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ミネルヴァ・ハミルトンの帰還

Side Minerva.

 ミネルヴァはふと目を覚ました。何だかいつもより動きづらく、けれどもあたたかい寝心地にもう一度うとうとしようとして――目の端に艶やかな黒がちらついた瞬間、一気に意識が覚醒した。

 目の前に、エルンストの寝顔がある。少し長い前髪がさらりと額から瞼、耳にかけて流れていて、艶めかしさに拍車をかけている。目に毒、と視線を下げると今度は男であることを意識してしまう喉仏がよくよく見え、慌てて更に下げると綺麗な線を描く鎖骨と、その下になんと黒子までも見つけてしまって、ミネルヴァは声にならない悲鳴を上げながら動揺を極めた。


 ――えっち。えっちすぎる。この旦那様。


 ふうふうと全力疾走でもしたかのごとく上がった息を落ち着けながら、ミネルヴァはもう一度エルンストを盗み見た。よく、眠っている。寝顔までこんなに色っぽくて綺麗だなんて、反則だ。

 魔術紋に魔力を注ぎ込む行為自体にはあまり肉体的な負担はないとエルンストは言っていたが、夜中どころか朝方近くまで起きてミネルヴァのことを可愛がり続けていたのだ。余程疲れたに違いない。

 ミネルヴァの方は途中で何度か意識を飛ばした気もするし、元々ショートスリーパーの気もある。数時間はぐっすりと寝られたので、一先ずのところは問題なさそうだった。


 起こさないようにそっと寝台を出る。打ち捨てられた寝間着を上だけ申し訳程度に被ると、部屋を出て脱衣所へ急いだ。寝ている間に首にかけられていたらしい秘宝を回路に向けてかざすと、残存魔力で一時的に魔導式の道具たちが動いてくれる。手洗いを済ませ、浴室に湯を張る準備をして、ふう、とミネルヴァは洗面台に手をかけて息をついた。


 目線を上げると、鏡に映った自分と視線が合う。その胸元に暫く刻まれていたあの魔術紋は、跡形もなく消えていた。その代わり、執拗に付けられた赤い鬱血痕が、鎖骨と胸元の辺りに幾つも――本当に幾つも、薔薇の花びらでも撒いたかのように散っている。


「うぁぁ……、あ……」


 視覚であったことを再確認してしまったミネルヴァは、その場にずるずるとへたり込む。熱を帯びた頬を両手で覆い隠し、目を強く瞑る。

 暗くなった視界には昨晩の光景が浮かんでは消え、ミネルヴァが後悔したのは言うまでもない。





 緊張しながら薄暗い廊下を手を引かれて歩いた昨晩。部屋に辿り着いた途端、王子様のように跪いて指環をはめられ、指を舐められ耳を舐められ胸元を舐められ、更にはそれまで無言を貫いていたエルンストに、開口一番「好きだよ」と告白を重ねられ、――ミネルヴァはこの時点で本当に死んでしまうかと思った。

 指環は魔力酔いを防ぐ道具だったし、執拗にあちこちを舐めていたのは唾液接触による魔術紋の反応を確認していたからだったのだが、言われるまでミネルヴァがそんなことに気付く余裕があるはずもなかった。


 見つめてくる瞳はいつもと同じブルーグレーであるはずなのに、熱に溶けた金属のようにどろりと蕩けていた。間近で肌に感じた吐息は灼けるように熱い。時折聞こえてくる声はいつもよりずっと低く、掠れていた。普段の理知的なエルンストは、そこにはいなかった。


 壮絶な色香を漂わせたその男に否応なく魅せられたミネルヴァは、されるがままに身を任せてしまった。身体中に触れられ、隅々まで丁寧に暴かれた。


 特に口腔内を弄る深い口付けは執拗で、ミネルヴァが酸欠に喘ぐまで休みなく続いた。勿論、唾液交換という魔力譲渡の条件を満たすため、というのが大きな理由ではあっただろうが、それだけではなかったようにも思う。魔力を注ぎ込むというのなら、ミネルヴァがエルンストの唾液を飲まされるはずなのに、エルンストの方がミネルヴァの口の中を舐め取り、吸い上げ、啜ってばかりいたのだ。話が違いすぎる。


「ミネルヴァはどこもかしこも甘い。お菓子みたいだ」


 そう呟き、濡れた口元を拭って笑顔を蕩けさせたエルンストの表情といったら、もう、ない。ミネルヴァが蛙が潰れたような悲鳴を上げずに済んだのは、ただただ息も絶え絶えだったお陰である。


 いつの間にか椅子からベッドへ場所を移し、ふたりとも着衣のままで、深く、時に浅く口付け続けた。

 体感で一時間ほどが過ぎ、ミネルヴァだけではなくエルンストの呼吸も浅くなってきた頃、エルンストが「これで半分」と溜息混じりに囁いたのをぼんやりと聞いた。半分ということは、この口付けを同じだけ繰り返すのか、とミネルヴァは愕然とし更に気が遠のいたのだが、エルンストはというとそうはしなかった。休憩とばかりにゆっくりと水を口移しで飲ませたあと、何とミネルヴァの寝間着をあっという間に脱がせ、ベッドの外へと放り投げたのだ。そして、ミネルヴァが驚く隙も与えず、エルンストは思うさまミネルヴァの肌を舐め上げ始めた。効率よく魔力が注げる場所――今までしつこく貪っていた唇や魔術紋には絶対に口付けずに。

 そう、始まったのは、完全なる時間稼ぎであった。


 そこから数時間――ミネルヴァがぐずぐずに溶けて意識を何度か失うまで、エルンストはミネルヴァを愛で続けた。

 しかして、エルンストが婚前交渉(セックス)に当たる行為に及ぶことは決してなかった。

 ――なかったが、なかったと言えるのか? と疑問を覚える程度には、何もかもを味わわれてしまった。恥ずかしいとか、やめてほしいとか、そういう気持ちを凌駕して、エルンストに与えられる行為すべてが()()()()

 ミネルヴァの世界が、エルンストという男の存在が、すっかり塗り替えられてしまった一夜となったのだ――。





 そして、この朝である。

 ミネルヴァは伏せていた顔を上げ、勢いよく立ち上がると、悶々とする気を散らそうと、ばしゃばしゃと冷たい水で顔を洗った。胡桃色の髪に水が散って、ぽたぽたと雫が首筋を伝い落ちる。それを乱雑にタオルで拭って、はふりと息をつき、ミネルヴァは湯が溜まるまでリビングでお茶でも飲もうと、のろのろと後ろを振り返った。


「――っ、……!!」


 半裸の男が、いつの間にか脱衣所前の廊下の壁に寄りかかり、自分の方を無言で見つめていた。いつからそこにいたというのか。ミネルヴァはタオルで口元を覆ったまま立ち尽くす。


 エルンストはふわりと笑った。とても満たされた、柔らかい笑み。ミネルヴァはエルンストを前にした気恥ずかしさも忘れて、思わずその表情に見入った。

 エルンストの唇が動く。おはよう、――と。


「朝からいい眺めだね」

「……、……え、」

「お風呂溜めてるの? 一緒に入ろう」

「……え、…………え!?」

「入ってる間に万が一石の中の魔力切れたら困るでしょ。俺がいれば魔力切れの心配はないし」

「……え、…………そ、……そっか……?」


 混乱するうちに畳み掛けられたミネルヴァは、思わず納得しそうになるが、いやいやと思い直して首を振る。

 おかしい。何かが絶対におかしい。


「ふは。流石に騙されてはくれない?」

「エルっ!!」

「ごめん、ずるい言い方した。ただ俺が一緒に入りたかっただけ。……ダメ?」


 エルンストがこてん、と首を傾げて、目を細める。

 ミネルヴァは唸った。何だこの男。こんな魔性の男が、自分の旦那様になるなんて、ミネルヴァは今後無事に生きていけるのだろうか。

 跳ねて暴れ狂う鼓動を押さえつけながら、絞り出すように答える。


「………………だめ……」


 ちぇ、と舌を打った旦那様は、拗ねるでも不貞腐れるでもなく、ひたすら機嫌良さそうに笑っていた。




 結局風呂にはミネルヴァが先に入ることになった。


「その格好じゃ眺めはいいけど冷えちゃうでしょ」


 そう言われてはじめて自分の装いを見直したミネルヴァは、服の裾を引っ張って身悶えた。慌てて上衣だけかぶって部屋を出てきたものだから、下衣はおろか、下着も身につけていない。やや長めの丈だから見えているのは太ももの半ばから下ではあるが、エルンストのことだ、ミネルヴァが一枚きりしか着ていないことなどお見通しだろう。

 羞恥に苛まれまごまごしていると、部屋から取ってきていたらしいシンプルな黒いTシャツをかぶりながら、エルンストが意地悪く笑い、


「のんびりしてるともう一回味見しちゃうけどいい?」


 などと言い出したので、脱兎のごとくミネルヴァは脱衣所へと逃げ込むと、厳重に扉に鍵をかけて閉じこもったのだった。




 一晩の名残をひしひしと感じる身体を湯で洗い流し、面倒がっていつも洗濯機()()()の上に置きっぱなしにしている着替え一式に袖を通す。


 そろりと脱衣所から顔を出したミネルヴァを迎えたのは、珈琲の良い香りだった。ダイニングの方へ足を向けると、エルンストが昨日のうちに取り出しておいた腐りにくい食材で軽食――サンドイッチを作っておいてくれたという。なんてできた旦那様なのだろう。空腹だろうから先に食べていてと言われたが、ふたりで一緒に食べたくて、珈琲だけ飲んで待っていると伝える。エルンストはそれだけのことに、とても嬉しそうな様子で破顔した。




 すぐ戻るという言葉通り、十分少々でエルンストはダイニングに戻ってきた。生乾きの髪からはまだ時折雫が落ちてきていて、それだけでも雰囲気に呑まれそうなのに、鬱陶しそうにそれをかき上げたりするから尚のこといけない。お待たせ、食べよう、という明るい声が全くそぐわない。どこからその色香が出てくるのか。恐ろしすぎる。

 思わず唇を引き結んだミネルヴァを数秒不思議そうに見つめたエルンストは、揶揄うことはせずに苦笑した。


「意識しないで、いつも通りにしててよ。そういう反応も可愛いけど、俺も釣られて意識し過ぎちゃうから」


 意外な言葉に、ミネルヴァが瞠目する。


「エルでも、意識するのかい? あんな、息をするようにえっちなことをしまくっておいて?」

「えっちとか言わない。……変なスイッチ入りそう」


 エルンストが渋い顔をしてサンドイッチにかぶりつく。あんまりな表情に、思わずミネルヴァは笑ってしまった。


「意識するに決まってるだろ。……ミネルヴァが、はじめて本気で好きになった相手なんだ。あれでも俺なりに我慢に我慢を重ねて、ギリギリのところで頑張ったんだぞ。煽らないで欲しい」

「……え、いま、なんて……」


 幾つかとんでもない言葉を聞いたような気がする。ミネルヴァのサンドイッチを持つ手が止まる。


「……言わなかった? ミネルヴァが多分、俺の初恋」


 ごん、と鈍い音を立てて、ミネルヴァの額がテーブルに沈んだ。流石のエルンストも急な行動に慌てた声を上げている。

 いま、初恋とか言ったか。この顔、この言動、あの数々の秘め事をもってして。――初恋。


「破壊力が過ぎるよ、旦那様……」


 眼鏡をかけていなくてよかった、流石にあのぶつかり方では割れていた。

 テーブルに沈んだまま、ミネルヴァはそんな場違いなことを考えることで、現実逃避に勤しむのだった。





 こんな状態で食べても味がしなくなってしまうのではないかと危惧したが、結果としてサンドイッチはとても美味しかった。流石は旦那様である。

 起きるのが遅かったこともあり、時刻は既に昼に近づいていた。近寄るなと厳命を受けているビリジアンも、そろそろ痺れを切らしていることだろう。食後のお茶を楽しんだところで、そろそろ出ようか、とミネルヴァが席を立つ。

 この家の玄関扉も魔導式なので、魔力がなければ当然開けられない。さて秘宝をかざそうかとミネルヴァが首飾りを手に取ろうとしたところで、するりとエルンストがその役目を取り上げてしまった。


「あっ」


 瞬く間にジーンズのポケットにそれをねじ込んでしまったエルンストが、とん、とミネルヴァの肩を軽く押す。扉に背をついたミネルヴァは、そのままエルンストの腕に囲い込まれた。


「その前に、少しだけ」


 身を屈めるようにしてキスをされる。頬を掠める彼の黒髪がくすぐったい。すぐに唇をこじ開けるように厚い舌が割り入ってきて、ミネルヴァはくぐもった声を上げた。エルンストはお構いなしだ。舌先で上顎を擦り、頬肉の裏側を辿って、引っ込んでいたミネルヴァの舌を誘い出すようにちゅうと吸い上げる。


「んっ、……んぅ」


 昨晩と同じように音を立てて唾液を啜られ、ミネルヴァは身じろいだ。まざまざと脳内に昨日の出来事が思い返され、羞恥と浅ましい期待で鼓動がばくばくと速まっていく。膝の力が抜けてしまいそうで、必死にエルンストの首に縋り付くと、ふ、と吐息を漏らすような気配とともに腰を強く抱かれた。


「っは、……エル、……!」

「……まだ欲しい、()()()

「んゃ、……だめ、っん、ん……」

「ここを出たら、暫くこんな風にふたりきりになれない気がするから……、ね、もうちょっと……」


 キスの合間を縫うように、甘えた声でエルンストが言う。ミネルヴァの思考が流され、溶かされていく。まずい。非常にまずい。


 エルンストが飽きもせずミネルヴァの舌を絡めとり、くちゅくちゅと音を立てて互いの舌を擦り合わせる。何度も何度も執拗にそれを繰り返されると、頭がどうにかなってしまいそうだ。これで最後とばかりにぢゅう、とその舌先を吸って、ようやく僅かに顔が離されると、どちらともない唾液が行為を惜しむように糸を引いた。


「……こんな顔のミネルヴァを外には出せないな」


 エルンストが目を眇めてそんなことを言う。

 ――誰のせいだ、誰の。

 ミネルヴァは息を切らせながら赤い顔で精一杯睨みつけた。エルンストには大した効果はなかったようで、静かな笑みを浮かべてミネルヴァを離さない。


「ごめん、でも本当に誰にも見せたくない顔してる。……どう、気持ちよかった?」

「きっ……」

「ミネルヴァのいいところ、もっと教えて。あーやっぱ駄目だな……一晩とか無理だ。三日くらいこうしてたい」


 エルンストのブルーグレーの瞳には既に熱が燻っている。擦り寄るようにまた顔が近付いてきて、ミネルヴァの涙の滲んだ目尻をぺろりと舐めた。腰を抱いていた掌は、ゆっくりと背中を這うように撫で上げられてゆく。ぞくぞくと背筋を駆け抜ける快感に、思わず奥歯を噛み締めた。

 流される、もう絶対に流される。

 ミネルヴァが抵抗の意思を放棄しようとしたそのときだった。


『オイ!! エル!! 三日とかいい加減にしろよ、オレサマもう待たねェ!! サッサとココを開けろーッ!!』


 大音量で文句を叩きつけられ、エルンストの動きがぴたりと止まる。

 流石に興を削がれたらしい。長い長い溜息とともに一度だけミネルヴァをぎゅうと抱き締めたエルンストは、本当に残念そうな声色で、続きはまた今度、と囁いた。

 心臓が本気でもたないので、その今度はできれば当分先にしておいてほしい。

 ミネルヴァが赤い頬を冷まそうと手の甲を当てて息を落ち着けていると、エルンストがミネルヴァの体越しに玄関扉に手を伸ばした。指先をとん、と当てるようにして、何かを探るように真剣な眼差しを木製の扉に向ける。どうやら、魔力を扉に注いでくれているらしい。

 そのうち、行ってらっしゃいませ、という聞き慣れた機械音声がして、錠が外れる音が続いた。


 エルンストが扉を開けてくれる。

 最早見慣れた森の風景は、そこにはなかった。

 森と呼ぶには些か寂しかろう木々の先には、大きな屋敷が見える。そしてその屋敷の向こうには、もうどこか懐かしくも思える、高い建物の入り交じった()()()()()街並みがあった。

 ミネルヴァの目が見開かれる。


「本当に、帰ってきたのか――」




 工学博士ミネルヴァ・ハミルトンが、三年ぶりに――実際には約百年ぶりに、生まれ育った時代へと帰還した瞬間であった。

次回、最終話。

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