月夜の会話
僕はその場で一旦停止してしまった。よもやこんな時間にこんな所に人と出くわすとは思ってもみなかった。ここからでは後ろ姿しか見えないが、その人影が女性だということは分かった。女性だと言うことに気付いた僕は後ろから近づいて驚かせていけないとちょっとした紳士心を出して、迂回して横から恐る恐る近付いた。徐々に彼女の横顔が見えてきた。彼女の横顔がハッキリと見えた瞬間僕はまたもや立ち止まってしまった。怖くなったからではない。その横顔があまりにも美しかったのだ。一瞬だけ心臓が発作を起こしたのかと錯覚してしまうほどの音を立てた。僕はもう一歩だけ踏み出した。すると、さすがに人の気配を感じたのか彼女が僕の方に顔を向けた。正面の顔も美しかった。ロングヘアーの髪は一糸乱れぬほど真っ直ぐに肩まで伸びていて、キリっとした眉毛、半月上の大きい瞳にスッと通った鼻筋。アラバスターのような真っ白な肌は月明かりを浴びているからか真珠のような光沢を帯びていた。今まで会ったどんな女性よりも美しく、もし顔面国宝というジャンルがあるならばこれほど相応しい顔はないと思った。
彼女と目が合うと僕の体は硬直した。彼女は彼女で少し呆けたように唇を少し開けていた。大人っぽい顔立ちだが、その表情からはまだ少しのあどけなさを感じた。恐らくまだ10代だろう。不意に彼女は僕に微笑みかけた。その笑顔がスイッチになったかのように僕の体の硬直が解けた。しかし、僕は彼女に何と言って良いのかも分からず、急いでその場から後ずさりして逃げるように立ち去った。病室に戻りベッドに入った僕は何も言わずに戻ってきたことをひどく後悔した。その日から彼女の顔が頭から離れなくなった。
恋とは無縁に生きてきた僕はこの時は彼女に一目惚れしていたことに気付かなかった。朝食を食べ終え、昨夜のベンチに向かった。僕はどうしても彼女にもう一度会いたかった。しかし、彼女は居なかった。名前も分からないので病室を探しようもない。だからと言って、看護婦に聞くのは躊躇われた。
何をするにも彼女のことが頭から離れず、彼女に会いたい気持ちがどんどん募っていった。
夜を迎え僕はまたもベッドを抜け出した。目的はただ一つ彼女に会うためだ。逸る気持ちが抑えきれない僕は足音も気にせず一直線に非常階段に向かった。今夜も月明かりがスポットライトのようにベンチを青白く照らしていた。果たして、彼女はいた。僕は心の中で快哉を叫んだ。彼女は昨日と同じ左側に座っていた。まるで、右側に誰か座るのを待っているようだった。僕は昨日と全く同じように少し迂回して彼女に近付いた。僕の気配に気付いた彼女が横を向いた。僕の顔を見るとあっと言う顔をした。そして、優しく微笑んでくれた。僕は胸を撫で下ろした。もしかしたら。昨日の反応で嫌われたらどうしようと思っていたからだ。
僕はゆっくりと近付いた。彼女は逃げる素振りを一切見せることなく僕を見つめていた。僕は声をかけようとしたが、緊張で何も言えなかった。すると彼女の方から「こんばんは」と言ってくれた。僕は慌てて「こ、こんばんわ」と返した。彼女は何か面白そうな物を見るような目で僕を見ていた。相変わらず何も言えない自分を情けなく思った。
「座らないの?」
彼女が聞いてきた。
「良いの?」
「うん。丁度、話し相手が欲しかったから」
彼女に目で促され僕はベンチに座った。僕は彼女の方を見ることが出来なかった。
「昨日もここで会ったよね」
僕は恥ずかしくなった。逃げたことをからかわれるのかと思ったからだ。
「突然帰ったから、悪いことしちゃったと思った」
「悪い事?」
「ここはあなたのお気に入りの場所みたいだから、私がいたから邪魔だったのかなって」
「あ、ああ。違うよ。昨日はその、急にトイレに行きたくなって」
「なら、トイレに行った後に戻って来れば良かったのに」
「戻るのがめんどくさくなって。別に君がいたからとかじゃないよ」
「なら良かった」
僕からも何か質問しなきゃと思ったが、何も浮かんで来なかった。彼女と会えた時のために考えていた質問がいくつか用意していたのだが、不思議なくらい雲散霧消していた。
「あなたは名前は何て言うの?」
またも彼女から質問してくれた。
「僕は齋藤蓮。君は?」
「私はあまつかなぎさ」
僕はあれっと思った。最近隣にやって来た彼女と同じ名前であることに気付いた。こんな偶然もあるんだなと思った。
「綺麗な名前だね」
自然と出たセリフだった。言ってから恥ずかしくなった。
「ありがとう」
彼女いやなぎさは嬉しそうに笑った。その笑顔がまた可愛くてたまらなかった。
「いつからここに入院してるの?」
「さあ?忘れちゃった」
僕は自分の入院日を忘れるほど長くいるのかと勘違いした。
「蓮こそ、いつからここにいるの?」
いきなりタメ語に加え下の名前を呼び捨てにされたので、僕は思わず彼女の顔を見つめてしまった。
「何?」
「君、僕より年下だよね?」
「多分。それがどうかしたの?」.
「タメ語だし、下の名前で呼ばれたからびっくりして」
「ダメだった?」
なぎさは首を傾けた。その仕草が絶妙に僕の心をくすぐった。
「いや、別にいいよ」
「良かった。それでいつからいるの?」
「それこそ覚えてないな。何たって初めて入院したのは10年以上も前だから」
「ふーん。大変だね」
とてもそんな風に思っていなそうだった。
なぎさは見た目からは想像できない程気さくな女の子だった。そのお陰で始めは緊張で上手く話せなかった僕もすぐに自然に話せるようになった。
黙ってる姿は年不相応のオーラを放っているが、楽しそうに話す姿はどこにでもいる年頃の娘だった。この二面性がまた彼女への興味を強く惹きつけた。それから一時間ほど話しただろうか。僕はすっかりなぎさの虜になっていた。
こんなに楽しい時間を過ごせたのは人生で初めてだった。しかし、そんな楽しい時間も突如終わりを迎えた。
突然、強い光に照らされた。眩い光に僕は目を細めた。そして、すぐにヤバイと思った。
「こんな所で何をしてるんですか!」
夜の見回りをしていた看護婦に見つかってしまった。
「あなた、604号室の齋藤さんね。全くこんな夜中に一人で出歩いて、何があったらどうするんですか」
一人と言う言葉に違和感を覚え隣に目を向けた。すると、なぎさの姿は跡形もなく消えていた。僕は何が起こったのか分からず、注意し続けている看護婦の声も耳に届いてなかった。
「齋藤さん。ちゃんと聞いてるんですか」
名前を呼ばれてようやく我に帰った。
「ああ。はい。すみません」
「さぁ病室に戻りますよ。あなたが帰って寝るまで見張りますからね」
看護婦にせかされるがまま僕はベンチから立ち上がった。ベンチから少し離れた所で僕は一度振り返った。しかし、なぎさの姿は無かった。