青い宝石と秘密の呪文
青い宝石、首飾り、シュヴァルツヴァルトの大事な秘宝。森に残った魔法のかけら、集めてひとつに閉じ込める。
紫色の魔術紋、シュヴァルツヴァルトの魔女へと宿る。最後の魔術を紐とこう。魔女と裔とが紡ぐしあわせ、いつまでも、――いつまでも。
◇
ビリジアンの語るところによれば、まずシュヴァルツヴァルトの秘宝――青い石の首飾りにこの結界内に満ちた残りの魔力全てを収める。
そして次に、その魔力を用いて、ミネルヴァに施された現代に存在を繋ぎ止めるための複雑な術式を発動させる。
これが今後の成すべき手順ということのようだ。
『魔法ならともかく、魔術はエルみたいなチンチクリンの魔術師には使えねェ。だから、ミニーの魔術紋はあと発動するだけのギリギリのトコロでストップされてる状態だ』
「ちんちくりん……」
勝手に魔術師に仕立てあげておいて、散々な言いようである。半眼でビリジアンを睨むエルンストをさておき、ミネルヴァがはて、と素朴な疑問を投げかけた。
「魔法と魔術は別のものなのかい、ビリー」
『別だ。魔法はただ単に魔力をエネルギーとして利用するだけだからな、魔力があれば誰でも出来る。けど、複雑なことは魔術――術式を編まないとできない。膨大な知識と確かな経験が必要だ。魔術は研鑽した魔術師にしか使えない。その点から言うと、エルは正しくは魔術師というか、魔法使いだな!』
ここに来て肩書きが急に可愛らしい響きになってしまった。いい歳の男が頂くような称号ではない。益々エルンストは不貞腐れたが、ミネルヴァが可愛くて良いじゃないかというので仕方なく文句は喉の奥へ飲み下した。
「それで? 魔術紋はジュールの術式があるからいいとして、石に魔力を集めるっていうのは、魔法使いの俺でもできることなんだろうな?」
『マァな! 魔法の中ではチョイとコツがいる部類だけど、オレサマの秘密の呪文があればラクショーだ!』
そこで例の秘密の呪文というのが出てくるのか。エルンストはなるほどと得心した。
そうとなれば善は急げ、だ。
「この森に俺が来てからもうひと月近くになってる。タイプライターの伝言が実家に行ってるとは言っても、これ以上のんびりしているのは得策じゃないよな。早速取り掛かるか」
『そうだな!』
エルンストとビリジアンが頷き合い、一斉にミネルヴァへと視線を移す。よっつの瞳に見つめられたミネルヴァは、びくりと肩を震わせると、そろりと視線を泳がせた。まるで、何か都合が悪いことでもあるかのように。
『オイ、ミニー。秘宝、どこだ?』
「……」
「ミネルヴァ?」
ミネルヴァは暫く黙りこくっていたが、向けられる視線に遂に観念したのか、蚊の鳴くような声でこう答えた。
「…………どこにしまったか、忘れた」
◇
二階の一番奥の部屋。ミネルヴァが研究室と称して、日々篭っていたその部屋の前に、ふたりと一羽は立っていた。結局機会がなく、エルンストもその部屋を訪れるのはこれが初めてだった訳なのだが。
『何だこの惨状は!! ジュールよりヒドイぞ!!』
「し、失敬な! 絶対ジュールよりはマシだ!」
研究用の機械と大きな机――実験台の合間を縫うように堆く積まれた本。机や壁に散乱、或いは乱雑に貼り付けられた走り書きのメモ。回路用の部品や機械をバラしたらしい残骸とともに、罠のように床に散らばる小さな螺子。
正に足の踏み場もない、大変賑やかな部屋であった。エルンストは思わず破顔する。
「ふは、ザ・研究室って感じだ」
「え、エル……」
「引いてない引いてない。研究者の机なんて、みんなこんな感じだろ?」
エルンストの職場でもよく見かける光景だ。研究に夢中になる人たちは、資料や研究物を一見散らかすように適当に配置する。だが、そこには明確な決まりごとがあったりするので、こういうところは本人以外が無闇矢鱈に手をつけてはならないというのもエルンストはよく分かっていた。
「片付けちゃうと、逆に分からなくなるんだよね?」
『ハァ? エル、オマエ何言って……』
「そ、そう! エル、よく、よくぞ言ってくれた! そうなんだよ、この状態だから使いやすいんだ!」
ここに神はいた! とばかりに瞳を輝かせたミネルヴァは、勢いよくこくこくと頷いた。大変に素直で可愛らしい。
しかし、だ。普段ならばそのままで何ら困ることはないだろうが、今回はそうもいかない。この状態の部屋から、ミネルヴァの記憶にない小さな探し物を見つけ出すというのは――。
「やっぱり、片付けるしかないかな……」
「そうだね、今回はそうするしかないかな」
現実的に考えてそれしかない。ふたりがかりでも半日以上はかかりそうだが、地道にやるしかないだろう。
だが、それに反旗を翻す者がいた。ビリジアン、その烏である。
『――そんなまだるっこしいことしてられるかァ!! エルッ!!』
「えっ、なに」
『呪文だ!! 唱えろ、今すぐ!!』
バサバサとビリジアンが羽を動かす。忙しない動きに、壁に貼られたメモが何枚かヒラヒラと床に落ちた。ビリジアンに大人しく従っておかないと、益々部屋が散らかりそうだと見当をつけたエルンストは、分かったと頷いてから一つだけ質問する。
「魔法を使えば分かるの?」
『魔力の動きと石の発光で大体の場所は分かる! 部屋全体にかける分、効率は落ちるがな!』
心配そうに見上げてくるミネルヴァに微笑み、ビリジアンが言う秘密の呪文に耳を澄ませる。アイスクリーム作りの時の適当な呪文とは違う。集中して韻を踏んだ。
「世界に満ちたる奔流よ――」
――芽吹き、花開く、澄み透る息吹よ。仮初の青き褥にて羽を休めよ。眠れ、時の狭間に。揺籃ふるわす言の葉が降り注ぐまで。
カタ、と床の機械が震えた。それをきっかけに、積まれた本の山がひとつ崩れ、壁のメモたちが左から右へと捲れてゆく。まるで、何かが部屋の中を流れているかのようだ。目に見えない何かが、渦を巻いている。
そして、渦のその中心、そこがふわりと本当に仄かに、青く輝いた。
「あそこか。ミネルヴァ、頼める?」
「……」
「ミネルヴァ?」
「はっ、……あ、」
ミネルヴァはぱちぱちと大きく瞬きをしてから、少し照れくさそうに俯いた。
「……ご、ごめん。エル、本当に魔法使いなんだと思って、つい」
頬をかいて笑うミネルヴァに、エルンストにも照れが移る。やはり二十代の男に魔法使いはちょっと、恥ずかしい。
気まずい沈黙を数秒挟み、お互い小さく笑ってから仕切り直すと、ミネルヴァは踊るように部屋の中へと踏み込んだ。勝手知ったる彼女の研究室。これだけ床が部品だらけでも、どこに道があるのかよく分かっているのだろう。すいすいと部屋の奥へ辿り着くと、光の根元を掘るように辺りを漁り始める。本に隠れて見えにくいが、どうやら棚、引き出しの類が誂えてあるらしい。
「そうだ、このチェスト……、こっちに来てすぐ、ジュールが中のものを放り出してわたしに譲ってくれて……」
ミネルヴァが独り言を呟きながら、奥へ奥へと手を伸ばす。青い光が少しずつ強くなって、ミネルヴァの胡桃色の髪をきらきらと照らしている。
「『これぞエルとミニーの思い出の品!』とか何とか言って、預かってって言われたのに、どうせ私には使えないものだからってしまい込んで忘れていたよ」
一瞬、強まっていた光が消えた。ミネルヴァが、両の手のひらを包み込むようにして部屋の入口を振り返る。そして、宝石箱を開けるように、ゆっくりと手を開いた。美しい青。部屋の中の部品やメモたちが、鮮やかな光に照らされて揺れた。
「……忘れるくらい長い時間、わたしはこの森にいたんだね」
感慨深く石を見つめるペリドットの瞳は、まるで凪の海のように穏やかで、優しい色をしていた。
◇
シュヴァルツヴァルトの秘宝。
そう呼ぶに相応しい、美しい青の宝石を受け取ったエルンストは、まだ十分ではない魔力集めの魔法を再度行使しようとした。それに待ったをかけたのはミネルヴァであった。
彼女が言うに、森の魔力全てを回収すれば、魔導式の道具は全てガラクタに成り下がるだろうとのこと。確かにそれもそうだ。動力とするエネルギーがなくなれば、動かしようがない。
『マァ、エルは体内魔力があるからある程度動かせるとは思うけどな。ミニーには確かにムリだ』
この家は電気も風呂も手洗いも何もかもが魔導式。ひとたび魔力を回収してしまえば、最後の結界を解くまで生活が立ち行かなくなる。つまり、回収したらとにかく最速で後のことをこなさなくてはならない。
「一旦最後までの流れを確認しておきたい。いいかな、ビリー」
『そうだな! といってもあとは、魔力を秘宝に回収して、その魔力をミニーに注ぎ込むだけだけどな』
「結界は今までのように条件をクリアすれば勝手に解かれるってこと?」
『ゴメイサツ! 森の魔力が空になれば青の魔力保持結界は解けるし、ミニーの魔術紋が発動すれば紫の認識阻害結界は解ける。カンタンだろ?』
確かにそう聞けば簡単そうに思えるが、こういうことは詳細に確認するのが大切、と役職柄エルンストは質問を重ねた。
「森の魔力を空にするにはどのくらい掛かる?」
『三時間ってとこか? その間にメシやフロを済ませればイイ!』
「明日の朝じゃ駄目なの、ビリー」
今から三時間もしたら、夜の時間になってしまう。ミネルヴァは明るい時間に結界が解除された方が良いと考えたのだろう。エルンストとしても同意見だった。しかしビリーは首を振る。
『夜の方がイイのはオマエたちだろ』
「え……?」
ミネルヴァが首を傾げる。何か凄く嫌な予感がして、エルンストはもうひとつやるべきことを確認することにした。
「……ミネルヴァに魔力を注ぎ込むって、どうやるの?」
『そりゃァ、モチロン、』
自信たっぷりにビリジアンが胸を膨らませる。
『オマエたちが番になって、――ミツゲツだ!』
ビリジアンをその場に置き去りにし、ミネルヴァの手を強引に取る。烏の非難の声と女の慌てた声を無視して書斎にミネルヴァを引っ張り込んだエルンストは、平静を装った顔色で混乱していた。
魔力は体液に宿る。ミネルヴァにそれを注ぎ込む。夜の方が都合がいい。番になって、蜜月。
――多分、己の予想通りだ。
とはいえ。とはいえ、だ。
無理が過ぎる、とエルンストは思う。あの烏めは簡単に言うが、そもそも番になる――ミネルヴァにエルンストを今すぐそのレベルで恋愛的に好きになってもらう、というのはハードルが些か高すぎる。
思わず気持ちが溢れて告白したりキスしたりはあったけれど、エルンストはミネルヴァに対して返事を強要するつもりはなかった。あれはエルンストが勝手にしたことだ。旦那様にするのは目の前にいる自分だと、そう言ってくれただけで十分過ぎる。だから、これからゆっくり目の前にいる自分をこそ見てもらおう――などと悠長に考えていたのに。
気持ちのないセックスなんて、エルンストは何度も何度もしてきた。この森に来る前の夜だってそうだった。
けれども。だからこそ、だ。エルンストは、ミネルヴァとだけは、そんなことをする気になれなかった。
どうしたものか。エルンストは考える。やはり、今日の今日とは言わず、このままふたりでいっそ一年くらいここで生活を続けて――仕事や会社、家族のことなど投げ捨てて、ミネルヴァをじっくり口説くしかない。自分と蜜月を過ごしても良い、と思ってくれるまで。それが可能なことなのかは、今のエルンストには全く分からなかったが。
エルンストは覚悟を決めた。がばりとミネルヴァを振り返り、「今日はやめよう。もっと時間をかけて、それから考えよう。他の方法もあるかもしれないし、焦ることないよ」――と、流れるように言い立てるつもりだった。
できなかった。ミネルヴァが、真っ赤になって、それでも目を逸らさず、エルンストを見つめていたから。射すくめられてしまった。声が喉につかえて出てこない。
「あの、わたし、……分かってる。ビリーが言ってた意味、全部」
震える声が脳を揺らす。エルンストは生唾を飲み込んだ。鼓動の音が、うるさい。
「わたし、なんかを、本当に……好き、なのかな? エルは」
「……好き、だよ」
食らいつくように、二度目の告白をする。必死にも程がある言い方だった。全く格好がつかない。
ミネルヴァの双眸が潤んで蕩けた。はく、はく、と言葉が出ずに唇が空回る。そして彼女は――不意にエルンストの腕にしがみつくように抱きついて、とんでもないことを口にした。
「じゃあ、……今晩、しよう。蜜月」
エルンストは頭を鈍器で殴られたような思いで、足をぐらつかせた。好きな相手から齎される言葉の破壊力を侮っていた。
駄目だ、義務感で身体を開いたりしちゃいけない、もっと時間をかけてそれでもきみが俺を選んでくれるなら。
言うべき言葉が思考の片隅で上滑りしては消えた。抱き締めて頷いてしまいたい。なけなしの理性が擦り切れていく。
「……ミネルヴァ、は。俺で、いいの?」
どうにか絞り出した台詞は、とても小狡いものだった。こんな問いかけにいいと言ってくれたって、そんなの義務感の延長かもしれないじゃないか。エルンストは自分自身の儘ならなさに心中で舌打ちをしながら、あまりのいたたまれなさに外していた視線をゆっくりと戻していく。
ミネルヴァは真っ赤な顔のまま、瞠目していた。まるで、何か思いもよらないことに気付いたかのように。
エルンストがその表情の意味を汲み取れずミネルヴァを見つめていると、数秒の硬直ののち、口元を震える指で押さえた。そして、わたし、と吹き飛んでしまいそうな小さな声をあげる。
「もしかして、エルが好きって、ちゃんと伝えられてない……?」
それは、とんでもない返事――ないし、告白であった。
エルンストはもう堪えられなかった。腕に縋り付いたミネルヴァの身体を自らの胸元へ引き寄せ、きつく抱きすくめる。赤い耳にそっと唇を寄せ、溜息を落とすと、ミネルヴァが分かりやすく腕の中で震えた。
「……ミネルヴァ」
「……、うん」
「好き。結婚して。俺の奥さんになって」
「ひ、ぅ」
「きみをこの森から連れ出して、俺のところに攫う権利が欲しい」
ミネルヴァにとって、この森に、家に、どんなに愛しい思い出があっても。振り向く余裕すら与えず、手を引き続けるから。
ミネルヴァの手がエルンストのシャツの背を掴む。そんな小さな仕草が、エルンストをひたすらたまらない気持ちにさせた。
「置いてかないで、くれるんだろう」
囁くような声に頷く。
「……勿論」
シャツを引く力が強くなる。エルンストもまた、ミネルヴァの頭を抱え込むように一層引き寄せた。
「好きだよ、わたしの旦那様。どこへでも、連れて行って――」
『オマエたちーッ!! 話を最後まで聞けェ!! ミツゲツだからって、婚前交渉なんかオレサマが許さないからなァ!?』
ビリジアンが部屋の外で大声で喚いた内容に、抱き締めていた腕を緩めたふたりが、じっくり顔を見合せてから、どういうことだと叫びつつ書斎の扉をけたたましく開けることになったのは、その三十秒後のことである。