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シュヴァルツヴァルトの手紙

 高速で文字を打ち続けたタイプライターが止まり、大興奮していたミネルヴァが理性を取り戻した頃。回転椅子に倒れ込むように座っていたエルンストの腹の虫が思い出したように大きな音を立てた。


「腹、減ったな……」


 色んなことが一気にあり過ぎて疲労感にも苛まれていたが、この壮絶な空腹感には負けている。思えば昨日の夜も酒のつまみがせいぜいで、きちんとした食事を摂っていない。空腹からくる低血糖で思考が回らず、ぼんやりと天井を見つめたままエルンストは長く息をついた。


「すまない、朝食にしないとね。わたしは夢中になるとすぐ寝食を忘れてしまうからなあ」


 申し訳なさそうに頬をかいてミネルヴァが言う。馳走になっていいのかと視線をやれば、もちろんといった様子でミネルヴァが頷く。そしてタイプライターと逆側に置かれたこれまた旧式の電話の受話器を手に取り、「食事は三番だ」とダイヤルを一つだけ回した。


「朝食、二人分」


 端的にそれだけ告げると、チン、と音を鳴らして受話器を元の場所へ戻す。それから、うんともすんとも言わなくなったタイプライターからオレンジの文字で埋め尽くされた紙を抜き取ると、丁寧に折りたたんで胸ポケットにしまい込んだ。


「あと十分もすれば食事になるよ。空腹のところすまないが、さっきのダイニングまで移動を頼めるかい?」


 エルンストは無言のまま頷き、緩慢な動きで体を起こす。行きの倍の時間をかけて、ふたりはゆっくりと階下へと戻った。




 ミネルヴァの話通り、階下に戻る頃にはキッチンからいい香りが漂ってきていた。珈琲と、トースト。卵が焼けるような音もする。

 ミネルヴァ以外人間の気配がしないのに、一体誰が用意しているのか。そう思わないでもないエルンストであったが、空腹のせいで考えが纏まらない。


 最初に案内されたダイニングの椅子にかけて、行儀悪くテーブルに突っ伏していると、いい匂いとともに車輪が転がるような音が聞こえてくる。はて、とエルンストが顔を上げると、木製の配膳カートがひとりでにキッチンの方から移動してきていた。

 もうエルンストは驚かなかった。驚くような元気がなかった、とも言える。


『お待たせしました。朝食Aお二人分です』


 ダイニングテーブルの真横に到着した配膳カートが事務的に告げる。ミネルヴァはカートに乗せられたモーニングプレートと珈琲の入ったマグカップを順番にテーブルへ上げると、カートの上面を指でトントンと二度叩く。すると、カートは勝手知ったるかのように、するするとまた来た道を戻って行った。


「さあ、食べよう旦那様」

「ありがとう。……いただき、ます」

「うん。足りなかったらおかわりも出来るからね」


 エルンストは遠慮なく温かいコーヒーに口をつけ、バターの溶けるトーストに齧り付く。プレートの上にはスクランブルエッグにマカロニサラダ、それから分厚くカットされたハムが綺麗に並べられている。フォークで順々に口に放り込む。感動するような美味さではないが、今の空腹にはとにかく染みた。

 エルンストは暫く夢中で食べた。時折見計らったようにミネルヴァがおかわりを聞いてくれ、近くの電話で頼んでくれた。その度あの配膳カートが運んできて、結局エルンストはトーストを四枚、スクランブルエッグを卵三個分、ハムを二切れ休みなく食べ続けた。余りの食べっぷりにミネルヴァが呆気にとられていたのにすら気付いていなかった。


「はぁ……」


 珈琲を飲みきってひと心地ついたエルンストは、溜息を零しながらゆっくりと数度瞬いた。まだ食べ途中のミネルヴァはそんなエルンストを眺めてくふふ、と笑う。


「満足できたかい?」


 小さくカットしたハムを口に入れるミネルヴァに、エルンストは苦笑して頷く。


「ご馳走様。ごめん、夢中で食べちゃって」

「いいとも。よほどお腹が空いていたんだろうに、気付かず振り回してしまったわたしが悪い。気の利かない奥さんを容赦してくれ」


 こくこくと小さく喉を鳴らしながら珈琲を飲み下し、ミネルヴァが悪戯っぽく目配せした。何とも可愛らしい仕草である。


「気が利かないなんて嘘だろう。おかわりを聞くタイミング、ピッタリだった」

「そう?」

「うん。……本当にごめん。ミネルヴァ(他人)の家なのに、遠慮がなさすぎたよ」

「他人だなんて水臭いなあ。夫婦になる予定だって言っているのに」


 エルンストはその言葉にどうにもこそばゆい気持ちになる。ミネルヴァは一貫してその設定を持ち出してくるが、どこまで本気で言っているのか分からない。


「次に訪ねて来た相手を夫に、って……ミネルヴァは納得してるの?」

「まあ、そういう契約だしね。こう見えて長いものには巻かれるタイプだ」

「はあ……」

「何より恋愛ごとには疎いわたしだが、旦那様のことは素敵だなと思ってる」


 エルンストは思わず息を詰めた。向けられた真っ直ぐな賛辞に、いい歳をして照れてしまった。


「……それは、その。ありがとう」

「ふふ。その髪も瞳も、特別好きな色だしね。一目見た瞬間からなんの文句もないとも」


 ふわりと細められたペリドットの瞳は、とても柔らかい。

 エルンストはその視線に直ぐに気付いた。ミネルヴァは、自分を透かして()()を見ている――と。

 途端に上擦っていた気持ちが元通りに凪いでいく。尊敬していた工学者にお世辞を言われて間に受けてしまったが、まあそんなもんだよな、とエルンストは内心でひとり頷く。


「エルはどう? わたしが奥さんでも構わない?」

「えっ」


 そう振られるとは思っていなかったエルンストから素っ頓狂な声が上がる。


「見た目は普通だし性格はズボラだし工学以外からっきしだし、女性らしさなんてゼロどころかマイナスだ」

「そんなことないだろ。こんなに小さくて華奢で可愛いのに」

「はぇっ」


 今度はミネルヴァがおかしな声を上げる番だった。エルンストとしては息をするように出てきた言葉であったのだが、ミネルヴァはというとぴしりと固まったまま茹で蛸のように顔を真っ赤に染めている。今までのどこか余裕ぶったところのあった態度など、どこかに吹き飛んでしまっているようだ。


「っふ。……ふふ。ミネルヴァ、照れたの? 可愛いな」

「か、か、からかってるだろ、エル」

「いや、真面目に思ったことを言っただけ」

「ちょっと待て何だこの手慣れた感じの危険な男は!!」


 聞いてない! と叫んだミネルヴァは、カトラリーを放り投げてテーブルに突っ伏してしまう。眼鏡をかけたままでそんな風に伏せて大丈夫なんだろうか。エルンストは少し腰を浮かせて指を伸ばすと、胡桃色の髪から覗いた真っ赤な耳に掛かる眼鏡のつるをひょいと持ち上げる。


「ひゃわ!?」

「眼鏡、歪んじゃうぞ」

「あ、う、あ、あ、あああ……っ」


 エルンストとしてはただの親切心であったのだが、ミネルヴァのキャパシティに対しては完全にオーバーであったらしい。暫くまともな会話もできず、ぐずぐずに呻くミネルヴァを前にして、エルンストは困ったように頬杖をついて小さく笑った。




 この森に着いてからというもの、エルンストは眠気と無気力感に加えて、受け止めがたい現実による頭痛と、思い出したかのように苛んできた空腹で、全く余裕がなかった。それが朝食を摂って落ち着いたことで、生来の性格が顔を出してきたのである。すなわち、口達者な人たらし――それも女性に対しては顕著に、というものだ。

 男性にしてはやや長めのさらさらの黒髪。二重の瞳はブルーグレーで、一見冷たい印象を与えそうな色合いであるが、少し下がった目尻のお陰で柔らかい雰囲気になっている。

 その性格と見た目が相まって、声を掛けられたことは数しれず。そう、エルンストは非常に色事に慣れた男であった。

 本気になれるような相手には生憎出会ってこなかったが、それには常に他人に対して期待せず、人生を空っぽな気持ちで諦め半分に送っていたエルンスト側の問題もあったろう。そのため、夜毎別の相手と過ごすことも珍しくなく、その場凌ぎの甘い言葉や仕草なんてお手の物。かといってそれに過剰反応するような相手とはここ暫く関わり合うこともなかった。


 ミネルヴァは可愛いな、とエルンストは素直に思っていた。すとんと心の奥に何かが収まるような不思議な感覚。ただ物珍しい反応をされたからそう感じただけ――エルンストの心の内にあったのは、小動物を愛玩するかのごとく、ただただ微笑ましい気持ちばかり。少なくとも、本人はそう思い込んで彼女を見つめていた。




 さて、それまでエルンストを振り回し続けていたミネルヴァが、急なエルンストからの襲撃に耐え切れず悶絶し始めてから十五分。漸く気持ちを持ち直したのか、顔をのそのそと上げたので、はい、と眼鏡を渡してやる。ミネルヴァはそれを震える手で受け取ると、ぎゅっと目を瞑ったまま耳につるを掛けた。


「恥ずかしくて死ぬかと思った……」

「酷いな。特別なことしてないだろ」

「したよ、物凄くしたよ。頼むから、その、わたしはこの通りそういうのに耐性がないから! お手柔らかにしてくれ」

「善処するけど、ごめん。あれが俺の普通だから、また出ちゃうかも」

「うううう。なんて恐ろしい……」


 ミネルヴァは両手で頬を抑えたまま、何かを振り払うようにブンブンとかぶりを振った。それからぱちんと手のひらでひとつ頬を打って気合を入れ、よし、と自分に言い聞かせるようにひとりで頷いている。


「ふ。可愛い」

「エル! 漏れてる! わざとだろ!」

「ふは。ごめんて」


 何だか久しぶりにこんなに笑っている気がする。エルンストは口元に指を寄せて、どうにか浮かんでくる笑いを収めると、ふたつほど咳払いをしてから居住まいを正した。


「それでええと。何だったっけ」

「ええとだな。そう。タイプライターの打ち出した文章を確認しないと」


 ミネルヴァはそう言って胸ポケットにしまっていた紙を取り出すと、テーブルの上に広げた。白い紙に、橙色の文字列。一番上には、『親愛なるシュヴァルツヴァルトの皆様へ』と綴られている。


「なになに。『この文書はシュヴァルツヴァルトの本家、及び森の隠れ家の二箇所に同時に送付されています。』……同じ内容が実家にも行ってるのか」

「みたいだね。『予言の通り、魔女のもとにシュヴァルツヴァルトの裔が辿り着きました。これにより、旧き契約が正式に履行され、シュヴァルツヴァルトのもとに魔女を迎えるものとします。』……なるほど。エルがここにいることを外のシュヴァルツヴァルトのひとに伝えるためのシステムか」


 この森は何重もの結界に囲われているらしい。外界からはまだ隔絶されているから、電話や郵便、メールといった現代技術の方法で連絡を取ることはできないのだという。このままここにずっといれば、エルンストだって行方不明の扱いになってしまう可能性がある。そのための救済措置といったところなのだろう。


「『全ての結界が解除されるまで、魔女と裔は黒い森から出ることはできません。結界は五層構造、時間遅延、座標不定、物理障壁、魔力保持、認識阻害の順に解除されます。最後の認識阻害結界を解くためには、魔力保持結界を解く前に、裔自身に森の魔力全てを保持させる必要があるでしょう。』……結界はあと四層あるのか」

「なんだこの、森の魔力を保持させるって……」

「……分からないことを今考えても仕方ない。先に進もう。『シュヴァルツヴァルト本家側は二人が戻った時速やかに保護できるよう手筈を整えること。統一国家側に疑われぬよう最善を尽くしてください。』これはご実家に宛てたものだね。然るべきときにわたしたちを回収してくれる訳だ」

「妙に不穏な書かれ方だけどな……」


 ミネルヴァは苦笑するばかりでそれには答えない。視線は手紙の先を既に追っている。


「『ふたりが出会ってから結界を解くまでの時間制限はありません。歌に残した六色を辿り、焦らず確実な解除を目指しながら』、…………」

「……『ふたりきり、よき蜜月をお過ごしください。』『ジュール・シュヴァルツヴァルト』」


 二人の間に、重い沈黙が落ちた。ジュールという名のエルンストの先祖たる誰かは、かなりのお節介だったらしい。初対面の男女を捕まえて閉じ込め、蜜月を過ごせとは、なんとまあ。エルンストは呆れたように引き攣った笑いを浮かべていたのだが、ミネルヴァの方は様子が違った。


「ジュールのばか……っ!!」


 絞り出すような掠れた声。まるで知り合いを詰るように、テーブルに小さな拳を叩きつけて憤慨している。真っ赤な頬からして書かれた内容に恥ずかしがっているようにも思えるが、その瞳には僅かな揺らぎが見て取れる。今にも涙が零れ落ちそうな、そんな揺らぎだ。


 泣い、て――?

 内心動揺しながら、エルンストはミネルヴァを窺うように声をかける。


「ミネルヴァ、?」

「――なんっ……て酷い手紙の締め方なんだ! ……エル、可及的速やかにここから出られるよう、頑張ろう」


 ば、と勢いよく上げたミネルヴァの顔に、涙の色は無い。エルンストの見間違えだったのだろうか。ね、と重ねて同意を求められ、慌てて頷くと、ミネルヴァはそれによし、と気合十分に頷いて返してきた。


「じゃあ早速次だ。歌に残した六色とあったね。赤いどんぐり。オレンジのインク。次はなんだい、旦那様」

「え? え、えっと……」


 赤いどんぐり。オレンジインクのタイプライター。その次は、確か。


「黄色の……、」


 黄色の、さて、なんだったか。

 エルンストは遠い記憶に沈んだ歌の内容を、残念ながらさっぱり思い出せそうにないのだった。

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