ミネルヴァ・ハミルトンの事情
Side Minerva.
キスされるかと、思った。
ミネルヴァの心臓は壊れそうなほどに高鳴っていた。エルンストの顔が、鼻先がつきそうなほど近くにある。幼子の熱を測るように額を合わせたまま、彼は目を閉じて動かない。
――わたし、緊張し過ぎて鼻息が荒くなっていやしないか。というかエルから有り得ないほどいい匂いがする。やばい。おかしくなりそうだ。
目の端に星が飛び始めた気がして、ミネルヴァの意識はぐらぐらと揺れた。
◇
ミネルヴァ・ハミルトンは、とてもつまらない人間だ。少なくともミネルヴァ自身はそう思っている。
一般家庭に生まれたが、十歳になる頃両親は折り合いが悪く離婚。ミネルヴァはそれなりに財力のあった父方に引き取られたが、金銭以外の援助は得られなかった。愛情など以ての外である。
ミネルヴァは父にも母にも、置いていかれた子どもだった。
十二歳になったミネルヴァは、父から金銭の援助が得られているうちにと、ひとりで身を立てる方法を模索し始めた。勉学に関してだけは他より優れた能力があったので、とにかく目の前の課題に励んだ。そのうち、物理、とりわけ工学の領域にて才能が開花。気付けば五年分の飛び級を重ね、博士課程に在籍していた。周囲には友達と呼べるような相手もいない。飛び級のせいで歳の近い知人すらいない。
ミネルヴァは社会の中でもまた、置き去りにされていた。
大学時代からは特待生として学費の免除も受けていたため、その頃にはもう父親とも連絡が取れなくなっていたように思う。いつから父親の声を聞いていないかも、薄情なミネルヴァには思い出せない。
面倒を見てくれた教授の元で講義補助のバイトをして日銭を稼ぎながら、回路研究に費やす日々。博士課程を卒業するころにはその研究成果が認められ、国営事業にまでなろうかと声をかけられるところまで来ていた。
他人と関わる興味も余裕もなく、勉強をして研究をしてバイトをして、それだけに生きてきた。ミネルヴァにはそれ以外何もない。面白いことも言えない、可愛こぶることもできない、誰かを愛することなんて論外だ。
ミネルヴァには研究しか残されていなかった。何も、それ以外、何もなかった。なんとつまらない人間なのだろう。
そんな風に考えていた頃だった。研究結果に何故だかその地域でだけズレが出るという報告を受け、ミネルヴァは自ら資料を手に黒い森へ向かった。そこで、案内人を名乗る男性――エルに出会う。
歩き慣れない森で盛大に転けたミネルヴァを支えようと伸ばされた逞しい腕。間近に煌めいた色素の薄いブルーグレーの瞳。何より、フードから零れた濡羽色の髪が美しかった。
ミネルヴァは見惚れていた。こんな綺麗な色を持つ人を――いや、そもそも他人たる誰かを、こんなにまじまじと見つめたのはいつぶりのことなのだろう。
誰かと、この人と、話をしてみたいな。ミネルヴァはそう思って、あの青い石を拾ったのだ。彼と他愛ない話をするきっかけにしようとして。
そこからは怒涛であった。
瞬きの間に知らない場所に連れ去られ、そこが百年前の世界だと言われ。ジュールと名乗る壮年の女性に手から光や炎や水やと有り得ないものを出されて卒倒しそうになり。紆余曲折ののちに、森の中に作られたジュールの工房――森の隠れ家にて、彼女の計画を手助けすることになった。
ジュールは、シュヴァルツヴァルトという小国の君主で、魔術師だった。シュヴァルツヴァルトの魔術は女系に強く受け継がれるが、その末裔――魔術師のおわりを担うのは男子なのだという。
それが、『エル』。あの森で出会った、美しい男の人の正体だった。
ミネルヴァはジュールと魔術師の契約なるものを結んだ。ミネルヴァがシュヴァルツヴァルトを助ける代わり、ジュールはミネルヴァの身柄を元の時代に返した後、シュヴァルツヴァルトの末裔である男――エルを伴侶として捧げ、必ずやミネルヴァを幸福にすると約束する、というものだ。
正直、ミネルヴァはそんな見返りなど要らなかったのだが、契約は双方に利がなければ、というジュールの主張に押し切られてしまった。
しかし、何故契約の内容が伴侶などという話になるのか。何か大切な理由でもあるのかと問いかけたミネルヴァに、ジュールはそんなの簡単だとばかりに答えて返した。
「ミニーは、あの先の未来で、エルの恋人になったんだ」
とんでもないことを言われたミネルヴァは、真っ赤になって飛び上がった。あんな綺麗な人が、こんなにつまらない女を恋人にするなど、そんなことあるわけがない。ミネルヴァがそう喚いていると、ジュールは仕方がないなと肩を竦めて、一冊の本を差し出してきたのだ。
「私の趣味の一環として、ミニーとエルのことは全てここに事細かに纏めてある。そんなに言うなら読むといい! そしてまだ見ぬエルにうつつを抜かすといい!」
それこそが、この革張りの本。ジュール著の、魔術師と工学者の悲恋・秘密メモ75項収録、という代物なのである。
ミネルヴァは渋々その本を読み始めたが、その5に行き着く頃には夢中になっていた。恋愛小説などとは縁遠い生活を送ってきたミネルヴァにとって、そこに書かれた内容はとても胸躍るものだった。自分によく似た別人の恋愛事情を覗き見る感覚で、ドキドキしたり、切なくなったり、のめり込むように読み続けた。
「あ……」
数日をかけて最後の項目に辿り着いたミネルヴァは、『エル』と『ミニー』の結末を知る。理由は何にせよ、ミニーはエルに置いていかれるのだ。これまでのミネルヴァの人生と同じように。
「わたしは……」
あったかもしれない未来ですら、誰かに置いていかれる運命だったのか。ミネルヴァはただただ苦笑した。そして、それがつまらない人間の自分にはお似合いだな、と納得してもいた。
ミネルヴァにとって『エル』は、物語の中の登場人物のような位置づけで、あくまでも憧れの対象であった。ジュールが何度ミネルヴァをエルの嫁にするのだと豪語しても、それを身をもって実感するようなことはなく、軽い気持ちで受け流し続けた。
わたしの旦那様。そんな人がいるならば、ずっと傍にいて、自分を置いていかない人がいい。
けれども、『エル』は『ミニー』を置いていくのだ。ミネルヴァが『エル』を旦那様にとは望むわけもなかった。
◇
ジュールは母のように、姉のように、ミネルヴァと共にあり続けた。
君主として、母として、魔術師として忙しく、何より未来のため心身を削ってやるべきことをこなしていたはずなのに、いつだってジュールは飄々としていた。ビリジアンと軽口を叩き、面白がって回路の仕組みを知りたがり、勝手に新しい回路を開発しては失敗し、家中が煙でいっぱいになりみんなで大騒ぎしたこともあった。けれど流石は天才、遂には魔導式眼鏡を自力で開発し、興味津々で見ていたミネルヴァにプレゼントしてくれた。お茶のひとつも汲めないミネルヴァに、根気よく紅茶の淹れ方を手ほどきしてくれたのも、ジュールだ。
ミネルヴァはジュールに振り回され、ときに呆れ、真剣に悩み、共に成功を喜び――そんな日々を楽しく、愛しく思っていた。ジュールは、いつぶりか、ミネルヴァが大切に思う他人となっていたのだ。
◇
森へ飛ばされてから三年の月日が流れた。ジュールから『シュヴァルツヴァルトの魔女』としての役目の終わりを告げられ、元の時代へと帰ることになった。
新しい未来でもミネルヴァは同じ日時、同じ場所で失踪することになるのだという。正確には時駆けの禁術の揺り返しで存在が歪んで、忽然と消えてしまうらしい、のだが。そこをジュールの複雑な魔術で繋ぎ合わせ、時を超えて戻るミネルヴァと重ね合わせて整合性を持たせることで、存在証明を云々――ともかく、無事に戻れるようにすると説明してくれた。更に念には念を入れて、ミネルヴァが未来で死んだと目される時期より後の時間に戻すつもりだ、とも。
無尽蔵に魔術を使ってもいつだってけろりとしていた稀代の魔術師。けれど、ミネルヴァの胸元に魔術を刻んだジュールは、珍しく憔悴した顔をしていた。それなのにこれから更に森に数重の結界を張るという。
「無茶だ、ジュール。わ、わたし、帰らない。ここにいる。元の時代に未練なんてない。旦那様なんていらない、から」
――ジュールまでわたしを、置いていかないで。
涙混じりに訴えたミネルヴァを、ジュールは指先でこつんと額を小突いて諌めた。
「駄目だよミニー。これはね、魔術師としてのお前との契約でもあるし、私個人のケジメでもある。ちゃんと最後までやらせて」
「でも……!」
「それに、」
ジュールは汗を拭って笑った。歯を見せて、わざと子供っぽく、ミネルヴァを安心させるように。
「ミニーには幸せになってもらわないと。もうね、お前は私の娘も同然なんだから。ちゃんと送り出させて」
置いていくんじゃない。あるべき場所へ、送り出すのだと。
ミネルヴァは何も言えなくなってしまった。そして、何も言えないうちに、元の時代へと送り出されてしまった。
◇
ジュールと過ごした思い出が染み付いている森の家でひとり過ごすことは、ミネルヴァをより孤独にした。ミネルヴァは孤独を紛らわすように、回路の研究に没頭し続けた。
次に扉を開けるものが、ミネルヴァの旦那様だとジュールは言った。それは、あの本に出てくる『エル』なのだろうか。そうだとしたら、『ミニー』は――ミネルヴァは、彼に置いて行かれる運命なのではないのだろうか。
幸福に、と送り出されたのに、自分がつまらない人間だと知っているミネルヴァには何の自信も抱けやしない。来る日も来る日も、浮かんでは消える不安を押しやり続け――。
そうして、あの朝、けたたましいアラームと共に、ついに旦那様が現れた。
青い石を拾ったあの日に見た、懐かしい黒とブルーグレーの色彩は、変わらず美しくミネルヴァの瞳に映った。ミネルヴァは再び、彼の色彩に見惚れたのだった。
エルンスト、と名乗った旦那様は、本の中の『エル』とよく似た別人であった。
浮世離れした魔術師の男『エル』とは違い、工学者ミネルヴァ・ハミルトンのことを知っていて、社会に出て第一線で仕事をする、立派な社会人。常識的、理知的で、博識。料理が上手く、器用で、優しい。しかし、女性の扱いに手馴れ、ミネルヴァをからかって可愛がってくるところがある。
ミネルヴァの知っている『エル』ではない。特に手馴れた様子については聞いてない! が本音である。けれど、それ以上に、魅力的だった。本の中の登場人物ではない。『ミニー』の相手ではない、ミネルヴァ自身を目に映して笑いかけてくれる相手。
孤独だったミネルヴァが彼に惹かれるのは当然だった。けれど、同時にひたすらに不安だった。エルンストは、あくまでも『エル』であるはずなのだ。余計なことは何も聞かずに、受け止めるだけ受け止めて、そのまま滞在してくれているが、いつ自分を置いて行ってしまうか分からない。
ミネルヴァは「旦那様」とエルンストをからかい半分に呼びながら、本気になっては、本気にしてはいけないと、惨めな自分を律し続けた。
けれども。
砂糖漬けを食べて自分には見えないものが視えると言われたとき。エルンストが魔術師になってしまったら――、置いて行かれたくなくて、ミネルヴァは同じものを迷わず口にした。余りにも考えなしな行動だった。
書斎で、何で何も聞かずにいてくれるのかとも問い詰めてしまったこともある。一度出始めた言葉を止めることは出来なかった。けれどエルンストは、ミネルヴァという人間と共にいるのが楽しい、と言ってくれた。もう寂しくないか、とも。
そして極めつけ、置いて行かれたと思い込み縋り付いたミネルヴァに、エルンストはこう言ったのだ。
「置いてったりしないから、絶対。――約束する」
――と。
もう自分を律するなんて無理だった。簡単に、恋に落ちていた。
エルンストは、ミネルヴァの欲しいものを全部くれる。置いて行かずに、傍にいてくれる。あの本の中の『エル』とは比べるべくもない。
ミネルヴァの旦那様は、想う相手は――この家にミネルヴァを迎えに来てくれた、目の前にいるエルンスト。その人を置いて他にはいないのだ。
◇
エルンストの体調が悪そうだと見かねたミネルヴァは、彼の自室をそっと訪ねた。エルンストは苦しげに眠っていて、ミネルヴァは暫く傍についていることにした。研究をする気にはなれなくて、久々に例の本を持ち出す。読めば読むほど『エル』とエルンストが別人で、ミネルヴァはひとり不謹慎にも笑ってしまった。そうして、再確認したのだ。自分は、目の前のこの男にこそ、心を預けたいのだと。
その矢先。転寝から目覚めたら、何故だかこんなことになっている。
エルンストには抱き締められているし、好きになってとか言われるし、これは夢に違いないと返事を呟いてみたら夢ではなかったし。
オマケにあんなに必死な様相で、本の中の『エル』ではなく、目の前のエルンストを旦那様にしろ、などと。言われなくたってミネルヴァはそのつもりなのに。
そして、当たり前だとばかりに応えたら、こんなに近距離に彼の顔がある、という経緯なのである。
ミネルヴァは混乱の只中にあった。
「ミネルヴァ」
いつもより低い、囁くような呼び声。ミネルヴァの背筋がぞくりと震えた。
「……俺が『エル』とは違いすぎて幻滅したかも知れない。俺みたいな何もない男、つまらないって分かってる。でも、代わりには、しないで」
瞼に隠されていたブルーグレーの瞳が現れて、ミネルヴァを絡め取るように見つめてくる。あまりに真剣で真っ直ぐな視線から、逃れられない。
「きみが好きなんだ。……俺を好きになって、ミニー」
繰り返された言葉に、ミネルヴァの呼吸が止まる。つまらないのは自分の方なのに。好きだと、好きになってと、こんなに綺麗な男が乞う。嘘みたいで、はち切れそうで、鼓動の速さに飲まれそうだ。
さっき、言ったのに。もうとっくに、好きになっていると。
はくはくとから回るミネルヴァの唇を、エルンストのかさついた親指がゆっくりとなぞった。そして、ふ、とエルンストが表情を緩める。ミネルヴァが思わずそれにつられて、張り詰めていた緊張をほどき、はふりと息を零した瞬間。
唇に、柔らかい感触が降ってきた。
あまりの衝撃に目眩がして、ミネルヴァは今度こそ意識を手放した。