がこれから行おうとしている事は非常に汚い仕事だ。どんな手を使ってでも遂行させなければならない。雛乃がそれに踏み込むと言うのなら、選択は二つに一つ。
手を汚すか汚さないか、だ。
山南の意味深な視線を受け、土方は舌打ちを鳴らす。組んでいた足を解き、片足を立てながら煙管の灰を叩き落とした。
「――山崎。この件は俺が預かる。お前は予定通り、芹沢派の監視をそのまま続けてくれ」
「しかし、副長――」
「山崎」
「……ッ、御意」
土方の語気が強くなり山崎は素直に頭を下げる。主である土方の命は絶対。逆らう事は許されない。
雛乃の処遇が気になって仕方ないが、此処は土方に任せるしかないようだ。
山崎が下がると、皆の視線も土方に注がれる。中でも殺気を含んだ、鋭いある視線が土方の苛立ちを加速させた。
眉間に酷く皺を刻むと、土方は煙管を口にくわえ深く息を吐く。
「今日はこれで仕舞いだ。各自、部屋に戻れ」
最終的な結論は会合前に伝達する、という土方の言葉に頷くと各々部屋を出て行った。
ただ一人、複雑な表情で土方を睨み続ける沖田を除いて。
土方は煙管を口から離すと、文机に置いていた新たな煙草を包んだ紙へを手を伸ばす。
それを開き煙管の先端にある火皿に詰めていった。
人の声など無く、ただ土方が動かす煙管の擦れた音だけが響く。作業を続けていた土方は煙管を足元に置き、垂れた前髪を掻き上げると、部屋の隅に座ったままの沖田へ声を掛けた。
「……おい、総司。言いたい事があんなら、さっさと口に出して言いやがれ。てめぇの殺気は胸糞悪くなんだよ」
カツン、と煙管で畳を叩く土方は機嫌が悪そうに見える。だが、それ以上に沖田も機嫌が悪かった。芹沢派粛清が目前に迫っているのも理由の一つだが、一番の原因は先程の山崎の発言である。
「……雛乃ちゃんを、どうするつもりなんですか」
予想通りの問いに土方の眉間に皺がまた一つ増えた。
新見の件以降、沖田は口を開けば雛乃の事ばかり。雛乃の境遇を思えばこその態度かもしれないが、此方としては迷惑極まりない。
詰め替えた煙管を口元に運ぶと土方は口を開いた。
「阻害するようならば斬る」
「なっ――!」
「――と、言いたいとこなんだがな。アイツは藤森の姫であり、ひいては浪士組の大事な女中だ。安易に危害を加える訳にはいかねぇだろ」
部屋に土方が吐き出した新しい紫煙がゆらゆらと漂う。土方の言葉に激昂し、思わずその場から立ち上がろうとした沖田は、動きを途中で止めてしまった。
何度も何度も目を瞬かせて、紫煙の先に見える土方を凝視する。
新見を処断したあの日から、沖田はずっと不安に思っていた。この粛清の際、土方が雛乃をどう扱うのかを。
過去の記憶の事もある。沖田は土方の決断によっては、計画内容を変更してでも雛乃を守るつもりだった。
だがそれも、土方の一言でバラバラに崩れ落ちた。土方も雛乃を守る側に立とうとしていたのである。かなり不器用な遣り方で、だが。
沖田はホッと安堵の息を吐くが、その胸中は何とも言えない不快感が支配していた。
雛乃の安全が保証されたのは喜ばしい事なのに、目の前にいる土方に対して苛々が募る。
「……やっぱり、私は土方さんが大嫌いです」
冷酷に見えて実は誰よりも優しい。そんな不器用な土方の心遣いが沖田は昔から苦手だった。
土方がもっと嫌な奴ならば嫌いになれただろうに、そう出来なかったのはこうやって、優しさをさり気なく見せるからだ。
沖田がぽつりと口にしたそれは、しっかりと土方の耳に届いていた。眉間に皺を刻んだまま、鼻で笑い飛ばす。
「はっ、そいつは良かった。野郎に好かれても嬉しくも何ともねぇからな」
煙管を口へ含みながら、そう吐き捨てる土方を横目に沖田は畳へ再び腰を下ろした。
何も問題が全て解決した訳ではない。土方が手を出さない以前に、雛乃の行動を把握し、制する事こそが沖田にとって何よりも重要だった。
「此方が手を出さないとしても、雛乃ちゃんは必ず現場に来ます。その対処はどうするつもりで?」
沖田の問いに土方は煙管を口から離し、紫煙を吐き出す。
「どうせ、角屋まで芹沢が連れて来るだろうしな……。口で言っても駄目なら、酒でも飲ませりゃ良いんじゃねぇか?」
「酒を、ですか?」
怪訝そうに首を傾げる沖田を見て、土方は煙管を突き付けた。
「忘れたのか? アイツ、かなり酒弱ぇだろ。酔わせちまえば判断力は鈍る。そうなりゃ八木邸まで帰る力すら無い筈だ。角屋で他の連中と共に居るしかねぇ」
実行場所は角屋ではなく、この屯所内。芹沢派が寝起きする八木邸と定めている。芹沢派の粛清を阻止するつもりならば、会合の後八木邸へ帰らなければならない。
八木邸に戻れない状況を作り出せれば、此方の思うままに事が運べる。沖田は成程と相槌を返すが、ある事を思い出し眉を寄せた。
「……総合的には良い案だと思いますけど、雛乃ちゃんの酒癖を忘れていませんか」
一月前に行われた酒宴の席で、雛乃の甘え上戸が発覚した。酒を少しでも含めば雛乃は目の前にいる人物に甘えてくる。
「ああ、そういえば……。あの時の制裁もまだ下していませんでしたねぇ」
意味深に自分を見つめ、笑みを溢す沖田に土方はゾクリと肌が粟立った。
土方の脳裏に忌まわしき過去の記憶が巡る。あの時は雛乃が重傷を負い有耶無耶になってしまったが、今回は果たして無事でいられるのだろうか。
ギギギ、と固くなった腕を何とか動かし土方は煙管を口にくわえ直す。
「よ、余計な事思い出してんじゃねぇよ。状況が状況だけに、目を潰りやがれってんだ」
「そうですね。心の奥に留めて置いて、後程全て、土方さんにぶつければ良いだけの話ですし。……あ。でも既に今、限界超えそうなんで一発殴らせて下さい。刀で」
「今かよ!? しかも、抜身じゃねぇか!!」
鞘の無い刀で殴られれば確実に無傷では済まない。土方は顔を引き吊らせて沖田から距離を取った。
「あれ、何で逃げるんですか。別に殺るつもりはないんですから、大人しくそこに座ってて下さい。……確か、心の臓は左胸近くでしたね」
「仕留める気満々じゃねぇか! ッ、付き合ってらんねぇ。話は仕舞いだ! てめぇも早く部屋に戻りやがれっ!!」
ゴツン、と沖田の頭上に土方の堅い拳が落とされる。それによって、騒動は収まるかと思いきや更に加速の一途を辿ってしまう。
まだまだ夜も明けきっていない刻限だというのに、土方の部屋は酷く騒々しい。
結局、詳細を論じる事なく、そのまま刻は流れていった――