緑の烏は旧き使い魔
それ以上読む気になれず、本を元の場所へ戻したエルンストは、長い息をついた。行方不明だった空白の三年間、ミネルヴァはずっとこの森でひとりきりだったのだろうか。不用意には訊くまいと元々思っていたが、あの普段マイペースかつ朗らかなミネルヴァが寂しいと零すその孤独を考えるだに、余計訊けなくなってしまったな、と思う。
三年の間に、何が。
結界を解いていくうちに、いつか知ることになるのだろうか。
エルンストはふとミネルヴァが先刻眺めていた窓の方に足を向けると、鬱蒼とした昏い森に目をやった。格子状の窓枠はところどころに模様入りの曇り硝子がはめられていて、透明の硝子の部分からでないと外の様子は窺い知れない。
「……ん?」
エルンストは気になるものが見えた気がして、森に向かって目を凝らす。光の入りにくい葉が深く折り重なるその向こうに、何かが光った気がしたのだ。右へ、左へ。視線を揺らすうち、もう一度同じ光を捉える。
「あの、光……」
遠いが、間違いない。あれは、魔力の光だ。まさか、森にも回路が引かれているのだろうか。だが、ミネルヴァからそんな話は聞いたことがないし、そもそもあの光はさっきから移動している。速度は大したことがないが、その動きは不規則で機械的ではない。まるで、何かの生き物のようだ。
「……確かめた方がいいな」
相手が移動しているとなると、時間を開けたら見失うだろうし、また次いつ遭遇できるか分からない。ミネルヴァに声を掛けたかったがその時間も惜しく、エルンストは急ぎ走り書きを机に残すと、階段を駆け下りて外へと飛び出した。窓から見た方向へ回り込み、森の中を隈なく視線で調べていく。
「……いた」
森の奥の方、誘うように光が揺れている。エルンストはそのか細い手がかりを頼りに、黒い森の中へと踏み入って行った。
初めにこの森を歩いた時は、足元には石造りの道が敷かれていたからなんとも思わなかったのだが、こうして道無き道を歩くと、地面は張り出した根や背の高い雑草、絡みつく蔦草に覆われていて、いかに深い森なのかを実感させられる。相変わらず生き物の気配はなく、鳥の声どころか虫の一匹も見かけない。
揺らめく光は時折右へ、左へと移動していたが、着実に明るさを強めていた。近づいている。
早足で分け入ったせいで上がった息をはぁ、とひとつついて、エルンストはここ三週間のだらけ切った生活で落ちた自分の体力を恨みながら、足を前へと進めていく。
「……っ、は、…………あれ、か……?」
僅かに開けた空間に出る。切り株を中心にした本当に小さな木々の切れ間。光はその空間の端の方にある、低木の上の方に留まっていた。
「…………、」
エルンストは光を避けるように視界を狭め、光の出処が何であるかを探ろうとした。ぼんやりとした光の向こうには、緑色の、何かが見える。
「鳥……か……?」
『オイ、タダのトリじゃねェ! カラスだ! このスットコドッコイ!』
急にダミ声が飛び込んできて、エルンストは驚き周囲を見回す。見回すが、誰もいない。そも、ここは結界で閉ざされているのだから、いるわけがない。
ということは、今の声は――エルンストはもう一度光の出処を仰ぎ見る。
『そう、オレサマこそがこの黒い森の支配者。緑烏のビリジアンだ! 知らねェとは言わせねェ!』
どこから突っ込んだらいいか分からない台詞を浴びせられたエルンストは、久々に頭痛を覚えてこめかみを押さえた。
――緑の烏は旧き使い魔。おしゃべり、でしゃばり、みえっぱり。仲良くなれたそのときは、秘密の呪文を教えてくれる。
自分で歌の一節を披露してくれた目の前の見事なまでに緑色の鳥――改め烏は、胸を張る、もとい膨らませて天狗になっている様子であった。
エルンストが思い出す素振りもなかった歌の続きを知れたのは何よりであったが、何にせよ頭が痛い。烏なのに当然のように喋るし、こちらの様子などお構いなしだし、大体この歌詞は己に胸を張れる内容なのか? と心配にすらなってくる。
「ごめん、えっと……ビリジアン、だっけ。悪いけどお前のことは今初めて知った」
『マサカ! オマエ、シュヴァルツヴァルトの子孫だろ!? 知らない!? オレサマを!?」
「ごめん」
『歌は!?』
「オレンジまでしか覚えてなくて、黄色はこの間やっと思い出したレベル」
『オマエーッ!!』
まさかこうも烏に責め立てられる日が来ようとは。いつの間にか頭の上を飛び回ってきた緑烏が容赦なくエルンストの髪をつついてくる。本気ではない引っ張り方ではあるが、地味に痛い。
『コレはジュールの管理不行き届き! あんなに約束したのに! 仕方なくこんなトコロに残ってやったのに!』
ジュール。あのタイプライターの手紙を綴ったご先祖さまか。
エルンストは烏のうるさい羽音を聞きながら思考を巡らす。
「ジュールってひとに頼まれて、ビリジアンはこの森に残った?」
『ゴメイサツ! オマエ、なかなか賢いな?』
「はは……、ありがとう」
エルンストの乾いた笑いなどお構いなく、緑烏――ビリジアンは近くの木の枝に留まった。そしてペラペラと捲し立てた。
『ジュールは言った! ミニーのためにココに残ってシゴトをしろって! そのために使い魔の契約をうまいこと誤魔化して、オレサマをこの森に縛り付けたんだ。タイクツな毎日だったがガマンした! 次に来るシュヴァルツヴァルトに、オレサマを大切に丁重に扱うよう伝えるって、ジュールが言ったから!』
どうやらこのビリジアンという烏は、ジュールという名の先祖が従えていた使い魔というもの、らしい。使い魔というのが具体的に何なのかはさておき、ジュールと共にいたということは、凡そ八十年近く前からこの森にいるということになる。緑色をして喋る時点で普通ではなかったが、そんなにも長く生きているというのは完全に世界の理から外れている。
――それに、ミニー、というのは。
『オイ、オマエ! 早く契約更新しろ!』
「えっ?」
物思いに耽っていたエルンストに唐突な命令が下る。
更新しろと言われても。賃貸契約か就労契約の更新くらいしか思い当たることがないが、どちらも今の自分にはあまり関係ない契約だし、そもそも烏に急かされることでもない。
素直に問い返す。
「いや、何の話?」
『マサカそれも分からないのか!? オマエそれでもシュヴァルツヴァルトの魔術師か!?』
「俺は魔術師じゃないけど……」
『エッ!?』
今度は烏が驚く番だった。だが本当のことなのだから仕方がない。確かに自分はシュヴァルツヴァルトの子孫ではあるが、唯の会社勤めをしている一般人であり、間違っても魔術師などという怪しげな呼称は持ち合わせていない。
『魔術師……じゃない? ム……本当だ。オマエ、眼しかないじゃないか。魔力の使い方も知らないのか。赤子か?』
そこはかとなく馬鹿にされている気がするが、言い返すような言葉も思い当たらず、エルンストは沈黙した。烏はそんなエルンストの様子をせせら笑うように続ける。
『オマエのような半人前、いや十分の一人前でも、オレサマの存在を繋ぐには契約主になってもらわないと困るしな。仕方ない。ホラホラ、オレサマが教えてやるから、サッサと掌を下に向けて手を前に出せ!』
何だか面白くなかったが、エルンストは素直に言われるまま掌を下にして腕を前に突き出した。すると烏がひょいと飛んできて、その掌の真下に来るように位置取る。
『オレサマの呪文を復唱しろよ。エエト……オマエの名前、何だっけ?』
「エルンスト」
『ヨシ。じゃあ始めるからな』
――我、エルンストは、シュヴァルツヴァルトの名の許に、ジュールよりその契約を引き継ぎ、ビリジアンを使い魔とする。
一言一句違えぬよう、慎重に文言を繰り返す。すると、烏を包んでいた魔力の光がぶわりと広がって、パンと弾けた。その欠片がきらきらとエルンストのかざしていた手の甲に集まって、見たことのない紋様を刻む。一瞬ぴりりと熱さのようなものを感じたと同時、その紋様はすうっと消え失せてしまった。一体何が起きたのかと自分の手の甲をしげしげと眺めていると、烏が得意げに終わったぞ、と宣ってその場でぴょんと跳んだ。
『ジュールが契約を譲渡する途中で無理矢理術式を止めてたんだ。オレサマがそれを引き継いでやったんだからな、カンシャしろよ!』
「え、うん。ありがとう……?」
『ヨシ! これで自由に動ける! 行くぞエルン……エル……』
「ふ、……いいよ、エルで」
『そうか? オレサマのこともビリーって呼んでいいぞ。トクベツだ!』
「分かった、ビリー」
上から目線は相変わらずだが、実際魔法だか魔術だかに関して自分は素人なのだし、それも致し方ないだろう。それに、中々憎めない性格をしていると思う。歌の通り仲良く出来るかはまだ分からないが、一先ず愛称で呼ぶことを許される程度には近付けたようだ。上出来だろう。
機嫌良さそうにエルンストの頭の上をくるりと旋回していたた烏――ビリジアンだったが、急にすい、と方向を転換したかと思うと、改めて行くぞ!、と宣言して森の方へと突っ込んでいく。何だか急いでいる様子に見え、エルンストは慌ててその姿を見失わぬよう追いかけ始めた。
「待って。ビリー、家に戻るの? 俺、帰り道よく分からないんだ。置いてかないで欲しい」
『置いてくワケないだろ。オマエを連れてかなきゃ意味がない』
狭い木々の間で器用に振り返りながらビリジアンが言う。
『さっきから呼ばれてるのはオマエだぞ、エル』
「え?」
そう言われても、エルンストには何も聞こえない。訳が分からないままいつもより重く感じる脚を必死に動かしていると、呆れたようにビリジアンが続けた。
『オレサマは耳がイイんだ。少し前から、オマエを探してる声がする』
自分を、探している。
それは間違いない、雑な書き置きだけで家に残してきてしまったミネルヴァその人だろう。家の周りから遠く離れることなんて今までなかったし、心配を掛けているに違いない。
家を出る少し前に、彼女と話していた会話を思い出す。置いてかないでくれてありがとうと、そう言われたばかりだというのに。
「ミネルヴァ……」
『そうだ。ミニーの声だ。ホラ、急げエル。コッチだ』
ビリジアンの言葉に思わず脚を止めそうになったエルンストは、何もない地面につまづいてよろめきたたらを踏む。ビリジアンが口煩くそんなエルンストを詰っているが、それに言い返している余裕もない。
――ミニー。
ビリジアンのいうそれが、彼女のことを指すならば、それは。
「……とにかく、今は急ごう」
そうだよ急げって言ってるだろ、という追い打ちを喰らいながら、エルンストは拭えない疲労感に負けそうな自分の身体を叱咤して勢いをつけると、何とか先へと踏み出した。
行きは随分回り道をしていたらしい。ビリジアンの先導する道無き道は比較的歩きやすくまっすぐで、ほんの数分で森の出口――木々の切れ間が見えてきた。
丁度庭先のあたりにまろび出た。人影を探し辺りを見回すと、玄関扉の傍にその姿を見つけることが出来た。弾んだ息もそのままに、名を呼ぶ。
「ミネルヴァ!」
「……っ、エル……!」
ペリドットの瞳が濡れているように見えて、エルンストはへとへとになった脚をもつれさせながらもミネルヴァの許へ向かおうとしたが、それより早く彼女の方が駆けてきた。勢いを殺さず走り込んできたミネルヴァは、そのままエルンストの胸板に頭突きをするように抱きすがる。驚きと疲労感の両方でそれを情けなくも支えきれなかったエルンストは、おわぁ!、と声を上げながらミネルヴァを抱えたまま尻もちをついてしまった。
「っ、たた……。ごめんミネルヴァ、大丈――」
「いっ」
必死な声が食い込んできて、エルンストの言葉は途中で喉奥へと押し込まれる。そっと覗き込んだミネルヴァは俯いていて、エルンストからはつむじしか見て取れなかった。
「い……、なく。なったかと」
震えた声。自分の汗ばんだシャツを掴む指先。ひたと胸元に寄せられた丸い額。ミネルヴァの存在を今までで一番近く感じているのに、表情が窺い知れないせいで、どうするのが正解なのか分からない。
エルンストは息を詰めた。
他人の、とりわけ女性の対応で苦労したことなんてなかった。優しく囁きかければ、するりと髪を撫でてあげれば、目を見て微笑んで謝罪すれば。次々とすることもかける言葉も浮かんできたし、大概はそれで良いように乗り切って来られた。
でも今、彼女に何をしてあげればいいのか――何故だかエルンストには分からなかったのだ。
「その、ごめん、ミネルヴァ……」
「……」
「俺、書き置きしか、できなくて」
「……書き、置き?」
ミネルヴァがカチンと動きを止めた気配がする。もしかして、気付かなかったのだろうか。
「急いでいたから、声を掛けられなくて。書斎に書き置きだけしていったんだけど……」
「……、……う、うぁ……」
胸板に寄りかかったままの胡桃色の髪がふるふると震え、その髪の間からひょこりと覗いた白い耳がみるみる赤くなっていくのが分かる。書き置きに気付かずあたふたとひとりで空回ってしまった、などと考えて羞恥に苛まれているのかもしれない。
けれど――とエルンストは思う。あの理知的なミネルヴァが書斎を良く確かめることもしないまま――その余裕も持てないまま、自分を探し回っていたとしたならば、――それは。
エルンストはしおらしく項垂れた。
「心配掛けた、よね。……本当にごめん」
壊れ物に触るように、恐る恐る細い肩に手を添える。そのまま二の腕へ向かって少しだけ撫でさすった。触れられることにミネルヴァが嫌がる素振りはなく、エルンストは内心でほっと息をつく。
そして、先刻返すことが出来なかった言葉を、囁くようにミネルヴァに渡した。
「置いてったりしないから、絶対。――約束する」
弾かれたように上げられたミネルヴァの頬は熟れた果実さながらに真っ赤に染まっていて、思わずつられてエルンストの顔にもかぁと血が上る。
何だか、とてつもなく恥ずかしいことを言ってしまったような気がする。
ばっちりとかち合ってしまった視線を逸らすことも出来ずに、互いに瞳の中に映る自分の姿を食い入るように見つめ合う。
重く、甘い沈黙。
身動ぎも出来ず硬直するふたりの雰囲気は、けれども存外あっさりと打ち破られた。
『オイ!! オマエたちっ!! オレサマを無視すんな!』
「っひぁえ! わ、あっ……、え……」
バサバサとうるさい羽音。ビリジアンだ。
エルンストがごめんと軽い調子で謝ると、仕方がないとでも言いたそうにその頭をひとつつきして地面にトトンと舞い降りた。
ミネルヴァはというと、エルンストに寄り添ったままぴたりと動きを止めて、その様子を見つめている。まるで夢でも見ているかのような顔でぱちぱちとゆっくりと瞬いてから、震える声で呟いた。
「……、ビリー……?」
『オレサマ以外にこんなにステキな緑の羽根のカラスがいると思うのか? ミニー』
おどけたように言うビリジアンに、ミネルヴァの表情がくしゃりと歪む。ペリドットの瞳が潤んで膜が張ったように煌めいたが、涙が落ちるより前にその顔は伏せられた。表情を覆い隠したままで、努めて明るい声色が返る。
「そう、そうだね。そうだよね――……」
『そうだ! サァサふたりとも、話は家に入ってからだ。雨の匂いがしてきてるぞ、急げよ!』
ビリジアンに口煩く急かされ、エルンストはミネルヴァを支えながら慌てて立ち上がる。雨が降るなんて、この森では今までなかったはずなのに。玄関扉へと急ぎながら、ふと訝って森の隙間に見える小さな空を見上げる。
エルンストは目を瞠った。空の向こうで揺らめいていた緑の紗が、欠片になって砕け、きらきらと散り落ちていたからだ。