時駆けの魔女と旧き契約
玄関扉を開けると、そこはエルンストの良く知る実家の裏手であった。木々の向こうには生まれ育った無駄に大きい屋敷が見えるし、その先の街並みには自分の務める会社が入ったビルもある。
どういうことかと信じられない気持ちでその風景を眺めていたのだが、お構いなしに『全部丸聞こえだったぞ! 待ちくたびれた!』と文句を重ねるビリジアンにつっつかれてそれどころではなくなってしまった。上っ面だけ謝って寄越し、何とか烏の荒ぶりを宥めようとしていると、ふと「エル」、と懐かしい声に呼びかけられ、驚き振り返った。
「ばあちゃん……」
「お帰りなさい。森での生活は楽しかったかしら?」
久々に顔を見た祖母であった。もう八十に近くなってきているはずだが、我が祖母ながらいつ見ても綺麗な人だとエルンストは思う。長らく可愛がっている黒猫を胸に抱いて、年齢を感じさせない軽やかな足取りでエルンストの傍までやってくる。
ミネルヴァに、「俺の祖母だよ」と簡潔に紹介すると、その言葉を祖母が継いだ。
「はじめまして、お待ちしておりました、ミネルヴァ・ハミルトン博士。私、クラーラ・シュヴァルツヴァルトと申します。シュヴァルツヴァルトの魔術師、その現当主ですわ」
「「……え?」」
エルンストとミネルヴァの声が重なる。
ミネルヴァが祖母の言葉のどこに疑問符を抱いたのかは分からないが、エルンストが抱いたのはただ一点に尽きた。今祖母は、シュヴァルツヴァルトの魔術師、と言わなかったか。しかも、現当主ってなんだ。シュヴァルツヴァルト家の当主は父ではなかったろうか。
「私の祖母であるジュール・シュヴァルツヴァルトより、貴女を迎え入れるよう厳命を受けております。ご無事の時駆け、何よりでございました」
「祖母……ジュールの、お孫さん……」
「……ん、え? 祖母!?」
エルンストの混乱は更に深まる。ジュールは男、とここまで完全に思い込んで来たエルンストにとって、その衝撃はあまりにも大きすぎたのだが、目の前の老婦人――クラーラはそんなことには全くお構いなしである。にこにことミネルヴァに人好きをする笑みを向けている。
ミネルヴァが感慨深げにああ、と目を細めた。
「あの時、娘さんのお腹にいたという子なのかな。クラーラと名付けたのか。ジュールが毎日のように名付け本を持ってきて、騒いでいたものな」
「左様ですわ。その節はジュールが、そして我がシュヴァルツヴァルトが、本当にお世話になりました」
祖母が胸に手を当てて、ゆっくりと頭を下げる。ミネルヴァが慌てて顔を上げてくれと嘆願するものの、クラーラはそのままで言葉を続けた。
「シュヴァルツヴァルトがこのように生き延びたのは、ミネルヴァ博士あってこそ。ジュールの身勝手を許し、手を差し伸べて下さってありがとう。貴女は恩人です。シュヴァルツヴァルトの全てでもって、貴女を守り、生涯を通して支えることを、旧き契約に則り誓いますわ」
そこまで言い切って、ようやくクラーラは顔を上げた。ミネルヴァがその様子にほっと息をつく。
「わたしは、何も。ジュールから聞いているよ。あのまま行けば、結局わたしは国に使い潰されて死んでいたって」
ミネルヴァが歩んだはずの未来。
魔術師の自分と恋に落ち、置き去られ、研究に憂身をやつして、遂には倒れてしまったという話。
エルンストはビリジアンの説明で聞いて、触れる程度にしか知らない。
「死の運命を避けるため、わざと空白の三年を作り、その先にわたしを繋げるなんていう、とんでもない無茶をすることで命を助けてくれたのは、ジュールと、シュヴァルツヴァルトの魔術師たちだ」
本当ならミネルヴァは、消えていたこの三年の間に死んでいた――ということなのだろう。ひとの生死の因果は簡単には捻じ曲げられない。だから、因果が過ぎ去ったその先に、ミネルヴァの存在を繋ぎ止めるという、実に複雑な術式を組んだ。
なるほど、稀代の魔術師と呼ばれるだけあって、ジュールという男――違う、女は、とんでもないことを成し遂げたわけだ。
「本当にすまない。そのせいで、魔力はこの国から失われてしまった」
「とんでもないことですわ。いずれ魔力なんてものは、科学の向こうに霧散する運命。過去の遺物なのです」
クラーラはあっけらかんとそう言い放ち、ふふ、と笑う。
「魔力が尽きた兼ね合いで、シュヴァルツヴァルトの魔術師として魔術の素養を身につけたのは、私の代が最後ですの。ですから、魔術師としての現当主は私なのですわ。私の娘も、そしてそこにいる不肖の孫も魔力管の備えはありますが、魔術師としては私が最後の一人、ということですわね」
「聞いてないぞそんな話……」
「言ってないもの。そもそも、魔術師なんて眉唾、とか言いそうなエルに、そんな話、ばあちゃんはしません」
ぷい、と拗ねたように顔を背ける祖母に、エルンストはげんなりとする。確かにその通りではあるのだが、あんまりではないだろうか。何も知らずにあの森に迷い込むことになったこっちの気持ちも少しは考えてほしい。
「それで、ミネルヴァ博士。今後のことはこのシュヴァルツヴァルトにお任せ頂き、よきように取り計らわせてもらって宜しいですか?」
「勿論。何かこの失踪を誤魔化す手立てでも?」
「ジュールはああいうひとでしょう? ですから、『ここはベタに記憶喪失という設定でいきたい』のだそうですわ」
クラーラの腕の中で、黒猫がにゃあとひと鳴きする。エルンストとミネルヴァ、そしてビリジアンのふたりと一羽は顔を見合せると、揃って乾いた笑みを浮かべた。
エルンストは直接ジュールを知っているわけではないが、これまでのことを思い返すに、実に言いそうなことだなと思う。
「シュヴァルツヴァルトの敷地近くで女性を保護したものの、記憶喪失の上、身分証の類も持っていない。シュヴァルツヴァルトは彼女を使用人として保護。ところが最近になり彼女が記憶を取り戻し、ミネルヴァ博士であることを知った、とでも」
「な、なんてご都合主義……」
「けれど、それが通ってしまうのよねえ。統一国家は、シュヴァルツヴァルトの秘薬に大恩がある。何かと頭が上がらないのよ」
まあ、記憶喪失以外は実際殆ど本当のことではある。シュヴァルツヴァルトがミネルヴァを誘拐――保護していたわけであるし、身分証などは百年前の過去に置き去りで、最早ないも同じなのだ。
そのあたりの整合性が取れるように、三年前から使用人の雇用契約書や記憶喪失の診断書などの工作はしてあったそうで、杜撰な設定な割に全くもって抜け目がない。
「まだ記憶が不安定だから、医療業界にも多少の伝手があるシュヴァルツヴァルトが引き続きミネルヴァ博士の保護をするといえば、統一国家は了承するでしょう。その間に孫と恋仲になった、……だなんて、とってもロマンチックね、エル?」
クラーラが意味ありげに目を細めてエルンストの方を見る。
――つまり、まだ暫く結婚はお預け、と。
エルンストはぐう、と唸った。一分一秒でも早くミネルヴァと結婚して、彼女を思うさま愛でるつもりだったのに。少なくとも数ヶ月はお預けを食らうことになりそうだ。
「やっぱり一年くらいこの家に篭ってミネルヴァを口説くべきだったかな……」
「な、何言ってるんだい、エル!?」
『オマエ……』
エルンストが思わず零した本音にミネルヴァとビリジアンの声が重なる。はあ、と本気で残念がって溜息を落とすエルンストを揶揄うように、黒猫がにゃあともう一度鳴いた。
◇
その後のエルンストは多忙を極めた。
約一ヶ月、長期の療養休暇(適当な病名をでっち上げられていた)を取っていたことにされていたエルンストは、翌日から早速仕事に復帰した。するとどうだろう、自分の任されている部署の面々が、揃って半泣きでエルンストが戻ってきたことを歓迎するではないか。エルンストのことを何かと邪険にしてきた奴らまで揃って、だ。何事かと目を疑ったが、自分が急に不在となったあと、全く仕事が回らなくなってしまったらしい。曰く、エルンストが肩書きだけではなく、きちんと仕事をしていたこと、それも自分たちではカバーできない質と量をやってのけていたことに、漸く気付いたのだとかなんとか。
エルンストの上辺ではなく、技量や才能を認めて貰えるのは本当に有難いことなのだが、積まれた仕事の量が半端ではなく、笑えない。
エルンストはそこから数週間、馬車馬のように働いた。周囲の風当たりが柔らかくなったお陰で、心労は以前より少なく、働きやすかったのは間違いない。けれど尋常ではない仕事量がそんなプラスの効果を完全に凌駕していた。
唯一救いとなったのは、実家に行けばミネルヴァが迎えてくれるということ。エルンストは既に実家を出て会社近くのマンションで一人暮らしをしていたのだが、ミネルヴァ会いたさに足繁く実家の屋敷に通った。あまりにも通いつめた上、場所も時も選ばずエルンストがミネルヴァをぐずぐずに可愛がるので、見かねたクラーラがそのうちふたりの同棲を許可してくれた。婚前交渉なんてハレンチだ! と騒ぎ立てる烏を実家に置き去りにし、その後エルンストは、大学の研究室に戻って研究を再開したミネルヴァとともに、婚前の蜜月を存分に堪能したのだった。
◇
かつて、黒い森の端だったところ。そこに今はシュヴァルツヴァルトの持つ敷地があり、本家の屋敷が立っている。その裏手に座標を繋げた、古ぼけた魔術師の隠れ家。約百年前から時を飛び越えてきたその家は、今もひっそりとそこに残されたままだ。
隠れ家に住み着いた緑烏と、そこへ遊びに来た老婦人、そして黒猫が、室内で卓を囲んでいた。
緑烏はエルンストの体内魔力が尽きるまで――すなわちその命が尽きるまで、ここに居着くことを決めたらしい。
体内魔力が比較的多いエルンストでさえ、ちっぽけな魔法を使うだけでへとへとになるような世界。大気中に満ちる魔力が根こそぎなくなったこの場所で、ビリジアンが使い魔として出来ることなど大してないのだが、エルンストの作る料理は割合気に入っているし、この世界の甘味を粗方貪ってから帰るのも悪くはない、という考えであるようだ。
『それにしたって、オマエ、スゴい執念だよな』
紅茶の良い香りが漂う中、ビリジアンがクッキーをつつきながら呆れたように言う。クラーラがそれを聞いてさも面白そうに笑った。
「執念。本当にそうだわね」
『そこまでしてあのふたりを見ていたいのか?』
ただ人目も憚らずイチャイチャしてるだけだろ、というのは、ビリジアンの烏的な主観によるものなのだろう。クラーラが紅茶のカップを傾けながら笑みを深めた。
「見たいのでしょ。曰く、人生の推し、よ」
『本当に変なニンゲンだよ、オマエ』
ビリジアンの言葉に取って返したのは、この場にいるたったひとりの人間、クラーラではなく――、
『変でも人間でもないんだが?』
髭をぴん、と立て、ニヤリと笑った黒猫であった。
『ここまでお膳立てしておいて、ハッピーエンドを見られないなんて、そんなあんまりなことってある? 私は絶対にそんなの嫌だったからね。孫の使い魔にだってなるってものさ』
ビリジアンとクラーラが、呆れたように溜息をつく。
『大体、ニンゲンが使い魔になること自体メチャクチャだ。どんな禁術を使えばそうなる?』
『昔の魔術師様は偉大だよなあ。際どい魔術研究を山ほどしててさ。興味半分、知識として得ていた私も、流石に使う日が来るとは思ってなかったけどね。まさか魔術師人生の最後が禁術祭になるだなんて、何があるか分からないもんだよなあ!』
あっはっは、と黒猫は大口を開けて笑う。
『私の潤沢な体内魔力量を持ってしても賭けのような術ではあったけど。いやあ、上手くいって本当に良かった。お陰で今、私は最高の気分だ。悔いはない』
「動機はなんであれ、ジュールお祖母様がシュヴァルツヴァルトにいて下さったのは助かりましたわ。ビリーは森に残ってしまっていたし、ことの詳細が分かるものがシュヴァルツヴァルト側に誰もいない状態では、手配がもっと大変だったでしょうから。それこそ、エルに伝えるあの歌に始まってね」
『裔は三番までしか覚えてなかったみたいだけどね。あんなに何度も歌って聞かせたのにな』
『そうだ! ジュール、オマエ話が違うぞ! 偉大な使い魔としてオレサマを後世に語り継ぐとか言ってなかったか!? 全然伝わってねェじゃねェか!』
ビリジアンがギャアギャアと騒ぐが、黒猫――ジュールはすまし顔だ。
細かいことは何だっていいのだ。シュヴァルツヴァルトが幸福に存続して、エルンストとミネルヴァが隣り合って笑っている。その結果が得られたのだから、稀代の魔術師の名に恥じない行いが出来たとジュールは自分に胸を張っている。
ビリジアンに叱られたり、孫であるクラーラに呆れられたところで、痛くも痒くもないのだ。
『ああ、楽しみだなあ。エルとミニーの結婚式! いつだっけ?』
「来月ですわ。……流石に猫は連れて行けませんわよ」
『良いとも。忍び込むさ。ね、ビリー』
目を細めるジュールに、ビリジアンも満更ではなさそうに頷いた。クラーラが長い息をつく。
「感づかれないようにお気を付け下さいね。我が孫ながらエルは聡い子ですし。それに」
『それに?』
ぴょこんと耳を立てるジュールに、クラーラが嗜めるように言い含めた。
「多分あの子、ジュールお祖母様のこと、目の敵にしていましてよ」
『……、……なんで!?』
◇
エルンストとミネルヴァの結婚式は、あの黒い森から帰還して四ヶ月後に執り行われた。人前式の挙式で、家族や近しい友人だけを呼び、屋敷の庭園にて行われる運びとなった。
小規模の挙式としたのは、エルンストやミネルヴァの仕事関係者が膨大かつ大層な面子になりそうだったのが大きな理由で、そちら向けには後日別に披露宴を行う予定になっている。
シンプルながら美しい花嫁姿となったミネルヴァと、スマートにタキシードを着こなしたエルンスト。ふたりの視線は――特に新郎側の視線は特別に甘く、ふたりの仲睦まじさを否応なしに感じさせた。
ジュールがミネルヴァと交わした旧い契約。彼女を過去へ攫ってシュヴァルツヴァルトに協力させる代わり、シュヴァルツヴァルトの裔息子を、彼女の未来を幸せへと導く旦那様とする。遂に、それが叶うときが来た。
そうして、ふたりが厳かに誓いのキスをしたときだった。突然、青空から言祝ぐように白い花びらが落ちてくる。見たこともない白い花は、参列客を騒然とさせた。サプライズと誤魔化すにも無理のある演出だ。
『しまった、契約満了のオマケ術式のこと、忘れてた……』
ざわめきの中そう呟いた黒猫を、エルンストが目ざとく見つけてしまうのだが――。幸せいっぱいの結婚式を語るには、些か無粋な話題であろう。
最後はこう締めくくるべきだ。
――こうして時を駆けついに結ばれたふたりは、いつまでもいつまでも、幸せに暮らしましたとさ。
おしまい。
最後までお読みいただき、有難うございました。