【短編】令嬢は犬たちと優雅にたわむれる 〜ただし令嬢には人間が犬に見える呪いがかかっているものとする〜
朝、コリー犬に起こされる。
前足でゆさゆさと揺らす、優しい起こし方だった。
「……おはよう」
上半身を起こした私はまだ寝ぼけてた。
コリーが口咥えているメモ書きを、メガネをかけて確認する。
性格そのままの几帳面で細かい字には、午後から写真判別の仕事が入っていること、飼い犬の朝食と散歩は済ませたこと、少しだけ遅めの起床時間であることが書かれていた。
「……どうして遅めなの?」
中型犬のコリーは佇んだまま、なにも答えない。
答えられても「ワン!」っていう風にしか聞こえないけど。
「もしかして、昨夜眠った時間が遅めだったから、その分だけ起床時間を遅らせた? その気遣いは嬉しいけど、明日からはいつも通りの時間に起こしてね」
メイド服を着たコリー、人間としてはベネッサという名前の侍女は恭しく頷いた。
うん、人間のはずなんだけど、2年も経つともう元の姿をあまり思い出せない。
同い年の、思慮深くて大人しくて一途なくらい従順で……あー、たしかに考えてみれば前からコリーっぽい性格の子ではあった。
+ + +
13歳になったら神殿で祝福をもらうのは貴族階級以上なら当たり前の習慣だ。
たいていの場合は大したものじゃないけど、中には有益なものもある。
5代ほど前の王族の祝福『長大城壁の作成』は、今も魔族領との間に巨大な壁を渡らせている。
ただこれ、強力ではあるんだけど、自分で選べない。
たぶん、完全にランダムな祝福だ。
他の皆が『肘からコーヒーを生成する』とか『魔力を大気から収集する』とか『うっかり転ぶ度にお金を拾う』とかで悲喜こもごもしている中、私が得た祝福は――
「なにこれ……」
『あなたにとって人間は犬になる』というものだった。
言葉としては、誤解しようがない。
だけど、意味がわからない。
私にとって、人間が犬……?
どういうことか説明して欲しいと顔を上げたら、司祭様が犬になっていた。
衣服だけは変わらず最高位を示す紫のそれだけど、顔と身体は犬のそれ、しかも、ゴールデンレトリバーだった。
人と一緒に何かをすることを喜びとする、とても穏やかな大型犬だ。
「わう?」
声も同様に犬だった。
ただその吠え声が、問いかけているとは、わかった。
たぶん、意味としては「どうかいたしましたか?」とかそんな言葉だった。
私は紙に浮き出た文字を、その司祭様らしき人に渡して見せた。
ここで何かを言ったら、他の人にとっては「ワン!」って聞こえるんじゃないかって恐れもあった。
司祭様こと大型犬は、私の祝福用紙を3度見した。
大騒ぎになった。
はじめて現れた祝福だった。
もはや網羅したと思われていたのに新しいものが登場したのだ。
けど、私としては強力な呪いだとしか思えない。
だって、そうやって騒いでる姿は、どう見ても犬の集会場だった。
私からそう見えてるだけだとは分かっていても、五感すべてが「これは犬だ」と保証する。
喋る言葉はわからないから筆談での質疑応答をして、ようやく相手に知性があると安心したくらいだ。
その後で家に戻ったけれど、そこでも私は絶望することになる。
両親も犬だった。
父親も母親もシェパードだった。
血統書つきの血筋だった。
けどお母様?
どうして弟の姿が雑種のチワワに見えているんでしょうか?
別に養子とかじゃなかったはずですよね?
姉はちゃんとシェパードしてますよ?
父が弟をやたらと冷遇していた理由を、私はようやく知った。
+ + +
現在、私が住んでいるのは別宅で、本宅とは距離が離れている。
これは別に私が邪魔者扱いされて排斥されている――というのもちょっとはあるかもしれないけど、もう少し切実な理由があった。
たとえば、私がいると侍女がお皿を持って運ぶことができなくなる。
私にとって彼らは犬だからだ。
朝食を運ぶ、という作業が難しくなる。
私の前では、誰もが犬っぽい行動しか取れない。
ある程度の魔力があればレジストできるみたいだけど、そこまでの魔力的な素養がある侍女は珍しい。
別宅への移動は半ば私自身の意思だった。
「いただきます……」
私は寸胴からスープをすくい、パンを炉で軽く焼き、冷蔵場所からサラダを適当に千切って盛る。
人の手助けは、私にとっては犬の手助けだ。自分の手でやるしかない。
温かい出来立ての食事を取れることが、この呪いで得た数少ないメリットだった。
誰も見てないことをいいことに、もぐもぐ食べながらテーブルのメモに、変わらず美味であること、特に自家製ドレッシングが良かったことを書き残しておく。
私にとって犬にしか見えなくても、実際のところ相手は人間だ。感謝と感想くらいは伝えるべきだ。
馬車で学び舎へと移動する間、私はできるだけ視線を下に落とす。
下手に街の風景を見れば混乱を巻き起こす。
代わりに音で外の風景を楽しんだ。
気のせいかもしれないけど、日に日に街は活気づいてるように聞こえた。
魔族との諍いが一段落して、隣国とのいざこざも誤解が溶けて、ようやくの平和が訪れたからだった。
その一助となれたのなら、私としても誇らしい。
まあ、大したことはしてないけどね、せいぜい入り込んでいたスパイをあぶり出したくらいだ。
それでも、名前ばかりの戦勝会の乾杯よりも、美辞麗句が散りばめられた演説よりも、馬車外のそれの方が確かな「平和」の音だった。
人々が安心して暮らしている様子だった。
街の人々が、今日もワンワンと元気に吠えている。
+ + +
校舎内に入れば、ようやく私は顔を上げることができる。
多少の耐性がある人ばかりだから、ここでだけは普通に過ごすことができる。
それでも、周囲の人たちが犬に見えることに変わりはないけどね。
こうなって二年も経つから、元の顔をだんだんと忘れつつある。
たとえば取り巻きを引き連れて下級生に注意をしているブルドッグの顔も、知っているはずだけど思い出せない。
名前はアン・ボールドウィン。
魔族関係のゴタゴタで一時期姿が見えなくなって心配したこともあった。
そういうことは憶えていても、どんな顔かわからない。
きっと今は大人びた姿で、もう記憶からも変わっているだろうけどね。
同じ部分については、わかっている。
たとえば今、いかつい顔で唸って下級生を威嚇しているように見える、だけど、実のところこれは親切心だった。
私も以前に一度注意されたことがあるけど、身分差による余計ないざこざを起こさないための注意だった。
ブルドッグは、顔に似合わず優しくて家族思いだ。
ちょっと頑固な面もあるけどね。
そのアンは私の顔を認めてから、つん、と顔を背けて通り過ぎた。
ブルドッグが、くしゃくしゃの顔でそれをする……
通り過ぎ様、つい撫でてしまった私を責められる人は誰もいないと思う。
いい手触りだったけれど、予想通りに吠えられた。
教室内は、相変わらず騒然としていた。
私が入った途端、一瞬だけ静かになるけどすぐにまた騒がしくなる。
私という筆談でなければ意思疎通できない人間も、2年も経てばそれなりに受け入れられる。
こう見えて割と成績優秀だしね。
さらに言えばクラス長でもある。
この教室内におけるトップである。
なんで?
と我ながら思うけど、いつの間にかそうなっていた。
何人かの友達とは軽く挨拶を交わす。
ふざけて頭をグリグリとしてくる子には、逆にこっちがグリグリしてやる。
気分としては飼育員だ。
体調が悪そうな子はいないかのチェックもしておく。
あ、先生が来ようとしてるのに、まだ何人かが雑談をしてる。
教室全体が騒がしい。
私は、パン、と手を打ち鳴らした。
途端に注目が一斉に集まるのが、分かった。
『おすわり』
そう命じる。
人ではなく犬に対してそうするように。
全員が、それこそ遠く離れた場所にいた人も一斉に最短の動きで席に座った。
誰もが姿勢を正して行儀よく並ぶ、つい少し前の騒がしさが嘘みたいだ。
先生が教室に入り、少しだけ立ち止まった。
穏やかな小型犬であるキャバリアに似つかわしくない苦悩だった。
いい加減に慣れてもいいと思う。
「起立――」
と私は淡々と言う。
さっきみたいな命令はしない。
どうやら、私が「犬に対して命じる」ときの声は、普通の声としては聞こえていないらしい。
司祭様は「神代の時代、神託に近い言葉」とか言ってたけど、そこまで大したものではないと思う。
訓練された犬は人間の動作ひとつ、命令ひとつに機敏に反応するというだけだ。
+ + +
午前の授業はつつがなく終わった。
私という異常がいると上手く板書できないから、大体の先生は念動力でそれをしていた。
苦労をかけてしまうなあ、とは思うけれど、教壇の犬が偉そうに吠えながら板書をする様子は、正直、ちょっとおもしろい。
そうして午後、戦闘訓練が開始された。
ただ、私にとって対戦相手は犬だ。
犬が模擬剣とか咥えてかかってくる姿にしか見えない。
客観的に見たらものすごい身のこなしで回避しまくってるらしいんだけど、私本人としては咥えた剣を一生懸命に振るのをちょっと避けて、手にした剣でちょこんと叩くだけだった。
これ、訓練じゃなくてお遊戯会だ。
なので全戦全勝なんだけど、それでも諦めない子も、中にはいる。
私を相手にしては剣は不利にしかならないと悟ってか、素手に魔力を込めて戦おうとしている、らしい。
私視点からは牙が光ってるようにしか見えない。
犬種はロットワイラー。
大型犬で忠実で素直だけど、そうとう凶暴な犬種でもある。
生まれつき優れた筋肉を持っているし、それを存分に活かすための訓練も積んでいた。
でも――これで、ようやく訓練になる。
目にも止まらない速さで飛びかかる動きを、ほとんどカンだけで避けて反撃を繰り出す。
鋭い牙、これに噛みつかれたらただじゃ済まない、だけど、それこそ望む所だ。
「不用意に跳び過ぎ、たしかにその動きは脅威だけど頼り切りは読まれる!」
指摘しながら攻撃する。
手加減しながら戦える相手じゃないから、剣じゃなくて短鞭で対応する。
これなら全力で攻撃できる。
「こら、攻撃を躊躇しない! 私は全部避ける! まだ届いてないのを自覚しろ!」
全力が出せるのが嬉しいのか、その目は爛々としていた。
私は宣言通り、その攻撃を全回避したし、指導っぽい攻撃も全部当てた。
正直、彼がいないと本当にお遊びにしかならないから、訓練相手としてとても助かっていた。
ただ、ペシンペシンと叩き続けるのは、ちょっと心苦しい。
模擬剣ほどじゃないけど、短鞭でもそれなりに痛いし。
5セットほどの訓練を終えた今、相手は今は横たわって、ぜえぜえ言ってる。
責任を取る意味でも、その傷を癒やす術を使った。
傷ついてない箇所を撫でながら回復させる。
そうして、ふと思い出した。
昨夜の魔術的な訓練についてだ。
今朝の起床遅れの原因だった。
私が得ているこの呪いは、魔力の影響を受ける。
魔力値が高れば高いほど、私は相手を犬扱いできなくなる。
神様の力と魔力は相性が悪いのかもしれない。
だから、たとえば私自身の魔力を凝縮すれば、この呪いを突破できるんじゃないかと期待した。
訓練中で全員の魔力が昂ってるし、今なら操作しても目立たない。
両耳に、もっと言えば鼓膜というごく薄い部分に魔力の大半を注ぎ込んだ。
ワンワンと騒がしい様子に、ノイズが混じる。
耐え難いくらいの、それこそ耳が痛むくらいの音量になったかと思えば、不意に静かになり――
「ああ……」
声が聞こえた。
実に二年ぶりの、人間の声だった。
それは私が今まさに癒やしている、訓練していた相手のものだった。
名前はブランカ・ナヴァル。
記憶してる限りだと、戦うことが大好きな狂戦士タイプの人だった。
あ、やばい、割と素で嬉しい。
生の声を、人間の言葉を聞けている。
笑顔で、話しかけようとしたけど――
「犬姫様、もっと……」
ん?
「もっと強く、もっと激しく……っ!」
なんか、様子がおかしかった。
いま手当中の、その相手を見下ろす。
見た目も触覚も、変わらず私には犬だとしか思えない。
ロットワイラー特有の黒い毛並み、濃い茶色をした四本足はときどき痙攣するように動いてる。
まるで、何かを求めているみたいに。
「もっと、もっと俺に、痛みを……ッ!」
えーと、そういえば私、この鞭でベシベシ叩きまくりましたね。
あと、どれだけ散々に攻撃しても、毎回率先して私に戦いを挑みに来てた。
それは、すごいガッツだって思ってたけど……
「鞭、最高――っ!」
そういえばこの短鞭を咥えて持ってきたのって、目の前のコイツだったなと思い出す。
最適な選択だ、さすが戦うことが好きな人は違うなあ、とか感心してたけど、どうやら違ったらしい。
というか、ヨダレ流すな。
なんだその陶然と私を見る目は。
傷はまだ癒えきってないけど、バシンと思いっきり手のひらで叩いた。
私の耳に、嬌声にも似た悲鳴が届いた。
どうやら私は、知らない内に狂戦士を強性癖へとジョブチェンジさせていたらしい。
+ + +
放課後、私は割と忙しい。
ブランカの戦闘訓練の誘い――鞭を口に加えて、何かを期待したような目で見上げるのを完全拒否して特別室へと向かう。
外部からの諜報の一切を防ぐ、個人面談用の特別教室で、何枚もの写真とにらめっこする。
人物像に余計な歪みがないからか、現実と同じような犬に見えた。
大半は、ごく普通で、ただの犬たちの姿だ。
写しているのが貴族だから、だいたいは血統がはっきり分かるものが多い。
けど、中には違うものもいた。
「これですね」
差し出した写真を見て、シェパードが首を振った。
賢くて警戒心が強い性格だけに、すぐには信じられないみたいだ。
血筋というか家も同じ犬種だから、その疑いは納得できる。
「私には三つ目の犬に見えています、真っ当な、ごく普通の人ではありません。生物として異なっています」
しばらく考えた後に、
では、これは?
と書かれた紙と一緒に写真を渡された。
「? 真っ当な、普通の犬ですが、これがどうかしましたか?」
犬種はヨークシャーテリア、時に勇敢で時に縄張り意識が強い。
子犬と一緒のところを見ると、家族写真なのかもしれない。
目の前のシェパードは私の返答を聞いてとても困惑していた。もしかして――
「この三つ目犬の、以前の写真ですか? だとしたら、どこかの時点で入れ替わりが起きています。二枚の写真に写っているのは完全な別もの、別種族です。この方に家族がいるのであれば、同様に入れ替わられている可能性が高い」
急いで立とうとするのを、私は制した。
警察関係だけあって、右手を軽く上げるだけでお座りをする。
「待ってください。三つ目の犬は知能が高いことが多い。できれば専門家の指示の元に動くべきです。下手に単独で調査をすればあなたも「入れ替わり」の対象になります。ここは慎重に動くべきです」
これ、たぶん魔族だ。
一応は停戦協定を結んだのに乗り込んだのは、それだけ変装に自信があるからだろうし、それだけの実力者だからだ。
こっちが気づいたことに気づかれるのは、かなり不味い。
「敵は分かっています、今は待つべきです。ここは行くべきタイミングではない」
まだ狩りの時間ではないのだと伝える。
私はシェパードとにらみ合いを続けたが、やがて向こうが視線を背けた。
どうやら納得してくれたらしい。
良かったと胸をなでおろす。
たまにシェパードが発揮する、元気でお馬鹿な部分は出なかった。
その後は、何枚かの家族写真を見て、簡易的な血縁関係の有無を判定して、今日の作業は終わった。
貴族が恋愛するなら結婚した後で、という言葉があるけど、割と本当だったらしいね。
+ + +
なんかどっと疲れたなあ、と思いながらも足を運ぶ。
校内にある第三運動場、ほとんど誰も使用していない寂れた場所だ。
この時間に行くのが、ここ半年くらい続けている習慣だった。
最初は犬と書いて人間が一切いない場所を求めてのことだったけど、今は知り合いというか遊び相手がいる。
まだ午後の日差しが強い中を駆ける犬がいる。
大型犬の、優美な姿。
だけど元気いっぱいに走る。
犬種はボルゾイ。
穏やかで感受性が強い。
「おー、来た来た」
言いながら、逃げるように運動場を走る。
ボルゾイが頭を下げて加速するけど、私も魔力強化して逃げる、負けていられない。
「ワンワン!」と何かを吠えていたけど、意味はわからない。
わからないけど笑いながら私は走る。
全力での運動が、無性に楽しかった。
やっているのは、「ただのかけっこ」だ。
案外、やれる機会ってない。
この名前も知らない相手と出会ったのは、本当に偶然だった。
人のいない場所を求めて彷徨う内に、かち合った。まあ、先客がいるなら、と思って別の場所に向かったんだけど、譲られるのが気に食わないのか、ボルゾイは首を振って別の場所へ移動した。
けど、別のルートで別の場所で――たしか森奥の広場だった、そこでもかち合った。
「どうしてここを知っている」って顔をお互いしたことを憶えている。
仕方無しにまた別の場所を探し、そこでもかち合った。
そういうことが、その日だけじゃなくて何度もあった。
私だけが知っているはずの秘密の休憩スポットを、なぜだかこのボルゾイも知っていたのだ。
絶対に私以外には発見したことがないと思っていた、校舎裏の隠された通路から行く秘密の小部屋ですらかち合ったときには思わず笑った。
ただ、少ない休憩時間が削れるし、知ってる隠れスポットがどんどん消えていくのもなんだか悲しい。
なので、提案したのだ。
「徒競走で場所優先の決着をつけないか」と。
絶対に負けないつもりだったけど、案外いい感じのデッドヒートだった。
そうやってく内に、いつの間にか仲良くなっていた。
「取ってこーい!」
フリスビーを投げる。
遠く、安定飛行で行く円盤に、細身の大型犬は全身を連動させて駆ける。
そのために生まれて来たような走りっぷりだ。
まだフリスビーが宙にあるのに、ジャンプして確保、着地より先に頭を振って投げ返した。
早い、というか全力投球だ。
しかも意地の悪いことに、私が届くかどうかのギリギリへと投げていた。
私も全力で駆けて、最後に足に魔力を充填させて3メートルばかりを跳躍する。
目をまんまるにしたボルゾイの姿を見ながら、私も投げ返す。
回転を強くかけたカーブだった。
魔力集中による身体強化は、つい最近できるようになったばかりだったけど便利だ。
難易度の上がったフリスビーを、キラキラした目で大型犬は追いかける。
「飲む?」
水筒の冷水で喉を潤してから、ボルゾイに残りを渡した。
どこか戸惑うというか遠慮した風だったので、ちょっと腹立たしい。
「今日、割と暑いんだから、水はちゃんと飲まないと駄目でしょ」
言いながら、私は視線を逸して目を閉じる。
私が見たままだと、相手は普通に水を飲むことができない。
不便だなと思う瞬間だ。
水を飲む音を聞きながら、そういえばと耳に魔力を集めてみる。
ついさっきまで全身でやっていたおかげか、それとも二回目で慣れたのか、思ったよりもスムーズだった。
ノイズが高まって収まり、音を拾う。
私の耳が呪いを突破する。
「はあ」
声だった。
ひょっとしてと思ってたけど、やっぱり同年代の男子みたいだ。
「叶うのであれば……」
というか、どこかで聞いたことのある声だった。
二年前、一回だけお目通りしたことのある人。というか、たぶんこの国の王子だ。
名前はアレクサンドラ・ウィンダム。
私、そんな相手と仲良くなってたのか。
「このまま、犬になりたい……」
けど、そういう方向で仲良くなりたいわけじゃない。
今までのことを思い返す。
私、割と王子に対してフランクというか壁のないやりとりをしていた。
だって、私視点からすれば相手は「なんかかっこいい犬」でしかない。
だからかけっこしたし、ボール投げみたいなこともしたし、くすぐり合いとかもした。
会話はあんまりなかったけど、普通に運動友達くらいの間柄だった。
ひょっとしたら、たぶんなんだけど、この王子様、他にそういうことができる相手がいなかった、とか?
壁無く、本当に単純にただ遊ぶ相手って、ものすごく貴重ではあるのかもしれない。
私のこの祝福については、知っていたはずだ。
大々的に広めたわけじゃないけど、王族ともなれば希少な祝福持ちは憶えておくべき対象になる。
人が犬に見えてしまう、ってことは知られている。
だから、私がマジで裏表なく対等な相手として競い合ったことも、この王子はわかっている。
それが、色々な部分を捻じ曲げてしまった。
犬であることは、とても自由で素敵なことだ、って理解を、繰り返し何度も焼き付けてしまった。
「俺の祝福である『秘匿空間作成』の中でしか、俺は犬になることができない……どうにか常日頃からそうなることはできないか?」
そういえば他から邪魔入らなかったなあ、それは王子様の祝福のおかげだったのか。
私が普通に入れたのは、あー……祝福同士のかみ合わせかな?
私にとっては「犬が作った秘密の場所」だから効き目が弱かったのかも。
これ、割と国家機密情報である気がする。
そして、王子の犬志望は、それ以上の機密だ。
振り返り見れば、ボルゾイはじっと私を見ていた。
足元には丁寧に水筒が置かれている。
どこか思い詰めた目で私を睨んでいた。
「そうか……君がずっと傍いれば、俺は一日の大半を犬として過ごすことができるのか……」
いや、無理っす。
キツイっす。
臣下として仕えろと言うならまだしも、犬になりたいから仕えろは、ねじ曲がりすぎでは。
「それともなければ、君が主人として、犬としての俺を飼ってくれればすべて解決す――」
「よーし、わしゃしゃしゃ!」
ごまかすために頬辺りをモフモフにした。
実際にはどういう行動になってるのかはあんまり考えない。
ただ「きゃん!」という犬っぽい声は聞こえたから、たぶん悪いことじゃないと思う。
そうだ、考えてみればあの鞭を欲しがるどこかの性癖強めよりはマシじゃないか、国の次期トップだってことに目を瞑ればきっとあんまり問題ない。
その後は、いつものように遊んで、いつものように別れた。
さて、明日から、私は一体どうすればいいんだ?
+ + +
最後に寄るのは学校図書館だった。
禄に他の人と話ができない私にとって、文字情報は貴重だし、たいていの時間をそれと触れて過ごす。
ある意味、私の人間らしさの生命線だった。
間接的にしか人間の文化にふれることができない。
特に今の私には、そういう癒やしが必要だ。
知らずにやらかしてた事実から逃げ出したい。
クラスメイトをドMに調教とか。
国の王子を一方的に犬扱い、王子もそれを受け入れるとか。
もう完全にスキャンダルだ。前者に至ってはクラス内に知れ渡っていると見た方がいい。
わーい、読書たのしみー。
今日は何読もうー。
……現実逃避のひとつくらいは許して欲しい。
ここで本を借りて自宅で過ごすのが、祝福を受けてからは常だった。
借りられるのは三冊までだから、興味のある分野と、最新情報を取り扱ったものと、趣味の娯楽本をそれぞれ一冊ずつ。
三冊返して、また三冊借りるのを繰り返していた。
静かな館内には、いつものように司書さんがいる。
丸メガネをかけた犬がとことこ歩く。
珍しく雑種、つまり貴族じゃなくて市政からの抜擢だった。
館内に限れば知らない本はないという噂で、私も何度かお世話になった。とてもキレイな文字を書く犬だ。
図書館内は司書である彼女の城で、邪魔をできる人はいない。
閲覧机では、いろんな犬が鼻先を突っ込むようにしながら本を読んでいる、物音ひとつ立てていない。
司書さんが、ふと私の方を向いた。
コクリと一回頷いてから、理性的な黒い瞳が、すい、と上を――二階を見た。
私は了解の合図に会釈した。
いつもの「お客」が来ているらしい。
正直、ちょっと面倒だなと思いながらも急いで階段を上がる。
司書さんの動きに多少の焦りがあった、緊急事態かもしれない。
二階は閲覧室で、少数の机と椅子がある。
ノックをして入口を開き、中を覗く。
そこには、一匹の犬が座って本を読んでいた。
犬種はシープドッグ、愛情深く賢いけど警戒心が強い。
そのあちこちからは血が滲んでいた。
今すぐ横になった方がいいほどの傷だった。
なのに、素知らぬ顔で本に夢中になっている。
「もう」
ぽたぽたと、その黒と茶の毛並みを汚す赤い液体のことなんて素知らぬ風に、シープドッグはただ本の世界に没頭していた。
きっとそれは本当に本が好きだからで、同時に全力の逃避行動だった。
以前から、いや、最初に会ったときからそうだった。
この祝福に――「人間が犬に見える」って状況に慣れていない時分、この図書館で血まみれのそのシープドッグを見たときは心底驚いた。
たいていの場合、犬の状況ってそのまま人間の状況だ。
だからその時の私は、館内では静かにとか一切考えず、全力で駆け寄り回復魔術をかけた。
周囲の人間は、この瀕死の状態を見て放置したのは何故だと頭に来た。
けど、違った。
それは、物理的な意味での傷じゃなかった。
どれだけの魔力を込めても、まったく効き目は無かったし、周囲の人たちからすれば、彼は黙って本を読んでいる人間でしかなかった。
傷なんて、彼らから見えはしなかった。
私の行動は、だからとんでもなく奇異の目で見られたけど、当のシープドッグも私のことを無視していた。
負っている傷も、私の突然の回復魔法も、どちらも視界に入っていなかった。
その犬は、ただ本の世界に夢中になっていた。
「わう?」
ただ、うん、他からみれば不審者だった。
雑種犬である司書さんに問いかけられ、私は祝福含めて事情を説明しなきゃいけなくなった。
そうした釈明はすぐには受け入れられなかったけど、ある程度は信じてくれた。
司書さんからしても、彼の様子は気にかかるものであったらしい。
私ほど明確にはわからなくても、「本を読む姿に無理がある」とは感じていた。
この司書さんも、きっと祝福持ちだった。
神殿で正式に授けられていないから明確な形で発現していないだけで。
だから共通認識として、「彼の状況がヤバそうだ」という合意には至った。
私と司書さんは、試行錯誤を繰り返すことになる。
明らかに傷ついた様子、というか普通なら瀕死じゃなきゃおかしい格好、なのに手出しができない。
傷を負っている姿だけしかわからない。
このままだと、死ぬことになる。
身体じゃない、心と呼ばれるものが朽ち果てる。
それが、ほとんど直感的に分かった。
目の前の犬を救わなきゃいけない。
そう思って、ほとんど苦し紛れにガーゼと包帯を当てて巻いた。
周囲から見れば、無傷の人に手当している変な行動――のはずだった。
「……?」
司書さん視点からすれば、私が持っていたそれらの医療道具が、突然消えたように見えたそうだ。
私の視点内の犬は、ちゃんと包帯を巻かれた姿でいるのに、物理的にそれらが消えていた。
ただの応急処置だけど、流血と傷の悪化を防いだ。
「――」
そうして、ようやくシープドッグが私に目を向けた。
はじめてのことだった。
不思議そうに包帯の様子を眺めて、静かに私に視線を向ける。
(どうして痛みが収まっているんだろう……?)
そんな不思議と困惑を浮かべていた。
痛くないという状態を、あまり経験したことがないようにすら見えた。
「大丈夫?」
シープドッグは静かに頷く。
その黒い鼻が、すぴすぴと動いた。私という個人を憶えるために。
「同じように傷ついていたら、同じようにするけど、いい?」
その犬は困惑したまま、けれど、また静かに頷いた。
以来、私はこの治療を続けている。
その後でいろいろ調べたけれど結局のところ、どうしてこんなに「心の傷」を負っているかについては、わからなかった。
ただ、立場として訳ありの子供であるとは、わかった。
ちゃんと貴族院に籍を置いているのに、学校にも行かないし他との交流もない。
罪人を処刑する家系だからとも、裏仕事をこなす役割だからだとも言われている。
どちらにせよ、それが子供の心が死ぬような状況を強いていることは確かだ。
許せない、と思う。
けど同時に、犬の流儀に首を突っ込んでいいのか、とも思う。
犬には犬のやり方がある、それを人間の見方による勝手な独善で押し通せばバランスが――
いや、待て、違う。犬じゃない、繰り返す、犬ではない。国とか王家とか貴族とかの流儀だ。別種族扱いしてどうする。
ふう……
いや、とにかく、私にとっては「傷ついてる犬」だけれど、そこに介入できる立場もなければ知識もない。
だから、やれることは、こうして――
「大丈夫? 痛くない?」
図書に常設されるようになった医療道具を使って、その傷を癒やすことくらいだ。
シープドッグはこのときばかりは本を読む手を止め、目を閉じて私の行動を受け入れる。
包帯は、巻かれたとたんに光の粒となって消え、同時に傷も塞がっていく。
物理的なそれに私自身の回復魔力を足すことで、回復量はけっこう上がった。
本当に、この程度のことしかできないのが申し訳なかった。
「はあ……」
お。
そういう風に、魔力を使ったせいか、あるいは「私の魔力を相手に与えた」という形のせいか、その口から人の言葉が聞こえた。
「お姉ちゃんの手、すごく気持ちいい……」
うん、ちょっと待とうか。
傷は塞がっていく。
包帯と魔力が重なり、生々しく溢れる血を止める。
けど、その度に、ぶる、っとシープドッグは震えた。
今までは痛みのせいかな、申し訳ないな、と思ってたんだけど、違ってた。
「あ、あ……あっ……ん……ッ」
甲高い男の子の声で、なんかこう、生々しい声を上げていた。
犬としてのそれはたまに小さく鳴いてるな、くらいだったのに人間としてのそれは誤解しようのない喘ぎだった。
いや、私、本当に治療しかしてないんだけど?
完璧に医療行為――いや、他から見ることができない傷を癒やしてるから、少し違うかもしれないけど、やってることは真っ当なはずだ。
今は声しかわからないけど、これ人間としての姿とか表情はどうなってるのか。
え、なんか酷い誤解しか生まないような状況になってないよね?
おそるおそる司書さんの方を見る、大抵の場合は様子を見るためか、彼女はしばらくしてから同席することが多かった。
そうして、素知らぬ振りをしてくれている。
うん、普通におかしいよね。
絶対に変だよね。
一瞬ちょっと安心しちゃったけど、それは良くない行動だ。
少なくとも、こんな声を出してるんだから、ちゃんと止めろよ、私に教えろよ。
この状況に気づいてる第三者なら。
よくよく見れば、司書さんが何かを描いてる様子があった。
私の前では犬的な行動しかできないはずなのに、それを突破して執念のように描いている。
「お姉ちゃん……」
切ないその声に合わせるように移動をする。
魔力を足に集中させて最速で。
司書さんが淡々と書いているものを後ろから覗き込んだ。
東洋の侍が行う居合い斬りもかくやという速度でノートが閉じられたけど、ばっちり見た。
絵だった。
肌色面積が広かった。
やあ、司書さん、なんだい、そのおねショタ漫画?
「司書さん……」
「わう?」
雑種犬はすっくと立ち上がった。
丸メガネの奥にはやましさなんて微塵も無かった。
そして、「用事を思い出しました」と書かれた紙を――たぶん事前に用意してあったそれだけを残して司書は去った。
私が止める暇もないほど、それはシミュレーションされ尽くした最短行動だった。
「別方向でも優秀さ発揮するのか……」
というか明らかに私モデルだったけど、それどっかに頒布してないよね?
美化度200%くらいの絵だったけど……
一年以上という見過ごしていた期間の長さが普通に怖かった。
「……」
そんな風におののいていると、じーっと見られた。
シープドッグに。
「ああ、ごめん」
普通にまだ傷は残っている、艶めかしい声を出されるからと言って、止めるわけにはいかない。
というか、これってそんなに気持ちがいいものなのか?
治療を再開する。
つぶらな瞳を逸らさず、ぽつりと幼い声が。
「また、あの男のにおいがしてる……」
鼻を動かして、低く言った。
「お姉ちゃん、ぼくだけじゃなくて、他の人にも、こんな風にしてる……」
うん、そんな風に切ない感じに言われても、お姉ちゃんは答えられない。
なぜなら私は今、聞こえていない設定だから。
あと、そういうのを自発的にしたことは本当にない。
「やだなあ、いやだなあ……ぼくの『心想剣』で排除しちゃだめかな、あの王子」
王子であることには気づいているのか。
そうやって知った上で止まる気がないのか。
あと、その祝福名っぽいの、ひょっとしてこの傷の原因?
心を削って武器にする、たぶんそういう形の祝福だ。
他に似たような傷を負っている人がいないから、特殊条件によるものだとは思ってた。
「お姉ちゃん……」
なんとか素知らぬ振りをしながら、治療は終えた。
シープドッグは顔を上げ、私の手に顔を近づけ、ぺろっと舐めた。
それは、今までも、たまにしていたことだった。
驚いたけど司書さんが反応してなかったし、これは他から見れば普通の行動だと思っていた。
だって私には人間が犬に見える。
人の行動が、犬的なものとして変換される。
だから感謝の意思表示も、実際には恭しく手を取るとか、額に手を当てるとかだと思ってた。
これ実際に「私の手を舐めて」いるわけじゃないよね? 他の人のにおい消しのためにそうしてるわけじゃないよね? そうだよね、誰かそうだと言って欲しい。
湿ったような感触が続いてるけど、これは違うはずなんだ。
だから、誰か司書さんが描いた漫画をいますぐ全部回収してそういう絵がないことを確かめて欲しい……
+ + +
色々な意味でヘロヘロになりながら私は帰宅した。
今日だけで、私が見過ごしていたことが山のようにあるとわかった。
全部私がやったことだけど、全部覚えの無いやらかしでもあった。
とぼとぼと家に到着すると、コリー犬ことメイドのベネッサが軽く頭を下げて出迎えて、その隣のブルドッグは甲高い声で嬉しそうに駆けた。
「あー、ただいまあ」
ああ、普通の犬だあ、と嬉しくなる。
ワシワシと頭を乱暴に撫でる。
これは、一年くらい前から飼っている犬だった。
犬種はブルドッグで、名前はアンジー。
私のこの祝福の欠点として、人間と犬の区別がつかない、というものがある。
下手をすれば訪問先で、飼い犬に最上級の挨拶をしてしまうことすらありえる。
だからこそ本物の犬を飼って、その動作や性質を観察することにした。
万が一、特殊な趣味の人が犬小屋に入っていても見破れるようにである。
「よーしよーし」
お陰で今ではちゃんと人と犬との区別がつけられるようになった。
ためらわずに地面に寝転んで、私がワシャワシャしたら喜ぶのが犬だ。
「夕飯前に、お散歩に行こっか」
「ワン!」
賢いから大丈夫そうだけど、念のためにリードはつけておく。
所有者を明確にするから、いざというときに必要なものだった。
最近だと物取りならぬ犬取りとかもいるらしいしね。
頭を下げた体勢のまま、微動だにしないベネッサを横に、敷地内を歩こうとする。
「たまには、ちょっとくらい遠出する?」
頭を空っぽにする時間を増やしたかった。
少しでも癒やしが欲しい、色々と悩まなくていい時間が。
「大通りまで行くのはさすがに遠いけど、寮近くなら――どうしたの?」
「……」
なぜかベネッサに裾を噛まれていた。
いつもはメイドとして一歩引くの常だったのに、強い決意の目をしてメイドは私を引き止めていた。
「えーと、よくわからないけど、いつも通りのコースの方がいい?」
コリー犬メイドは頷いた。
「どのような叱責を受けても構わない」と顔に書いてあるような悲壮さで。
「よくわからないけど、わかった。たしかに迂闊だったかもね」
ついさっき、魔族を摘発するための情報を渡したばかりだ。
魔族側がよっぽど呑気じゃない限り、次々にスパイがバレる状況を解明しようとするはずだった。
その理由が私にあることは、きっとほどなく伝わる。
知れば、彼らは何としてでも私を排除しようとするはずだ。
魔族が魔族である限り、そのスパイ行為が絶対にバレる。
私からすれば、毛並みの違いから北方方面の出身だとかもわかるくらいだ。
根本的に違う相手ならもっと明確に判別できる。
「……そう考えると、別宅にガードマンが必要か」
ここで不味いのは、私が襲われることじゃなくて、見せしめのようにベネッサが襲われる状況だった。
私ならどれだけ強い相手でも「とても強い犬」でしかないけど、ベネッサにとっては違う。
そっちの方が私としてもキツイ。
ただ、コネはある。
今まで写真鑑定で成果を上げてきた実績だってある。
入れ替わり魔族を摘発した後で、頼んでみようと思う。
「まったくね……」
気晴らしのつもりだったけど、重いものがのしかかる。
「魔族は、本当に嫌だ」
敷地内の森を散策しながら、ため息をついた。
「魔族が強い戦闘力を持つからこそ、学校では戦闘訓練が積極的に課される」
狂戦士にして強性癖のロットワイラーことブランカ・ナヴァルがあれだけ強さを求めているのも、防衛上の理由があってのことだ。私の鞭が欲しいから、ってだけじゃない、と思う。
「硬軟織り交ぜた干渉をうけているから、王族は凄いストレスにさらされている」
それこそ、こっそり魔族が入れ替わってたくらいだ。
誰も信じられないし、どの情報を信じていいのかを常に確かめる必要がある。
だからこそ、王子が「犬になりたい」なんて言い出すはめになっている。
……それだけだよね? それが理由だよね……?
「おそらく、というか確実に、裏では直接的な攻防が起きている」
図書館の子ことシープドッグの子も、魔族関連との戦いでああなった。
自分自身の心を削ってまで戦わなきゃいけない相手なんて、そうそういない。
学校に顔すら出してないのに、王子のにおいについても把握していた。
微妙にヤンデレっぽい言動も、その苛烈な戦いの反動に違いない、きっとそう。
「クラスメイトも、すでに何人か被害にあっている」
アン・ボールドウィンが一時期クラスに顔を出していなかったのも、それが原因だ。
敵の手は思った以上に長いし、様々なところに届いている。
直接的な戦争は止まったけど、被害も諍いも止まっていない。
市民に被害が出ていないのは幸いだけど、それもいつまで続くかはわからない――
そういう状況を前にして、思うことがある。
「私って、割と冷たい人間なのかなあ……」
これは予想でしかない。
ただの仮定の話だ。
私にこの祝福がなければ。
人間をそのまま人間としか見ていなければ、何も心を動かさなかったと思う。
「へえ、そうなんだ、で?」だけできっと終わらせた。
根本的に、私は冷淡だ。
けど、これが犬なら。
なんか色々と間違ってるっぽいけど私を慕ってくれる犬たちであれば、話は違う。
私には、守る義務がある。
そう心から信じてしまえる。
人間なんて守る必要はない、だけど、犬は守らなきゃいけない。
「祝福とは必要な試練であり、人はこれを乗り越えなければいけない――って司祭様は言ってたけど、本当なのかな?」
ぶつぶつと言っていて心配なのか、足元に身体を寄せていた。
心配を払拭させるためにも、私はブルドッグを抱きかかえた。
びっくり顔に目をまんまるにしていた、可愛いなあ、と思う。
「大丈夫、きっとね」
その細かい毛並みに顔を埋める。
明日から、また頑張ろうと思う。
+ + +
それから食事をしつつアンジーに餌を上げた。
今朝はいなかったけど、基本的にアンジーとは一緒にご飯を食べる。
人を犬スペックに落としてしまうのが私の祝福だから、犬は犬のままで一緒に食事ができる。
丸皿に乗せたのを元気よく食べてた。
それから復習と予習をして、本を読んで、アンジーと遊んで、一緒にお風呂に入って――
いろいろしてたらあっという間に就寝時間だ。
「もう寝るからねー」
伝声管に一声かけてから、ベッドに入る。
昨日はこれを怠って魔術操作訓練に明け暮れてたから起床時間が遅れた。
「おいでー」
ベッドを開けて一緒に寝る。
ブルドッグは暑さに弱い犬種だけど、屋内は冷やしてあるからたぶん平気だ。
いろいろあった一日、本当に悪夢か何かみたいだ。
寝て起きたら、実は全部が夢だった、というオチになってはくれないかな。
「おやすみ……」
光を消して、穏やかに眠りにつく。
魔力がゆったりと私の身体を巡る。
犬の温かさを近くで感じる。
声が、聞こえた。
「ああ……」
その声は、クラスメイトのそれに聞こえた。
「わたくしは、いつまでも貴女の犬です、御主人様……」
アン・ボールドウィンのそれだった。
喜びそのものの声と共に、頬を舐められた。
これはたぶん夢、きっとそう、たぶんそう……
そんな風に自分を信じて、私は目を閉じ続けた。
ボツタイトル、令嬢と犬たち(調教済み)