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俺の四畳半が最近安らげない件  作者: 柘植 芳年
35/72

試合15分前

薄暗い控室の中央にパイプ椅子を据え、俺は腰を降ろした。

灰色のビニール床は冷え冷えと冷気を放つ。この四畳半ほどの空間を満たす刃のような冷気が、否が応にも俺の集中力を高めていく。試合はもう15分後に迫っていた。



このタイトル戦は落とせない。



今年で29歳。ボクサーとしては決して若くはない。現に最近、負けが込んでいる。ジムのトレーナーにもさりげなく、引退をほのめかされ始めた。

……冗談じゃない。

プロボクサーの道を閉ざされてしまったら、腕一本で世の中を渡って来た俺に何が残る。指導に回るにしても、トレーナーはもう飽和状態だ。

いずれ引退の日は来る。そんなことは分かっている。それなら一つでも多くのタイトルを手にして、経歴に箔をつけたい…だから今日の試合は俺の人生にとって天王山といえる。

だが今朝方、非常に不安な連絡が入った。

『す、すみません朝早くに、木下です』

『実は今日熱出ちゃって…38度あります』

『すんません!大事な日にほんと俺…』

『ごほ、ごほ…ありがとうございます…すみません…』



というわけで、マネージャーが病欠。



ジムが代わりの人間を手配してくれたというが…まぁいい。マネージャーがどうあれ、結局ものを云うのは俺自身の鍛錬だ。どうもがいても、試合はあと15分…集中、集中だ…。




「すみませーん!木下の代打で来ました、井上でーす!!」

―――集中が!!!

俺の内心の焦りをよそに、井上と名乗るひょろっとした体格の男が、テンションも高々と乱入してきた。

「あの、試合前は集中したいので…」

「毒島選手ですよね!?いやー、強そうな苗字ですよね毒島。俺も井上とかじゃなくて毒島、とか鮫島とかそういうのがよかったのになぁ」



―――なぜ今、俺の苗字イジリを始める?



こんな苗字で小さい頃から、俺がどんだけイジリ倒されてきたと思っているのだ。基本的にあだ名は『ブス』だったぞ小中高とな!それでも俺は男だからいいんだが姉貴はもっと悲惨だ。『ブス』だぞ、クラスに自分よりブス割といるのに『ブス』だぞ!?どう考えてもお前の方が…ってレベルのクラスメートから意気揚々と上から目線で『ブス~、一緒に学食いこ?』とか云われる屈辱。ホント怖いわ女は。最近ようやく結婚したが『やっと…やっとあの苗字から解放される』って涙流してたよ。俺普通に一生この苗字で生きていく予定なんだが泣く程嫌か。そうか泣く程か………って

―――だから集中が!!!

「あの、苗字の話はやめて頂いても…あまり良い思い出がないので…」

試合前にカリカリしたくないので下手に出て黙らせることにする。

「えー!?かっこいい苗字なのにー!?」

「集中したいんで、すみません」

そっと額を両手で包み込み、目を閉じる。俺が集中したいときのポーズだ。木下なら俺がこの態勢に入ると気を利かせて控室から出たものだが…



こいつ、俺の周りを超ウロウロする。



そして「これが控室かー」「あっ」「うわっ臭っ」と一人で大盛り上がりだ。ていうか何だ臭って。失礼な。

「これが、ワセリンの匂いかー」

ワセリンは無臭だ馬鹿野郎。

「…それ只の湿布ですよ…お願いだから静かにしてください…」

「えー、だって『明日のジョー』でワセリンの匂いがするって」

「静かに」

しまった。声に苛立ちが混じり始めた。ていうかこいつ控室に入ったことないのか。

「そうそう、毒島選手、お昼ご飯まだですよね!?俺ね、すっごいの用意してきましたよ!!」

井上は朱塗りの弁当箱みたいなのをリュックから引っ張り出し、ドヤ顔全開で机に置いた。



「鰻重ですっ!!インスタで見ましたよ、好物でしょ?これ食べてスタミナつけて下さいね!!」



―――おい。お前。

「俺、もうすぐ試合なんですよね」

「そうですね!スタミナつけて頑張りましょう!!」

「…減量…って、知ってる?」

「……あ、聞いた事ある!!」

……聞いたこと、ある、か。仮にもボクサーのマネージャー代理が。聞いた事ある、か。

「そっかそっか、すみませんでした!…あ、僕梅のど飴持ってます。どうぞ」

「……どうも」

減量最終日、限界の状態で大好物の鰻重を前に梅のど飴を食わされる。…なんだこれ。罰ゲームか。試合前からじわじわくるな、身内からのジャブが。…いや、そもそもこいつは身内か?

どうも、おかしい。事務所はどういうつもりでこのズブの素人を代打に送り込んできたんだ。不覚にも気になってしまった。

「…木下の代理ってことだけど…事務所の方から何か引き継ぎとかは?」


「いえ!僕は木下の友達です!」



………は?



「木下からLINEがあったんです、大事な試合の日なのに熱でダウンって」

「それでね、俺代わりに行ってやろうか?って送ったらまじでウケルよろしくって」

………え?ごめん、俺の頭が悪いのか?俺こいつが何言ってんのかさっぱり分からない。

「で、毒島選手たしかここで試合だなー、って知ってたから俺、皆のために駆けつけました!!」

…からの、ドヤ顔。うわぁぁもう何こいつ腹立つ。もうすぐ試合なのに俺なんでこんなバカに付き合ってんだよもう。

「なぁ、井上君」

「はい!!」

「…木下は、冗談のつもりだったんじゃ、ないかな?」

「………え?」

井上は満面の笑顔で俺の方を振り向いた。『まっさかー』とでも言いたげだ。…試合まであと10分。これ以上引っ掻き回されるのも嫌なので、申し訳ない、大変申し訳ないが、病床の木下に連絡をとるべく携帯を出した。

『………はい』

コール12回目でようやく、木下は消え入るような声で応えた。

「ごめんなこんな時に。お前の代理とか言って井上って子が来てんだけど…」

『……え?……なに、い、い、井上!?すんません、寝起きで俺よく分かんないんすけど…なんで井上?』

俺が聞きたいよ。

「お前に頼まれたって言ってるが」

『いやいやいや頼まない頼まない。他の人には頼んでもあいつだけは頼まない』

全否定か。やはり相当の地雷か。

『信じてください!!さすがにちゃんとした代わりのマネージャー手配しましたよ!?』

「そうなの!?居ないよ!?」

『そ、そんなはずは……あーっ!!』

病人の声とは思えない悲鳴が、鼓膜をつんざいた。

『着信すげぇ!メールも入ってる!!』

木下が動揺しながら途切れ途切れに話すのを聞くと、代打のマネージャーは『毒島選手のマネージャー代理なら先ほど来られましたが』と怪しまれて会場に入れないらしい。すんません、すぐに手配します!!と叫んで木下は電話を切った。携帯を握りしめたまま呆然とする俺。……マネージャー入れないの、こいつのせいじゃん……!!

「ね?俺、頼まれてたでしょ?」

微塵の疑いもないドヤ顔だ!そして試合まであと8分!!どうする俺、試合前から大ピンチだ!!

「遅れちゃってすみませんねー、鰻用意したり、あと…ご家族やお友達からのビデオレター用意してました!!」



は……!?



「昨日の2時半くらいにLINEしたらあいつ風邪で寝込んでてー、俺が代わりやらなくちゃって、大急ぎで皆さんの家に突撃してビデオレター集めて回ったんですよー。俺毒島選手のことなら何でも知ってます!実家とか友達とか!」

怖っ!!!

「そ、それは何時くらいの話だ?」

「夜中の3時くらいですねー」



―――じゃあこいつ、夜中の3時に俺の家族や友達を叩き起こして回ったの!?



「タブレット端末でご覧ください!ミャハ☆」

固唾を呑んでタブレットを凝視する。…うちの一家は全員、朝が弱い。特に親父は目覚ましより早く起こされるとものすごく荒れ狂ってあらゆる物を投げつけてくる。俺の動体視力が群を抜いているのは親父のお陰といえる。


『……何時だと思ってるんだ貴様ぁ!!!』


ブレにブレる映像の中心で、十数年間畏れ続けて来た『寝起きの親父』が荒れ狂う。ぎゅっと全身の筋肉が萎縮した。その恐ろしさの余り、朝練の日も、合宿の日も、起こさないように細心の注意を払い続けた狂乱の寝起き親父の怒声だ。箒だか竹刀だかで襲い掛かる親父の攻撃を機敏に躱しながら、井上がフレーム外で能天気に叫んでいる。

『お休み中にごめんなさいねー、明日、大事な試合の息子さんに一言☆お願いしまっす!』

ブレねぇ馬鹿だな!!

『明日じゃねぇよもう今日だよ!!』

ほんとだよな…

『すみませんねー、急に頼まれて!!』

ちょっ…主語、主語抜けた!!それじゃまるで俺が……!!

『あんの野郎…おい、幹雄!!更に殴りに行くからな……!!』

井上がかざす光源に照らされて殺気を帯びた目が光る。あの日々の恐怖が我知らず背中辺りを這いあがって来た。

『心温まるコメントをありがとうございます♪』

『馬鹿にしてんのかこの野郎!!待ちやがれ肉塊にしてくれる!!!』

画面が大きくブレて映像が止まった。こ、これ殺されるわ俺…次会った時が俺の命日だわ…

「苦労しましたよー!」

「おっ…お前…!!」

過呼吸起こしかけている俺の前で井上は、更に親戚とか友達の動画を流し続けた。親父のキレッぷりがMAXだが他の動画の親戚友達も軒並み仏頂面だ。

『…非常識だろ』

『…お前さぁ…』

『…そういう人とは思わなかったです』



信じらんないほど敵作ってる―――!!俺、何も知らずに寝てただけなのに―――!!!



『…俺も今日試合なんですけど…嫌がらせっすか…』

こっ後輩―――!!!ジムの後輩―――!!!こいつ今日試合の選手を夜中の3時に叩き起こしてる―――!!!

もう心臓バクバクいってるしとてもじゃないけど試合できる精神状態じゃないし!!だっだれか助けて!!!

「皆さん心温まるコメントですねー」

誰の心が温まってんだよ!!さっきから冷や汗止まんねぇよ!!!

「でも驚くのはまだ早い!本日のハイライトは何と!!!」

凄い見慣れたマンションのドアが映されている。…これ、おい、ちょっとまて。



『彼女さんのお宅、突撃でーっす!!』



「何してくれてんだこの野郎!!」

「え?」

「あいつ今日仕事なんだぞ!?叩き起こしたのか!?」

「……土曜日ですが?」

「休日出勤なんだよ!!だから今日の試合応援来れないとLINEが」

「えっ、でも起きてましたよ?」



―――え?



『タカシ♪塩キャラメル味あった?』

井上がチャイムを鳴らすと、ドアが薄く開いてあいつが顔を出した。

『こんばんはー僕毒島選手のマネージャー代理の』

云い終わる前にドアは閉められた。…誰?タカシ誰!?

『あっれー?コメントはなしー?』

井上が左右にふらふら揺れながら呟いていると、その背中に影が差した。

『おぅ、俺の女に何しとんじゃぃ』



タカシだー!!コンビニ袋にハーゲンダッツ覗かせてるこの男絶対タカシだー!!!



「このあと、この乱暴な男に追い回されてねぇー、コメントは頂けませんでした。しかしふふふ、彼女さん、セクシーなスケスケのネグリジェを」




――この後の記憶は正直、ない。




ここからは人に聞いた話だ。俺の名がコールされると同時に、まず逃げ惑う井上、そして荒れ狂う俺がパイプ椅子ぶん回しながら入場してきたらしい。リング下に追い詰められた井上にパイプ椅子を振り下ろそうとした俺をセコンドが抑え込むようにしてリングに上がらせ、強引に試合開始……

「でな、ゴングと同時にお前は一気に間合いを詰め、怒りに満ちた右ストレートを相手の顎に叩き込み、勝負は一瞬。観客ポカンよ。いやはや、大したもんだ!ともあれ…タイトル奪取、おめでとう!!まだまだ現役続行だなわはははは!!」

興奮に満ちた顔でまくしたてる社長と、はぁ…そうすか…と呟くのが精一杯の俺。井上に突撃された家族や友人は、入場の光景で何かを察してくれたらしく、恐る恐る様子を伺うようなLINEが届いていた。誤解が解けたのは良かったが、どうも皆との距離が広がったような気がする。彼女には土下座された。

「俺さ、毒島って技術はちょっとしたモノなんだけどさ…闘志っての?相手に対する怒りが足りないなぁ~、って思ってたんだよ!ああいう試合って技術とか緻密な計算とかも大事なんだけどさ、まず相手を『お!?』と思わせる圧が要るんだよな!!」

「はぁ…」

「いいぃ!!実にいい試合だった!!」

「…どうも」

「あの木下の友達、なんだっけ、井上?あれ意外といいかもな。次の試合でまた頼むか、はははは!!」

「勘弁してくださいよ」

社長はげらげら笑いながら席を立った。相変わらず忙しい人だ。…まぁ、俺も忙しいんだが。マスコミ対応や次の試合に向けた減量、やることは盛り沢山だ。俺も、席を立った。






狂乱のタイトル戦からはや1カ月。

薄暗い控室の中央にパイプ椅子を据え、俺は腰を降ろした。

社長はああ言うが、怒りにまかせたラフファイトは俺には向かない。ボクシングを始めて20年近く、俺はこのスタイルでやってきたんだ。緻密なデータ収集と徹底した対策、完璧な体調管理、そして集中。

次の試合もタイトル戦。気を抜けない。集中だ、集中……。

その時、突如控室のドアがノックもなく開け放たれた。



「ちわーっす、木下の代理の井上でーっす!!!」



……木下からLINEが入った。<先に謝っておきます。社長指示です、すみませんm(_ _)m;>


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