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黄色菫の砂糖漬け(後)

 翌日。

 乾燥は丸一日と本にあったので、念の為昼下がりまで冷蔵庫()()()に入れて置いた砂糖漬けを取り出す。鮮やかな黄色の花弁は、不思議と色褪せずみずみずしい。砂糖の粒がまるで朝露のように煌めいていた。


「綺麗なものだねえ」


 昨日お肉たっぷりのミートオムレツを幸せいっぱいに頬張っていたミネルヴァが、今はその時からは考えられないほどキリッとした表情で砂糖漬けを眺めている。


「上手くできたみたいで良かったよ」

「旦那様は器用だね」


 人並みだよ、と首を振るが、ミネルヴァはにこにこと微笑むばかりで、エルンストの謙遜を受け取る気はないようだ。


「これを、やはり食べる……のかな」

「内緒のおやつ、と歌にはあったんだろう? となれば、指示通りおやつにしなくてはね」


 お茶を淹れよう、とミネルヴァが席を立ち、紅茶の準備をしてくれる。

 料理はからきしだというミネルヴァだが、紅茶を淹れるのはとびきり上手い。もしかして誰かに繰り返し習ったのだろうか。必死に練習をするミネルヴァを勝手に思い描いてみる。ああ見えて表情豊かなひとだ、上手くできず頬を膨らませたか、手順を忘れて慌てふためいたか――想像のなかのミネルヴァの姿に、エルンストの口元から思わず笑みが零れる。


「何だい、ご機嫌かな?」

「いや、なんでもない。それにしても……、やっぱりなんだか不思議な感じのする花だな」


 硝子の器にちょこんと並んだ黄色の花をエルンストは見つめた。あのあと書斎で見つけた植物図鑑で調べたところ、菫の種類によっては紫の他に白や黄色の花が咲くものもあるらしい。つまりこの黄色の菫も一般的な花のひとつと考えるのが自然、なのだが――。

 コトリ。湯気の立ち上るカップが目の前に置かれ、エルンストの思考が途切れた。顔を上げると、ミネルヴァがどうぞ、と微笑んでいる。彼女の前にも揃いのカップ。どうやらお茶の支度は整ったようだ。


「まずは一応、確かめておこうか」


 そう言うと、トントン、とミネルヴァは眼鏡のつるを指で叩いて、菫の砂糖漬けを凝視する。数秒鋭く見つめていたが、ふと視線を外すと、大丈夫そうだと首を振った。


「回路以外の情報を読み取るのはわたしには難しいのだけど、害がないかの見方だけは教わってるから。この花は危険ではなさそうだよ」

眼鏡(それ)も魔導式だったのか」

「まあね。これを使うと分解しなくても中の回路の様子を見られるから重宝してるんだ。……けど、持ち主の話だと、本当は物の本質を見抜くための道具らしくて」


 その魔導式鑑定眼鏡がこの菫の砂糖漬けは害するものではない、つまり毒ではないと告げている。

 エルンストは覚悟を決めた。

 一度紅茶を口に含ませてから、美しい砂糖菓子を指でつまみあげる。そして、ひょいっと口の中に放り込んだ。

 シャリ、と砂糖の感触。優しい花の匂いがふわりと鼻に抜けていく。


「……、…………」

「エル、どう?」


 もぐもぐ、ごくん。飲み下すが、体の方には特に何も変わったことはない。


「……いや、何も……」


 変わったことは――、エルンストの言葉が途切れる。

 ガタン、と大きく音を立てて立ち上がり、部屋の中を見回した。電話、リビング端のチェスト、ポットを置いているタイルマット、スタンドライトの脚、そして――ミネルヴァの眼鏡のつる。エルンストの目に今まで見えていなかったぼんやりとした光のようなものが見える。これは恐らく、魔導式の回路がある場所と合致している。

 つまり今、エルンストには魔力が視認できている、ということになる。

 前触れなく、急に? ――いや。考えられるのは先程飲み込んだ菫の砂糖漬けの他にない。


「え、エル? どうした?」

「……視える」

「え? なに?」


 ――バリン!

 今度は硝子が割れるような音が外から響いてきて、エルンストは弾かれたように窓の方へと急いだ。すれ違いざまに視界に映ったミネルヴァの顔には、疑問符が浮かんだまま。もしかしたら先程の音も彼女には聞こえていないのかもしれない。

 窓の外には変わらず薄暗い森が広がっていたが、その木々の合間から僅かに見える空の部分に、今までに見たことのないものがある。緑、青、紫の薄い紗のようなものがゆらゆらと折り重なっている。更にその外側で、黄色の欠片が散り散りになっているのが分かった。先程の音の正体はこれだろう。


「まさか、あれが結界、か……?」

「何か、見えるのかい」

「……視える。多分だけど、魔法に関連するものが目に見えるようになってる」

「……わたしには、何も、……見えないよ」

「あの砂糖漬けを食べたせいだ」


 迂闊に食べない方がいいかもしれない。エルンストはそう思ってミネルヴァを振り返ったのだが、ミネルヴァはというと、なるほど、といった顔をして、手に持っていたらしい黄色の花をひょいと口に放り込んでしまった。


「――っば、何やって!」

「あまい」

「っミネルヴァ、大丈夫か? お、おかしなところは?」


 もぐもぐ、ごくん。ミネルヴァの喉が嚥下して、ぱちぱちと睫毛が上下する。それから目が悪い人が遠くを見る時のように眉根を寄せて目を眇めると、暫く周囲をきょろきょろと確認し始めた。

 数十秒、そうして周囲をひと回り眺めたあと、ミネルヴァはふうー……と深く息をつき、目をぐっと瞑る。そして厳しい様子の声音が続いた。


「……駄目だ」

「え!?」

「わたしには何も見えない。がっかりだ」


 エルンストの驚愕と心配をよそに、本当に残念そうにミネルヴァは肩を落としている。エルンストはよろよろと元の椅子へと戻り、ずるりと腰掛けると、深い深い溜息をついた。


「……、……びっくり、した……。な、何ともない?」

「悲しいほどに何ともない。まさかシュヴァルツヴァルトにしか効果がないのか? あんまりだ」


 膨れっ面で文句を垂れるミネルヴァに、エルンストは怒る気力も失っていた。


「後から……副反応が出たりしたら、どうするんだ。ここには俺たち二人しかいないのに。共倒れになっちゃうだろ……」

「確かに、それは考えなかったな。食べてみたくてそればかりだった。反省だ」

「何でそんなに食べたかったんだよ……」


 好奇心に負けるタイプなのか。エルンストはいつかの朝のように、がっくりとテーブルに突っ伏した。閉じた視界の向こうでくすりと笑う気配がして、ミネルヴァが囁くように答える。


「エルが……、見てるものと、同じものが見てみたくて。ごめんね、余計な心配させてしまった」


 聞きようによっては口説き文句であるその返答に、エルンストは自分の腕の中で唸る。全く、こんなことで簡単に調子が狂う。てらいのないミネルヴァの言葉は、どうにもエルンストの心をざわつかせるのだ。

 エルンストが暫く顔を上げられなくなったのは、言うまでもない。





 結局、二人にはその後数日が過ぎても新たな体調変化は現れなかった。菫の砂糖漬けに関しては、エルンストだけが魔力を視る眼を得た、という結果に終わった。エルンストは、あの時窓の外に視えた割れた黄色の欠片は結界のひとつではないか、と考えてはいるが、確証は得ていない。

 そういえば、あのおかしなタイトルのレシピ集には、『魔法菫』と書いてあった。あるいはあの菫自体が普通の植物ではなかったのかもしれない。


 エルンストが新しい視界に慣れるのには少し時間がかかった。光がともっているのを見つけるにつけ、ついそこをいじってしまい、誤作動を起こして回るというトラブルがあったり、ミネルヴァが知らない場所にも魔導式回路が見つかり、解析に夢中になって寝食を疎かにした結果、エルンストに叱られる――なんてこともあった。

 だからといって、エルンストが魔法使いになった訳でもない。視える以外に変化はなく、魔導式回路も通常通り使えば暴走するようなこともない。

 一体これが何だと言うのだろう。この眼のことも、そして次の歌――恐らく緑の何かについてもさっぱり分からないまま、この森にエルンストが辿り着いてから三週間という時間が経過しようとしていた。




「仕事、大丈夫かな……」


 書斎の椅子に掛けて読書をしていたエルンストは、ふと細かい文字列から目線を上げて呟いた。

 思ったより長期間になっている急な強制休暇。残してきた仕事の山や同僚たちの顔が頭を過ぎるも、自分がいないくらいで回らないようなこともないか、と思い直す。自分でなければならない理由など存在しないポストなのだし――今頃、お前など家名だけで役職に就いているくせにとか日々文句を投げつけていた有象無象たちが、自分などよりもっと上手くやっているに違いない。

 こんなに仕事をすっぽかしてしまって、帰った頃には無職になっていたらどうしよう。寧ろ心配するならばそっちかもしれない。ミネルヴァを妻に迎えなくてはならないのにな――考えてからエルンストは苦笑する。そもそもミネルヴァには自分を透かして見ている()()がいるはずなのだ。だからきっと冗談であろうに、いつまでもミネルヴァが自分を旦那様と連呼するものだから、つい思考が引っ張られてしまっている。


 何だか、キツく縛って警戒していた心がゆるゆるに絆されてしまっている気がする。


 誰にも悪意を、媚びた好意を、上辺だけの興味を寄せられることのない生活。エルンストにとってはいつぶりのことなのか、そもそもそんな日があったのかすら分からない。心が死んだように静まっているわけではなく、ただ穏やかに凪いでいる。


「……変なの」


 この森では頓珍漢なことばかり起きるのに、こんな気分になるなんて。つい、ひとり笑みを零してしまう。


「変? また何か新しい発見でも?」


 ひょこりと開いた黒い扉を廊下側から覗き込むようにして、通りがかったらしいミネルヴァが声を掛けてくる。エルンストは零れていた笑みを深くして首を振った。


「違う違う。独り言」

「なぁんだ。また面白い回路でもあったのかと思ったのに」


 残念そうな表情を隠すでもなくそう呟いて、ミネルヴァはことりと首を傾げた。


「全く、ひとりでこの家にいた間は同じことの繰り返しで新しいことなんてひとつも見つけられなかったのにな。旦那様が来てからというもの、楽しいことばかりだ」

「そう?」

「そう。本音を言うとね。そこら中に細かい回路や音声応答を付けたのは、わたしがズボラなのも確かなんだが……この生活が退屈過ぎてさ。変化が欲しくてやってたことなんだ」


 書斎に足を踏み入れながら、ミネルヴァが困ったように笑う。彼女がエルンストが来る前のことを語るのは珍しいことだったので、内心エルンストはその話題に動揺していた。

 聞いてしまっていいことなのだろうか。


「思い立ったところに同じような機能をつけて、その繰り返し。研究をしてれば誰とも関わらなくたってひとりで大丈夫――なんて豪語していたのが恥ずかしい。やっぱり、寂しかったんだろうな、わたしは」


 ミネルヴァはエルンストの掛ける椅子の横を通り過ぎ、窓際に寄って外の変わり映えのない森の様子を眺める。エルンストの位置からでは背を向ける形になり、ミネルヴァの表情は窺い知れなかった。


「エルが来てから、美味しいご飯を食べたり、新しい回路を見つけたり、魔法が動き出したりして……、でも何より、キミと話せるのが楽しくて」


 わざと弾ませたような声でミネルヴァは窓に向かったまま続け、そして少しだけ沈黙した。ほんの数秒の、耳が痛くなるような静寂。

 それを打ち破るようにミネルヴァの声色が変わる。まるで、スイッチが切り替わったかのように、重々しい。


「……エルは、何にも訊かないね」


 エルンストは、目を伏せた。そして低く囁くように返す。


「ミネルヴァだって、俺に何も訊かないでいてくれるだろ?」

「沢山聞いたよ。家の名前、仕事のこと。年齢だって」

「でも、詮索はせずにいる」


 だからこそエルンストはこの森で心地よく過ごせていた。生きてきた中で一番といって過言ではないほどに、微睡むように凪いだ気持ちでいられた。それは偏にミネルヴァがそうして接してくれていたから。

 なればこそ、エルンストとて彼女を詮索しようとは露ほども思わなかったのだ。話しにくいなら、話したくないなら、何も言わなくて構わない、と。


「だから何にも訊かないでここにいてくれてるっていうの? こんな、何だか訳の分からないところに、本当にキミのいうハミルトン博士かもハッキリしない女と二人きりで?」

「確かに……ミネルヴァがハミルトン博士本人かどうかは疑わしく思わないでもなかったけど……」


 彼女の言い分では、身分証も何もかもをどこかへ置いてきてしまって、今は持っていないという。幾ら時系列に整合性があるとはいえ、本人を騙る別人である可能性はエルンストとて考えた。――でも。


「今はもう、どっちでもいいかな、正直」

「……はぇ?」


 ミネルヴァが気の抜けた声とともに、窓から漸く振り返る。俯きがちにしていたせいか、鼻先まで眼鏡がずり落ちてきていて、いつもよりその顔が幼く見えた。


「ハミルトン博士ではなくて、今ここにいるミネルヴァって人間と一緒にいるのが俺も楽しいから」


 エルンストは、ギ、と音を立てて椅子から立ち上がり、数歩距離を詰める。上から覗き込むようにミネルヴァの顔を見ると、ペリドットの瞳がまんまるに見開かれていた。ふ、とその様子に小さく笑って、ズレた黒縁の眼鏡に指を伸ばすと、そっと元の位置に戻してやる。


「――もう寂しくない?」


 エルンストの囁くような声に、ミネルヴァの頬がみるみる真っ赤に染まる。そして無言のまま、大きく数度頷いた。

 本当に初心で、可愛らしい。エルンストは微笑ましくて笑みを深めた。その様子を見てか、益々ミネルヴァの顔が赤く茹だっていく。


「そ……んな、優しい顔、しないでくれ。本気にしちゃいそうだ」

「本気じゃなくていいの? 夫婦になるのに?」

「あーっ、もう、違う、そうじゃ……、ああぅ……っ」


 ミネルヴァが一人喚き、数歩後ずさる。そしてエルンストから逃れるように書斎の扉へ早足で向かってしまった。エルンストは追いすがることなく、けれど少しだけ残念そうにそれを見送る。

 扉のところで一度足を止めたミネルヴァは、振り返ることはなかったが、消え入るような声で小さく呟いた。


「――置いてかないでくれて、ありがとう」


 エルンストがそれに返す言葉を見つけられる前に、ミネルヴァは廊下を走って研究室の方へ姿を消してしまった。

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