紫色の魔術紋を紐解く蜜月
ビリジアンの言うところの蜜月というのは、単に仲睦まじく過ごせ、という範囲に収まる話だったらしい。一足飛びにそこまでしろと誰が言った、と喚かれたものの、あの言われ方で早とちりしない方が難しいと思う。
どの体液が効率的ということはなく、今回の注ぎ込む魔力量を考えれば、長時間に渡って唾液交換――すなわちキスを続けるのが一番良いのではないか、という話だ。その長時間がどの程度になるかは、エルンストの魔力放出能力に左右されるのだとか。
『アイスクリーム作りの様子を見るに、予想より早く済むかもしれないな。――ともあれ、オマエたちが番になったならそれは何よりだ。魔術紋のある位置を考えても、番同士で行うべき術式だからな!』
「位置?」
思わずミネルヴァに視線を寄越す。しかし、真っ赤な顔で半分パニック状態のままでいるミネルヴァは、心ここにあらずで、話の内容が耳に入っている様子ではない。
『心臓の少し上の辺りだ! そうだよな、ミニー?』
「ぅえっ? え、あ……、うん、ええと、そう。ここ、だね」
名を呼ばれてようやく肩を弾ませたミネルヴァは、豊かな胸元の中心、鎖骨の合間、谷間の辺りに細い指を置く。そういえば、初めて会った時に、無防備な寝間着からタトゥのようなものが見えていたな、とエルンストは思い返した。
「魔術紋にも触れる必要が?」
『その方が効率的だ』
――効率的、ね。
エルンストは目を眇めてビリジアンの言葉を頭の端に置くと、更に問いを続ける。
「あと、この間みたいにキスした途端に倒れちゃうのはちょっと困るんだけど」
『対策があるって言ったろ。ジュールが用意した、魔力酔いを防ぐ道具がある。電話四番を掛けてくれ!』
ビリジアンに言われて電話を繋ぐと、烏は勝手知ったる様子で受話器に何事か吹き込んだ。これでリビングの例の箱の中に届いているはずだろう。
『もう何も聞いておくことはないか?』
ビリジアンに言われ、ミネルヴァが小さく頷く。
エルンストはというと、あともうひとつだけ、と前置きして、大真面目な顔で続けた。
「必要量より多く蜜月を過ごすことに問題は? 俺、ミネルヴァがどろどろに溶ける限界まで堪能したいんだけど」
「『――エルッ!!』」
エルンストとしては、こればかりは非難されても取り下げる気のない質問であった。何故なら、そんなに長時間好きな相手を貪れと言われて、そのまま大人しく引き下がれる自信が全くなかったからだ。
ミネルヴァに向ける己の行動を振り返っても、理性でどうこうできる範囲に限りがあるという自覚がある。思い切りぶん殴られでもしなければ、絶対に止まれない。最後まではしないにせよ、隅々まで暴いて口付けるくらいまでは許されたいところだ。
結局、問題はないらしいという回答を得るまでに、ビリジアンには散々な言われようで貶される羽目になったし、ミネルヴァには可愛らしくそっぽを向かれてしまったわけなのだが、致し方ないことだろう。
◇
「世界に満ちたる奔流よ――」
指先を青い石に当てて、教わった秘密の呪文をゆっくりとなぞる。
先ほどは部屋全体を意識して唱えたが、石だけに集中して魔法を使ってみると、発動自体もスムーズだし、魔力のうねりのような反応もずっとスマートで機敏だ。部屋を風で荒らすようなこともなく、石のすぐ近くにだけ目に見えない渦が展開されている。
『その状態を保持だ、エル』
「まさか、三時間?」
『そのマサカだな!』
たまに意識を向ける程度でも問題はないというが、火にかけたままの鍋を気にしながら他のことをするような感覚だと考えると中々に面倒ではある。この家での最後の晩餐は電話三番に頼ることになりそうだ。
「魔導式のご飯も食べ納めになるし、いいんじゃないか? 勿論エルの作ったご飯を食べたいのは山々だけど、……その」
「?」
「……これからもエルのご飯は、いつだって食べられる、……だろう?」
エルンストは心の中で唸った。ミネルヴァはエルンストを喜ばせるのが上手すぎると思う。
「いくらだって、どんなものだって……作るよ」
目を泳がせながら口元を隠して言うと、ミネルヴァが嬉しそうに笑う声が耳を擽った。
電話三番で出てきた夕食は、この家に居候している間に何度かお世話になったハンバーグだった。相変わらず可もなく不可もないデミグラスソース味。ふたりは淡々と食べ進めていたのだが、ビリジアンがぽつりと『エルのメシの方が美味い……』などと呟くものだから、顔を見合せて笑ってしまった。
その後はミネルヴァが先、エルンストが後の順で湯あみをし、互いに寝支度を調える。その間もエルンストは魔法を維持し続けねばならず、ずっと気もそぞろな状態だった。ミネルヴァがどんな顔をしてその夜を過ごしていたのか、本当はもっとじっくり見ていたかったのだが、そんな余裕は皆無であった。
丁度エルンストが風呂上がりに水分補給をしているころ、ぷつりと魔法の気配が消えた感覚がした。続いて、結界の割れる音が微かに響き、途端に部屋の明かりが落ちる。ミネルヴァの驚いたような声が小さく聞こえた。エルンストは前もってポケットに入れていた手元灯に魔力を通すと、ミネルヴァの元へと急いだ。
ミネルヴァは青い石の光を利用し、用意しておいた蝋燭に火を灯しているところだった。カンテラに蝋燭を移すと、柔らかな光に部屋の中がほんのりと照らされる。不安と緊張に揺れるその表情に、静かに微笑んで返した。
「……行こうか」
エルンストが手を差し出すと、無言のまま頷いたミネルヴァが指先を重ねた。
◇
エルンストは、この一夜に関してビリジアンにふたつ厳命を下していた。
ひとつ、今夜は一晩、森で過ごすこと。何があろうとこの家の中には決して入らないこと。
ふたつ、結界が解除され、万が一シュヴァルツヴァルトの者が訪ねてきても、明日の昼までは家の中へは通さないこと。
ひとつ目は特にごねにごねられたが、甘味を大量に積むことで一応の合意を得た。扱いやすい使い魔で良かったなとしみじみ思う。
ビリジアンによると、ミネルヴァの魔術紋が完全に消えれば術式は完了となるそうだ。試算だと青い石に集めた魔力で余りあるとのことだったが、時間に関しては先にも言われた通り読めないところがある。
◇
しん、と静まり返った廊下を行き、エルンストは自室に宛てがわれた部屋へとミネルヴァを招き入れた。結局殆どものを入れなかった室内は閑散としていて、大きな寝台がいやでも目に付いてしまう。いきなりそこへ引き連れるのは流石に余りにも無粋というもの。エルンストはミネルヴァにベッド傍に寄せていた例の椅子に座るよう促すと、カンテラをサイドボードに置く。そして、自らはというと、すとんと座るミネルヴァの前に片膝をついた。
ミネルヴァは酷く驚いた顔をしていた。今から何が起こるのか、さっぱり予測が付かなかったのだろう。
エルンストは、寝間着のポケットから小さな箱を引っ張り出して、ぱかりと片手でその蓋を開けた。中には精緻な模様が刻まれた、ピンクゴールドの指環が収められている。
箱から指環を抜き取り、ミネルヴァの細い右手を取る。大きさからして薬指に間違いない。これを用意した抜け目のない魔術師に心底苛つくが、そんな表情を今の彼女にだけは向けたくなくて、貼り付けた無表情の奥にそっと隠した。ゆっくりと指環を通していく。関節の部分を殊更丁寧にくぐらせ、根元までしっかりとはめ込むと、ミネルヴァの指の付け根をつう、と親指の腹で撫でてから、顔を上げた。
ミネルヴァは真っ赤な顔で自分を見下ろしている。目元が潤んでいるのが、薄暗がりでもよく分かった。
エルンストは、何も言わない。その代わりに、指環を食むように口付けた。金属にほんの僅かな唾液が触れると、ほわりとミネルヴァをあたたかい何かが包み込む。
なるほど、これが魔力酔いを防ぐ術式。
そのまま、エルンストは指先に向けて唇を這わせていく。綺麗に切り揃えられた小さく丸い爪を舐め、指先を含んでちゅうと吸い上げた。ぴくりと身体を震わせはするものの、特にミネルヴァが倒れ込むような様子はない。きちんと魔術は発動しているようだ。
この指環を収めた箱に添えられていた手書きのメモの内容を思い返す。身につけた対象が術式を展開した相手の魔力に当てられないようになること。その為には指環に術者の体液を触れさせる必要があること。そして、嫁いでゆく子を見送る親のような気持ちでこの指環を彼女に贈ることを、照れくさいからミネルヴァには内緒にしておいてほしいこと。
それほどに、ミネルヴァはジュールに愛されていたのだと思えば、妬いても仕方のない相手に、やはり何だか妬けるような気持ちを抱いてしまう。当てつけとばかりに右手の薬指を選んだのはそのためだ。左手の薬指には、エルンストが用意した指環を嵌める――こればかりは絶対に譲れなかった。
「エル……」
今にも泣きそうな声で、ミネルヴァが自分の名を呼ぶ。視線だけで応えると、ミネルヴァが不安そうに吐息を零した。
「なにか……言ってくれ……」
沈黙に耐えきれなかったらしい。何とも初心で可愛らしい奥さんにふ、と微笑み、エルンストは椅子の座面、丁度ミネルヴァの太もものすぐ真横に手を置くと、ぐんと伸び上がった。ペリドットの潤んだ瞳が視界いっぱいに広がる。カンテラの優しい光をきらきらと吸い込んで、まるで星屑を撒いたようだ。
「好きだよ」
長い沈黙の果てに、エルンストがそんなことを言うとは思っていなかったのだろう。ミネルヴァの瞳が戸惑うように揺れている。
エルンストは笑みを深めた。
「可愛らしくヤダって言っても止められないから。本当につらいときは、引っぱたいてね」
魔術紋がミネルヴァの身体に何か影響しないとも限らない。エルンストは当然注視するつもりであったが、理性が焼ききれてしまえばそれも完遂できないかもしれない。
引っぱたくなんて、無理だよ――と、か細い声で応えるミネルヴァの胡桃色の髪をすくい上げるように指を差し入れる。赤く染まった、果実のように熟れた耳が見えた。
エルンストは、もう少し椅子の方へ体重を掛けると、本能に抗わずその耳を舐めた。唾液を擦り込むように執拗に凹凸をなぞり、ふう、と息を吹きかけてから、指は耳を弄ぶよう残したまま、今度は唇を頬へと滑らせる。
まろい頬は柔らかく、甘い香りがする。ちゅ、ちゅく、とわざと音を立ててキスを降らせながら、赤く色づく唇の端へと辿り着いた。
そのまま口付ける――ことはせず、思わせぶりに舌舐りをしてから顔を少し離す。視線は合わせぬまま、下――胸元へと向けた。
ミネルヴァの寝間着の襟首は広く開いた形をしていて、鎖骨と胸の谷間が惜しげもなく晒されている。その眩しいまでの造形美の合間、そこに例の魔術紋がある。紫色の複雑な紋様。ぼんやりと光っているようではあるが、左右対象の形に欠損などは見当たらない。
エルンストは自分の指をひと舐めしてから、そっとその紋様に添えた。滑らかな肌にエルンストの濡れた指が艶めかしく這い回る。特に魔術紋に反応はない。
今度は顔を寄せてべろりと舐めあげる。鎖骨を食み、谷間に口付けて、執拗に魔術紋を舐った。
数分に渡りそうしていただろうか。てらてらと濡れる白い肌、その艶かしい視界の端で、紋様の一番端が少しだけ薄く欠けてゆくのを認めると、ようやくエルンストは顔を上げてミネルヴァの双眸へと視線を向けた。
ミネルヴァはといったら、真っ赤な顔で浅い呼吸をふうふうと零し、目は今にも雫が落ちそうなほどに潤ませて――つまり、エルンストを煽りに煽るような顔でこちらを薄目に見下げていた。思わず背筋がぞくりと震え、エルンストは自分の情けなさに笑ってしまう。はじめからこんな様子で、理性なんていつまでもつのだろうか。
エルンストはうるさい鼓動を宥めるように深呼吸してから、できるだけ優しくミネルヴァに語りかけた。
「ミネルヴァ」
「っひゃ、い」
「魔術紋に触れないできみの肌を舐めても、殆ど変化がなさそうだったから……今、魔術紋だけを狙って舐めてみたけど」
「……う、うん」
そこまで聞いて、ミネルヴァはエルンストの行動の意味を理解したのだろう。少し落ち着きを取り戻した様子で頷いた。
「数分かけて、消えたのはこれだけ」
濡れた肌をエルンストの指がなぞると、思わずといった様子で甘い声がミネルヴァから上がった。途端、腰が重くなる感覚がして、正直過ぎる身体の反応にエルンストの眉根が寄る。なけなしの理性を叱咤して、何とか気を紛らわせようと一度ぎゅっと目を瞑ると、再度ミネルヴァへと視線を向け直した。
「頑張れそう? ミネルヴァ」
「う……、」
悩ましげな熱い吐息。ミネルヴァの指がエルンストの肩口あたりのシャツを不安げに握る。
仕草がいちいち可愛いな、と悪態をつきたい気持ちを堪えて、エルンストはミネルヴァの言葉をじっと待った。
「エルの色気が凄すぎ……て……。――心臓が壊れて、死にそう」
本当に死にそうな顔色で言うので、エルンストはふは、と声を上げて笑ってしまう。
「……嫌じゃない?」
「大、丈夫」
「じゃあ、次はオトナのキスをしてみよう。その反応を見て、どうやってミネルヴァに触れていくか決めるね。いい?」
ミネルヴァがこくりと頷いて、それから、こう問い掛けてきた。
「……わたしの旦那様は、どうしてこんなに慎重に様子を見ているのかな? 何か、心配ごとがあるの?」
魔術紋が自分の身体に仕掛けられている代物ということもあり、ミネルヴァとしては不安も一入なのだろう。エルンストの確認を重ねるようなやり方に思うところがあったに違いない。
エルンストは正直に答えた。
「あるよ。俺の理性が最後までもつかどうか測りかねてる」
「え、……えっ?」
「既にもたない気がして困ってるんだけど……」
「え、ええ……?」
ミネルヴァが虚をつかれたかのように戸惑いの声を上げる中、エルンストは続ける。
「キスだけで止まれなかったら、ごめんね」
薄らと微笑んで、エルンストはミネルヴァの頭を撫でるように手を伸ばし――そして、今度こそ遠慮なく貪るように口付けた。