夜の散歩
サクサクっと読めるので、片手間にでも読んで頂けたら幸いです。
僕は何の為に生きているのだろう。見飽きた天井を見つめながらついそんなことを考えてしまう。小さい頃に重い心臓病を患ってからは家のベッドよりも病院のベッドで寝起きする回数が多い人生を送ってきた。病院の人は二十歳を過ぎて生きてるなんて幸運だと言ってくる人もいるが、夢も希望もないただの一日を過ごす毎日に何の意味があるのだろう。自殺したいとは思ってないが、取り立て生きたいとも思っていない。いつこの脆い心臓が壊れたとしても何も思い残すことは無いと思っていた。彼女と出会うまでは。
僕の入院している病室は陰では死の待合室と呼ばれていた。つまり、治る見込みがほとんど無く、いつ死ぬかも分からない悲運な人が入院する場所だった。部屋は殺風景そのもので、壁時計の針の音がよく響いた。入院したては誰もがその死の運命から逃れようともがくのだが、三度の食事と延命のための薬が規則的に運ばれてくるだけの日々を過ごす内に抗う気力を奪われ、生きることを拒絶し始めやがて死に屈するのだった。ここから出れる方法は二つ。病気が完治するか死ぬかのどっちかだけ。一時的な退院を認められることもあるが、すぐにまたこの場所に戻って来る。僕はこの病室の古株中の古株で入退院を繰り返し、何度も人の死に目に立ち会ってきた。初めて死を目撃したのは10歳の頃だった。その人は僕よりも5歳上で何かと僕の面倒を見てくれた。愛情に飢えていた僕は彼を実の兄のように慕った。ある日、その彼は急死してしまった。目の前で血反吐を吐き苦しむ姿は今でも鮮明に覚えている。何が起こったのかも理解出来ずに、ただ呆然としていた。食事を運んできた看護婦が異変に気付き、すぐに担当医を呼び応急処置にあったが、時すでに遅く彼はそのまま帰らぬ人となってしまった。人が亡くなった時の恐怖は尋常ではなく僕はしばらくまともに眠れなかった。10歳にして大切な誰かを亡くす辛さを知った僕はそれからは誰に対しても心を開くことを止めた。同じ病室に誰かいる時はベッドのカーテンを常に閉めた。誰が何を話しかけてきても無視した。そして、何度も出たり入ったりを経験していく内に夢も希望も無くしていき、ただ生きるだけの屍になった。
にわかに廊下が騒がしくなった。僕はベッドから体を起こして耳を澄ませた。何を話しているのかは分からなかったが、かろうじでこの病室の担当ナースの声が聞き取れたので、誰か新しい患者が入院してくるのかと予想した。
予想は的中して、病室の扉が開くと誰かを乗せたストレッチャーが運び込まれ数人がかりで、ベッドに移した。
僕は騒がしいなと思ってイヤホンを付けて耳を塞いだ。子供だろうが同い年だろうが女だろうがお年寄りだろうがどうでもいい。どうせ、どっちが先に死んでいくかの問題だけだ。僕は側にあった本を手に取って読み始めた。
23時になった。昼間はあんなにうるさかった蝉も今はすっかり大人しくなっている。僕は備え付けのスタンドの明かりを付けた。僕は隣のベッドに目を向けた。お隣さんは目を覚ました様子は全くなかった。それどころが、今日一日一度たりとも動いてる所を見なかった。さすがの僕も気になり、夜ご飯を運んでくれた看護婦にお隣さんの病状を聞いてみた。そしたら、病気では無く交通事故に遭って意識不明の状態になってしまったそうだ。それも頭を強く打ってしまったので、もしかしたら一生このままかもしれないと聞かされた。
僕はカーテンを少し開けた。お隣さんもカーテンで覆われていたので、どんな顔をしているのか分からなかった。分かっているのは、彼女の名前は藍沢なぎさと言い、女子校に通う17歳の女の子ということだけだった。普段なら存在を無視するのだが、何故か彼女の存在は気になった。不謹慎だが植物状態の人間に興味を持ったということにした。彼女の眠るベッドから聞こえてくる心電図の音がやたらと気になった僕は本を読むのを止めて夜の散歩に出掛けることにした。
散歩と言っても病院内をただ歩くだけだ。もし、夜勤の看護婦に見つかれば即ベッドに逆戻りなのだが、人の多い昼間は散歩する気にはなれなかった。気ままに歩いていたが、ふと思い立って外の景色を眺められるベンチに向かうことにした。そのベンチは最上階の七階にあった。エレベーターはナースステーションの目の前にあって使えないので、非常階段を使うしかなかった。音を立てないように非常階段の扉を開けてゆっくりと上った。ガラス張りの壁の前にポツンと置かれているベンチに辿り着いた。壁から差し込む月明かりが優しくベンチを照らしている。しかし、僕は近づくことを躊躇った。何故なら、そこには既に誰かが座っていたからだ・・・・・・。