赤いどんぐりと黒い森
宜しくお願いします。全15話構成。
地下鉄の出口へと上がる階段を昇り切ろうというところに、朝焼けの日差しが容赦なく差し込んできて、エルンストは眉根を寄せて目を眇めた。朝帰り、寝不足の頭にも身体にも、鮮烈な光は余りにも眩かった。くらりと視界が歪んで、思わず額に指を当て小さく首を振る。
夜明けから間もない時間、都の大通りとはいえ人影は少ない。時折走り行く車の音に混じって、夏のはじまりを感じるような緑のにおいがする風がひゅうと吹き抜けていく。
――そんなご立派な外見に肩書きをお持ちなのに、中身はなぁんにもない! 空っぽで、つまんない、可哀想な男。
あぁー……、と。エルンストは色の薄い空を見上げてひとり溜息を零した。いつだって気力に溢れている訳では無いが、今朝は特別無気力で投げやりな気分だ。昨日出会って一夜を共にした、名前も忘れた女に投げつけられた言葉がこびり付いて消えない。一晩きりの泡沫の夢さえ見せてやれない、空っぽでつまらない男。腹が立ったということは、図星であったということなのだ。
エルンストとて、そんなことくらい、分かっている。けれど、他人たるお前らだって、俺の上辺ばかりを気にしていて、中身になんて小指の先ほども本当は興味がないくせに。エルンストは心中で吐き捨てる。いつも諦観と空虚の中で流されるように生きてきた。この酷くつまらない人生を埋めるものなんて、ない。分かっているけれど。
「……ん、」
大通りに立ち並ぶ建物の隙間、その脇道の向こうに、こんもりとした緑が見える。こんなところに公園なんてあったろうか。高い建造物に囲まれた一角の、それなりの面積を木々が埋めているように見える。鬱蒼とした木々は朝焼けのもとでも昏い影を落としていて、公園というよりは森といったような風情があるが、こんな都の真ん中に森があるはずもない。
なんとはなしに、エルンストはそちらへ足を向けた。舗装された石造りの道が、ふつりとその木々の根元を境に途切れている。入口となるような門も先を示す道もなく、木々を囲う柵もない。まるで空間を切り取って繋げたかのような不自然なその森を前に、エルンストの歩が止まる。
「……どんぐり?」
コナラの木の実に似たものが、爪先に当たったのだ。思わず屈み込んでつまみ上げる。しかし、どんぐりにしては色がおかしい。あまりに、あまりに、赤い。熟れた苺かトマトのような真っ赤な、それでいて硬質で艶やかな木の実。
――綺麗、だが。
赤いどんぐり、か――と独り言ちながら訝しんでくるりと回して見ているうち、どこかに指が当たったのか、カチ、という機械的な音が小さく鳴った。
「えっ」
木の実からカチ、はおかしい。驚きもつかの間、エルンストの目の前の森から、びゅうと冷たい風が吹いてきた。煽られ舞いあげられたエルンストの艶やかな黒髪が視界を遮り、それがふわりと開けた時。
途切れていたはずの石造りの道が、森の向こうへと誘うように続いていた。ぱち、ぱちと瞬き、エルンストは声を上げるのも忘れてそれを見つめる。
これは、果たして寝不足の頭が見せた幻か。
「……行ってみるか」
そう思わせたのは、一夜の相手の言葉のせい。眩い朝焼けの街を歩くには、エルンストの心はまだひたすらに重かったのだ。薄暗い森の影に身を潜らせると、詰めていた息が楽になったように感じる。拾った赤い木の実をジーンズのポケットに仕舞い込むと、さわさわと揺れる葉音を縫って、エルンストは道の先を目指すことにした。
コツ、コツと、仄暗い道を進む靴音が耳障りなほど大きく響く。それだけ森が静かであるからなのだが、見慣れない景色と相まって、何とも落ち着かない気持ちになってくる。時折葉音が掠めるだけで、鳥の声すら聞こえない。生き物の気配の薄い森だった。脚に何かが纏わりつくような感覚がして、その度足元を確かめるのだが、特に目につくようなものは見当たらない。
童話によくある魔女か魔物でも出そうな森だ。自分でも気付かぬうちに、幼い子どものように恐ろしい気持ちに飲まれているのかもしれない。
もういい大人なのにな。
エルンストはひとり苦笑する。
数百メートルほど歩いたところで、木々が途切れているところに行き着いた。石造りの道もその先でポツポツとした飛び石にかわり、芝生の中に埋もれている。
木製の低い柵に囲まれた、煙突のついた小さな一軒家が現れた。伸びっぱなしの蔦に壁の一面が埋められて、鬱蒼とした雰囲気だ。ひとの気配は感じない。だが、放置されて小汚いということはなく、少なくとも最近まで誰かが住んでいたか、管理していたように見える。
エルンストは家の前に立ち、困ったなと首を傾げた。きっとここがこの森の終着点だろう。けれど、まさかそれが家だとは。エルンストは無計画にここに迷い込んでみただけだ。別段この家、この家主に用がある訳ではない。ノックをして挨拶をしたところで、何をしようというのか。なんだか気になったからこんなところまで来てみただけです、なんて言えるはずもない。
帰ろう。
知らずとはいえ、勝手に人様の敷地に踏み込んでしまったのだ。早いところ引き上げるに越したことはない。エルンストは踵を返す。
そしてぎょっとした。歩いてきた石造りの道が、ふつりと消えている。道なりに木々が避けていたはずの森は、どこがそうだったのか分からないほどみっちりと木々に埋められていた。
「なん……で」
流石に恐ろしさが腹の底から湧いてきて、ずる、と半歩後ずさる。冷や汗が背を伝い、静まり返った空気の中に、自分の心音だけがばくばくと響く。
自分は踏み入ってはならない場所に来てしまったのか。禁忌に触れてしまったのか。それともこれは寝不足のあまり倒れてしまった自分が見ている夢なのか。動悸に合わせるようにこめかみがズキズキと痛んだ。
目をぎゅうと瞑り、噛み締めていた奥歯を意識して緩める。
――落ち着かないと。
ふうー……、と出来るだけゆっくり息を吐き、伏せていた目を開いていく。目の前の森は閉じたままだ。まるで、ここで何かを成すまでは帰れないぞとでも言うように。
エルンストは覚悟を決めた。ぐっと拳を握りしめ、振り切るように大股で蔦まみれの玄関口へ歩み寄る。木製の玄関扉に向かって勢いのままノックしようとして、思い直し、力を緩めて控えめに扉を三回叩いた。
返事は無い。もう一度、先程より音が大きくなるように、三回ノックする。
「すみま、せん」
どなたかいませんか。そう続けるより早く、扉そのものから返事があった。
『声紋認証確認。エラー。お客様と判断、ミネルヴァへ通達します』
「えっ、あ、なに」
『ミネルヴァ、応答無し。お客様は暫しお待ちください』
「は、え……、はい……、……?」
まるで最新機器が搭載する機械音声のようなやり取りである。エルンストは困惑した。なにせ、目の前にあるのは古めかしいただの木製の扉なのである。声紋を認証してくれるような、洗練された機械の類などどこを探しても見当たらない。
何が起きているのだろう。その答えに行き着く前に、今度は家の室内からけたたましい音がした。それは聞き覚えのある、目覚ましによく使われる電子アラーム音だった。数十秒鳴り続けたあと、ふつりとその音が途切れる。
がたがた、どたん。誰かの動く気配がする。エルンストは思わず息を飲んだが、そんなことにはお構いなしの木製扉が、先程と同じ機械音声で緊張感なく告げてくる。
『ミネルヴァの応答がありました。間もなく参ります。もう少々お待ちください』
エルンストがそれに反応するより早く、音声を発していた扉がガチャリと勢いよく開かれた。エルンストは弾かれたように扉を避け、数歩後ずさる。
響くのは、不機嫌そうなメゾソプラノの声。
「誰だね! こんなに朝早く! 宅配にしたって早すぎやしないか? ……ん?」
寝起きそのままに出てきたのだろう、ボサボサに絡んだ胡桃色のボブカット。黒縁の大きな眼鏡の奥にはペリドットの丸い瞳がくるりと揺れている。
エルンストの前にそうして現れたのは、小柄なひとりの女性だった。唖然とするエルンストに構わず、ブツブツと独り言を続けている。
「そうだよ、宅配が来るはずないんだよな。いくら何でも寝ぼけすぎだ。……とすると、なあキミ……、今日は何年何月何日だったかな?」
「と、……統一暦148年、6月……、24、いや、25日……」
「統一暦! おお、何年ぶりの響きだ? そうか……、この黒髪……」
女性はエルンストの黒髪を一瞬眩しそうに目を細めて見つめたあと、ふと柔らかく笑いかけてきた。
「キミが約束の相手、ということかな」
エルンストがその優しい表情に目を奪われているうちに、ふむ、とひとり得心した様子の女性は、寝癖だらけの髪をがしがしと掻き回して頷いた。
エルンストは何がなにやら分からない。分からなさすぎて、彼女の服装……客の前に出るにはあまりに無防備すぎないか? などと見当違いのことが心配になってくる。今にもちらと覗いてしまいそうなまろい胸元には、見慣れない紋様の紫色をしたタトゥのようなものが浮かんでいる。女性に対して初心な訳では決してないけれど、こんな風に明け透けに見せつけられてはどうにも落ち着かない。
おずおずと視線を上げると、女性は先程とは打って変わって、今度はからりと笑っていた。余りにも軽やかなその笑顔に、エルンストは動揺し、またしても目を離せなくなってしまう。
「いらっしゃい、わたしの旦那様。まずは……、眠気覚ましのお茶にするとしよう」
誘うように扉の向こうへ促される。エルンストは何一つ理解出来ずに立ちすくんでいたが、痺れを切らした女性に腕を引っ張られ、たたらを踏むように室内へと転がり込んだ。
外の様子とはうって変わって、室内は色とりどりのランプが吊るされ、優しい灯りに明るく照らされていた。揃いで誂えられたのであろう木製の家具には本や瓶詰めが並べられており、雑然としてはいるものの埃っぽさはなく、手入れが行き届いているようだ。
女性は軽い足取りでリビングダイニングらしきスペースへと進むと、一脚の椅子を引いてエルンストを笑顔で振り返った。
「さあ掛けてくれ。お茶と言っても古ぼけた紅茶しかないんだが構わないかな?」
「……え、ええ。あの……」
「なんだい? お砂糖が必要? ふたつでいいかな?」
「いえ、砂糖は要りません。……あの、失礼ですが、あなたは?」
勧められるまま椅子に腰掛け、エルンストは漸く気持ちを立て直して問い掛ける。女性は紅茶の缶の蓋をぽん、と音を立ててあけながら、端的に名前だけを答えた。
「ミネルヴァだ」
あとに続く言葉はない。測り取られた茶葉がポットの中に入れられる乾いた音が響くだけ。
「ミネルヴァ……、さん」
「ミネルヴァでいいとも、旦那様」
「では、ミネルヴァ。その、……旦那様、というのは?」
「次にここを訪れる相手をわたしの旦那様にしてくれと、契約主に言われていてね」
いつの間に湯を沸かしたのだろう。湯気を立てるホーローのやかんから湯を注ぎながら、女性――ミネルヴァは淡々とそう答える。何のことやらさっぱり分からないエルンストは、人違いではないかと訝しげな視線を送ったが、ミネルヴァは意に介さない。
「旦那様はシュヴァルツヴァルトの血脈のお方だろう」
こぽぽ。湯が途切れる音とともに断定的に告げられた言葉に、エルンストは身を固くした。
「……名乗っていなかったはずだが」
地を這うように低い声を出し警戒心をあらわにしてみせたというのに、ミネルヴァはポットカバーを片手に鼻歌でも歌い出しそうなくらい軽やかな雰囲気を崩さない。
「確かに名前を聞いていなかったな。教えてくれる?」
「……エルンスト」
「エルンスト。……エル、と呼んでも?」
「ええ、お好きに」
「そうツンケンしないでくれ。わたしはキミの妻候補なんだからさ、仲良くしよう」
砂時計を返しその上をトンと指先でひとつ叩いたミネルヴァは、にっと歯を見せて笑いかけてきた。なぜだかエルンストはその表情にうぐ、とたじろいでしまう。出会ったばかりの相手なのに、上手く警戒し続けるのが難しい。そんなエルンストを眺め笑みを深くしたミネルヴァは、頬杖をつきながら続ける。
「エルは歴史には詳しいほうかい?」
「……人並みには」
「わたしはからっきしでね。曖昧な記憶しかないんだが、シュヴァルツヴァルトは百年ほど前に途絶えた、で合っている?」
「正確には八十年前ですね」
「ふむ。歴史の上では途絶えたけれど、血族は生き延びられたんだね」
不思議な言い方をする、とエルンストは思った。
シュヴァルツヴァルトは国土の殆どを森に占められた小国で、八十年前に統一戦争の煽りを受け地図上から喪われた国だ。君主とその一族は国がなくなると同時にその立場を追われたが、処刑されるようなことにはならなかった。新しく建国した統一国家の隅で、決して貧しくはないもののそれなりに慎ましくその血を継いでいる。かつて小国といえど一国の主であった一族も、今となっては一般市民とそう大きくは変わらない生活をしている。だから、嘲るように『生き延びた』と言われるのなら分かるのだが、ミネルヴァの言い方はそうとは聞こえなかった。
生き延びられた。まるで、血脈が途絶えず良かった、とでも言いたげだ。
「お陰でわたしも漸く助かる訳だ。ちゃあんと旦那様が来てくれて安心したよ」
「助かる?」
「うん。まあ色々あってね。わたしはずっとここから出られなかったんだけど……、エルが来てくれたんだしもう解決したも同然さ」
ふふん、と鼻を鳴らしたミネルヴァがにんまりと笑っているが、エルンストにはさっぱり意味が分からない。訝しげに眉根を寄せていると、『三分経ちました!』と急に何処からともなく声が上がり、びくりと肩が跳ねる。扉の時と同じ、機械的な音声だ。辺りを見回すが、出どころの見当がつかない。
「ああ、これだよ、これ」
驚かせて悪いね。
そう言うミネルヴァの手にあるのは、先程ひっくり返して置いていた砂時計だ。そう、種も仕掛けもなさそうな、何の変哲もない砂時計。
「どうにもわたしはズボラでね。ありとあらゆるものにお知らせ機能を付けているんだ。便利だろ?」
ミネルヴァはあっけらかんとそう話し、ポットカバーを外すと精緻な絵柄の入ったティーセットに紅茶を注いでゆく。美しい紅色。馨しい茶葉の香りは、どこか懐かしさを感じるものだった。
「さ、お待たせしたね。色々と気になることもあるかもしれないが、説明はおいおいで良いだろう。まずは夫婦水入らず、はじめてのお茶の時間を楽しもうじゃないか」
冗談混じりにことりと置かれたカップからは、柔らかな湯気が立ち上る。エルンストは大きく溜息を零すと、強ばり続きだった気持ちをどうにかほどいて、勧められるままカップの持ち手に指を伸ばすことにした。