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俺の四畳半が最近安らげない件  作者: 柘植 芳年
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美髯公の呪い

ベランダに蝉の死骸が落ちている。



大木が多い俺の四畳半アパートでは、風物詩の如く、ベランダに蝉の死骸が落ちる。悪臭を漂わせるわけでもなく、ただ乾いていくそれらを、俺はいつも放置している。秋が深まる頃には何故か、死骸は消えているのだ。…鳥にでも食われているのだろうか。

「海老が食えるということは、蝉も食えるのではないか?」

俺の四畳半に時折姿を現す三人の小さいおじさんは、今日も涼しくなってきた夕闇のベランダで杯を傾ける。…お前ら、蝉の死骸がちょいちょい消えてんだぞ。カラスにでも襲われたらどうする気なんだよ。

「勝手に食え。俺の目の届かない所でな」

豪勢の無駄な好奇心に、端正が常識的な皮肉で切り返す。いつもの光景だ。白頭巾はただ黙って、琥珀色の液体を夕日に透かしている。馬鹿馬鹿しい議論は完全スルーの構えか。厭な奴め。

「よく乾いている奴は素揚げだな!塩を振れば、多分酒の進む味になるぞ」

「……蝉は、美女の生まれ変わりと云いますねぇ」

あ、何か喋った。厭なことを。

「えぇ…」

端正が心底厭そうにベランダでひしゃげた蝉の死骸を眺める。

「もう卿らと一緒にベランダで涼むのはやめだ。酒が不味くなる」

端正が窓のさんを跨いで部屋に戻る。他の二人も律儀に後を追う。…まぁ、賢明だ。この時間からは近所の藪から蚊がやってくる。彼らのサイズでは、蚊など吸血蝙蝠みたいなものだろう。

「今日はシメの菓子に、月餅をもらうか」

豪勢がほくほくしながら白い菓子箱に手をかける。

先週、仕事の関係で横浜に行く機会があり、ついでにおじさん達への手土産として、小月餅を買っておいたのだ。時代は2000年程度違えど、元々中国の人達なのだから味の好みはさほど大幅には変わらないだろう。

結果は豪勢の好みにどストライクだった。いつもなら誰か配下を呼びつけて三等分させるのに、月餅はは豪勢自ら短刀で切り分けて皿に分ける程だ。無論、自分の分は少し、いや大分多めにだ。

「多く食いたいのは構わんから、次からはもう少し綺麗に切れる部下を呼んでくれ」

ガタガタの切り口にイライラするのか、端正が懐から短刀を取り出して断面を削ぎ落し始めた。

「どうだこの上品な餡の甘さと仕込まれた干し果物の歯ごたえ!関帝廟の膝元の銘菓と思うと、尚更旨いのう」

大はしゃぎで月餅に食いつく豪勢の横で、端正は更に月餅を切り分けながら思案気に首を傾ける。

「…しかしこの国の民は、どうしてこうも中国が好きなのだろうな。巷に溢れる三国志のゲーム、コンビニのレジの真横で夏でも温まっている肉まん、行列の出来るラーメン店、中華街…国交がうまくいっているようではないのだが…」

「関帝廟とかもあちこちにありますねぇ。誰がどう信仰しているのやら」

白頭巾の口には余り合わないようで、短刀で几帳面に切り分けた月餅を一切れ取って、あとは茶を啜っている。

「それな!まさにそれな!この国の民、関羽好きだよな!」

我が意を得たりとばかりに、豪勢が身を乗り出してきた。

「知恵と武勇を兼ね備えた堂々たる偉丈夫であったなぁ…あの昼行燈の豆狸には勿体ない傑物だ」

昼行燈の豆狸って劉備のことか。

「かの英傑にならばこの月餅をまるっと進呈してもいいというのに…」

そう声高に云いながら、襖の隙間をちらっちらっと伺う。…あのデカいのが来ると部屋の損壊が激しいからやめて貰いたいんだが…。

「ははは。…来ないんじゃないですかね」

「なにを!?」

「あの一件以来、貴方、衆道家だと思われてますよ」

「ぐぬぬ」

―――半年ほど前だったろうか。

関羽死後の遺体の所在について云い合いになった時、豪勢がうっかり『これで関羽は永久に俺のもの』とかBLめいた台詞を口走り、しかもそれを関羽本人に聞かれてしまい、以来関羽は豪勢を警戒しているらしいのだ。

「あれは誤解だと!本人に伝えてくれと!貴様に託したよな!?まさか貴様、伝えていないのか!?」

「用もないのにお会いしませんよ、私は」

「ぐぬぬ」

そういえば、白頭巾と関羽は仲激悪だったっけ。

「まぁしかし…横浜の民もよくもまぁ、あのような祟り神を祀りあげるものですね」

羽扇の影で忍び笑いをもらし、白頭巾が声をひそめた。

「祟り神?」

端正が身を乗り出してきた。

最近気が付いたのだが、端正は怖い話が好きだ。特に祟りなどを題材にした、どっちかというとドロッとした内容の救いのないやつを好む。『リング』とか『女優霊』とかそこら辺だ。『呪怨』までいくと、ちょっとケバくて厭だとか。相変わらず注文が細かくて面倒臭い。

「そう。関羽殿は死して祟り神となったのです」

「…なるほど、やはりアレは関羽殿の祟りなのか!?」

端正が、いつも白頭巾の嫁が潜んでいる辺りを親指で指した。白頭巾が唇に人差し指をあてて「静かに」のジェスチャーを送るが、スイッチが入ったこいつらには利かない。

「全て合点がいったぞ、あの顔面は祟りによるものだったのだな!!」

豪勢が端正の尻馬に乗っかって失礼な発言をかぶせてきた。

「嫁が人外になる呪いなのか、人外が嫁となる呪いなのか…なんと恐ろしい呪いであろう!!」

「いや、私は別に呪いの対象では」

「おい貴様、試しにあの女怪と離婚して美女と結婚してみろ。余が手配してやる。…人外に変化したら相当強力な呪いだのう」

「何と興味深い検証だ!卿、偶にはいいことを云うな!」

「ははは…検証もなにも、彼女は嫁入り時点であの顔面で」



―――盛り上がっている3人の間を縫うように白光が閃き、『カッ』といい音をさせて長い針が砂壁に突き刺さった。



咄嗟に針が飛んで来た方向を見ると、赤い筒のようなものがスッと畳の下に消えた。3人の馬鹿なおっさんが、冷や汗を滝のように流してガクガク震えて固まっている。…ほんと、馬鹿じゃないのお前ら。何度同じこと繰り返すの。

「…おい、貴様の嫁、とうとう吹き矢使い始めたぞ!」

「くくく…愚妻の新兵器、ご笑納ください…」

「なーにがご笑納だ。今死にかけたのは貴様も同じだからな!」

端正が砂壁に足をかけ、10センチはあろうかという長い針を全力で引き抜きにかかったが、恐るべき圧力で繰り出された針は、おいそれと抜けない。

「あンの女怪…なんちゅう肺活量だ…!!」

「これもう女の所業じゃねぇな…おい貴様、この豪傑を余に寄越さんか?代わりに絶世の美女をあてがうから」

「はははは迷いどころですなぁ」

もう一度、畳の下からぬらりと現れた吹き矢がギラリと光る。3人はびくりと身を震わせて座り直した。

「は、話が逸れたな。その祟り神の続きを話すがいい」

「はぁ…樊城の戦いで、関羽殿は呂蒙に討たれ、首を落とされましたね」

「……その話は、結構怖いやつか?」

「……何ですか。話の腰を折らないでくださいよ」

「いや怖さレベルに合わせて心の準備があるのだ。…どうだ、どの位のレベルだ?」

―――うるっせぇなビビリかよ美周郎め。

「レベル、とは」

「落とされた首が飛んで、呂蒙に食いついたりするのか?」

「しねぇよ関羽殿を何だと思ってるんだ殴るぞ」

豪勢が横から入って来た。

「っち、よい。分かったから続きを話せ」

「はぁ……関羽殿から見れば呂蒙との関係は決して悪くなかった。無論、表面上の小康状態を保っておくことは、呂蒙の策略だったわけですが。まぁ戦国あるあるですよね。だが何というか…関羽殿は」

呂蒙率いる呉軍による背後からの襲撃を、全く念頭に入れていなかった。そう呟いて白頭巾は羽扇を震わせた。

「それを豪傑だとか人格者だとか後世の連中は誉めそやすが、あの方は…どうしようもない、オプティミストなのですよ」

「オプティミスト…?」

「楽天家なのです。まさか、笑顔で語り合っていた呉の太守が魏の動きに乗じて背面から突いてくるとは…思わなかったのでしょうね。こんなの典型的な戦国あるあるです。…そうでしょう?」

二人は当然のように頷いた。…考えてみればだ。吉川英二の三国志ではものすごい強引に美談にされちゃっているが、劉備だって劉表の弱体化に乗じて国を乗っ取っているのだ。

「大体、荊州という場所自体、呉から借りっぱなしで騙し騙し占有しているというのに呉が怒ってないわけがないじゃないですか。なのにすり寄っていい関係を築こうとしているのなら、それは迎合するんじゃなく警戒するべきなのです」

「―――やはり騙し騙しの自覚あったんだな貴様」

刀の柄に手を掛けた端正を面倒くさそうに制して、豪勢が続きを促す。

「戦いに敗れて首を落とされるは世の習い。…私は、脳き…いや武人としての彼はある程度信用していたのですが」

「脳筋て云いかけただろ今」

「彼の魂は討たれた後、恨みを抱えたまま彷徨い歩き…浅ましくも、祟りを振り撒く恐るべき怨霊となり果てたのです」

「お、おいそれはちょっと云い過ぎじゃないのか?」

関羽大好きな豪勢が前のめり気味に反論するが、若干声が弱い。多分この件に関しては豪勢もちょっと『…あれ?』と思っているのだろう。そして端正は脇息にもたれてワクワクを隠そうともせず怪談話に興じている。…出た、端正の大好きな『怨霊』。奴は最近、この言葉に目がない。

「そしてある日、荊州を取り戻した呉軍の祝宴の席でそれは起こりました…主役は無論、関羽を討ち取った呂蒙…彼の英雄にねぎらいの言葉を掛けようと近寄った孫権の襟首に、呂蒙が掴みかかった。そしてこの世のものとは思えぬ声で…呂蒙はこう言い放ったのです」



―――我は、関羽雲長なり。



「な、なんと…しかしそうこなくてはな!!」

「呂蒙はそのまま昏倒し、やがて帰らぬ人となりました…元々、病を得ていたのか、はたまた関羽殿の呪いなのか。ともかく呉の重鎮・呂蒙は関羽殿に引きずられるように、樊城の戦いがあったその年に…」



「――楽しそうなお話ですなぁ、丞相殿」



ずむり、と地にめり込む青龍偃月刀。

重く艶めき下顎を覆い尽くす、長い髭。

怒気を孕む赤顔と、巨躯。

はじかれたように振り向く3人。

スマホを取り出し、大家の息子にLINEを送る俺。



三国志随一の英雄、蜀の関羽雲長、これにあり。



関羽ファンの大家の息子に『関羽が出たらLINEしてね♪』と頼まれているのだ。うまく目撃出来たらその月の家賃が20%オフになる超ボーナスキャラだ。

「お邪魔しまーす!!…うっわぁすげぇすげぇ美髯公だぁ!!」

早っ。

「久しいですな、戦乱の世に在って優雅にも病死を遂げられた丞相殿」

偃月刀に長身をもたせて、皮肉たっぷりに白頭巾を見下ろす関羽。…やはり俺たちの存在完無視はこいつらの中ではデフォルトらしい。

「ふふふ…何処ぞの粘着質な髭武将の呪いじゃぁございませんかねぇ…」

羽扇の影で厭らしい含み笑いを漏らしながらも、目は笑っていない。同国の仲間同士とは思えないような淀んだ瘴気が、二人の間には満ちていた。

「おほぉおお、再びまみえるとは、久しいのう関羽殿!」

豪勢が突如、瘴気の真っ只中に割って入る。

「……ご無沙汰、致しております」

偃月刀の切っ先を下に向け、関羽がかしこまって礼をする。…そして微かに間合いを取る。両手を広げて迎合の意を示し、半歩近づく豪勢、同じく半歩、間合いを取る関羽……。

「っておい、そこの白いの!!全っ然ホモ疑惑解けてないどころの話じゃないぞコレ!!貴様何か吹き込んだだろ!!…何、笑ってんだコラ!!」

体をくの字に折って肩を震わせている白頭巾の尻を蹴って、豪勢が怒鳴った。笑いが止まらぬまま、白頭巾はほうほうの体で百均の小さいクッションに倒れ込んだ。

「相変わらずの厭らしい当てこすりよなぁ、丞相殿」

白頭巾のクッションの脇に、ごり…と偃月刀の切っ先が触れた。

「くっくっく…とんでもない。私はむしろ興味深いのですよ。ねぇ」

そう云って、傍らで成り行きを見守っていた端正に視線を送る。端正は僅かに肩を震わせた。

「うぅむ…正直その」

云いにくそうに、端正は一旦目を反らした。

「俺にしても他の二人にしても、死後目を覚ましたらこの場所に居たのだ。だが卿には」

怨霊、という着地点があった。そう云って端正は再び関羽に視線を戻した。

「正直…気が引けるのだが、この際だから聞いておきたい。卿は怨霊と化していた際の記憶はあるのか、どのような切っ掛けで怨霊であることをやめ、こちらの世界に来られたのか…いや、それよりなにより、卿は怨霊となったのに、何故俺は怨霊にならなかったのか」

「古傷から血を噴く程に悔しがりながら死んだのにねぇ…くっくっく」

白頭巾の額辺りを狙って振り下ろした端正の踵は、ずむりとクッションに沈んだ。白頭巾は身をひねったその体制をゆるりとほどき、座り直した。

「貴方が、基本的に『論理的な人間』だからですよ…恐らく」

「……むぅ?」

まんざらでもない顔をして、端正がクッションから足を抜いた。

「策で私に後れをとる度に貴方は、一見私に憤っているように見えてその実、自らの至らなさを責めていた。…違いますか」

「貴様に面と向かって云われるとクッソムカつくわ」

「だがどっかの髭もじゃ大将は基本的に反省がない、我が強い、迎合しない、自尊心がクッソ強い。要は呂蒙に策で一歩及ばなかったわけで、そんなので首を討たれるのは戦乱あるあるなのですが…自らの至らなさに腹を立てるという発想が一切なく、その屈辱だとか怒りは、たまたま対戦相手だった呂蒙に全フリされたのでしょう。自分を殺した相手は、死んで然るべき…それが彼の中の摂理なのですよ。しかしふふふ…本命だった孫権まではイマイチ呪いが届かなかった辺りが彼の限界というか…」

「ちょ、貴様、待」

「そ、そんなことない、孫権の襟首掴むまではいったぞ、ナイスファイトだろうが!!」

「何ですかソレ、フォローのつもりですか?プークスクス」

「うるっせぇな貴様はもう喋るな!!」

端正と豪勢が二人がかりで空気読めない白頭巾野郎を取り押さえた。…目前には、そうでなくても赤い顔を更に紅潮させた関帝様が、青龍偃月刀を下段に構えて仁王立ちしている。…ちょ、待てよ白頭巾、もう俺の敷金はゼロよ!?

「…ほう…おっしゃいますなぁ、内政しか能がない癖に内政を疎かにした蜀滅亡の戦犯の、何処ぞの丞相様が?」

「ボス直下に空気読めないお邪魔虫が2匹も鎮座しているという、エクストリーム難易度なミッションでしたからねぇ…のんびり内政に手をつけている暇など、とてもとても…」

「ちょ、やめ、貴様!!」「駄目だこいつ、軽めに死ぬ薬とか嗅がせろ!!」

ジャキ、と不穏な音がした。偃月刀は白頭巾に照準を定め、白頭巾の嫁が潜んでいる辺りの畳がごそりと蠢いた。関帝様はもう、カンッカンに出来上がって、どこかの軍神みたいな顔で三人を見下ろしている。

「ほう…なるほど、なるほど…数千年振りの刀の錆が蜀の丞相とは…贅沢な贄であるな、我が愛刀よ」

大家の息子が、感嘆のため息を漏らした。無理もない。彼の伝説の武器、青龍偃月刀が閃く瞬間を目の当たりにしているのだ。俺も相手が華雄とかだったらため息と共に見惚れほうけていたことだろう。…だが。

「ちょっ…関羽殿、無礼は承知だ、だが分かるであろう?こういう男なのだ!!」

「そうだ静まれ関羽殿、掃除が大変だから!!」

端正が何気に酷い。…しかしある意味、然りだ。あの小狡い頭巾が死ぬことはないだろうが、伝説の軍神と霊長類最強女房がこの部屋で激突したら、テレビやゲーム機を始めとした俺の私物は只では済むまい。俺は恐る恐る、関羽と白頭巾の間に…



―――我は……○○なり



関羽の動きがぴたり、と止まった。すわ、嵐の前の静寂か!と俺もおじさん達も思わず身構えたが、どうも様子がおかしい。伝説の軍神ともあろう彼が、どうも何かに怯えているようなのだ。

「―――おや、何か聞こえましたね」

羽扇を緩やかに動かしながら、白頭巾が呟いた。

「―――気のせいだ、何も聞こえん」



―――まかり、ならぬ



「いや、俺も聞こえた。俺の耳は絶対に間違えない」

さすが美周郎、自分の耳への絶対的な信頼は揺るぎない。

「襖の方だぞ!」

今や全員が武器を降ろし、息を呑んで襖の陰を伺っていた。…俺にも聞こえる。襖のあたりで、あたかも谺するかのように響きわたる奇妙に錆を含んだ、声。

「―――私は、偶然行き合った旅の僧に救われて『浄化』された」

関羽がこめかみに汗を伝わせて呟いた。

「しかしそれは、運のいいことだったのだ。…『奴』は浄化もならぬまま、怨霊として現世を彷徨い続けている…」

ぞろり、と青白い指が襖の裏側から現れ、襖のへりに掛かった。…誰もが、びくりと肩を震わせた。青白いその指は、襖を撫でるように動きながら、次第にその隙間を広げている。それより、なにより。

その手は、俺と幾らも変わらぬ大きさだった。

「馬鹿な……」

白頭巾も掠れた声で呟いて、襖の奥をただ凝視するのが精一杯だった。



―――彼の地にて、関帝を祀ることまかり、ならぬ。



青白い指は少しずつ、襖の隙間を押し広げていく。1寸程だった隙間は、緩慢な動きで俺の握り拳程になっていった。…大家の息子が小さく悲鳴を上げた。俺も喉からせり上がって来た悲鳴を必死に呑み込んだ。

―――暗がりに、大きく見開かれた双眸が浮かび上がり、目が合った……!!

「ひぃっ、こっち見た!!」

大家の息子の声に弾かれるように、俺は襖に向かって突進していた。…今にしてみれば、どうしてそんなことをしたのかは分からない。だが俺の本能が、警鐘を乱打しまくっていた。これ以上、この襖が開くと取り返しのつかないことになる!と。



俺は襖に飛び付き、バンと音を立てて閉めた。



おじさん達が一斉に「わっ」とか「ひぃっ」とか短い悲鳴をあげた。…余りに静かなので、そっと顔を上げて襖を確認すると、青白い指など挟まってはいなかった。ただ、閉じた襖があるだけだ。

「……関羽殿……何かご存知、とお見受けするが」

ノートパソコンの影に隠れていた端正が、棒立ち状態の関羽を睨んだ。

「―――顔良」

「顔良とな!?」

それはまだ蜀の立国以前の話。

「中原に名を馳せた袁紹麾下の豪傑・顔良の名は、まだ少年であった俺も聞いた事がある。官渡の戦いにおいて関羽殿、卿が一刀のもとに斬り伏せたと聞いているが」

「う、うむ…」

僅かに関羽の目が泳いだ。そんな不審な行動を、あの性悪白頭巾が見逃すはずがなかった。

「―――どうなさいました、関羽殿。何かこう…顔良との勝負に何やら、後ろめたいものがおありですか?」

「貴様には関係ない」

吐き捨てるように云って踵を返し…襖を厭そうに一瞥した。襖の奥があんなことになってしまって、彼らは今日は何処から帰るつもりなのだろうか…などと考えていると、大家の息子がやおら大きな声を出した。

「あー!その件ですね!?知ってます知ってます!!」

―――おいやめろ、何か余計なことを云うつもりだな。

「官渡の戦いにおける関羽VS顔良に関しては、色々な説があるんですけど、その中でひときわ面白いのはですね、顔良は劉備に関羽の所在を確かめて、伝言をお願いしたい、と頼まれていたという説なんですよ!!」



―――っえー!!??…じゃ、じゃあ関羽は、その…?



「先の戦で関羽を見失ってしまった劉備はその身を案じておりました。そこで同僚である顔良に、伝言を依頼したんですよ。関羽の人相などを伝えた上で、前線で関羽を見かけたら劉備が袁紹軍にて待っている旨を伝えてほしい、とね!!」

「………ぬぅ」

「だから顔良は、伝え聞いた人相の男を見つけると、一目散に駆け寄ったわけですよ!そこを問答無用に青龍偃月刀で、バサァと首を刎ね落とされたわけだから堪らない。劉備と合流して真相を知ったところで後の祭り!」

全部云い切ってドヤ顔で周囲を見渡す大家の息子。そして『居ないことにしている』都合上、こいつの言葉に乗っかることも否定することも出来ずに押し黙る小さいおじさんの群れ。…やっぱり呼ぶんじゃなかった。



「―――理不尽な死を遂げた彼の霊は怨霊と化し、彼の住まう徐州琅邪国に関帝廟を建立すると呪われる…と云われ、中国なら何処にでもあると思われている関帝廟も、彼の地には建立されないのですよ」



絶妙なタイミングで白頭巾が口を挟んで来た。…あの性悪頭巾め、やはり知っていたのか。白頭巾は口元を羽扇で覆い、くっくっくと性悪な忍び笑いを漏らした。

「ちなみにこの『呪い』は二千年を経た今も続いています…旅の僧に『浄化』とやらをされて救われた貴方と違い、顔良はまさにそう…現役の怨霊なのですよ…」

さもおかしげに笑いながら、白頭巾は『あの襖』に手をかけた。

「祟り神を更に祟る、神。三国志最強の怨霊は、彼かもしれませんねぇ…」

すらり…と開いた襖の奥には闇が広がるのみ。白頭巾はおちょくるようにこちらを一瞥して…そのまま吸い込まれるように消えていった。

「…そういや、うちの小覇王を取り殺した于吉道士も、あの性悪白頭巾も、徐州琅邪国の出身だったな…」

端正が、心底げんなりした顔で呟いた。豪勢も軽く頷いた。

「おぅ、何かこう…余の偏見かもしれんが琅邪国の連中はどうも…ねちっこいというか、陰険というか…」

「于吉道士も顔良殿も良くは存じ上げないが…あの男も含めて、一種独特…ですな」

関羽も云いにくそうに同意する。…うん、云われてみると凄いイヤなラインナップだ。きっと琅邪国の土は黒くてどろっとしているのだろう。



そんなことがあってから、襖の方から禍々しい視線を感じる事が度々あるのだが、気にしないようにしている。彼の『呪い』はとても限定的なのだ。

毎日のように現れて菓子のストック荒らして帰っていくどっかのおじさん連中より、よほど質がいい。


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